天高く突き上げられし物、、、
ブンッ!!
山下の目の前を空間を裂く様に太き腕が横切る。
山下は空気が焦げた匂いを嗅いだかの錯覚を覚えた。
そのフックはお世辞にも速いとは言えないが、それを補うに十分な重さを持っている事は解る。
決して喰らってはいけない物、そう本能が告げていた。
しかし今はチャンスでもある。
左フックが空振り、身体の流れている東郷。
その体勢が整う前に、、、山下は一瞬迷った。
カウンターの打撃を出すか、それともがら空きの懐にタックルで飛び込むか、、、
選んだのは後者であった。
リングすれすれ迄に身を低くし、東郷の右足先端を狙う。
伸びる山下の手、それは低空飛行から小動物を襲う、猛禽類の爪を連想させた。
(取ったっ!)
しかしそう思った刹那、山下の視界から獲物が消えた。それどころか次の瞬間、凄まじい重力に襲われたではないか。
(!?)
気付けば俯せとなった自分の上に東郷が跨がっている。
この状況を招いた理由は2つあった。
1つは山下が攻める際に迷いを見せた事である。
ほんの僅かな迷いの時、そのはずが東郷に体勢を整える時を与えていたのだ。
そして2つ目の理由はタックルの姿勢が低すぎた事である。
鍛えられた体幹で瞬時に体勢を整えた東郷は、ヒョイと軽くジャンプするだけで山下の攻撃を凌いだのだ。
そしてそのまま着地した時には、労せずして山下の上を取っていたという訳だ。
バーリ・トゥードでは無いので、打撃を貰う心配は無い。とは言えこの態勢ではスリーパーが怖い、早急な対応が必要だった。
「ケツ上げて反転やっ!!」
声の主はセコンドの鈴本である。
そしてそれは驚く程に的確な指示だった。
尻を上げる事で頭部の隙間が狭くなり、首を狙われにくくなる。尚且つ東郷のバランスを崩す事も出来る。
確かに胴に足を絡められ、ガッチリとホールドされていたならば手遅れである。
しかし鈴本の叫んだタイミングはそうなる前であり、その判断は絶妙な物であった。
山下が直ぐさま行動に移る。
神が怒るのではないかと思う程、天高く尻を突き上げると、思惑通りに東郷がバランスを崩した。
前につんのめった東郷と山下の間に空間が出来る。
その一瞬の隙を逃さず、山下が身体を反転させた。
俯せだった山下は仰向けに移行し、取り敢えずの危機は脱した。しかし未だ東郷が上のポジションであり、不利な事に変わりは無い。
勝負にifは禁物だが、これがバーリ・トゥードだったならば、瞬殺されていたかも知れない。
しかし、今そんな事を考えてもしょうがない。
闘いには色々な形があり、それぞれに違った機微がある。
今はロストポイント制での闘い。それが全てであり、他のルールならなどと考えるのは、この試合を冒涜するに等しい。
山下は思う。
ならばこのルールで、この状況で今出来る事に全力を注ぐのみ。
マウントポジションを取られはしたが、このルールならば打撃の心配は無い。
次に警戒すべきは腕への関節技である。
相手は柔道家、得意分野であろう。
しかし道着を着て行う柔道と、裸で行っているこの試合は勝手が違うであろう。
そこにつけ入る隙はあった。
山下が周囲を見渡す。
リング中央付近、、、どのロープも遠く直ぐに逃げる事は叶わない。
すると東郷がセオリー通りにその肘を顔面に擦りつけて来た。
こうして気をそらし、腕を狙うつもりであろう。
(そうはいくかいなっ!)
歯を噛み、痛みに耐えながら頑なに腕を守っていた。
焦れた東郷の攻めが厳しい物へと変化する。
肘の圧が強く、荒くなる。
それを嫌がった山下が、エビの様に身体を跳ねて東郷のバランスを崩しにかかった。
お陰で一時的に攻め手は止まったが、所詮は場凌ぎでしか無い、、、
このやり取りが3~4回繰り返されると、苛立った東郷が強引に腕を取りに来た。
それも手首が無い為、力の入りにくい右腕を狙った攻めである。
力業で腕ひしぎの体勢に持ち込もうとする東郷。
しかし山下は余裕の笑顔を浮かべると、東郷に向かって囁いた。
「甘ぇよ、バ~カッ!」
言い終えた山下が涼しい顔で頭上方向へと左手を伸ばす。するとその手は難なくロープを掴んでいた。
「エスケープッ!!」
山下のポイントロストを告げるアナウンスが響く。
ポイントを奪ったはずの東郷だが、呆けた顔で周囲を見回している。
攻めに夢中になり、苛立ちで冷静さを欠いていた東郷は気付いていなかったのである。
先に山下がエビ反りを数回繰り返したのは、ロープに近付く為の布石であった事、そしてリング中央で行われていたはずの攻防が、現にロープ近くでの物へと変わっていた事に。
「ほら、どけよ。仕切り直しや」
そう言って、未だ上に跨がっていた東郷を押し退ける山下。
すっと立ち上がり、まだ座して呆然とする東郷を見下しながら不敵に嗤った。
我に帰り山下を睨めつけた東郷は、屈辱で自らを赤く染め上げている。
先制ポイントを奪ったはずの彼ではあるが、その表情はまるで敗者のそれであった。