現実に於けるナイトメアあるいはシャドウ
「………よみち、お前……どうして……」
ぼくの世界が。
ぼくの十年が。
「えへへっ」
無邪気な笑顔が__何もなかったように、時間など経過していなかったと、「世界など他人だ」なんて言わせない様に親し気に、ぼくのほうがどうかしてしまったかのように、ずっと隣にいた幼馴染のように柔らかく、警戒心なく、信頼と親愛をもって手向けられる。
これは夢か現実か。
「現実だよ、さーくん」
きょとんと大きな目が向けられる。
にっこりとこともなげに、ぼくの呟きに返す幼い少女は、この状況に何の疑問も持っていない。驚きすらない。そこまで考えて、それもそうだ、と自ら納得する。驚きも疑問も、ただ単にぼくの心境だ。そもそも、いま視えている夜道が実在しているかもあやふやなのだ。
「お前は……本物なのか?」
「うにー、本物だと思うよ?」
ここが現実であり、本人が本物だと言うのなら、問題があるのはぼくの方かもしれない。健全な精神は健全な肉体に宿る。ひとまずは体の調子から確認しよう。
「あ、ああーテステス、テステス、マイクテスー」
「………」
少女は首を傾げる。指を咥えるようにしてぼくを観察している。きっと疾玖原がまだこの場にいたら「いやなんで喉の調子!?」とか「そこでマイクテスト!?」とか、オーソドックスなツッコミををしてくれる気がするが、帰ってしまったものは__短距離走全国一位のスピードで走って帰られてしまっては仕方ない。ぼくは気にしない。
「テステス、テステス」
「ま、ま、マイクテスっ!」
タイミングを逃すまいとびしっと叫ばれてしまった。うおお。ノリがいい。
夜道はアスファルトにじかに女の子座りした形のまま拳を振り上げていた。そのポーズはどちらかというとコールアンドレスポンスと言えなくもないけれど。
「テステス、夜道」
「は、はいテス!」
影から出てきた死んだはずの幼馴染となんの冗談を交わしているんだ、ぼくは。
ぼくはここで初めて頭を抱えた。片手で目から額にかけてを覆い隠すようにし、一旦視界を遮る。手を取り払っても、きょとんと眼を丸くする夜道はそこにいた。
「ぼ、ぼくはどうかしちゃったのか……?」
「あ、えっと、うーんと……支離滅裂……解せない行動……たぶんそう……」
「…………」
途端にもじもじと言いづらいことを言うようにしおれる夜道だった。
変に冷静だ。おかげでぼくも冷静になれた。どうやら、世界をまるごと包み込んだ夢でも見ていない限りはこれは現実で、夜道は本物で、ぼくは正常らしかった。
「おまえ、夜道なんだよな」
「うん」
「あの、夜道なんだよな」
「そうだよ、さーくん」
真っ直ぐな瞳、遠い記憶と同じくこの世のものとは思えない色彩に揺れるその瞳で見上げられた僕は、その先に聞こうとした言葉を一瞬だけ引っ込めてしまいそうになる。だけれど僕は、意を決した。息を吸って、吐いて、自然と一歩、紫瞳夜道へと踏み出す。
「…………あの日、助けられなくてごめん。」
「…………」
夜道は答えない。微動だにせず「さーくん」と言ったままの表情でぼくの言葉を待っているように思えた。
「実を言うと、何度もお前のこと、夢に見たんだ。でも、こうして話すことは出来なかった。夢でさえ、悪夢でさえ、もう二度と夜道には会えないと思っていた。」
「だから」
ぼくは夜道の背後にいくつかの星が光っていることに気付きながらも夜道だけを見る。
「これが幻でも夢でも悪夢でも、話せてよかったよ」
十年前の、七月七日。
十年前の、【星降る夜】。
十年前の、ぼくら。
【暗い過去】というのは便利な表現で、便利だからこそ一筋縄にはいかない。ぼくには癒えない傷も、癒えるべき傷もない。ただ、あまりに決定的なあの夜の出来事がぼくというものと周囲を取り巻く世界を決定的に変えてしまっただけで、終わった今となっては、それは冷えて固まった過去のことである。全てはとっくに飲み込んだものであって、トラウマですらない。暗い過去があるとすれば、それはただぼくが星を怖がる理由にすぎなかった。
でも、それはぼくの話だ。
紫瞳夜道にとっては違う。
夜道に対しては、言いたかった言葉も、心残りもある。
「えへへ」
夜道はもう一度、はにかんだ。
何かがおかしいようにも見えるし、楽しそうでもある、まるでサプライズを後ろ手に隠していたときの由々式のようでもあった。夜道はにんまりと笑い、そして星空を背景にまっすぐ、ぼくを見つめる。
「……だいじょうぶだよ、よみちはさーくんの中で元気を取り戻したもん。結果論……えへへ」
「結果論?」
「よみちはね、さーくん」一旦言葉を区切って、夜道は一瞬だけ笑顔を取り消して、心配そうにこちらを覗き見るようにした。「__よみちのこと、信じてくれる?」
「ここまできて信じるも信じないもないだろ」
「そっか」
安心したようににへらっと頬を緩めると、夜道は「すーはー」と分かりやすく深呼吸をする。
「よみちはナイトメア、あるいはシャドウ。あるいは悪い夢。リアルな身体を操るのにまだ慣れない年齢で井戸に落ちたので、死にかけてしまいましたのです。……今日までずっと、こうやって出てくるために、さーくんの影の中で生きていたんだよー」
こうやって、と夜道は両手を広げて自分の身体を示した。しかし丁寧なあいさつのように滔々と述べられた言葉は呪文みたいだった。理解できない言葉というよりも、知らない言葉が並んでいた。ぼくは真っ先にランダムに口をついてでた単語を聞き返すことにした。
「ええと、【ナイトメア、あるいはシャドウ】?」
「うん。そういうもの、よみちは【影そのもの】なんだよ。そういうものを人型にしたり人格を与えたりするでしょ?それがよみちなんだよ!」
「ふむ」
偉そうな相槌を打ったものの、ピンとこない。そもそも完全に理解する必要もないのだろう。要するに、夜道は__紫瞳夜道という少女は。ふつうの人間ではなく、それ故に助かることができたということか。
「影……そのもの……」
「さすがさーくん、まぁ、妖精さんみたいなものだよ。本来は、生も死もない存在。でも身体については__リアルな身体については別。構成するのに人間と同じだけ時間がかかるし、死んでしまえばもうそれで【その子】についてはお終いなの。……さーくんがいなかったら本当にただの身体のない影になっちゃってたかもしれないんだよ」
「てへへ」と言わんばかりにぼくに向かってに苦笑する夜道だった。非現実的なのに、そんなことはぼくのなかでは問題ではなかった。それよりも、どことなく人間ではない何かを感じていた夜道という少女の正体と真実を知ったことで、不思議とすとんと胸に収まる心地だった。
「身体を失っても、もう一度、ヒト型の影は生まれるかもしれない。でも、それは【紫瞳夜道】とは限らない。……よみちを知っていてくれるさーくんが近くにいたから、よみちはその影の中で、もう一度、紫瞳夜道を思い出しながら【この身体】を構成することができたの。……再構成だから、自立して自律するのに十年もかかっちゃったけれどね。」
「つまり、ぼくの影の中で休んで……今日まで力みたいなのを貯めていたってことか?」
「うん、というより、喰らってた。エナジードレイン」
「ごちそうさま」と夜道はにんまり笑う。十歳にも満たないはずの外見なのに、舌をぺろりと出していて、なぜか妖艶さを含んでいた。
「…………そのエナジーというものは」
「うにぃ……生気とか、元気とか、やる気とか、運気とか、ぷらすぱわー全般?」
「…………」
「ちなみに、よみち、年齢はさーくんと一緒だよ。知識もちゃんとあるんだからね!」
夜道は胸を張る。月並みに有り体に、そして端的に言えば、身もふたもない表現だが、無い胸を張った。しかし、その髪が長くて黒いおかげで、ところどころ肌色が覗くだけである。夜道の話で言えば身体を構成するのに十年__身体は十歳で、精神だけはあの日から連続しているということになるのだろうか。
「ってことは十七歳か」
「うん。ちょっとだけ身体に引っ張られて十歳児ぽくなることもありゅけど………」
「いまのはわざとだろ」
「えへへっ」
悪びれない笑顔に、ぼくはいろいろと喰われたであろうものを想像する。なんとなくスポーツが苦手になったこととか、なんとなくついてない毎日とか、なんとなくやる気の起きない日常生活とか。それに、いつの間にか追い越されて先を行かれてしまった疾玖原のこととか……か。なんとなくの正体、全部こいつか。
「……拒否。さーくんはよみちを責められない。」
「ぐっ」
____そう言われると。
そう言われてしまうと……いや、まったくもって反論の余地もなくその通りなのだけれど。当然のごとく、ぼくはこの幼馴染に対しては無条件でなんでも提供するべきなのだ。ひとつの命の為なら、生気や運気や、やる気位いくらでもくれてやろうというものだ。
「分かった。何でも言え」
ぼくは強がった。
「ふふっさーくん、じゃあお願い。」
夜闇に風が吹いて、屋上を駆け抜け、夜道の長い髪がさらりと揺れた。再び露わになる瞳は金色に光っていて__そうか、どことなく夜空と星に似ていた。
「もういちど、次の【星降る夜】……よみちは流れ星をみたい。」
夜道は笑う。無邪気に、無垢に、天真爛漫に、容赦なく笑顔を向けた。