05 はじめての
お風呂。
それは一日の終わりに入るもので、その日の疲れを忘れさせてくれるもの。
お風呂。
それは日本人の魂であり彼らそのものといっても過言ではない、誇りある一文化。
お風呂。
それはこの家にはない、幻の存在。
で、あるからして。
ついこんな言葉が出てしまっても仕方がないと思う。
「……お風呂入りたいな」
思わず口をついて出てしまった言葉に俺は慌てて口を塞ぐ。
きょろきょろと見渡しても、部屋の中にあるのは俺のベッドとお湯の入った少し大きめの金盥だけだ。
足音が近づいてくるでなし、安堵の息を吐く。
お風呂がこの世界にあるのかはわからないが、一度も入ったことも聞いたこともない俺が入りたいなどというと問題が発生するだろう。
俺は五才になった。
未だ小学生の年齢にも満たないが、身長は少しずつだが伸びてきている。
父の鍛錬にも一応ついていける体力を手に入れ(鍛錬後に少し動ける程度に、だが)、少しずつできることも増えてきていた。
その内の一つを紹介すると、身体拭きがあげられる。
生前の世界でいうならシャワーのようなもので、風呂に該当するのは湯浴みに当たる。 裸じゃない上に、水を浴びるだけのあれを風呂とは認めないが。
ちなみに湯浴みは水でやる、という記憶があったが魔法でお湯を出すことも可能なこの世界では専らお湯が主流だった。それはばかりは魔法さまさまだ。
……俺には使えないし、なんでそのお湯をお風呂にしないのかという疑問は強いけれど。
さておき。湯浴みはまだ水が重くて一人では難しいが、鍛錬後の汗を拭くぐらいならもう既に一人で出来る。
故に、部屋には母がいつもお湯とタオル(それほど上等なものじゃないが)を用意してくれている。
つまり部屋にそれらがあるのは鍛錬後だからだ。
ちなみに鍛錬と言っても常に父がいるわけではない。週に一、二回いればいいほうで、基本的には素振りと体力作りだ。楽しいわけではないが、走りこみをしていると時間を忘れてしまう。
今日はマルタとも少し遊んできたから早めにしないと夕食に間に合わないかもしれない。そう思い、俺は風呂への愛情を募らせつつもタオルをお湯に浸けた。
ちなみにマルタとはあの茶色の子犬の事。名前はないとのことで自分が付けさせてもらった。決して丸太ではない。
俺に懐いているからということで半飼い犬扱いになっている。実を言えば家の中で飼いたかったのだが、大きくなる犬種だということで断念した。餌代も馬鹿にならない。
マルタ自身はどう思っているのかといえば、別になんとも思っていない様。マルタにも縄張りはある(これもまた半飼い犬の一因)し、餌も自分で捕ることができる為だ。
俺への思いはご主人様というよりも、良い友人といったところだろう。
「ふぅ」
絞ったタオルを置いて一息。
確かに身体を拭くのは簡単に出来てもタオルを絞るのが一苦労だ。
そのタオルを尻目に、俺は汗の染み込んだ服を脱ぎ始める。
服を脱ぐと、その下に隠れていた白い肌が姿を現す。
少なくとも母と同じぐらいにはなるだろうポテンシャルを秘めた胸は未だなだらかな平原だが、それでも見る人から見れば一種の芸術品として成り立っているのではないだろうか。
……俺は別にロリコンとかじゃないからなんとも思わないけど。
そりゃあ、初めの頃は服を脱いで裸になることに恥ずかしさやちょっとした後ろめたさを覚えたことはあった。まじまじと、女にしかない器官を見てみたこともあった。
あったが、もう一度言っておこう。俺はロリコンじゃない。
俺的にはどちらかといえば母のような外見の方が好みであり、可愛い系よりも美人系の方が好きなのだ。好きになれば外見なんか関係ないとは思うが、生前では終ぞ恋仲になる人なんていなかったからわからない。
だからこの身体には多少期待はしている。きっと母のような綺麗なものになるのだろうと思って。
まぁ好みの外見に自分がなったところで意味は無いし、理想の体型になって男を引き寄せてもそれこそ困るのだけど。
まずは首から、なるべく丁寧にタオルを這わせる。
擦るようにしないと垢はしっかりととれないのだが、子供の肌は弱く傷がつきやすい。垢取りだけでそうなるとは思えないが一生傷にでもなったら困る。
そもそもとして腕の力もまだまだ弱いのだから、垢を取る前に痛いだけだろう。
首が終わったら腕へ。ちなみに上から順番にやるのは生前そうやるのがいいと教わったからだ。なんでも下が終わった後に上をやったら、その上の汚れが泡や水に混じって下に落ちてくるだとかなんとか。
真偽の程はわからないにせよ、その時は正しいのだと思ったし今でもそう思っている。
だから髪を洗うのは最初で、顔を洗うのは次。身体では首から順番に身体を洗っていた。
といっても股間と尻は最後だ。蒸れる場所でもあるため、真っ先にやりたくなるが一番汚いと言っても過言ではない場所でもあるから仕方がない。今は上半身を拭くだけだから関係ないが。
腕を拭き終えると、そのままその手をあげてタオルを脇へと移動させる。
ところで脇という漢字は二種類ある。脇と腋だ。違いはよく知らない。
なぜそんなことをいきなり言ったかといえば、生前の親友であった人物が『漢字で腋って書くとなんかエロいよな! 力三つの方じゃなくて、液の右の方!』とか言っていたのを思い出したのもある。
だが、この場合に置いてはもう一つの要因のほうが大きいだろう。
というかこの事態があったからこそ、俺は上の発言を思い出したのだ。
ほんの少し、俺が脇もとい腋を拭き始めた時点に戻るとしよう。
その瞬間に闖入者があったのだ。
ノックも何もなく、ガチャリと急にドアノブを捻られたそれに俺は何も警戒していなかった。
どうせ食事だと呼びに来た母か父だと思ったし、そうならば今更隠す必要など無い。 文字通り、生まれたままの姿を見られてしまっているのだから。
「あ…………」
「……え?」
しかし、耳に届いたのは知らない声だった。
はたとして扉の方を見遣れば、そこには知らない男の子が呆然とした姿で立っていた。
その視線はしっかりと俺を、厳密には露出されている部分を捉えている。
見てる方はバレてないと思ってても、見られている方はわかるの。そんな台詞がアニメ声で脳内再生され、そういうことかと理解する。
目線が違う。
俺を見ているのではなく、胸を、腹を、腋を。妙齢であればそれぞれが情欲を誘うであるだろう場所に目が向いているのだ。
年齢的には、きっと今の俺と同じぐらいだろうか。そんな男の子が突発的とはいえどもそういったところに眼が向いているのは、多分本能的なものなのだろうか?
いや。小さくとも男は男。そういうことだ。
さて、この知らない男の子。俺を(俺の身体を)じっと見つめたまま固まってしまっている。
元男としてその気持ちはわからなくもないが、このままではいけないだろう。目には目を、歯に歯を。罪には罰を。
タオルを床に置いて立ち上がる。無表情でスタスタと近づくと、男の子はたじろいだように一歩下がった。
けど、俺は気付いてる。その眼は何も身に纏っていない身体に向いている。
なんで俺がこんなことをしなければならないのか。
心の中でぼやきつつも、台詞を走らせる。
「へんたい」
へんたい。漢字ではなく平仮名なのがポイント。
この世界の言語は漢字じゃないが。
「えぶっ」
何かを言おうとしたのを俺の平手が遮る。
じんわりと赤くなった彼の頬はきっと、数分もすれば立派な紅葉になるだろう。
彼はようやく俺を見て、叩かれたことを理解できずに口をぽかんと開けたままになっているのを力いっぱい押し出し、尻もちをついたのを尻目に扉を閉めた。
「……はぁ」
まだ凹凸のない身体だとはいえラッキースケベをされるとは。
これからもこんなことがあったら困るなぁと出たため息は、盥から出る湯気と混じって消えた。
☆
「勝負しろ!」
翌日、かの少年は木剣を持って俺の前に立ちはだかっていた。
傍らにいる父を見ると、父は一度頷いてみせる。つまり受けてやれという意味なのだろう。
というのも、彼にあったのはコレが二度目ではない。
あの後無事に身体拭きを終えて居間に向かった俺が見たのは、夕食を前に談笑している両親と知らない男、それと頬を真っ赤に腫らした覗き男子だった。
俺が来たとのことで改めて自己紹介をしたところ、男の子――テオドール・ピスノフはその父と共に野草狩りに出かけたら魔物に襲われたらしい。
そこを偶然通りかかった父が助けた所、テオドールはその剣術に感激し習いたいと言い出したのだそうだ。
剣術の修行に傾倒して同年齢の友人のいない俺を少しばかり心配していた父はそれを受ける代わりに友人になってほしいと頼み、俺との顔合わせも兼ねて夕食に呼んだらしい。
そして父が俺は部屋にいるだろうと言うと、テオドールはまずは父との約束を果たすために飛ぶ様に俺の元へと向かった。
その結果があのファーストコンタクトだ。
俺がそうして納得していると、そのテオドールは睨みつけるようにこちらを見ていた。俺の父と自分の父の手前、何も言えなかったようだが。
俺がすましたような顔をしていたのもその一因なのかもしれない。
そんなわけで、お世辞にも決していいとはいえなかった顔合わせ。
そんな気に食わない奴が一緒に鍛錬を受けるというのも恐らく嫌だろうに、始める前に父がこんなことを言ったから尚更彼の感情に火を付けたのだろう。
「テオドール、リリィは少なくともお前よりは強い。俺は仕事で来れない時がよくあるが、その時にはリリィのいうことを聞いてくれ」
「はぁ!? なんで俺がこいつのいうことを!」
自分でいうのもなんだが俺は大人だし、見られた一回は叩いた一回でチャラ、ということにしている。
だがテオドールはそういう風に割り切れないようで、気に食わない奴に教えてもらうことなんてない、というスタンスだった。
父はそんなテオドールに何回か同じ説明をしたが、テオドールは納得なんて出来よう筈がない。
そこでテオドールが逆に父を納得させようとして持ちだしたのが、俺との『勝負』だった。
「俺が負けたら、お前のいうことを聞く。だけど俺が勝ったらししょーのいうことしか聞かない!」
それにはきっと、自分の実力を証明してあわよくば父の仕事に連れて行ってもらおうなんていう考えもあったのだろう。もしかしたらやり返すということも考えていたのかもしれない。
強い人間に憧れを抱くのなら、なるべくその人の近くに居ようとするのは当然だ。 だからこそ師事を頼んだのだろうし。
だが、わかってないと言わざるを得なかった。
俺が完璧だとは言わないが、何もかもが未熟すぎる。
「さぁやるぞ! それともやらないのか!?」
「やる」
逸るように啖呵を切るテオドールに木剣を突きつける。そして彼の瞳を真正面から見つめ、出来る限り威圧した。
それに少しでも気圧されたのかテオドールの勢いが削がれた。
勝負は、もう既に始まっている。
言外に宣告する俺を諌めるように、父はその木剣に手を掛けて降ろさせる。
「わかった。でも、怪我をしそうになったら止めるからな。返事は?」
「わかった」
「……はい」
「よし! じゃあ距離をとれ!」
父が仕切り、俺とテオドールの間には数歩分の間が開けられる。
その時には既に、テオドールには闘志が戻っていた。
きっと、先程のは勘違いかなにかだと整理したのだろう。自分より小さい、しかも女なんかに負けるわけがないと。
「手加減しないからな」
「ん」
木剣を構える。
今世で初めての対人戦だ。
前世の授業でやった剣道を思い出す。
睨みつけてくる相手。程よい緊張感。
けれど、負ける気なんて全くといっていいほどにしなかった。
「始めっ!」
「うおぉおおおおおおお!」
父が言うと同時、テオドールは距離を詰めながら剣を振り上げて俺へと襲い掛かってくる。
俺はそれをバックステップで回避して、空振りを見送る。
「くっ、この!」
地面を叩いた剣を直ぐに引き抜き、追撃を図ってくる。
躱されたのに驚かないのはこちらが少し驚いたが、追撃が力任せだ。当たればいい、という振り方。
習っていないのなら仕方がないのかもしれないけれど、これでよくも勝てるなどといったものだ。
追い詰められないように気をつけながら、テオドールの剣を回避し続ける。
「躱すっ、なっ!」
その言葉に答えるように、横薙ぎで剣をぶつける。
威力はあまりないが初めてされた反撃に驚いたのか、テオドールは蹈鞴を踏んだ。
その隙を見てまた俺は距離を取り、中段に構える。
「こん、のおぉおおおおおお!」
馬鹿の一つ覚えのように、上から振りかぶる一撃。
確かにそれは威力が高いが、正直すぎる。
「んっ!」
踏み込みと同時、小さく振り上げて鋭く落とす。
俺から見て右から剣をぶつけ、しかし弾かずにそのまま剣の勢いを殺しつつ鍔で受け止めた。体勢を斜めにしていた為、俺の左半身に届くこともない。
逆に俺の振った剣はそのまま、テオドールの右肩に直撃する。
「って!」
思わぬ衝撃に剣を取り落とすテオドール。
武器を落とした時点で勝ちは確定だ。
だが、しっかりと勝ち負けを教える必要がある。
「終わり」
「あ…………」
距離を詰めて、テオドールの首に剣をかける。
テオドールの唖然と漏らされた声に、本番なら次なんてないんだぞ……! なんていう空気でもなく。
勝敗は決した。
☆
テオドールは膝をついて下を向き、息を荒くしていた。
俺はその傍らに立ち、どうしたものかと考えこんでいる。
父は時間を置いた方が考えが纏まると判断したのか、それとも俺が何か言うのを期待しているのか少し休憩にすると言って去って行ってしまった。
「…………」
俯かれると顔も見えない。
顔が見えないと何を考えているのかも伺えない。
考えが伺えないと何を言えばいいのかもわからない。
ならば、俺ならどうするだろうか。
自分と同学年の、それも女に完膚なきまでに叩き潰されたら。
………………。
うん、ショックだな。
ショックで、立ち直るには相手のせいにするかもしれない。子供はそういう傾向が特に顕著だ。
例えば、相手が卑怯なことをした、とか。
例えば、真正面から戦いをされなかったから負けた、とか。
それは、致命的だ。
何がと問われれば、俺とテオドールの関係がと答えられる。
今挙げたようなことで正当化されたら、相手は卑怯なことをする気に食わない奴だという考えに至る。
そうなってしまったら、俺達の関係はもはや修復不可能だ。子供の頃に刻まれた感情は強く、そして根深い。大樹へと成長してしまえばもうどうにもできない。
では、どうすればいいだろうか。
答えは簡単だ。負けても仕方のないような関係にすればいい。子供騙しでも、気付いた時には既に心に刻まれ、その楔を打ち破る時にはもう自分の間違いに気がついている、そんな関係に。
そして、俺はそんな関係性を身を持って知っている。
「ねぇ」
「…………なんだよ」
意を決して話しかけた言葉に返事が返ってきた。
返ってこなかったらどうしようもなかっただけに少しばかりほっとする。
とはいっても、苛立ちが含まれているのは声を聞いただけでわかり、俺の予想が正しかったことを痛感させられて冷や汗が流れたわけだが。
「生まれ月は?」
「は?」
「生まれ月」
「……八の月、だけど」
心の中で舌打ちをする。
もっと早ければよかったのだけれど、仕方がない。
煙に巻く方向でいこう。
「……なら、これからテオと呼ぶ。テオはお姉ちゃんと呼んで」
「はぁ? なんで?」
「リリィは、一の月生まれだから。一の方が早い。だから、お姉ちゃん」
これこそが俺の秘策。姉と弟になれば絶対的な関係を築くことができる。
だが、言っていることは嘘だ。
俺は五才。テオドールも五才。しかし、今はまだ六の月。
年度上は一緒でもテオドールの方が年齢が上がるのが早い。落ち着いて考えればすぐに分かる。
気付くな、気付くな、気付くな。
そう念じている俺をテオドールはようやく見上げ、口を開く。
「……そう、だな」
心の中でガッツポーズをする。
認めた、認めた! このまま畳み掛ける!
「ん。姉が強いのは当たり前。だから、気にしなくていい」
「……そっか」
「そう」
勝った。
脳内で勝利のファンファーレが鳴り響き、安堵する。
「……でも」
「ん?」
「リリィには負けない。俺は、もっと強くなる」
……リリィ、ね。
まぁこの辺りが頃合いだろう。名前を呼んでくれたということはきっと認めてくれたということだろうから。
俺も姉のことは呼び捨てで呼んでいたし、お姉ちゃんと呼ばれるのも嫌だしな。
俺は手を差し伸ばす。
そしてテオドール……いや、テオが俺の手を掴むのを確認して、一気に引き上げる。
立ち上がったテオの方が、俺より身長が少し高い気がするけれど。今の年齢だとあまり関係はないだろう。
そして改めて、手を差し出した。
「これから、よろしく」
「……おう。色々教えて貰うからな?」
ガッシリと握手を交わす。
友人とも姉弟とも言える奇妙な関係は、今此処に成った。
さて。俺達にやるべきことは沢山ある。
互いをもっと知り、友情を深めるのもいいかもしれない。
だが、それよりも。
「まずは、鍛錬での力の抜き方を教える」
「は? 力の抜き方? なにそれ?」
近づいてくる父の足音を聞きつつ、俺は鍛錬未経験者に素早くレクチャーを始めるのだった。