回想すなわちプロローグ
10年前は、7歳の時だった。
ぼく__帰納紗々太と、疾玖原うづき(とくはらうづき)、そして七世藍の三人は家が近いこともあって一緒に遊ぶ仲だった。
子供同士の人間関係は単純なもので、ぼくから順番に言えば、ガキ大将、引っ込み思案、泣き虫だった。泣き虫の七世は男で、彼は基本的には変わっていないが、ぼくと疾玖原に関してはほぼ正反対と言ってもいいほどに成長し、変わってしまった。
「よく、七世とお前とぼくとで遊んでただろ。それで十年前、7月7日……七夕祭りの帰りかなんかに皆んなで星を見に行った。」
「あ、覚えてるよ!七世くん、女の子の浴衣着てたよね!髪飾りも付けて、ほんと女の子みたいだったなぁ」
「……あいつは今でもそんな感じだけどな。」
当時は泣き虫だった、親友や幼馴染というよりも腐れ縁という方がしっくりくる友人が七世だ。男であるのに、やけに女っぽい童顔と、無駄に薄い色素でカールした髪のせいで、昔から女の服を着せられているような奴だった。現在も、スカートこそ履かないものの、ネクタイは女子用のリボンを着用している。それでいて「天使」でまかり通る悪魔だ。
「あいつは純粋だったはずなのにな。どうして賢い子供みたいな大人になってしまったんだか……。」
「あー。」
流石の幼馴染同士だ。疾玖原も了解したように気の抜けた相槌を打った。
泣き虫だった七世は、いつの間にか自分が「かわいい」と、「むしろ男だからこそかわいい」などと言われ続けるあまりに、嘘泣きをするような人間になってしまったのである。泣き虫ではなく、嘘泣き虫。
……まぁ、この際、それはどうでもいいことなのだが。
「ぼくと、疾玖原、七世、あともう一人いたのは覚えてるか?」
もう一人、と言ったところで、流石にピンと来たのか疾玖原は表情をこわばらせた。現在、三人が三人とも同じ高校に通っている一方で、一人だけこの場にはいない人物。
「うん。紫瞳夜道……。」
「そう。紫瞳夜道だ。」
紫瞳夜道__生まれた時からほとんど一緒に居たぼくらのもとに、【星降る夜】の直前に引っ越してきた、不思議な瞳をもつ少女だった。
彼女の瞳は青かったり、紫だったり、金に光ることもあった。彼女は、遠い世界から来た妖精のようだと思った。幼い日の記憶だからそう思ったのかもしれない。だが、たとえ上書きされた偽りの記憶だろうと、はっきりと覚えてることに変わりない。
「………。」
沈黙したまま、疾玖原は目を伏せてしまう。それは、紫瞳夜道という少女が不思議な存在だったからではない。出会った際の彼女が、裸足でひとり、暗い夜道をさまよっていたからでも、手が冷たかったからでも、異常なほどに無知で猟奇的なほどに純真だったからでもない。疾玖原の中で、蘇る過去があったからだろう。きっとそれは今からぼくが言おうとしていることだった。
「四人で流星群を見に行った__その夜に、ぼくが「流れ星を見たことがない」っていったあの子を、見えやすい場所に連れて行こうとしたんだ。」
可笑しなことに、当時のぼくは自分のことを正義の味方やヒーローか何かだと思い込んでいた。だから当時、引っ込み思案だった疾玖原を無理矢理遊びに誘ったり、泣き虫だった七世の手を引いて励ましたり、そんな理由のない空っぽの使命を帯びていた。
「でも、大人たちから聞いたよく見える場所は、背の高い草に邪魔されてよく見えなかったんだ。」
星が見えるような暗い場所、人気のない山の近く。そこに真夜中に抜け出したぼくたちは、どうにかして流星群を見たかった。でも、見えなかった。街の灯りに照らされる方向しか空は開かれていなく、暗い空を見るには、何か一段高いところに上らなければならなかった。
「…………。」
「近くに井戸があった。古井戸だ。」
古い井戸があった時、当然、「そこに登れば見えるか?」という話になった。でも、七世も、疾玖原も、怖がって星を見ることを諦めようとしていた。
「……覚えてる。私と、七世くんは、「もう帰ろうよ」って言ったんだよね。」
「だがあいつは違った。」
紫瞳夜道という少女は、底抜けに元気で、好奇心豊かで、奔放で、純真無垢で、天真爛漫だった。だから、次が何時かも分からない流星群を見られるようなチャンスを前にして、怖がって帰ろうなんて言う訳がなかった。そして、ぼくはそれに答えたいと思った。「友達なんてできたことがなかった」と笑ってくれた彼女の願いを、空っぽの正義感で「叶えてあげたい」と思ってしまった。
「ぼくと夜道は……「そこに登ればきっと見える」、そう思って、そこに上った。いや、ぼくじゃない。ぼくが彼女を__紫瞳夜道を登らせたんだ。だって、どちらかが踏み台にならないと、とても届かないような高さだったから。」
「っ……紗々太!」
気が付いたら、疾玖原はぼくの袖のカーディガンを弱くつかんでいた。止めようとしているのか、なんとなく縋ってしまったのか。ぼくは構わず続けることにした。
「それで__彼女は落ちた。」
「…………。」
「ぼくは逃げた。」
「…………私達も、一緒に逃げたよ。」
「でも、ぼくは理由は言わなかっただろ。お前たちも聞いてこなかった。……ぼくは逃げたんだよ。夜道が死んだと思って……いや、ぼくはあの場で助けようとしなかった。」
「で、でも、一人で登るのも無理だった私達じゃ、助けようとしたって危なかったよきっと。」
疾玖原の言うことは間違っていない。それは彼女がポジティブだからではない。ぼくや、ましてや自分自身への言い訳や保身でもない。理屈で考えることを、その時の最適な行動をとることを手段として知っているこの年齢だからこそ言える、大人の意見だった。
「疾玖原の言うことはもっともだよ。さんざん、皆に言われてきたことだ。夜道の死体は井戸からは見つからなかったし、結局は失踪事件として片づけられた。でも、皆が何と言おうと、ぼくがあの時、夜道の手を引いていなければ、__星を見せてやろうなんて思わなければ__夜道は死ぬことは無かったんだ。」
「紗々太は、優しかっただけだよ。なにも悪くない。あれはただの……」
「事故だよ」と、消え入るような声で疾玖原はしかし、僕の方を見ないで呟く。きっとそれも、散々言い古された事柄であることを分かっているのだろう。僕だって、それが単なる事故で、自分も紫瞳夜道も多少不注意で運が悪かっただけで、【殺し】てまではいない、分かっている。理解している。頭と心を切り離すでもなく、とうの昔に飲み込んで通り過ぎていて、トラウマですらない。
__故に、ぼくは。
「…………だから、ぼくは星が怖いんだ。」
「……。」
「だから、言う必要ないって言っただろ。」
すっかり意気消沈してしまったように肩を落とした疾玖原は、何かを誤魔化すように大きなミリタリーコートのフードを乱暴にばさっと被った。その勢いのまま、ベンチを揺らして立ち上がった。仁王立ちでこちらを見下ろしたその顔は、怒っているようで、涙を湛えていた。
「なんだよ、泣くなよ。ぼくは星が怖いって話をしただけのつもりなんだけれどな。」
「泣いてない。勝手に涙が出るだけ。」
「まぁ、それ泣いてるじゃん、とは言わないけれどさ……。」
ぼくは曖昧な返事をしながら、見下ろす視線をよけるようにゆっくりと立ち上がった。伸びていた影は、すっかり夜の闇に溶けて見えなくなっていた。
「私、走って帰る。」
「は?」
「じゃあね!……また明日。」
また明日、と言っても、きっと教室や廊下で会ったところでぼくらは言葉を交わさないだろう。目を合わせても、会釈もしないほどに、今や幼馴染だったぼくらの距離は離れてしまっている。今日こうして、普通に会話できたのが不思議なくらいだった。
十年前の事件を期にぼくは人を避け、正義感やヒーローといったものを嫌い、そして「星が見えませんように」と空を見上げるようになった。紫瞳夜道の失踪によって落ち込んでいるのだと考えてくれた疾玖原と七世は、しばらくぼくを励まそうと甲斐甲斐しく話しかけてくれたものだったが、やがて離れていった。
つかみどころのない七世は例外として、引っ込み思案だったはずの疾玖原は、僕に手を引かれているのではなく、何がどうしてか、今や陸上の短距離走で全国で一位を取ってしまうほどにぼくのずっと前を走るようになってしまった。見る影もないほどに前向きで、それこそかつてぼくがなろうとしていたヒーローのような存在として慕われていて、だからぼくは彼女とは距離を置いてしまっていた。追い越されたぼくは、後ろから遠くなっていく疾玖原うづきの背中をみるだけでいい。追いつこうとは思わない。だからぼくは、彼女に弱いのだ。
「……本当に走って帰るのかよ。」
文字通り、コートをなびかせながら全力疾走で帰る疾玖原を屋上から見下ろし、ぼくはのったりと階段へ向かう事にした。
それにしても、あんなに走れるのなら何故、陸上部の練習に参加せずにこんな場所にいたのだろう。ぼくが屋上に上ってきた時から、疾玖原は膝を抱えてグラウンドを見下ろしていた。てっきり怪我でもして練習を遠目に眺めているのかとも思っていたが。あいつは、そろそろ大会も近いのにさぼっていて大丈夫だったのだろうか。
お節介な質問をしながら俯きがちにしていると、バッグの中で携帯が震える音がした。
「はいもしもし。」
『__んあーお兄ちゃん?』
気の抜けた声で電話をかけてきたのは、非通知設定の時点で分かってはいたのだが、妹__帰納結々式だった。
『ははっお兄ちゃんだってー、薄っぽい』
「は?嘘っぽいじゃなくて?」
『ううん、うすうすー』
「意味わかんねぇ」
二つ下の妹は、ぼくとは年が近い。よっぽどの急ぎでもなければ連絡はメッセージで十分な年代だ。それなのに急ぎでもない様子で電話をわざわざかけてくるところも、非通知設定を頑なに用いるところも、基本的にはちょっと変わった奴なのだ。
「分かった。用はないんだな。切る。」
『……ふふ、声を聞きたかっただけだ。気にするな。』
「…………。」
__妹にそういわれても嬉しくない。
『っていうのは嘘だ。携帯画面を開いたら気付いたら紗々太を呼び出していたのだ、指が。』
「……はいはい。すぐ帰るよ、ゆゆ。」
『むぅ』
結々式からの電話を半ば強引に切り、携帯をポケットに押し込む。大方、まっすぐ家に帰るぼくの帰りが遅くて心配して掛けてきたのだろう。
いよいよ風が冷たくなってきたので、ぼくも疾玖原のように走って帰るべきか、なんて考えて、こつん、と後ろを振り返った時だった。
___。
「影……っ?」
暗い、夜のはずだったのに、屋上には月灯りすらなかったのに、ぼくの影は長く長く伸びて、そして【伸び続け】ていた。不気味なその風景に、ぼくはただ伸びていく影を追う。
しかし、影はぷつん、と切れた。
切れて、消えて、__結果的に言えば、ぼくは再度振り返ることになる。
背後でばさり、という音がした。
「__っ……」
布が落ちたような音か、あるいは巨大な鳥が空から墜落したような音だった。さすがに振り返らない訳には行かず、ぼくは立ち止まり、音のした方へ体を向ける。
影ではないなにかが、闇に紛れてひとつ、塊のように視界の真ん中にあった。好奇心が湧くよりも早く、ぼくは自然な動きでそれに近づいていった。そしてそれは、ゆっくりと【顔を上げた】。
「……えへへ、さーくん」
小さな少女が、冷たいアスファルトに座り込んでいた。顔を上げ、彼女は真っ先ぼくに向かって、にへら、と柔らかな笑みを向ける。照れているようだった。
一糸纏わずに、身を抱え、しかし黒くて長い髪の毛でかろうじて肌を隠すのは。
死んだはずの、なんて形容は追いつかない。
いなくなったはずの、なんて無責任な言葉を選びたくない。
今日までのぼくの、失われた、去っていった世界を丸ごと両手に抱えて消えた、彼女。
「ん?……どーしたのさーくん?」
まるでぼくの方がおかしいように、少女は首を傾げる。夜闇の中で、大きな瞳がゆらゆら揺れていた。
無垢で手放しの笑顔で、ぼくのことをさーくんと呼ぶ少女は、どうみても10歳に満たない。しかし、だからこそ見間違うはずもない。
__だって、あの日の姿のままなのだから。
「………………よ、夜、道?」
「そーだよっ、夜道だよー。」
紫瞳夜道。紫瞳夜道。
星降る夜に、星を見ようとして落ちた少女、よみち。
ぼくの世界を終わらせたはずの少女、ぼくの世界を他人にしたはずの少女、夜道。
不謹慎で無責任で安っぽい陳腐な言葉かもしれないが、死んだはずの幼馴染が突然、10年前の姿でぼくの前に現れたのだった。