解答編 衣瑠の発表
衣瑠の発表
「へっ?」重楠は、ぽかん、とした顔になった。「おいおいおいおい……俺のこの推理に、どんな隙があると言うんだ? 聴こうじゃないか」
「まず、犯人のアリバイ工作については、私も同じ推理だわ。堅化魔法を車にかけ、崖を転がり落ちた。それで間違いないと思う。次に、犯人は十八歳以上──これにも、同意するわ。
でも、その後の推理──人名用漢字に『穹』が追加されたのは二〇〇九年四月三十日だから、穹平は十七歳と断定する、というのは、誤っていると思うわよ」
でも、事実じゃねえか。そう重楠は答えた。「人名用漢字に『穹』が追加されたのは、二〇〇九年四月三十日。これは、紛れもねえ事実だ。それとも何か? フィクションの世界だから、二〇〇九年四月三十日以前に追加されたのかもしれねえ、とでも言うのか」
「そんなこと、言わないわ。でもあなたは、その推理をするにあたって、大きな先入観を抱いてしまっている」
「先入観?」
衣瑠は、ええ、と返事をすると、原稿の、「中穹平」と書かれているところを、赤いボールペンで丸で囲み、重楠に見せた。
「そもそも、あなたたち──これを、どう読んでいるのかしら?」
「どうって──ナカキュウヘイじゃないのかい?」
「『中』は、アタリとか、チュウとか読む場合もあるらしいが……キュウヘイじゃなくて、キラキラネームみたいに、『ソラ』とか?」
「どれも、先入観を抱いたままだわ。──これはね、『ヂョン・チォンピン』とも読めるじゃない」
重楠と浪穂は、はあ? とでも言うかのように、口を開けた。
つまり、と衣瑠は続けた。「中穹平は、ナカキュウヘイじゃなく、ヂョン・チォンピン。中国人かもしれない、ってことよ」
重楠は、原稿を引っ掴んだ。ぺらぺら、とページを捲る。「でも、穹平が中国人だなんて、書いていねえじゃねえか」
「でも、日本人だとも書いていないじゃない。それに、もう一つ、穹平が中国人だという推理の根拠があるわ」
「何だい、それは?」
「性別よ。穹平の性別。口調も服装も、女性っぽいでしょ? 日本だと、『穹平』は男性っぽい名前だけれど……中国だと、『なんとか平』という名前、女性にも付けられるそうだから。作中でも、穹平の性別、明言されていなかったでしょう?」
重楠は再び、ページを捲った。「たしかに、書いていねえ」
「それで、本題だけれど。中国には、人名用漢字なんていう規定はないわ。どんな漢字でも、法律上は、名前に使っていいことになっている。つまり穹平は、十八歳以上の可能性が出てくる」
「じゃあ、これで、推理は振り出しに戻ったってことですか。……衣瑠は、犯人が誰か、わかっているんですか?」
「ええ。もちろんよ」
重楠は勢いよく彼女の顔を見た。「誰なんだ、それは」
「まあ、落ち着いて。問題編の中で、一つ、違和感を覚えるところがあったでしょう?」
「違和感?」浪穂もぺらぺらとページを捲った。「どこだい、それは?」
「問題編の最後、犯人と元昭がビールを飲んでいるシーンよ。『元昭は立ち上がり、窓に近づいた。愛媛を眺めながら、言う』『元昭も前進すると、元の椅子に座り、ビールを飲んだ』。この二文よ」
「いったい何が──」おかしい、と言いかけて、重楠は口を噤んだ。「そうか……」
「重楠君は、気づいたみたいね」衣瑠は、にこ、と微笑んだ。「元昭は、窓に近づき、愛媛県を眺めているのよ? この時点で、体は窓側を向いているはずだわ。なのにその後、彼は前進して椅子に戻った、と描写されてある。普通なら、踵を返したとか、振り返ったとか、そういう記述が挟まっているはずなのに、それがない」
「どういうことですか? 描写上のミスとか?」
「いえ──こう考えたらどうかしら? 『元昭は、窓に背を向けて、愛媛を眺めた』と」
「たしかにそれなら、前進して椅子に戻った、という描写とは矛盾しねえが……窓に背を向けては、愛媛を眺められねえだろ?」
「それは、『愛媛』が地名だった場合でしょ? 人名なら、どうかしら? 具体的には、苗字なら?」
重楠と衣瑠は、同時に、あっ、と呟いた。
「一人だけ、苗字の判明していない登場人物がいるでしょ? 『中穹平』『近江二郎』『遠藤元昭』そして──『一郎』。彼の苗字が、『愛媛』だったとしたら?」
重楠は、スマートホンを取り出して弄り始めた。浪穂が呟く。
「でも、一郎は近江二郎に、兄さん、って呼ばれていたんじゃないですか?」
「あら、兄弟でも、苗字が変わる場合はあるでしょ。
元昭の部屋にはテーブルと椅子二脚、ベッドしかない。他に、『愛媛』という名前がつきそうなものはないわ。物に渾名をつける趣味もないらしいしね。
タイトルも、伏線になっているわよ。『百万弗を背景に』──元昭が愛媛一郎を眺めたら、『百万弗の夜景』が、背景になるでしょ? 他の場面じゃ『愛媛県』と書かれているのに、『愛媛を眺めた』のところだけ『県』が抜けて『愛媛』となっているのも、伏線ね」
「いや──その推理、おかしな点が一つ、あるぞ」重楠は、スマートホンの画面を眺めたまま言った。
「気づいたのね──何かしら?」
「『愛媛』という苗字だ」重楠は顔を上げた。「恵理によると、この小説の登場人物の名前はすべて、実在するものらしいじゃねえか。
でも──今スマホで調べたんだが、『愛媛』という苗字は存在しねえ」
「それについては、一つ、明らかにしておくべきことが──」
その時、がらがら、という音が、衣瑠の言葉を遮った。三人は、扉のほうを見た。
恵理と昭子が、部屋に入ってきたところだった。「やあ、今、戻ったよ。どうだい、みんな──犯人、わかったかい?」
「今、みんなの推理を発表しているところよ。ちょうどよかった、蟹藤元さん──一つ、お願いしたいことがあるの」
「何や?」
「この小説を書いた、エンドウモトアキさん──どういう字を書くか、ここに書いてもらえるかしら?」
衣瑠はそう言って、裏返した原稿と、赤いボールペンを渡した。昭子はそれらを受け取ると、こう書いた。
猿渡 一郎
「……サルワタリ、イチロウ」重楠はその名前を読み上げた。
ちゃう、と昭子は言った。「これで、エンドウモトアキ、と読むんや。なにも、当て字やとか、キラキラネームやとか言うわけやない。苗字も名前も、実在する読み方や」
「てっきり、作中に出てくる、被害者の遠藤元昭が、作者だと思っていましたけれど」浪穂は腕を組んだ。「違ったってことですか。一郎こそが、作者だったってことですか」
「ええ、そのとおりよ」
「だから、『合戦コンビ』だったのか」重楠は脳裏に、幼い頃読んだ「さるかに合戦」の絵本の表紙を思い描いた。「いや、でも、答えになってねえじゃねえか。というか、むしろ遠ざかったんじゃねえか。作中の『一郎』が『猿渡一郎』ってんじゃ、『愛媛』が苗字じゃねえ」
「だから、彼は変える気だったのよ。苗字を、『猿渡』から『愛媛』に」
しばらくの間、部室を沈黙が支配した。他の四人は、ぽかん、と間の抜けた表情をし、衣瑠を見つめていた。
「『人生を懸けた一大トリック』というのは、そういう意味よ。苗字を変更するのだから、まさしく、人生を懸けた叙述トリックよね。児童養護施設出身で、身寄りがないのなら、手続きに必要な『同一戸籍内の十五歳以上の同意』も、自分一人で済むから、簡単でしょうし。
認められるには『やむを得ない事情』が必要だけれど、『猿渡』と書いて『エンドウ』と読む苗字はややこしいから、という理由は、十分『やむを得ない』でしょう? 苗字を『愛媛』にする理由も、『愛媛生まれ愛媛育ち、今も愛媛に住んでいて、地元が好きだから』と言えば、自然よね。
それに、実例もあるのよ。『猿田という苗字からは、動物が連想されて、いじめられるかもしれないから変更を許可』という事例が。『猿渡』という苗字にも、『猿』が含まれているんだから、許可されない理由はないわよね」
四人は放心したように、衣瑠を見つめていた。だが、重楠の長く深いため息によって、我に返ったようだった。
「なるほど、そうだったのですか」
「たしかにそれなら、筋が通るし、トリックも成立するね」
「モト君は、苗字を変えるつもりだったんですね」
その後昭子は、衣瑠と重楠、恵理、浪穂に感謝の言葉を述べると、部室を去っていった。
「……懐かしいなあ。あれからもう、一年近く経ったのか」重楠はそう呟くと、饅頭の箱から個包装を手に取って破き、食べ始めた。
「それにしても、『なぜもう一度、依頼解決のお礼を送ってきたか』か……私にはわかりません。どうですか、衣瑠さん、わかりますか?」
衣瑠はしばらく黙ってから、答えた。「一つ、恵理さんの行動に、違和感を覚えるところがあるわ」
「違和感?」と重楠。
「ええ。どうして、段ボール箱ごと部室に持ってきたのか? という点よ。別に、饅頭の箱だけで十分でしょ?」
「つまり」重楠は段ボール箱を手に取った。「これにヒントが?」
彼は箱をランダムに回転させ、隅々まで眺めた。しかし、特にひっかかりを感じるようなところは見当たらなかった。
「駄目だ……わかんねえ」
貸してご覧なさい。そう言って衣瑠は右手を出した。
重楠は段ボール箱を渡した。彼女は、箱の上面の一点を見つめてから、「なるほど」と言った。
「蟹藤元さんが、今更お礼を寄越してきた理由は……彼女が、猿渡さんの遺志を継ぐことに成功したからね。で、改めて、感謝を込めて送ってきたのよ」
「どういうことだ?」
衣瑠は、箱の上面についている伝票を指差した。重楠は指されるがまま、それを覗き込んだ。そこの「送り主名」の欄には、こう記されていた。
愛媛 昭子
〈了〉