07 夢現に包まれて
扉があった。
枠は木製で、真中で十字に仕切られたガラスが張り付いている。
取手はレバーハンドル式。元はもっと綺麗だっただろう、鈍く光る銀色が瞬いた。
俺はその取手に手をかけると、何の躊躇いもなくそれを落とした。
ガチャンとラッチが凹み、そして俺は扉を押し開く。
光と共に感じるのは懐かしい香り。
何の香りだったか、と思い出すより先に声がかけられた。
「あ、誠起きた? おはよう、ごはん食べる? それとも起きたばっかでおなかすいてない?」
「……あ、ああ、うん。食べる」
台所に立つ女性は火にかけている鍋の中身をお玉でかき混ぜながら聞いてきた。
もう五十を過ぎている彼女はまだ三十、四十代にしか見えない。そう正直にいったところで、お世辞でも嬉しいと言われるのが関の山だろうが。
とりあえず俺は問いに返事をし、テレビのある居間の方へと向かう。
「おはよう、ございます」
「ん。おはよう」
ちらりとこちらを見て挨拶を言う男性は、すぐに手元の新聞に目を落とした。
テーブルにある湯気の立ち上るコーヒーをとり、しかし音を立てないで飲む。
そんな彼も白髪が増えてきたらしく、白髪染めを送った時の微妙な顔と言えばなかったなぁと思う。
足元に刺激を感じて視点を移すと、若干茶色がかっている白の毛玉が後ろ足で立ち、前足を精一杯伸ばして俺の膝より少し上を引っ掻いていた。
それを屈んで抱き上げると、大人しく手の中に収まる。
冬は湯たんぽ代わりになるけれど、夏は近くにいるだけで暑苦しいこの犬は地に足ついていると走り回る癖に抱き上げられると途端に大人しくなる。
くるん、と腕の中で丸くなるその姿は耳が見えなければ狐のようにも見えた。
「歩! もうご飯だよ! 食べないの!?」
「……んー…………食べる」
台所から響く声に答えるのは、ソファーの上。
ご飯という言葉に反応してか、のっそりと上半身だけを起こした彼女の頭には軽くアホ毛が発生していた。
恐らく部屋で起きた後に直ぐに居間に移動し、そして横になってまた寝たのだろう。
俺の贔屓目で見たら上の下ぐらいの外見である彼女に彼氏がいないのは、きっとこのものぐさな性格のせいに違いない、と当たりをつけている。
「ほら、パパも! もうご飯だからテーブルの上片付けて!」
「おう」
言われた通りに男性は新聞を畳み、テーブルの上の小物を寄せ始める。
それが片されるやいなや女性が両手に皿を持って現れ、テーブルの上に置かれる。
それで思い出す。懐かしいと感じたこの匂いがなんだったのか。
カレーだ。
俺の大好物である、カレー。
どうして忘れてしまっていたのだろうか。どうして懐かしいと思っていたのだろうか。
母さんと、父さんと。姉の歩と、それからペットのマル。
これが俺の家族で、休日の食事はいつも一緒だった。
歩が起きた時と同じく、これまたのっそりと席につく。
母さんがテーブルの上にもう二皿をおいて父さんの隣に座った。
俺もマルを床に下ろし、歩の隣についた。
「それじゃ」
父さんが言い。
パンッ、と四つの手拍子が鳴り、そして一つの合唱が食卓に響く。
時久家の一日の始まりだった。
☆
「……ん」
「……あ」
眼が覚めたら、テオの顔が目の前にあった。
目を逸らし、悪戯のバレた子供のような顔をして。一体何をしていたのか。
というかここは、と考えたところでそういえばマルタと遊んでから一緒に寝たのだと思い出す。
一年を通して気候の変化があまりないこの地域では、外で日向ぼっこなんて何時でもできるものだった。
鍛錬後に身体の大きくなったマルタを枕にそよ風に吹かれるのが、今の俺にとって最高の贅沢だ。
ちなみに今日は、父が俺とテオの訓練を施してくれたのでいつもよりよく眠れたと思う。
そんな俺のパーソナルスペースに侵入してくるとは、テオめ。
仕返しに、とりあえず言っておくとしようか。
「へんたい」
「なっ、ばっ……ちげぇよ!」
顔を赤くして否定するテオをよそに、俺は今見た夢を思い返す。
懐かしい夢だった。
父さんがいて、母さんがいて、歩がいて、マルがいる。
そんな二度と叶わない、懐かしい夢。
ありえない、って思っていても夢の中ではどうして信じていられるのだろうか。
覚えている常識も失っているし、だからこそ荒唐無稽な夢も見ることができるのだろうけれど。
夢を見る理由は現代科学でもわかってなく、有力な説としては記憶の整理というものがある。突飛なものとしては、並行世界の記憶なのではないかという話もあった。
そんな馬鹿な、と思っていたけれど他の世界がある今、そういったオカルト的なものも全てとは言わないが本物だったりするのではないだろうかと思い始めてもいた。
いや、そんなのは関係なくて。
生まれ変わってからもう七年経つ。未練がないなんて言わないけれど、いつか辿り着ければ、程度には執着は薄れてはいた。少なくとも、俺はそう感じていた。
それなのにどうして。
どうして、今更あんな夢を見たのだろう。
「俺は、寝てるリリィを起こすべきか起こさないべきか悩んでただけで、別に寝てるリリィを見ていたわけじゃ、って……リリィ、どうしたんだ!? どっか痛いのか!?」
「え?」
「変な夢でも見たのか? それとも誰かにやられたか!? それなら俺が今からぶっ飛ばしてくるぞ!?」
意味不明なことを口走るテオに、俺は疑問符を頭に浮かべる。
わけがわからないし、黙っていても悪い方向に進みそうな気がしたのでまずは聞き返す。
「テ、テオ? どうしたの?」
「どうしたのって……まさか気付いてないのか……?」
嘘だろう、とでも言いたげなテオに俺は小さく首を傾げる。
何があったのかすらわかっていなのに気がつくも何もあったものじゃない。
そんな俺に少し躊躇いつつも、テオはそれを告げる。
「リリィ、お前……泣いてるじゃねーか」
当然のように言われ、ようやく俺は気がつく。
俺の頬には何時からか流れていた涙が伝っていた。
それが信じられなくて、呆然としてしまう。
「……え?」
「え、じゃなくて……ほらここ、」
言い終わるより先にテオの手が伸ばされる。
パシン、と。俺がそれに対して思うより速く、乾いた音が鳴り響く。
俺は、急に出されたテオの手を無意識に払っていた。
まるでそれを拒否するかのように。
まるでそれを不必要というかのように。
俺に手を払われたテオが一瞬驚いたような顔をした後、顔を顰める。
「いって……」
「あ……」
そんな強く叩いたつもりなんてなかった。
しかし、ごめん、の一言が出てこない。
そして俺の口から出るのは、謝罪とは正反対の言葉。
「……テオには、関係ない」
言って、その言葉が嫌になるくらいしっくりと心に落ちた。
そうだ、関係ない。
これは俺が、俺だけが抱くべきものだ。
誰にも背負えるわけがないし、背負わせるつもりなんてない。
しかしその言い分がテオに伝わるわけもなく(そもそも伝えるつもりなんてなかった)、テオはむっ、とした表情で俺に苦言を呈する。
「なんだよ、その言い方」
「別に。事実を言っただけ」
「な……んっ、だよそれっ! こっちが心配してやってるのに!」
「そんなこと頼んでない! 放っておいて!」
意味もなく熱くなる。
今の自分らしくなく、声が自然と大きくなっていく。
……今の自分?
今の自分って、何だ?
俺の物言いにテオも更にヒートアップし、言葉を荒らげる。
「俺だって好きでやってるわけじゃねーよ! 師匠に頼まれたから、仕方がなくやってるだけだ!」
仕方がなく。
そうだ。元々、テオは俺と仲良くなることに乗り気じゃなかった。
勝負に負けて、仕方がなく関わらざるを得なくなった。ただそれだけだ。
俺より強くなれば俺の父に教えてもらえる。そうなってしまえば俺なんて、必要ない。
俺は不意に立ち上がる。
いきなり立ち上がった俺にテオはたじろぐように数歩後ろに下がった。
「それじゃあ、負けでいい」
「……え?」
聞き取れなかったのか、意味がわからなかったのか。
聞き返してくるテオを睨みつけ、俺は何もかもを隠そうなんてせずただ感情を爆発させる。
「俺の負けでいい。だから、師匠にでもなんでも、教えてもらってろよ! 教えて貰いたかったんだろ! 俺と関わりたくなかったんだろ!? だから、その理由を無くしてやるって言ってるんだよ!」
「なっ……ふざけてんのか!?」
「ふざけてない! いいから早くいけよ! 早く、どっかいけっ!」
「……っ! わかったよ、じゃあお望み通りいってやるよ! もう知らないからな!」
テオは怒りを発散するかのように、足音を荒らげて去っていく。
勿論、一度も振り返ることなんてなく。
俺はテオが去った後、溜息を一度だけ吐いて尻を地面につけた。
怒りと哀しみと、興奮と苦しみと切なさと。
ぐっちゃぐちゃに掻き混ぜられた、支離滅裂な感情の片隅に新しく後悔の念が浮かぶ。
けれどそれを謝りにいく術を、今の俺は持っていなかった。
『リリィ、怒ってるの?』
肩越しに後ろを見遣ると、マルタが頭を擡げて心配そうな瞳でこちらを見ていた。
そりゃあ、あんなに大声で騒いでいれば起きもするか。
そう思うと申し訳なく思い、なるべく苛立ちを隠しながらマルタに答える。
『ごめん、起こしちゃったね。マルタには怒ってないから、大丈夫だよ』
『じゃあ、テオに怒ってるの?』
その問いに、俺は少し考えてから答えた。
『……ううん、違うよ』
確かに、テオの言葉に怒りを覚えたというのは間違いない。
が、その原因を作ったのは間違いなく俺であり、そしてそれは苛立ちからの八つ当たりだった。
俺がもっと子供だったなら、ちゃんとした女だったなら。あそこで素直に謝ることが出来たのだろうか。
無意味なIFを考えてみるが、頭を振って打ち消した。もはや過ぎてしまったもの、何の意味もない。
『じゃあ……』
『ねぇ、マルタ。もう少し、寝てもいい?』
なおも問い詰めようとするマルタの言葉を遮り、再びマルタを枕とする。
横を向いて顔を見合わせつつ、誤魔化すようにその頭を撫でた。
『……うん。じゃあ、もう少しだけね』
『ごめんね、ありがと』
俺はそれだけを言って、何もかもから逃げるように眼を閉じた。
しかし浮かんでくるのはつい先程の出来事。
もう少し、うまくやれなかったのか。
「やっぱり、仕方がない……か」
それは、誰に言うでもなく。
しかし答えるように俺はそう呟き、意識を深い闇の底へと沈ませていく。
願わくば、全てを忘れさせてくれる程のいい夢が見れますように、と。
そういえば。
テオはどうして鍛錬を終えた後なのに俺のところに来たのだろうか。
微睡みの中、その答えはすぐに見つかる。
今日は一の月の二十一日、無の曜日。
生前も今も変わらない、俺の誕生日だった。