後編
そのころ、各家庭のテレビニュースで、新聞で、繰り返しマイラの画像がスクープとして流れていた。
「謎の少女現る」「吉報か、凶報か」「僧院に閉じ込められていた火の魔女の血を引くものの娘との噂」
宗教が国の政治を牛耳るこの国では、理屈にあわない出来事は皆、呪いと祝福の二つに分かれて報道されていた。暗い未来だけを見つめ続けてきた国民は、複雑な思いでそのニュースについて語り合った。その子の出現にはどんな意味があるのか。山羊を連れていることには、何か宗教的暗示があるのか。出会ったら、どうすればいいのか。どんな武器も役に立たない相手に対して、戦争で疲弊したこの地で……
その夜、マイラは町はずれの小川で髪と体を洗い、崩れかけた教会の裏手の墓地で、ずぶ濡れの服のまま石のベンチに横たわっていた。もう食べ物を探す気力もない。五月の夜風が寒い。傍で草を食んでいた山羊のべべが、死んだように眠るマイラに鼻面を押し付けた。
「うん。……なに? 生きてるよ」かすれ声でマイラが言うと、べべは前足をベンチに乗せ、メへへへと小声で鳴いて、自分の乳房を見せつけるようにした。その乳は、丸々と膨らんで揺れていた。
「え?」
いつの間に、なぜ子山羊の乳が大きくなったのか。それを考える間もなく、空腹の限界だったマイラは草地に降りると、四つん這いになってその乳に吸い付いた。飲みやすいようにべべは体をマイラに押し付けた。溢れるようにほとばしるべべのミルクは、とろけるように甘く、美味だった。マイラは夢中で飲んだ。
「べべ。わたしを生かしてくれるのね」
マイラはべべの首にしがみついて泣いた。墓地には小さな青い花が群れ咲いていた。この世でたった一つの、甘やかで自分に優しい命。生きることは苦しいばかりだけれど、べべがいるなら、この先も生きて行こう……
そのとき、廃墟とばかり思っていた教会のドアが開いて光が外に漏れた。そして、黒いシルエット―よく見ると、立ち襟でくるぶしまで覆う飾りのない黒い衣装を着た背の高い男が、姿を現した。そして出てきた途端、マイラとべべのいるベンチにじっと視線を注いだ。
見つかった。見つかったなら、逃げなければ。マイラはべべを麻袋に押し込もうとしたが、もうそんな大きさではなかった。どころか、べべはマイラを守るようにその前に立ち四肢を踏ん張った。マイラが押しても引いても、びくともしなかった。男は青い光を放つ小さな棒状のライトをこちらに向けながら近寄ってきた。鮮やかにひとりと一匹の姿が光の輪の中に映し出された。
「恐れることはない、私は何もしない。きみがどのような身であってもだ。天気は明日から崩れる、大きな嵐が近づいている。中に入りなさい」
静かで落ち着いた声だった。マイラはふらふらと体を揺らしながら彼の言葉に従い、べべを連れてひびだらけの教会の聖堂に入った。
中のあかりはいくつかある燭台のろうそくだけだった。ゆらゆらと照らし出される天井は外から見たよりずっと高く、十字架のかかる祭壇の前には長椅子が並ぶ。埃臭く、ひと気はない。ろうそくの炎に照らし出された男の目は深い瑠璃色だった。額の真ん中で分けた髪は肩まで届く黒髪で鼻は高く、眉は太く、何か作り物のような端正な顔立ちだった。年齢はわからないが、バインと同じかそれより若いようにも見えた。胸元に、瑠璃色の玉のつながった首飾りをしている。
「なぜ墓場で寝る」
「ひとに、……見つかりたくないから」
「その山羊は」
「べべ。わたしのママが、産んだの」
男は口元にうっすら笑みを浮かべると、手を差し出してべべの頭を撫でた。べべは抵抗しなかった。
「人に見つかっても何の心配ももうない。何故なら、都中のものがきみの存在をおそれているからだ。指さすだけで、自分に対する攻撃を相手に返す。そんな細い指でも、その力がある限り、かなう者はいるまい」
「わたしのことを、知っているの?」
「都中、いや、国中が知っているよ。ここにたどり着いたのは幸運と言えよう。私はきみになにもしない。だからきみも、自分の力をここでは封じてくれ」
「どうしてあんなことができるのか、自分でもわからないの」
マイラの目をじっと見つめると、男は言った。
「美しいすみれ色の瞳だね。私はグリゴリ―・ドーセット。きみの名前は」
「マイラ」
「母親の名前はわかるか?」
「キアナ」
マイラはグリゴリ―に尋ねた。
「あなたは、ここに住む、神父様なの?」
「ネオキス大神官様に仕える身ではある。何か食べたいものはあるか」
「今はいい」
「では来なさい」
有無を言わせない迫力の背中についていくと、グリゴリ―と名乗る男は小さな懺悔室のドアを開け、マイラを告解室と対面する神父室にともに招き入れた。
そしてドアを閉め、手元に握った何かのボタンを押すと、すーっと床が下降し始めた。マイラは思わず彼の袖にしがみついた。
「大丈夫だよ。あとは地下で話そう」
大きな手がマイラの肩を抱いた。バインと同じぐらいだ、とマイラは思った。ようやくたどり着いた地下階でドアは音もなく開き、いきなり青い光が入ってきた。そこから続く通路は自然発光する石で壁が作られており、ライトは必要なかった。青い光を放つ鍾乳洞のような通路に、二人と一匹の足音が響いた。
「山羊はもともと主への捧げものだ。そしてまた、贖罪を負うものでもある」
グリゴリ―は前を向いたまま言った。
「聖典にはこうある。七番目の月の十日を贖罪の日として祝う時、贖罪のささげものとして二匹の山羊を用意せよ。くじを引き、一匹を主のものにして屠り、もう一匹を天から追放された堕天使アザゼルのものとせよ。そしてその山羊は屠らずに生かしおけ。民の罪を負わされた山羊として荒れ野のアザゼルのもとへ放逐せよ。その儀式で、人々の罪は許される」
「……」
「贖いの山羊と、山羊に養われる最強の少女。そう考えると、物語としてはなかなか趣深い。きみは誰の手で、何の罪を肩代わりするためにこの荒れ野のような国に放たれたのかな」
マイラはしばらく考えたのちに言った。
「この山羊はべべよ、生贄じゃないし、荒れ野のアザゼルなんてしらない。悪いことをした人が山羊を荒れ地に放り出しても、何も許されない。人は人で、山羊は山羊だわ」
「きみは頭のいい子だね」グリゴリ―は少女の金色の頭に手を置いた。
「今、自分がいくつかわかるか?」
「八歳。お誕生祝にイチジクのパンを食べたわ」
「そうか。さぞおいしかっただろう。実は、きみに聞いておいてもらいたい大切なことが沢山ある。その頭の良さなら理解できるだろう。さあ、このドアの向こうが私の部屋だ」
光を放つ石の廊下の突き当りに、鉄で作られたような陰気な錆色のドアがあった。神父はそれを、やはり手元のボタンで開けた。
中は図書室のような天上の高い部屋で、壁は本棚で覆われ古書が並び、大きな机と椅子と、木製の大きなベッドがあった。そのベッドの四隅には、青く自然発光する一メートルほどの石が四本立っていた。
マイラはあたりを見回すと、この未知の環境にもかかわらず、大きな欠伸をした。
「眠いか。眠れそうなら、そこのベッドで寝てもいい。しばらく熟睡していないだろう」
マイラはべべを伴い、素直にベッドに座ると、背負っていた麻袋の中を覗いて、あ!と叫び声をあげた。
「べべ、食べちゃったの?」
「何を」
「お手紙」
グリゴリ―は肩をすくめて笑い顔を見せた。
「山羊と手紙を一つの袋に入れたなら、そりゃそうなるだろう」
呆然とした表情のマイラの手には、汚れた紙の切れ端があるのみだった。
「きみが書いたのか」
「ママが書いた、パパへの大事なお手紙。ママが話してたから、中身は覚えてる。でも、パパにしか教えない」
「覚えているんだね」
グリゴリ―は口調を和らげて言った。
「そうか。だが、パパを探す手伝いはできる。と思う」
「どうやって?」
「私はそれなりの地位にいるんだよ。ある程度人を動かせる立場にね。きみが協力的ならばだが」
マイラは意図を掴みかねて、黙ってすみれ色の瞳で目の前の男の深い青い瞳を見つめた。
「今夜は寝なさい。べべがきみを守ってくれるだろう。その山羊は、乳も魂も、きみへの愛でいっぱいだ」
言葉を最後まで聞かぬうち、マイラはベッドに倒れ、深い眠りに落ちた。べべはベッドの傍らに身を横たえた。その時、ベッドの四隅に立つ四本の石は今までの倍ほどの光を放ち、キラキラと輝いた。グリゴリ―はその輝きを眺めたのち、ゆっくりと首を振り、深いため息をついた。
遠のく意識の中で、マイラは高波に転覆する小舟たち、悲鳴のような風、人々の叫び、倒れていく木々と赤黒い夜空に舞い上がる鳥たちの幻影を見た。
「例の娘が見つかりました」
黒い修道服姿の女に報告を受けた白髭の老人は、豪奢な天蓋付きのベッドで弱々しい声で尋ねた。
「信用できる情報か。どうやって、誰が捕らえた」
「グリゴリ―様です」
「あの部屋に、光の通路を通って入れたのか」
「そうです。今は眠っているとのことです」
「……そうか」
それだけ言って、老人は枕に頭を落とし、落ちくぼんだ目を閉じた。
「お会いになられますか。ある意味危険な相手ですが」
「私の命も結界も衰えつつある。グリゴリ―に任せよう。彼がそう決めたとしたなら、その時ここに連れてくるがよい。そう伝えよ。だが、なるべく早い方がいい。嵐が、……そしてそのあとを追って禍々しいものが、……来る」
何かに圧迫されるような気配でマイラは目覚めた。そして目覚めたことを悟られぬよう、薄目で部屋を見渡した。窓がないので朝か夜かもわからない。山羊のべべはいつの間にか与えられたらしい藁をベッドサイドで食んでいる。重いのは、この異様な空気だ。グリゴリ―と名乗った神父は、出逢った時の服装のまま、壁にはめこまれた四角いスクリーンに向かって語っている。いや、語りかけられている。
『グリゴリ―上校閣下の判断に任せると、……はおっしゃいました。ですがこの嵐を機に、敵国ダルーガが我が国に向けて、……の発射準備の最終段階にはいっているとの情報が』
スクリーンに映るのは、肩章のついたモスグリーンの軍服を着た男だ。その服装を見てマイラは戦慄した。あのとき、船からママとバインを引きずっていった男たちと似ている……
「わかった。全て任せてくれ。どんな兵器を向けられようとも、交渉には乗らないと伝えよ。そして大神官にはできるだけご心労をおかけしないように」
振り向くと、今や身分のよくわからない男とマイラの視線が合った。
「おはよう。食事をするか、まずは体をきれいにするか。どっちが先がいい」
いつの間にかマイラの服は乾いた白い寝間着に取り換えられていた。寝巻のすそは、金色の糸で刺繍された、円形を連続させたフラクタル図形で飾られていた。彼の背後のスクリーンには、倒壊した家々の外で途方に暮れる人々と、あちこちであがる火の手が映っていた。
「今、誰と話していたの」
「まとまった時間眠って、きみもいろんなことを頭に入れる準備はできただろう。だが、まずはせめてこれを食べなさい」
グリゴリ―が差し出した、陶器の皿に入った果物やハム、パンを見ると、マイラは首を横に振った。
「べべ」
呼ばれた子山羊はとことことベッドに歩み寄り、飛び上がると横たわって豊かな乳を見せた。マイラは抱き付いて、ざんばらに金髪を広げ、赤子のようにその甘い乳を飲んだ。
腕を組んだまま、グリゴリ―はじっと絵画のようなその光景を見ていた。
口元をふきながら振り向くと、マイラは言った。
「あなたは神父じゃない。さっき別の名前で呼ばれてた」
「そう、神官に仕える聖職者であり軍人でもある。そしてこの国、トルシアは今ダルーガという強大な隣国とその同盟国軍に戦争を仕掛けられている。地下鉱物と化石燃料と、豊かな穀物狙いだ。そして、大神官が国の行く先を決めるこの国のかたちをも否定し、彼らの同盟国となれと一方的に迫っている。大神官制度の廃止までもだ。無茶苦茶な理屈だ。だが正直、勝機はない」
そこまで言うと、グリゴリーは複雑な彫刻を施された木の椅子を引きずってきてベッドの横に逆向きに起き、背もたれに両腕を乗せてマイラの前でまたがるように座った。
「この国は代々、大神官によってつくられる強い結界と民衆の尽きぬ祈りによって、侵略を試みる国々からわが身を守ってきた。武器や兵器もあるにはあるが、神を持たぬ国のそれとは比べ物にならない。なぜなら大神官の力が強大だったからだ。だが今は違う。大神官は病に倒れ、御神託で決まる継ぎ手も現れない。人心は荒廃し、国は混乱に陥っている。そこにきみが現れた。きみは、きみ自身についてどれほど語れる」
マイラはべべを抱き寄せながら答えた。
「わたしは…… わたしはママから生まれて、黒山羊と白山羊とオレンジの木のある小さな家で育てられた。熱を出して、ある夜バインという黒山羊みたいな男がわたしとママを塀の上に逃がしてくれた。そして子山羊のべべと船の上で暮らしていたけど、ママとバインは」そこまで言うと、マイラは眼前の男を睨むようにして黙った。
「そのバインは黒山羊じゃない、たぶんその施設の見張り番だった男だ」
「……」
「きみの母親はもともと孤児院育ちだが、そこで原因不明の火事が起きて、それきり彼女は姿を消している。次に彼女が捕らえられたのは、きみがお腹にいたからだ」
「子どもができると、つかまるの?」
「ある特殊な事情でね」
「……」
「きみは熱病に苦しんでいたが、母子を引き離して専門の病院に連れて行くことをママが拒否したんだ。バインはきみのママに同情し、あるいは恋に落ち、壁を越えさせ、逃がそうとした。そして、きみたちの脱出を阻止しようとした女たちは、みな理由のわからない状態で焼け死んでいた。
ママもバインもたぶん人間だ。だがママは、おそらく少し違う。きみはたぶんもっと違う」マイラは懸命にかぶりを振った。
「わたしは、ただのママの子よ」
グリゴリ―は黙って立ち上がると、マイラに背を向けて椅子に座りなおした。そして自分の黒髪をかき上げ、首筋を見せた。
「近寄ってみてごらん」
恐る恐るマイラが近寄ると、その首筋には卍型の薄桃色の痣のようなものがぼんやりと見えた。
「わかるかい」
「……うん。へんな模様がある」
「じゃ、次はきみだ。こっちへおいで」
グリゴリ―は周囲に雪花石膏の野茨のレリーフのある等身大の鏡の前にマイラを連れて行って立たせると、右手に銀色の手鏡を持ち、埃で汚れた少女の金髪を持ち上げた。合わせ鏡に映し出されたマイラの首の後ろには、くっきりとした卍がばら色に浮き上がっていた。その鮮やかさは、グリゴリーのそれの比ではなかった。
「あ……」
「私と同じだろう。悪いが眠っているとき、見させてもらった」
マイラは振り向いて、グリゴリ―を凝視すると、言った。
「これはなに? あなたが、パパなの?」
「手紙の内容を教えてもらえるかい」
「パパなの? これは、何の模様?」
「この国の大神官となるべき資質を持った者、そうなるべきと神に示されたものにのみ、現れる御印だ。ここまではっきりしたものはここ百年ほど現れなかった。少なくとも資料で見る限りでは」
マイラは手品でもみせられたような表情で呆気にとられた。
「きみの身元の手掛かりとなる、パパへの手紙は山羊が食ってしまった。だが、大事なことを伝えよう。いいか。きみの持つ能力は、この国を救える規模のものだ」
「……」
「きみは一人で、大量破壊兵器をしのぐ能力、それも防御能力を持つ奇跡の存在ともいえる。きみは八歳の子どもなのに、国の内できみに危害を加えようとするものを跳ね飛ばし、あるいは丸焦げにできる。逆に言えば、国民全部ときみ自身と罪なき民、そしてべべ、みんなを助けられる能力を持っていると言っていい。
わかるか。きみは指さすだけで、相手が放ったボールや石を、相手に瞬時に投げ返せたね。ということは、きみとべべを攻撃しこの世から消し去る悪意や兵器があれば、それを、きみの細い指と意志ひとつで、相手に対して正確に投げ返せるということだ。
罪なき者を死傷させるなら悪魔の力だが、この国の民を守れるパワーであるならばそれは神の恩恵を得た聖なる力と言える」
地上の風に答えるように壁が鳴り、ベッドの四方の青い光の柱が明滅した。
「この国を救ってくれないか」
「あなたは、誰なの。ママを殺した側にいるなら、わたしの敵なだけ。パパなの。そうじゃないの。大神官って、どういう人なの。人じゃないの」困惑した声で、マイラは言った。
「大神官は世襲制ではない。その証が首に現れた者のみが、現大神官の前に立ち、じかに資格を認められる。誰とも交わらず、生涯を独身で過ごし神の声を聴き、超現実的な力を手に入れる。神のしるしを継ぐものが現れず戦や災厄に巻き込まれれば、この国は終わる。今が、まさにそのときだ。そう思われていた、国中が絶望していた」
「あなたにもあるわ」
「うっすらとね。しかし、これは大神官の血族のものにもたまに現れるものに過ぎない」
「血族……」
「例えば大神官とされたものにも親や兄弟はいる事だろう、甥や姪も。そう言った枝先に、たまに出る程度のものだ」
「じゃ、あなたは……」
「大神官と血のつながったものではある、薄いが御印も出ている。だから軍事的に高い地位にもついている。しかし、マイラ。きみの証は、私のものとは比べ物にならない」
「こんな、こんなの、バインが、描いたかもしれない」マイラは懸命に首を横に振った。
「そういう刺青のインチキをするうつけ者もいるが、大神官の御前では通らない。ばれれば首が飛ぶ。きみは私とともに、光の通路を通ったね」
「……うん」
「あの通路は、魔に近き者、悪心邪心の者は通れない。あの光で視力と正気を奪われてしまうんだ。ベッドの上の石の柱もそうだ。
きみは何人も人を傷つけ、あるいは殺めている。だが、通路を通ってこの部屋に来た。ベッドの四本の柱は光輝いた。あとは、直に大神官にお会いして、その首のしるしが誰かが描いたか彫ったものでないことが確認されれば」
「……」
「私はきみの前に膝をつき、忠誠を誓い、生涯そのしもべとなるだろう。尊き少女よ」
マイラは呆然と立ち尽くした。
ベベが心配そうにメへへへへと鳴いた。
マイラはぽろぽろと突然涙をこぼした。そして叫び始めた。
「何が何だか、わからない。わたしは、ママに会いたいだけ。わたしはまだ、ママの柔らかいおっぱいが恋しいの。それが戻ればほかはなにもいらない。わたしに、誰かの為に何かしろと言わないで。ママに会わせて。ママが死んでいるなら、あなたが殺したなら、わたしのことも殺して。できないなら、パパに会わせて。パパに抱きしめてもらって、ママのことを話して、パパの前で泣きたいの!」
「マイラ!」
鏡の装飾がパーンと割れて四散した。そして雪花石膏の野茨のレリーフひとつひとつが生きた野茨そのものになってあたりにゆっくりと飛び散った。マイラは金髪を揺らめかせてその場に仰向けに倒れ込んだ。その身の上に柔らかく白い花弁が降り注いだ。グリゴリ―がゆすっても、長い金の睫毛を閉じたまま少女の反応はなかった。そのとき、彼の背後でスクリーンが四角く壁に光を放った。金の鎖のついた帽子をかぶり、肩に勲章を幾つもつけた緑の軍服姿の男の苦渋に満ちた顔が大写しになった。
『グリゴリ―上校閣下。敵の連合軍より、最終兵器の発射準備が完了したと報告が入りました。こちらの首都に向けてあと一時間で秒読みに入る模様です』
グリゴリ―は振り向くと光の前に立ち、はっきりと言った。
「発射を中止するどんな条件も呑むな。大神官の御前に参内する。例の少女をお連れする、あとはこちらからの指示を待て」
『はっ。国民には……』
「何も知らせるな、知らせても無駄だ」
グリゴリ―は手をかざしてスクリーンの光を消すと、背を屈め直にその両手にマイラを抱き上げた。薄汚れていた服と金髪が、その身に散った野茨で清められたように光り輝いていた。
「……どうか、天の意を継いでくれ。頼む」
天井を仰いで、グリゴリ―は呟いた。その足元で、べべがマイラの金の髪の先で高い声で鳴いた。
高い高い天井に届かんとするような天蓋付きのベッドは杉で作られていた。四方に据え付けられた鈴が、突然凛凛と鳴り響いた。ベッドに垂れるのは濃紺の地に木苺、羅漢果、それに群がる小鳥や孔雀が描かれた豪奢な刺繍の布、その下に繊細なレース布。内部には落ちくぼんだ目の、三角の帽子をかぶった老人が身を横たえており、両脇では乳香と没薬が入った振り香炉を持つ二人の副神官が椅子に座っていた。
「来たか」ベッドの中の老人はしわがれ声で言った。
老人のちょうど頭上に下げられた、細かい彫り物の施された象牙のランプの中で、青い石がふわりと光り輝いた。
「お前らは下がりおれ。次の間で待て」
「おそれながらネオキス大神官様、これからお会いになる相手には火の使い手である母親の力も備わっているというお噂もございます。御身ひとつでお会いになるには」
「力強い。国を焼き尽くす兵器が数限りなく飛んでくるという現状に、一体ほかのどのどんな力なき聖女が立ち向かえよう」
二人の老神官は腰を折ってそのまま後ろに下がり、香炉を椅子の上に置き、背後の小さなドアから退出した。
「入れ、グリゴリ―」
そのかすれ声と同時に、ベッドの正面にある鉄の鋲のはめ込まれた両開きの重々しいドアが静かに開いた。全面に羽を広げた孔雀の彫刻が施された華やかなドアだった。そして、僧服の上に濃紺の天鵞絨のマントを羽織ったグリゴリ―が入室してきた。その手に横たわる少女は白い彫像のように光り輝き、金髪は清い流れのように両手の間を流れ、足元には重い乳を持った子山羊がいた。
大神官はかすかな声を上げて半身を起こした。グリゴリーは重々しく言った。
「この大事な時に至り、意識がありませぬ」
「そして時間もない。かまわぬ、わたしの上に置け」
「大神官様の御上に、直に、ですか」
「そうだ」
躊躇しながらグリゴリーがベッドのカーテンをくぐり、手の中のマイラを大神官の膝の上に横たえると、大神官は半身を起こした。頭上のランプはきらきらと瞬くように光輝いた。それはまるでベッドの内部全体を真昼にするようだった。首を垂れ、少女の細首を持ち、大神官は自らの骨ばった手で少女の顔を傾け、その首筋を見た。そして、小さく首を振ると、口の中で呟いた。
「おお、……おお」
そしてその皺だらけの唇で卍のしるしにくちづけた。
マイラはぱちりと目を開けた。すみれ色の宝石のように、その瞳は深く優しく輝いて、大神官の灰色の目を捕えた。
大神官はしわがれ声で言った。
「迷える少女よ、私は何もかも知る身だ。お前の知りたいことを何でも聞くがよい」
優しく深い口調だった。マイラはしばらくその目を見たまま黙っていたが、やがてゆっくりと紅薔薇のような唇を開いた。グリゴリ―の耳にしたことのない、まるで大人のような声だった。
「森の木々のように黙って立っていても、雨にぬれても雪をかぶってもひとりで生きられるようになるには、どうしたらいいのか。その質問への答えを、どうかあなたの口からあなたの娘に伝えてください。名前は、マイラ。わたしと同じ菫色の瞳の娘です。わたしはこの世界の中を生きのびることはできないでしょう、でもこの子には生きてほしいのです。娘があなたに会えますように」
大神官はマイラの体を抱きしめた。
「ようやく、……ようやく、私の罪と逢えた」
マイラは問いの答えをせかすでもなく、ただ大人しく抱かれていた。大神官は言った。
「物事に対する疑問や不満、思いを捨て、何もかも自分のうちにしまうがよい。木々は惑わない、だから長く生きる。そして清い空気を吐き出し続ける。たとえ木こりに切られても、それはそういうときが来たと受け取めるだけだ」
グリゴリ―は絶句したまま二人のやり取りをただ見ていた。部屋にはヒマラヤスギの香りが満ちた。
身を離すと、臆することなく大神官の目を見て、マイラは言った。
「ママという木は、黙って切られたわ。この国の木こりたちに」
大神官はゆっくりと答えた。
「そうして、おまえが生えた」
「パパ」
「新たなる大神官よ」
大神官はかぶっていた三角の帽子を脱いだ。その帽子は円を繋げたフラクタル図形の金の刺繍で輝いていた。
「なぜママを殺さなければならなかったの。あなたがパパなら、三人で生きたかったわ」
「わたしがしたことは、女人とつながることを禁じられた身にあって、それ自体が許されぬ罪であった。だが今やトルシアを守れるのは、マイラ大神官しかいない、神がそう示された。山羊の代わりに、わたしが生贄となろう。罪を背負い永遠の野に放たれよう。家族三人で、四人で、大家族で、家畜とともに明日も明後日も普通に幸福に生きたい、そう願うこの国の罪なき衆生をどうかその手で救ってくれ。今、結界が作れるのはマイラ、そなたのその指だけだ」
大神官がマイラに三角帽子を渡すと、マイラはごく自然にそれを後ろに放り投げた。光り輝く少女はゆっくりとベッドを降りると、グリゴリ―に歩み寄り、その横に立った。
そして静かに指を上げ、こちらを見つめる老大神官をゆっくりと指差した。グリゴリ―は叫んで腕に取りついた。
「思いとどまってください! どうか、それだけは」
「あなたがパパならよかったのに」
マイラが呟いたとき、大神官室の壁のスクリーンがかっと光り、例の将軍服の男が叫んだ。
『緊急連絡です。今例の兵器が首都めがけて発射されました。到達まで10分です!』
そして画面には、天を切り裂いて飛ぶ長い塊が映った。大神官は静かに答えた。
「祈りおれ」
手で払うようにすると、スクリーンは消えた。
マイラの指はしばらくネオキス大神官の灰色の目を指していたが、その老体には何の変化も起きなかった。
「覚醒せよ」
老人の威厳をたたえた声が広い室内に反響した。灰色の視線とすみれ色の視線が、中空に不思議な渦を巻くようだった。やがてマイラの指先は大神官の顔を通り過ぎ、そのままゆっくりと上を向き、やがてまっすぐ天井を指した。町中にサイレンの音が響き渡るのが天井から聞こえた。鳥たちが一斉に森から飛び立ち、人々のどよめきが風のうなりとなって空間を鳴らした。
それから、しばらくの間。
トルシアの国では、最後の時を覚悟したように、人々はそれぞれの家の中で、家族同士固く抱き合った。恋人たちは石のようになって互いの愛のうちに溶け込もうとした。だが、10分たち20分たっても、何も起こらなかった。ただある瞬間、地と空を伝わる無気味な振動が国中を揺らし、悲鳴のような声を上げて数限りない鳥が隣国から渡ってきた。空は周囲からゆっくりと赤黒く染まり、鳥の叫び声をバックについには空全体を禍々しい朱色に染めた。
その少し前、勝ち誇り、祭りの準備に入っていたダルーガの人々は、頭上に向けて迫る兵器を各家庭の受信映像で見た。それは自分たちが敵国に向けて打ち上げたはずのものだった。そんなバカな、そんなはずはないと言いあっているうち町中にサイレンが鳴り響いた。ちょうど首都の真上で起爆スイッチが自動で入り、際限なきレベルの爆発が起きた。逃げ場を与えない熱波と衝撃派が国中を覆い、あっという間に生き物という生き物が熱風に飛ばされ炎に包まれ地に焼け溶けた。長年かけて建てた教会、築いた文化、罪なき赤子、生まれたての動物たち、畑に湖、そこに棲むものすべての命が一瞬にして絶たれた。
その後、連合国がトルシアに向けて発射したいくつかの超大型兵器も、その国々に向けて忠実に戻っていった。そして起きたことは、みな同じだった。発射を命令したものも、政治に関心なく山で羊を飼っていたものも、そのすべては瞬時に焼き尽くされ、その結果はやがてトルシアの国の電波を通じて国民の知るところとなった。誰よりも先に、マイラとグリゴリ―の眼前に、その光景がスクリーンを通じて広がった。
母が昔、父親の言葉として聞いたこと、望んでいた世界と、どれだけかけ離れてた光景だったことか。
「罪深い」マイラは震えながら呟いた。「わたしがこの光景を作った」
グリゴリ―は答えた。
「どこが罪でしょうか。彼らが作った兵器が彼らのもとに返っただけです。あなたは尊い。もしあなたの御手がなければ、この悲劇は罪なき我が民のものとなっていたでしょう。あなたはあなたの国をお守りになったのです」」
「もしわたしがいなければ、さっきまで生きていた、炎の下の命はみな死なずに済んだわ。苦しみながらお産をしていた猫もいたはず。ママ山羊のお乳をつついていた子山羊もいたはず」
「我々は大量殺戮兵器など作らなかった。敵国がわが国を滅ぼすために作った兵器が作り手のもとに戻ったのです」
「あなたが捕らえたのが、そのすべてに勝る、このわたしという兵器です。わたしはどこでどのように使われることになるのか、自分で自分を守る方法がわからない」
「ただ国を守ってくださればそれでよいのです、攻撃は望みません」
「わたし自身を最高の兵器として、あるいは怨みから、奪いに来るものもあるでしょう、外の国から。あるいは国の中でも。それはそれとして争いを生みます」
互いの価値観の違いのため、話は平行線になった。だが考えてみれば、マイラの最後に言ったことは大いにあり得る問題だった。グリゴリ―はマイラの聡明さに畏敬を感じ、その眼前に跪いた。
「貴女様の魂が傷ついたのは限りなき優しさをお持ちだからこそです。私、グリゴリ―・ドーセットはこの国の責任者として、あらん限りの感謝を貴女様とその尊い御心に捧げます。そして国を挙げて貴女様をお守りします。母上の能力あってのことであれば、母上キアナ様の名誉も回復されましょう、国母として」
マイラはグリゴリ―を見下ろしながら、静かな声で言った。。
「わたしはね。あなたの命と、べべのお乳を守りたかったの。パパに会って、抱きしめてほしかったの。望んだのは、それだけ。あなたは、わたしになにかあれば、大神官になるの。あなただけが、その義務と資格のある人よ。わたしは最後まで、自由でいたい。隔離されて、ママを殺した国の守り神になんてならない」
グリゴリ―は絶句した。
マイラはベッドに歩み寄り、今や倒れ伏して虫の息の大神官に抱き着いた。
「パパ。聞こえてる? トルシアはわたしが守ったわ」
大神官はうっすらと瞳を開けた。
「自分のしたことが怖いの。わたしを抱きしめて」
震える枯枝のような手で、ネオキス大神官は娘、マイラを抱きしめた。全身からヒマラヤスギの香りが匂い立った。
「よくやった、よくやってくれた。何一つ恐れることはない、神の子よ」
「ママのことを聞かせて。わたしのママを愛していた?」
「美しい、すみれ色の瞳だった。お前のように。地平の果てまで続く花畑が見え渡せる目をしていた。柔らかい肌だった、かぐわしい息だった」かすれ声で大神官は言った。
「柔らかで、優しいお乳だった?」
「ああ、そうだ。優しく甘い香りで、あたたかかった。わたしは孤独で、愚かで、その温もりに縋った」
マイラは答えた。
「わたしもよ。わたしもママが大好き。ママのお乳で、わたしは育った。でももう、いない。わたしのすることも、あなたのすることも、もう、ないの」
ぽっと、大神官の体に火がともった。青い透き通った、美しい炎だった。透明なまま、それは老大神官の全身を覆った。離れなさい、と大神官が静かに言った気がする。マイラは離れず、ますますひしと抱き着いた。やがてマイラの身にもごく自然に炎が燃え移った。
グリゴリ―の叫び声が遠い世界のもののようにマイラの耳に聞こえた。何人かの足音が響き、水だ水だという叫びと、むなしく浴びせられる液体の感触があった。
ああ、火が付いているのに、熱くはない。わたしが燃やした人々もこうだったのだろうか。そうならいいのに。まるで形を定めないゆらめく結晶の中に入ったようだ。瞳の前で、ネオキス大神官が溶けてゆく。ベッドの柱が崩れてゆく。老人の額からは角が生え、山羊のような悲鳴が上がった。荒れ野のアザゼル、という言葉が、燃え逝くマイラの脳裏に一瞬浮かんだ。すべてを光が飲み込んでゆく。なんという色だろう。これこそはまさに、あのベッドの四隅に立っていた四本の柱、あるいは廊下の壁を作っていた、あの自然発光石の輝きと同じだ。部屋の中に巻き起こったつむじ風は高い天蓋付きの寝台をぐるぐると巻き上げ、やがて滝が逆流するように天井に向かってすべてのものを吸い上げ、やがて幻のように老大神官とマイラ、二人の痕跡全てを消し去った。
高い天井に穴をあけて吸い出されていった青い「逆流する滝」は、無気味な赤黒い空、鳥たちが悲鳴を上げながら迷い旋回する空の高みへ一直線に上り、やがて赤い雲を貫いて、ゆっくりゆっくりと、その周辺に元の空の穏やかな色を、渦を巻きながら取り戻していった。
かつて大神官の部屋だった空間には、懸命にお付きのものや副神官、修道女がぶちまけ続けた水が床に湖のように満ち、茫然とグリゴリーがその中に片膝をついていた。あとのものは、大穴の開いた屋根のはるか高みに広がる、見たことのない青い渦巻をぽかんと見上げていた。
全身をぐっしょり濡らした子羊のべべが金の帽子を咥えてゆっくりとグリゴリーに歩み寄り、その濡れた黒髪の上にフラクタルの刺繍の三角帽子をちょこんと乗せた。
途端、グリゴリ―の耳に、歌のように少女の声が聞こえた。
人々が飢えても、べべがいるわ。
ベベのお乳は無限の慈悲のように沸くでしょう。どれだけ絞っても、終わりなく噴き出るでしょう。食料を求めて並ぶ人々ののどを潤し、命を与えるでしょう。それがどこからの難民でも。
これがママからもらった愛、わたしが失い、わたしにとって一番大事だったもの。
生き残ったいのちに、祝福を。
それがわたしの願いです。




