夏祭りにて
「地球なんて、大きな大きな口に飲み込まれてしまえばいい。飴玉みたいに」
よくそんなことを言ってる不平屋の鮫島先輩と夏祭りに行くことなったのは、つい三日前の話だった。
地域民俗研究会なる、華やかとは言いがたい同好研究会の先輩である彼女は、とにかく愚痴や不平不満を僕にぶちまける。たくさんの女性を敵に回すことを覚悟で記すなら、僕だって彼女が美人(それも、むくれっ面がチャーミングな人)じゃなければ、こんな根気強く話相手になったりはしない。
悪意と不満が鼻の穴から漏れてるような彼女が、一体どういう風の吹き回しか「因幡、私と一緒に夏祭りに行くから、その日は絶対に空けといて」と言ってきた。決してお誘いではない。ほとんど命令。
とはいえ、僕の内心は逡巡より喜びがコールド勝ちしていた。異性という者を意識し始めてから、初めて女の子と夏祭りに行くことになる。意識しない訳がない。今まで先輩の愚痴に対して水差し鳥のようにえんえん頭を降り、辟易するほど相槌を打った甲斐があった。
当日。
僕は夏祭り会場本部である神社、その駐車場前で彼女を待っていた。香水を付けすぎただろうか、ちょっと気になる。長い夏の陽は、午後六時になろうとしているのに、空を薄い青に留めている。
そして、先輩がやってきた。午後六時に集合予定で、僕は十五分前に来たのだけど、先輩はその五分後――集合時刻一〇分前に来た。早めに来て良かったと胸をなで下ろす。彼女より遅く来ていたら、きっと文句を言われてることだろうから。
彼女は、真っ黒な浴衣にくるまれて現れた。未だ蒸す黄昏時の陽気をかき分けるような、冷たく澄んだ墨の一線のように思えた。
「早めに来るなんて、案外殊勝じゃない、因幡」
「お疲れさまです鮫島先輩。浴衣、似合ってますよ」
「はいはい、お世辞どうも。
後輩は、似合ってない、とかズケズケというヤツでもないでしょ」
うん、本音でも嘘でも「似合ってる」としか言わないと思う。
「いや、本当に似合ってますって」
「そういうアンタは、香水が似合ってない」
手厳しい言葉だった。自分に合う香水を探すのは案外難しい。学生の手持ちで買えるものだって限られてくる。だから自分が好きな香りの香水を買ったのだけど、不評みたいだ。
「……ダメですか?」
「匂いがスパイシーすぎ。そんなワイルドなタマじゃないでしょ? まあ、良い格好つけで外出ようとしてるだけ無精よりはマシだけど」
意外。先輩がフォローしてくれるなんて。……まあ事前にきっちりけなされたけど。
「ああ~、まあ、じゃあそろそろ屋台でも見に行きましょうか」
「あんな人混みの中をそぞろ歩いて、ぼったくりの食べ物食べて、子供だましの遊びをしに? アンタこの祭りに何しに来たの?」
いや、アンタこそ何しに来たの? マジで。
「でも、まだ暑いし喉乾いてませんか? かき氷とか食べたくありません?」
かき氷という言葉に、先輩が僕の目を一瞥した。かき氷に興味自体はあるようだ。伊達に彼女の愚痴に付き合ってきたワケじゃない。
実際、かき氷なんて夏のこういう場所以外であまり食べるものでもないし。少なくとも僕はそうだし、先輩もそういう風情には無頓着っぽいし。
「しょうがない。かき氷買うの、付き合ってあげる」
ここまで来ると、もはや憎さ余って可愛さ三倍だ。決して一〇〇倍じゃないところがミソだ。
「じゃあ、行きましょう」
出店は大通りを挟むように並んでいる。釣り下げられた提灯のおぼろとした灯りが、ゆるやかに日常と非日常の境を曖昧にしていく。
「ああ、やっぱり人混みって嫌い。暑苦しいし、サンダルのかかと踏まれるし! あ~もう、みんな消えてなくならないかなあ」
「ちょっと! テロリストと誤解されるかも」
「はあ? 高校生風情がテロなんて起こすワケないでしょ? そんなこと本気で思ってるヤツは、漫画の読み過ぎだよ。
それに、もし、このしゃらくさい一本道が、私と因幡だけだったら、ちょっとはマシだと思うけど? アンタはそうじゃないの?」
僕と先輩だけの夏祭り――
ふと、その光景を夢想してみる。シンとたおやかな静謐を破る、先輩の愚痴や文句。そんな罵声を聞きながらも、少しずつ暗くなっていく世界を提灯が照らす。延々と続く静寂と薄闇。――僕もまんざらじゃないかもしれない。
「悪くなさそうですね」
「へえ、良くもないんだ?」
「かき氷を食べられそうにありませんから」
「どんだけかき氷食べたいの? ただのバラバラになった氷でしょ?」
いや、食べたがってるのは先輩の方でしょ。
僕たちはかき氷を買ってから神社近くの公園のベンチに座った。
彼女はブルーハワイ、僕はケチャップと焼きそばソースがかかったかき氷を口に入れた。そして僕は顔をしかめた。当然、かき氷の冷たさ故じゃない。
僕自身の名誉の為に釈明しておくが、僕はこんなけったいなものを好き好んで食べる悪食ではない。悪らつな先輩が、かき氷屋に対し、嫌がらせで注文したものだ。するとかき氷屋はニヤリと歯を剥いて笑った。イヤな悪寒がした。そしてかき氷屋は、本当にケチャップと焼きそばソースを薄氷の山積にぶちまけたのだ。先輩は凄く悔しそうに、そのかき氷を僕に押しやった。男子たるものエスコートすべきだと思ってるから代金も僕が持ったけど、後悔し始めていた。
「このブルーハワイ、いちごと同じ味がするんだけど」
「唯一無二のフレーバーが楽しめるかき氷なら、僕の手元にありますけど」
「ふ~ん、良かったね」
ただのケチャップと焼きそばソースを舐めるだけなら、まあ別に悪くはないと思う。けど、それを氷ーーそれも溶けて水に薄まるので、だんだんイヤな味になってきた。
「そういえば先輩、どうして僕と夏祭りに行こうって気になったんです?」
「それを聞いてどうするの?」
質問を質問で返すのが、彼女流だ。
「たぶん先輩が出す答え次第で、舞い上がったり、がっかりしたりするんだと思います」
「因幡がガッカリしたら、私は楽しいけど」
僕は彼女を楽しませたようだ。なんで僕はこんな人を意識してしまったんだろうか? まあ、予想はしてた答えだったけど。かき氷が三割増しで不味く感じられた。
「星ってさ」
彼女は、夕焼けに染まりつつある青い空を見上げた。かすかに星の光が瞬いている。
「星ってさ、ここから見てるとキラキラ輝いているけど、それは何光年前の輝きを見てるだけで、星そのものはなくなっているかもしれないじゃん?」
「はい」
「わかんないじゃん。人だって。そういうの。いつもピカピカしているように見えるけど、その核がどうなってるか、分からない」
仰るとおりで。先輩も鈍く輝く黒真珠のごとき兆星かと思って近づいてみたら、底なしのブラックホールだったし。
「相手に合わせて無理に笑って、お涙頂戴のドラマや映画に、なんとか流されてべそかいて、そんなんでみんな仲良しこよしで上手くやっていけてると思ってる。同じタイミング、同じリズム、同じ眩しさでギラギラ点滅してる星みたいに。
でも、自分は自分で他人は他人。なにもかもが、全部違う。共感し合うとか、できるっこない」
未だ誰も聞こえたことのないであろう鮫の遠吠えは、喧噪の海流にゆるゆると、されど絶対的な重圧でもみ消されていった。
「難しいですよね。人と人がキチンと分かり合うって」
「そうする必要もないと思うけど。分かり合うことで却って離れることだって、腐るほどある」
「それもそうですけど、それでも知ることぐらいはできますよ」
鮫島先輩は、横目に僕を見た。薄闇の中、彼女の瞳が瑞々しい膜に覆われて光っていた。幼児の眼差しのように、瞳孔の心底をも見透かせそうな煌めきが、僕の網膜に焼きついて残像となってしまいそうだった。
「じゃあ、アンタは私のことをどれぐらい知ったの?」
彼女の貌から、いつもの険は消えていた。柔らかで透徹とした、僕を吸い込んでしまいそうな空気をにわかに漂わせ始めた彼女に、恐さにも似た戸惑いを覚えて、思わず目をそらしてしまう。そして、心もいつもの仮面をかぶり直してしまった。
「一個一個列挙してもいいですけど、言う毎に先輩は不機嫌になると思います」
充分過ぎるほど野暮な戯言だった。剥き出しにされた僕と、剥き出しになった彼女が元に戻るには。
「なんだ、アンタってストーカーの親戚みたいなモンなんだ」
酷い言われようだった。正直後悔していた。何やってんだ僕は。
「そういえば、今何時?」
「……え、ああ、6時45分です」
「盆踊り、7時からだよね。会場行こう」
「ちょっと早くないですかね?」
「いい。おじいちゃんも待ってるし。
さあ、行こう」
彼女のおじいちゃんと合流することになる。内心肩を落としてしまった。二人でいられる時間は残り14分と21秒。そりゃあ、いつか終わりはくるけれど。