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乳房  作者: pinkmint
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前編


 キアナ・アルキニーは孤児だった。

 

 初潮を迎える前からすでに誰もが振り向くほど美しく、底のないようなすみれ色の瞳と肉厚の唇と金色の髪と、釣り鐘型の柔らかな乳房を持っていた。そして周りの少女たちの半分ぐらいしか、使える言葉を持たなかった。

 施設のシスターたちは同情のまなざしを注ぎながら、この子は外へ出ても男たちの慰み者になるだけだろうと囁き合っていた。慰み者―「娼婦」の呼称として「バード」という隠語を使っていたので、シスターの囁きを聞きながら、自分はいずれ鳥になるのだろうとキアナは思っていた。

 クリスマスの夜、キアナの運んでいた燭台のろうそくが油でも注いだように急に高く燃え上がった。彼女は不意をうたれたように目を大きくひらき、足をとめた。炎は瞬く間にカーテンに移り、あたりは不思議なほどの速さで火の海になった。いくつもの悲鳴を聞きながら炎や煙から逃れているうち、いつの間にかキアナは孤児院の外にいた。

 

 そうして翌日から、うちにおいで、と誘ってくれる男から男へと渡り歩き始めた。

 

 みな自分に対して同じことをする、そして金や食べ物を手渡してくれる。男たちは自分を食べているのだとキアナは思った。それでも、自分の体が減ってゆかないのは不思議だった。  

 

 あるとき、森の中でブラックベリーを摘んでいると、何だかヒマラヤスギのように尊大な男に出逢った。その容姿の記憶はあいまいで、あとから誰に聞かれても、ヒマラヤスギのような男、としかキアナは表現できなかった。あるいは本物のヒマラヤ杉だったのかもしれない。キアナは十五歳だった。

「森の木々のように黙って立っていても、雨にぬれても雪をかぶってもひとりで生きられるようになるには、どうしたらいいの?」

 キアナは無邪気に聞いた。男は頭上から答えた。


「物事に対する疑問や不満、思いを捨て、何もかも自分のうちにしまうがよい。木々は惑わない、だから長く生きる。そして清い空気を吐き出し続ける。たとえ木こりに切られても、それはそういうときが来たと受け取めるだけだ」

 

 ヒマラヤスギの男に抱かれる彼女の頭上には、手の届かない無言の半月がぽかりと出ているばかりだった。

 

 やがて腹がふくらんできた。なにが起きたのかはおぼろに分かったが、相談する相手はいなかった。酒場の女たちに哀れまれてひと晩の宿や食べ物を与えられることはあったが、自分の行く先は全く見えなかった。

 あるとき、キアナが裏街を歩いていると、すぐそばに一台のジープが停まった。そして陰気な顔の、緑色の軍服を身につけた男たちに腕をとられてキアナはジープに押し込められた。それと同時に目隠しをされたが、キアナは抵抗しなかった。  

 車から降ろされ、両手をとられて右へ左へとなにやらひんやりした建物の中を歩かされ、やがて目隠しを外されたキアナが見た光景は、石造りの壁に囲まれた小さな部屋だった。

 壁際には小さいが清潔なベッドがあり、ベッドの上には粗末な棚があって、聖書と四角い鏡があった。小さなドアの向こうはトイレで、水も出るようになっているしシャワーもある。そして観音開きの鎧戸を開けると、狭い中庭に出られるようになっていた。中庭は高い堅牢な壁に囲まれた井戸の底のようで、四角く切り取られた空がはるか頭上に見えた。中庭の中央には一本のオレンジの木が生えていて、反対側の納屋には黒い山羊と白い山羊とつがいの鶏が飼われていた。

 以前いた施設とは違う、なにかもっと絶望と終末に近い場所、さらに完全に閉じられてはいるが安全な空間だという事だけをキアナは感じた。


 外に出ることは許されなかったが、不自由なく生きていけるだけの食べ物と衣服とは与えられた。それがどんな場所であろうと、置かれた場に根を降ろし素直に花を開かせるキアナだった。キアナは高い壁の内側で悲鳴を上げながら女の赤子を生み、あふれんばかりの乳を与え続けた。マイラと名付けた赤子は母の白い腕の中でぬくぬくと眠り、まるまると太った。

 キアナは娘にあまり言葉を伝えず、ただ乳と微笑と歌とを与え続けた。惑わぬ木々のように育つように、何の不幸も感じないように、その思いが祈りのようにいつも心にあった。

 生まれて七年の間、娘のマイラは狭い中庭から、四角く切り取られた青空ばかりを見て暮らした。早朝、鶏が卵を産むと、拾いに行くのはマイラの仕事だった。中庭のオレンジの木にはたくさんの鳥が来て実をついばんだ。そうして甲高い声で鳴きかわし、つがいになると巣を木にかけた。

 ピーピージュリジュリ、チュインチュイン。

 母親のキアナは鳥の声をまねるのがうまかった。その声にうっとりと聞き惚れながら、マイラもまねて鳴いた。

 ピーピー、チュインチュイン、ツチーツチー。

 すると鳥たちは低い枝に下りてきて、人間の鳴き声に不思議そうに耳を傾けるのだった。マイラは木の枝を登り、オレンジをかじりながら鳥たちと鳴き交わした。

 時折鴉たちがオレンジの実を狙ってくることもあったが、キアナとマイラはむしろパンやバナナも食べやすく切って皿においてやった。すると鴉たちは、お礼にとばかり、どこかで拾ったビー玉やハムのかけら、クルミの実などをしょっちゅうその皿に落としていってくれるのだった。

 

 納屋で飼われていた山羊は白が雌で、黒が雄だった。白い雌山羊はときおり子山羊を出産した。すると黒い服を着た大女がどこからかやってきて、子山羊を連れ去ってしまう。すると母山羊の乳房がパンパンに膨らむ。朝はいつも母が白山羊の乳を絞ってマイラに飲ませてくれた。だがマイラが母親の真似をして白山羊の乳を絞ろうとすると、山羊は迷惑そうに「メヘヘヘヘヘ」と大声で鳴いて後足で蹴ろうとした。

 黒山羊は活発で、坂道や立てかけられた板に木、登れるものは何でも登ろうとする癖があった。瞳孔が横向きに閉じる目を見ながら、マイラは、横向きに切り取られた山羊の目の向こうの世界にいる自分と自分の住む世界との距離を思い描いてはるかな気分になった。


 そのうち、空の高みをごうごうと鳴らしながら時折「鳥のカタチに似た飛ぶ機械」が通りすぎるようになった。

 それは一機のこともあれば、編隊を組んでいることもあった。空気をぶるぶると震わせながら大編隊が通ると、マイラは室内に駆け込んで両手で耳をふさいだ。鳥と似ているのに、彼らの歌は邪悪だった。その轟音は魂ごとマイラを破壊しにかかるようだった。するとその上から母親のキアナが、覆いかぶさるようにして娘を抱きしめた。頬にあたる母親のふくよかな胸の重みは、どんな言葉よりもマイラを安心させた。

 飛行機が通り過ぎた後は、街のあちこちにあるスピーカーから、老人の声で祈りの言葉が重々しく町中に響いた。キアナが閉じ込められている施設に従事する誰もが、その声を聞くたびに地にひれ伏して同じ言葉を繰り返した。彼女らの目のある限り、マイラは祈るふりをしたが、誰にも見られていない時は山羊に言葉を教えたり木にのぼって鴉と遊んだりしていた。


 ある日の朝、マイラは自分の体が火のように熱いのを感じた。添い寝していた母親は体を起こすと、娘の額に手を当て、小さく声を上げた。そして部屋にある呼び鈴のひもを引っ張ると、ときどき母子の様子を見に来るあの大女が顔を出した。大女はマイラの熱を測り、マイラの額に冷たいタオルを当て、錠剤をいくつか渡すと、去っていった。

 母親に錠剤をのまされても、マイラの熱は下がらなかった。母親はふくよかな胸をはだけ、釣り鐘型の乳房に娘の頬を当てて抱きしめた。自分の体が熱っぽいときの母の肌は柔く冷たく、日陰の大理石のようだった。

 夢の中で、マイラは地を揺るがすような爆発音を幾つか聞いた。それははるか遠くで何かが破壊され、闇に散り、あるいは炎に包まれて滅びていく光景となってマイラの脳裏に広がった。 

 

 熱にあおられて浮かぶ涙の向こうで、ある夜マイラは白い服を着た男が母と相対して何事かを語っているのを見た。母は泣いているようだった。そして何度も何度も頭を横に振った。

 

 日に日に、空気の匂いが変わっていった。焦げ臭いにおいがかすかに風に乗ってあたりに立ち込め、地面を揺らして何か重々しい地響き音が次々に塀の外を通過していく。

 病を得て一週間目目の夜、幾分熱の下がったマイラは母親の手によって揺すぶり起こされた。すみれ色の瞳を開けると、眼前に、マイラと同じすみれ色の瞳が闇夜の宝石のように光りながらまっすぐこちらを見ていた。

「逃げるのよ」

 母親の強い意志は直にマイラの中に流れ込んできた。キアナは娘の体の汗をタオルで拭くと、灰色のすとんとしたワンピースにマイラを着替えさせ、ふらふらする体を無理やりに石造りの床に立たせた。

 その夜も巨大な鳥の編隊はごうごうと夜空を突き進んでいた。羽の灯りをきらめかせながらむら雲に出入りする編隊の周囲は虹色に光り、砕いた月を夜空にばらまいたようだった。

 母に手を取られて中庭を走り抜けると、いつの間にか縄梯子が中庭を囲む塀から庭に下ろされていた。縄梯子の下の方は、横に渡した縄がなく、ブランコのように板がくくりつけられていた。母親はマイラに言った。

「乗るの。いい? しっかり綱につかまって」

 こんなにきつい口調で母親に話しかけられるのは初めてだった。鳥の声以外で自分に語り掛けること自体滅多にない人だったのに。肩を押されてひとりで板に座り、左右の縄を両手でつかんだ。マイラの乗った縄ブランコはゆっくりと上昇していった。

 幅の広い塀の上に届いてみると、自分たちがいた場所がはるか下に見えた。塀の上の有刺鉄線は二メートルほどの幅で切り取られていた。塀の上でマイラを抱きとめた人間は髭面の毛むくじゃらな男で、表情は分からない。そのまま自分の肩にマイラを抱き上げ、頭にしがみつくように手で指示してきた。マイラはもしゃもしゃの頭に両手でしがみついた。頭からは、納屋にいた黒山羊と同じにおいがしたので、ああ、最近姿を見ないあの黒山羊が自分を助けてくれたのかとマイラはごく自然に思った。

 次に母親が縄ブランコに座ると、男は縄を掴み支えながらブツブツと何事かを口の中でつぶやき続けた。そのとき、館の勝手口に灯りがつき、懐中電灯を手にしたあの大女が走り出て来るのが見えた。マイラは思わず口の中で叫び声を上げた。母親は自分自身の身長の高さぐらいまで上がっていた。大女はもの凄い速さでロープの下に到着し、渾身の力で母の足をつかんで引き下ろそうとした。髭もじゃの男は唸り声を上げながら縄梯子を引き上げたが、母の体重と重力と大女の怪力相手に、力もつきかけ、母親と縄梯子はズルズルと下がっていった。板が外れ、母が掴んでいた縄から手を離しかけた途端、怒りに燃えるおさないマイラの瞳の先で、大女の黒い衣服にいきなり火がついた。火は紫色と青色を混ぜたような色合いで、女の黒い服はわらわらと軽く燃え上がった。女は縄梯子から手を離した。そうしてまるでダンスを踊るようにぐるぐるとまわり、悲鳴も上げずに仰向けに倒れた。体の周囲で蒼いスカートの朝顔がめらめらと透き通った花弁を開いた。

 男はすごい勢いで母ごと縄を引き上げた。そしててっぺんに到達したとき、邸内からキアナの名を呼ぶ鋭い叫び声がいくつも上がった。呼び声の主はみな大女と同じ黒い服を着ていて、大女に水をかけ、武器のようなものを取り出してこちらに向けた。が、どこからともなく現れた鴉の群れが彼女たちの頭に絡みつき、同時に彼女らの服にあっという間に青い炎が燃え上がった。女たちは独楽のように炎から逃れようと地面の上でぐるぐると回った。みな同じ朝顔の蒼い花になっていっときひらひらと美しく咲いたのち、黒くしぼんだ。

 その間の女たちの叫び声を、マイラは忘れられなかった。

「火の女」「やはりそうだった」「使い魔」「もっと……ておけば」「あの娘の血は……」

 あとは意味がわからなかった。

 母親は塀にまたがったまま、無言の娘を抱きしめて頬にキスをした。男は二人を抱え、塀の外を見下ろした。マイラは眼下に、黒い長い水の帯が塀を取り囲んでいるのを見た。その向こうにちらほらと、星屑のような光が地上にともっている。光の絶えたあたりに山影が見えた。初めて見る、外の世界だった。視界の果てのその向こうにも、世界が続いている。山の向こうでは何かが激しく燃えている。マイラはおそろしさに、母親にしがみついた。

 男は二人を両腕に抱きかかえ、塀の上から運河に身を躍らせた。

 バーンという水面の衝撃音と、体を包む暗い水。水中に沈みゆく男の腕の中でマイラは身をよじらせ、自分の口から際限なく出ていく暗い色の泡を見て、そのまま意識を失った。


 朦朧としながらも世界を取り戻した時、マイラは全身が揺れていることに気づいた。

 あたりは薄暗く、泥と生魚を混ぜたような臭いがした。ガラス製の浮きボールや釣竿や網がごちゃごちゃと重なる横に藁が敷かれ、自分はその上に寝かされていた。小さな丸窓から夕暮れの運河が見える。自分がいるのはあの運河に浮かぶ小船の底の小さな部屋だった。そして体は、再び火のような熱さで燃えるようだった。病もいえないうちから水に長時間浸かったので、また熱がぶり返したのだ。体の上には、埃臭い毛布がかけられていた。

 マイラの隣に、母親のキアナがいた。服をまとわず全裸のままだった。そういう時はたいてい、マイラの熱と苦しきを慰めるために乳房を顔に押し付けてくれていたものだが、その時乳房に顔をうずめていたのは、あの黒山羊男のほうだった。

 ふたたび丸い小さな窓の外を見れば、無数の貧民船が停留してあり、みなそれぞれに魚を釣ったり果物をむいたり、ゴミをなげ捨てたりしていた。

 ともかく、自分はあそこから出たのだ。そしておそらく、ここで三人で生きるのだ。マイラに分かったのはそれだけだった。

 熱は日によって上がったり下がったりを繰り返したが、明滅する意識の中、首の後ろが時折激しく痛んだ。そしてなぜか痛むたび、熱は下がっていった。

 小船は陰気なエンジン音をたてながら、無数のボロ船の間を縫ってどこへともなく進み続けた。船の甲板に顔を出すのは厳しく禁じられていたので、丸窓から外を見るしかなかったが、小さな窓から、ひっきりなしに鉄の鳥が空を飛んでいるのが見えた。そして時折はるか遠くで、どーんどおおおんという炸裂音が続いた。

 小船の船室で、黒山羊男と母親は、時々抱き合い、キスをかわし、網を繕い、魚をさばきながら、ぼそぼそと会話を交わしていた。

 母は男を「バイン」と呼んでいた。

「バイン、このまま海に出たらどうなるの? 外の国に行ける?」

「この小船では遭難して終わりだ」

「戦いのない国に逃げることはできないの」

「勝ち目のない戦争だ、いずれこの国が負けを認めるまでには何万もの死人が必要だろう。その中に含まれなければ生き延びられる」

 母親とバインの会話は当初こそ知らない単語が多く、意味をなさない音節に過ぎなかったが、聞いているうちにマイラは自然に内容がわかるようになっていった。

「問題は、この子を連れてどこまでわれわれが生きおおせるかだ」バインは言った。

「わたしが言う事を、手紙に書いて。わたしは字は書けないけれど、あなたは書けるでしょう」

 山羊に手紙が書けるのか。それとも、バインはただの人間の男なのか。マイラは意味もなくただ失望した。

「誰宛の手紙だ」

「この子の父親よ」

「名前と住所がわかっているのか」

「両方ともわからない。でもいつか会える気がする、その時のためよ」

 男は首をかしげながら、羽ペンを取り出した。キアナは囁くようにこう言った。


「森の木々のように黙って立っていても、雨にぬれても雪をかぶってもひとりで生きられるようになるには、どうしたらいいのか。その質問への答えを、どうかあなたの口からあなたの娘に伝えてください。名前は、マイラ。わたしと同じ菫色の瞳の娘です。わたしはこの世界の中を生きのびることはできないでしょう、でもこの子には生きてほしいのです。娘があなたに会えますように、そうして抱きしめてもらえますように」

 マイラは全神経を集中させてその言葉を頭に刻み込んだ。


 ある夜、船を停留させて街で食料を仕入れてきたバインは、白と黒のまだら模様の小さな動物をその両腕にに抱いていた。子山羊だ。マイラは目を輝かせ、両手を差し伸べた。

「話し相手がいないと寂しいだろう。この子はお前が育てるんだ、おまえがこの子の母親になるんだ」

 黒と白のまだら模様の子山羊。それはどう見ても、母とバインの間にできた子だとしかマイラには思えなかった。抱きしめるとどこまでも自分の指が沈んでいくふわふわとした巻き毛は、何よりも優しさという言葉がぴったりだった。

「もう乳離れしているから何でも食うぞ」

 マイラは山羊にべべと名付けた。べべはまず、マイラの掌からぺちゃぺちゃと舐め始めた。そして藁でも残飯でもなんでも食べ、マイラの体に包まれるようにして眠った。時折、マイラの髪の毛をおもちゃにしながら。

 ある夜、これまで見たことないほどの空飛ぶ大編隊が夜空をごうごうと鳴らし、地上からのサーチライトに照らし出されながら、街々にいくつもの赤い光を落としていった。落とされた周辺は、見る間に光の海になって燃え上がった。

 その夜、母もバインも街に出て留守だった。どうか無事で帰ってきますように。マイラはベベを抱きしめて船の底でひたすら祈った。

 深夜、待ち望んでいた二人の足音が聞こえると同時に、怒声がいくつもそのあとを追いかけてきた。マイラはべべを抱いたまま、エンジンルーム横の木箱に身を隠した。

「お前の名はキアナ、そうだな。娘はどこにいる」知らない男の声だった。

「いないわ。あなたたちがくるとわかって他人の船に預けたの。今頃は海よ」母の叫び声に続けてバインの怒声が聞こえ、続けて銃撃音が続いた。

 マイラはできるだけ身を縮めて、ベベを抱きしめて震えるしかなかった。

 やがて、血まみれになった二人がずた袋のように引きずられていくのを、マイラは船の窓から見た。

 マイラは歯を食いしばった。乱暴な足音がいくつか船に乗り込み、しばらく船室のあちこちでバタバタと響いていたが、「川を探せ! 海に至るまでの全ての船を探すんだ」という怒鳴り声とともにやがて船を出て行った。

 揺れが収まったころ、マイラはいつの間にか手の中に握りしめていた白い紙を見た。

「大事に持っているのよ」そうひとこと言って、自分に渡したあの手紙。なにが書いてあるのかは、母キアナの声で頭に入っていた。いずれこの船もまた荒探しされる、そして自分も見つけられ同じ目に遭わされるのだ。そう思ったマイラは手紙をたたんで麻の袋にしまい、ついでにべべも突っ込んで、袋ごと背に背負うと、ひと気のなくなったころを見計らって船から桟橋に飛び移り、知らない石造りの街の夜道を走った。

 

 キアナ、わたしのおかあさん、わたしにいのちと愛とお乳を与えてくれた大好きな人。

 

 バイン、わたしをあの場から連れ出し、母と自分を愛し養い、べべを与えてくれた人。

 

 さようなら。

 

 二人とも、何かの力に殺された。自分のわからない事情で。マイラはそれだけを心に刻んだ。そして心を凍らせたまま、べべとともにどこともわからぬ下町を彷徨い歩いた。

 お金はどうやったら手に入るのか。

 どうやったら生きていけるのか。

 マイラには何もわからなかった。わかっているのは、十日前に、木の実と干したイチジクの入った美味しいパンで誕生日のお祝いをして自分が八歳になったこと、祝ってくれた人が二人とも死んだこと、なぜか自分の居所を知りたがっているおとなが沢山いること、この国が負け戦をしているということだけだ。

 街にはいくつもの鐘楼が立ち、空襲の前と後に、からんからーんと陰気な音を鳴らした。人びとは教会に集まり、むなしく祈りをささげた。マイラはうつむいたままその前を通り過ぎ、落ちているもの、なっているオレンジや木苺、あと各所のゴミあさりをして一日一日を生き延びた。

 怒りも怖れも悲しみも、口を開かない貝のようにマイラの中にしまい込まれ、見知らぬ毒素を吐き出しながら育っていった。


 ある日、べべを抱いて子どもたちが遊んでいる広場を通ると、ボール蹴りをしている男の子の集団の一人がマイラと、麻のリュックから顔を出しているべべに目を付けた。

「何もってるんだよ。お前の食料か」

「育てて食うつもりか」

 無視していこうとすると、一番体の大きな少年が両手を広げて前に立ちふさがった。

「きったねえガキだな、でも目の色が珍しいや。すみれ色だ」

「その山羊おいてけよ」


「どけ!」


 マイラは自分でもびっくりするような大声で言った。緩くウェーブのかかった金髪、宝石のような瞳、汚れてはいるが人形のように整った顔立ちの娘の口から出た怒声に、悪ガキたちは一瞬ひるんだが、足元のサッカーボールを手に持つと大柄なガキ大将が声を荒げた。

「乞食のくせに生意気なガキだな。こいつをよけられたら通してやるよ」

 マイラはべべの入った袋を地面に下ろした。

 そして少年の顔を黙って指差した。

 少年はマイラの顔の正面に向けて力一杯ボールを投げつけたが、ぱん、と激しい音がしたと思うと、少年の顔をボールが直撃していた。鼻血をふいて、少年は仰向けに倒れた。なにが起きたのかわかるものはいなかった。投げたボールはマイラにあたる前に瞬時に倍の勢いで少年の顔に向けて戻ってきたのだ。

「な、なんだこいつ」

「化け物か、魔女か」

「やっちまえ」

 周辺の子供らは怯えながら、手に手に拾った石を持ち、べべとマイラに遠くから投げつけた。マイラはべべをかばうようにしゃがんで抱きしめた。結果は同じだった。全員、自分の投げた石を倍の勢いで顔面に食らって倒れたのだ。そして彼らの髪の毛から、ぶすぶすと音を立てて煙が上がり始めた。

「あちちちち」

「た、助けて」

 子どもたちは髪の毛から炎を上げて走り回り、周辺の家から出てきた大人が急いでバケツで水をかけ始めた。全員の火が消し止められた時、少女と子山羊の姿はそこにはもうなかった。

 次にマイラに絡んだのは大人の男たちだった。酒場の裏口で残飯をあさる金髪の少女に目を付けた酔っ払いは、背中の袋から顔を出している山羊よりも、マイラ自身に興味を示した。

「お嬢ちゃん、迷子か、孤児か。よく見れば綺麗な顔をしてるじゃないか。中に入んな、風呂に入れてピカピカにしてやるからよ」

 男がいやらしい笑みを浮かべてマイラの腕を掴むと、背中の麻袋からべべが顔を出してメへへへへと大声で鳴いた。

「ほう、食材まで背負ってるとは気が利いてるじゃないか」

 男がべべの首を掴んで引きずり出そうとすると、マイラは男の顔を指差した。ばん、と大きくものがはじける音がして、男の鼻と耳から濁流のように血と炎が四散した。男はべべを掴んだまま仰向けに倒れた。酒場の勝手口から顔を出した女将が甲高い悲鳴を上げた。

 マイラは返り血を浴びたままべべを抱きあげ、麻袋に入れて抱えて逃げながら、自分の中になにか制御しようのないものが育っているのを自覚した。

 ああ、ならば、あの時。船に男たちが入ってきてママとバインを撃ち殺したとき、怖れて隠れずに出て行けば助けてあげられたかもしれないのに。

 自分が出会う人は意味もなく自分を攻撃してくる、優しい人は死んでしまう。ならば、生きるとは立ちふさがる人間を倒して進むことだ。

 闘っているのはこの国だけじゃない。自分は一人で縁もゆかりもない人たちと戦争している。

 

 誰か教えて。これは正しいことなの? ほかに生き方はないの?

 それとも、黙ってべべを差し出して、わたしもあの男たちに服を剥がれていいなりにならなければいけないの?

 わたしが答えを欲しがっていることは、ママが手紙に書いてくれた。

 わたしは、パパに会って手紙を渡さなければ。でも、どこにいるのかわからない。

 わからない。自分のことも、今日のことも、明日の運命も。


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