ドッペルゲンガーは語る、疾玖原うづきの場合
「__オン・ユア・マークス」
ピストルが青空を背景に天高く掲げられる。中学生になって、高校生になって、「位置について」と、もう日本語の掛け声を聞く機会はなくなったなぁ、と頭の片隅で考える。初めて英語の掛け声を聞いた時は、なんだか格好つけているみたいでむず痒かったものだ。
「セット」
もう何百回目だろう。乾いた声はそれでも、私に頭を空っぽにするよう強要する。私もそれを受け入れて、別の自分になったように改めて世界を見る。スターティングブロックに接着した靴の底が疼く。鼓動はもう高鳴っている。ぽたりと汗が一滴、グラウンドの砂を湿らす。
スタートラインから見た世界は、私がいつか見ていた未来の姿とはずいぶんと違う。
本当のことを言えば、本音を言えば。
本当は誰かの後ろをついて行く事の方がすきだ。守るよりも支えるほうが好きだ。笑わせるよりも、笑ってあげるほうが好きだ。自己肯定なんかいらない。誰かを肯定する側でいたい。前にいる誰かと一緒に同じ世界を見たい。
__パン、と。
乾いた発砲音がグラウンドに響けば、私は自動的に、能動的に、息をするのも忘れたような真っ白な気持ちでただ走る、走る。益体もない思考は消滅し、疾走する。例えるなら閃光だ。迸るだけ。光るだけ。そこに在るだけ。意味はない。ただ、前に行く。体が前に行くから、空っぽになった心と頭はそれについて行く。ある意味では私は受動的に、自分の意志で走っていることすらも忘れる。スタートラインでの鼓動を忘れ、自分が誰であるかを忘れ、数秒先のゴールのことさえ眼中にはなく、ただ身を任せて走る、走る。
そして、私は一人になる。
視界に映るのは、まっすぐな白いライン。乾いたグラウンド。隣にいた誰も、自分と共にはいない。【ひとり】はゴール後も続く。一位、ベストタイム、追い越せない記録__記録が残る限り、私の視界には、自分以外誰も映らない。
一位になること、先頭をいくことは、【ひとりになること】だ。
スタートラインから見える、私の世界は、いつのまにか一人の世界になってしまった。
「ベストタイムだよ、うづきー!」
タオルを首にかけ、汗をぬぐおうとしたところで、陸上部には珍しいマネージャーを務めている友人、紅葉ヒトデが抱き着いてきた。ふわふわの赤毛を二つに結んでいて、高揚したほっぺが私の胸元にぐりぐりと摺り寄せられる。
「うづき、ほんっっとすごい!私達の希望!」
「ふははっ、任せてよ。」
私は笑う。きっと、不敵に笑っている。胸を張る。自信満々に、多少、誇張して冗談めかして。虚勢ではない。実際、疑いはない。きっと大丈夫だ。このペースなら、次の大会でもぶっちぎったうえで新たな記録を残せるだろう。
「この調子なら次の大会でも……あれ、どうしたのうづき?」
「ん、ううん、別にっ」
屋上に誰かが居た気がして、私は自然とヒトデ越しに白い校舎を見上げていた。四階の音楽室にちらりと管楽器の金色が見える。その真上に、小さくしゃがみこんだようなシルエットがあったような気がしたのだ。
「何でも、ないよ」
立ち入り禁止のはずの屋上だ。どうして教員でもないのに、そこに入れるのだろう。何より__【こっちを見ていた】ような気がして、こういう勘は案外あたっていたりするものだ。
「ふん、そっか」つい、ヒトデは不思議そうに、しかしさして気にも留めない様に私にスポーツドリンクを差し出した。「じゃあほら、さっそく水分補給っ!ぐびぐびっとどーぞ!」
「ありがとヒトデ」
「うふふー」
ヒトデは満足げに笑った。
陸上部全員のマネージャーなのに、友人ということもあってほとんど専属のマネージャー(芸能人とかにつくアレだ)のように私に世話を焼くヒトデだった。最も、本来陸上部というもの自体がマネージャーをそれほど必要としていないこともあり、顧問も他の部員も無理にヒトデを呼びつけたりはしないようだった。
「お疲れさまってことで、一緒に帰ろっ」
私の一歩先を行くヒトデが大きなスポーツバッグを振り回しながらくるりと振り返る。私はその姿に嬉しくなり、「うん、もちろん」と全力で笑顔を返した。
ご機嫌そうに先を歩く友人、それについて行く自分。紅葉ヒトデ__赤い髪が、沈み始めた陽のオレンジ色の光を受けて、一層赤く見えた。
誰かの後ろを歩くときは、ひとりを感じない。
スタートラインを離れることで、私はふと懐かしい気持ちになる。
__「うづき、僕がいるから、ほら」
__「じゃあ手を繋いでやるから、一緒に行こう」
とうの昔に追い越してしまったあの背中を、時々懐かしく思う。
__「一位になったのか?一緒に練習した甲斐があったな!」
彼は__紗々太はそうやって引っ込み思案だった私の手を引いてくれて、怖がらずに【一緒に世界を見ること】を教えてくれた。初めてかけっこで一位になって手放しで褒めてくれたとき、私は「もっと褒めてほしい」と思ってしまった。
これからも紗々太が一緒なら、どこまでも走っていけると思っていた。
それなのに、気が付けば一人だった。
グラウンドを駆けるのと同じように、気が付いた時には一人で走っていた。
紗々太はなんだか元気を無くしてしまったようで、私に笑いかけてくれなくなった。どうしてだろう、何故だろう、あんなに笑いあっていたはずの、ヒーローのようだった紗々太は、もういないように思えた。もっと走れば、もっと私がすごくなれば、褒めてくれるのだろうか。
「…………なーんて思ってた時期もあったけどさ、もうやーめ!」
私は、目に当てていた双眼鏡を顔から離し、自嘲するように笑った。遠くにはヒトデと並んで帰ろうとする【私】がいる。双眼鏡をポケットにしまった後も、時間を持て余している身、なんとなくその後姿が見えなくなるまで私は頬付けをついて見送っていた。
「もう今の【私】は、そんな昔のことさえも通りすぎちゃってる感あるもんなぁ」
俯瞰するからこそ見える風景のように、他人事のように自分を眺めてこそ吐露できる心の内もある。それも、自分で自分を見ているのだから、結局は独白にすぎないのだけれど。
「帰納紗々太がきっかけで、彼に褒めてほしいから陸上を始めました。でも今は距離がひらいてしまっていますってかー。うーん、しいて言えばそういうことになるんだろうけどさー。たぶん、今の【私】ってもうただのポジティブさんなんだよね。割と昔のことはどうでもいいっていうか。」
私は、もう一人の自分を屋上から眺めていた。
すなわち、私は【疾玖原うづき】本人だ。何も違いはない。一応区別すれば、真面目にルーティンにのっとって生活しているほうの彼女が【本人】で、練習に参加するわけにもいかず屋上で時間をつぶしている私が【レプリカ】ということになるのだろうか。呼び名は何でもいいだろう。ドッペルゲンガーとか?ニセモノとか?ダブルとか?
「まぁでも」
過去じゃなくて、今の気持ちを語るとすれば。
私は、眼下に見ていたもうひとりの自分と、文字通りの意味での自分の気持ちを素直に口にする。
「…………私は」
__帰納紗々太のことがまだ好きだ。
そう口に出しはしなかった。
浮かび上がってきたものの、恥ずかしすぎて顔まで熱くなってくる。肌寒くて厚手のミリタリーコートまで羽織ってきたのに、今は鼓動まで勝手に高鳴って、自分で体温を上げようとしている。私は一旦コートを脱いで、指先だけひんやりと冷えた両手で自分の頬を冷やした。そのままむすっと、なんとなく不機嫌な気持ちになって、しゃがんだまま遠くの風景を眺める。
「__疾玖原?」
視線の先に、きらりと北極星のような星が見え、日は暮れかかって、空が青ともオレンジともつかない、混ざり合った色彩を映し出している。そんな光景に目を奪われたとき、後ろから声を掛けられた。
「さ、ささささ紗々太っ!?」
「……何回さって言ったんだよ」
どこかけだるげに、そして所在なさげに一人で屋上に上ってきたのは、さっきまで頭に思い浮かべていた人物__帰納紗々太だった。
「ふははっ、こんなところで会うなんてびっくりだね、話すのも久しぶりじゃない?」
「んー、あぁ」紗々太は、視線を宙にさまよわせ、「そうかもしれないな」とぽつりと言った。私達は同じクラスなのに、会話という会話をクラスではしない。
「………」
「…………陸上部の練習は?」
気まずい沈黙を経て、紗々太は私を見ずに行った。その視線の先には空しかないように見えた。
「ちょっと足くじいちゃって、見学。高いところからね!ゴミのように、鳥のように俯瞰していたのだ!」
「ふはは」とふざけて笑うと、呆れたように紗々太はため息をついた。
「……わざとかもしれないけれど、ゴミなのは見てる側じゃないぞ」
「あっそっか」
「…………」
沈黙で返されてしまった。きっと心の中では何かしら突っ込んでくれていたに違いない。
もしかしたら今後も小さなボケをかませば紗々太は話してくれるようになるんじゃないかと思ってしまう。
「で、紗々太はなにしにきたの?」
一瞬、躊躇うような間があった。
「星を見に来たんだよ。」
「ふうん、そっか、紗々太は星が好きなんだね、いいじゃん!」
さして考えもせず、私は【ポジティブ】の癖で軽く肯定する。すると、今まで私を見もしなかった紗々太はこちらを向いて、至極真剣に、それでもそれが戯言だとでも言うように薄く笑いながら、言った。
「いや、僕は星がこわいんだよ」
一瞬、時がとまったように思えて、私の中で思考が巡って、唐突に星という言葉に意味が発生する。帰納紗々太__星__怖い__星を見る__??覚えがあるような、そうでないような、きっと話を聞いたら思い出せる、それくらいの、飲み込んでしまった過去がありそうな気がした。
「だから、ぼくは星が見えないかどうか、確かめるためにここに来たんだ」
「__じゃあ、【私】も一緒に見る!」
その言葉には、なにかが隠されていると思った。だから、ポジティブな疾玖原うづきの代わりに、過去を引きずっていたもうひとりの【私】__【もうひとりの疾玖原うづき】がその答えを探ろうと思った。
「……まぁ、いいけれど、すぐ終わるぞ」
「いいよ、勝手にここに座ってるから」
私はもう一度コートを羽織り、紗々太の隣にしゃがみこむ。せっかく疾玖原うづきが二人いるのだ。片一方がイレギュラーな行動をとったって本人には関係ないし、いいじゃないか。
どうしてドッペルゲンガーのような【私】という存在がここにいるのかは分からない。だが、経緯くらいは__私が発生、あるいは本物から切り離された瞬間のことくらいは語ることができる。つい昨日の話だ、いくら過去を同でもいいと思う私でさえ、まだぎりぎり思い出せる。
だが、それはまたの機会にしよう。
今はただ、好きな人と星を見るだけだ。