27 懐かしい味
ホットケーキとパンケーキの違いは、食事として使われるか否かだと姉から教わった覚えがある。
子供が大好きなおやつとして用いられるのがホットケーキ、女性が大好きなおしゃれな食事として用いられるのがパンケーキ。
確かパンケーキはホットケーキよりも甘さ控えめだから食事向けという話なのだが、その姉に一人じゃそういった店に行くのが辛いからついてきてくれと頼まれて行った先のパンケーキはシロップのせいだろうが随分と甘かった記憶がある。ついでに言ってしまえば、付け合せのポテトやらベーコンやらソーセージの方が美味しいかったぐらいだ。
まぁ、その頃は『俺』も高校生を過ぎて甘いものなんて……な状態であったので仕方がないのかもしれないが。
その『俺』の子供の頃を思い出すと、なるほどホットケーキは好物とは言わずとも好んで食べる傾向にはあった筈だからこの推理はきっと正しいのではないだろうか。
やはり子供的にはああいった甘い菓子は食べ過ぎたら飽きるものの好きな部類に入ることに間違いはないのだろう。勿論、個人差はあるだろうが。
しかし、疑問点を挙げるとすれば朝食としてホットケーキを食べることも多々あったということだ。いや、その頃はパンケーキという呼称が普及していなかったといえばそれまでなのだが。
まぁ長々と述べたが、ホットケーキもパンケーキも少なくとも私にとっては然程変わらないということだ。呼称を変えただけのオシャレに踊らされているーーとは言わないが、大して好きではない私にとってはどちらも似たようなものであるからして。
結局、子供を一度過ごしてしまった私的にはホットケーキなんて飽きる程食べてしまったものであって。
如何に有名なお店でそれが食べられようと、先輩方の奢りだろうとこう思ってしまうのは仕方のないことだろう。
「……ご飯が食べたい」
ポツリと誰にも聞こえないように呟く。
いや、いくら帝都といえどもそれがないのはわかっているけども。なんというか、中途半端に昔を思い出すとそんな考えにも思考が向く。
あの白い艶。噛むたびに甘さが滲み出てくる柔らかい歯応え。やっぱり日本人は米でなくては。カレー付きでも可、むしろ推奨。
そんな妄想を打ち消すように私ははむ、とナイフで切り分けた小分けのホットケーキ(パンケーキ?)を頂く。
今私達が居るのは先輩が案内してくれた、『剣』の寮に近しい軽食屋だ。メニューをぱっと見た限りだとまぁそれなりの値段がするのは見たのだが、それをよく確認する前にお勧めだと言われるものを人数分まとめて注文された。
それなりに雰囲気の良い内装にちょっとした高級感を感じつつ(しかし制服を着ている学生の方が多いように見えて目立つ)丸いテーブルに着席し待機すること数分、そうして出てきたのが前世ではそれなりに目にしていたホット……パン……まぁ、そういうものだった。
そのケーキの上にはこれでもか……と言うほどではないけれどそれなりにメイプルシロップもどき(もしかしたらそのもの)と、多分ベリー系のジャムが少し掛けられていた。
女の子なら大好きなんだろうなぁ、と横に目を向けたらカエデが嬉しそうに顔を綻ばせているのが視界に映る。やはりこれが、女子としてあるべき姿なのだろう。
しかし反対側に顔を向けると、結構な勢いで箸を進める(いや、ナイフとフォークだけど)テオの姿が。こちらはこちらで、子供として当然の姿である。
つまり子供である殆どの生徒が喜んで食べるであろうこれを気難しいとは言わずともあまり嬉しくなさそうな表情で食べている私はといえば。
「……もしかして、リリィはこういうのはあまり好きじゃない? あまり食が進んでいないように見えるけれど」
……ローリエ先輩がこう言うように見られても仕方がないわけだ。
私はその言葉に対してもぐもぐと咀嚼しつつ、首を横に振った。
それを飲み込むぐらいの時間をもらって答えを考えつつ、残っている切り身を纏めて口の中に放り込み、空っぽになった皿を掲げる。
「……おかわり。シロップ多めで」
確かに好きではないが、別に嫌いでもない。寧ろ甘いものはどちらかといえば元から好きな部類だ。単純にホットケーキは子供の頃に結構食べたから飽き飽きしているだけで。
私の言葉を聞いてローリエ先輩は少し苦笑しながら通りがかった店員に注文をする。奢りだから、というわけではないけど。今日は値段を気にせず食べることにしよう。
そんな感じで軽く談笑しながら待っていると、チン、とナイフとフォークを置く音が小さく響く。
「さて」
私を含めた皆がその声の主に顔を向けると、寮を出てから一度も話に混ざらず、ただ空気と化していたもう一人の先輩……ええと……そう、アイリス先輩だ。
テオなんかはそのアイリス先輩を胡乱な眼差しで見る。それも当然だろう。テオやカエデは会話こそ交わしていないものの、私やローリエ先輩が話した内容でこの先輩が私を攫った本人だと知っているのだから。寧ろ会話もしていないからこそのこの眼だ。
カエデもそこまで露骨な眼はしていないが、多少警戒しているようには見える。
「そろそろお腹も満たされたことだし、本題に入りましょうか」
「……その前に、なんでリリィを攫った奴が同じ席についてるのかを知りたいんだけどな」
さっきまでのホットケーキを食べていた時のご機嫌はどこへやら、あからさまな嫌悪に私は眉を顰める。現にアイリス先輩も面倒臭そうな顔をしているし。
当事者同士で決着……はついてないけど。それでもこれからそれをつけようと言う時に横槍を入れられたら誰でもこんな顔をするだろう。
「テオドールくん、落ち着いて。リリィさんも何も言っていませんし、まずは話を聞いてからにしましょう」
「リリィは優しいから、嫌なやつ相手でも嫌だって言わないだけだ」
いや、言ってるよ?
主にテオに対して、特にテオに対して、レスターをなんとかしてって何度も言ってるはずなんだけど?
これを言ったら更に面倒くさくなりそうだから今は言わないけど。
そんなテオの頭ごなしな言葉に溜息が一つ漏れる。
それはアイリス先輩のものではなく、その横に座るローリエ先輩のものだ。額に手を当ててやっぱり、とでも言いたげに力なく首を軽く振る。
「だからあんたが来ると面倒になるって言ったのに……私から話すけど、いいわね?」
「……お願いするわ」
「テオドールも、それでいい?」
「……まぁ、先輩なら……」
テオのローリエ先輩への評価は存外に高いようだ。まぁ私を攫った本人と友人関係だとは言っても、態々どこに居るのかを知らせてくれたりしてるし、本人よりは断然好感度は高いだろう。
そして、そのローリエ先輩の眼はこちらに向けられる。
「昨日は結局、何も説明できず仕舞いだったから、彼らへの説明も兼ねて最初から順に話していこうと思うけど……それでいいかしら?」
「ん」
ローリエ先輩の提案に頷く。
私自身もどうなってこうなったのか、未だによくわかっていない。ローリエ先輩自身も当事者ではないから抜けている部分もあるかもしれないが、必要なことはアイリス先輩が補足してくれるだろう。
「まず初めに……アイリスの事は知っている? 学校内じゃ、結構有名なんだけど」
「……つい先日、鍛錬の授業で僕達が指導を給わった四年の先輩、ですよね? 魔術の方の」
確か貴女も、とレスターが続けた言葉にローリエ先輩は頷く。
早速の新情報だ。まぁ、ローリエ先輩は兎も角アイリス先輩に関しては個室を持っていた時点でお察しではあったが。
「一年生ならまだその認識でいいわね。私達にとっては……うまく言葉に出来ないけど、目標みたいなものね」
「目標」
「ええ。先生達からは百年に一人の逸材、なんて言われているわ。卒業後も功績を積み重ねれば、何れは歴史に名を残すともね」
「そんなにすごいのか? コイツが?」
テオは胡散臭そうにアイリス先輩を見る。そのアイリス先輩はといえば、コレやらコイツ呼ばわりされているのはどこ吹く風で、澄ました顔をしていた。
ローリエ先輩のコレ呼ばわりは昨日から聞いてるからいつものことだとしても、テオのあからさまな嫌悪にも特に反応しないのは、端から相手にしていないというか、なんというか。
「残念ながら、ね」
アイリス先輩もそれをちらりと確認して、溜息を吐きながらテオの言葉に答える。
それに対してカエデが口をもぐもぐさせながら小さく手を挙げた。
「ごっくん。……その話を聞く限りこの先輩がリリィを部屋に招く理由がわからないのですが、そのことについて聞いても大丈夫ですか?」
「ええ、丁度それを次に話そうと思っていたところよ」
ローリエ先輩は小休止、とでも言うように紅茶に口をつける。
「そうね。有り体に言ってしまえば……アイリスは、同性愛者なのよ」
「ちょっ……ローリエ!」
「ホモ、百合、レズ。言い方はなんでもいいけれど、まぁそういう大声では言えない性的嗜好を持つ人間なのよ、コレは」
アイリス先輩が止めるのも意に介さず、ローリエ先輩は溜息混じりにそのまま言い切る。
まぁそうだろう。被害者である私は言わずもがなで、そのことは既にわかっていた。あんなことをされて理解しないほうがどうかしている。
だがそれを知らない私の友人二人とその他一名は頭が少し追いついていないのかぽかん、と呆けた顔をしていた。
「同性愛者って……つまり、そういう……ッ!」
真っ先に辿り着いたカエデはガタンッ、と椅子を少しテーブルから離れさせて私の傍へ寄る。腰を若干浮かしていつでも逃げられるようにしているのは恐らく気のせいではないだろう。
次に追いついたレスターは少しばかり眉を顰め、次の瞬間にははっとしたように私の方へ顔を向ける。多分その予想はあたっていて、時既に遅し、だ。
そして私が一番暴走するのを予想していたテオはといえば、未だに頭上に『?』を浮かべて首を傾げている。
そうしてレスターと同じく私の方を見たかと思えば、その納得がいかないとでも言いたげな表情のまま口を開く。
「なぁ、リリィ。同性愛者ってなんだ?」
その言葉に、私達の動きが一瞬止まる。
それを私に聞くか。被害を受けた私に聞いちゃうのか。というか、そもそもわかってなかったのか。そりゃあ暴走なんてしないはずだ。
……別に教えてもいいけど、そしたらまた話が進まなくなりそうだし。ここはなんとかして誤魔化すべきだろう。
「……テオは、そのまま純粋でいて」
「は? なんだよそれ……」
「はいストップ。そう大っぴらに説明することでもないから、テオドールも後で調べて頂戴」
いいところで割り込んできたローリエ先輩は、誤魔化すかのように一つ咳払いをする。
「で、このアイリスはそうなのだけれど。コレがターゲットにする相手には共通点があるの……というか、直接聞いたことはないけど意図的にその特徴を持った人を狙っているのよ。ねぇ?」
「……さぁ、どうかしら。偶然、そうなっているだけかもしれないわ」
「それが偶然なら、どんな確率なのかしらね……兎角、どうやっているのかは知らないけど、コレは魔法の才能を持っている人間を見分けることが出来るのよ」
はぁ。
……はぁ?
なにそれ馬鹿じゃないの? と出そうになった言葉を呑み込んで、口は真一文字、顔は努めて無表情を努める。慣れというのは恐ろしく、言葉を抑えこんだ時点で自然にそこまで移行することが出来た。
さて、ここで一つ適性属性についての話をしよう。
基本的に使える属性に対しては、誰だって例外なく大なり小なり適性を持っている。しかし適性がないからその属性の魔法を使うことが出来ない……なんてことはない。練習を何年もすれば、例えば火属性なら火花を散らす程度、水魔法なら水滴を垂らす程度の魔法が使えるようになる……らしい。
無論、長い期間練習してその程度では時間と苦労に全く見合っていないということで、適性がない属性を使おうとするのは時間の無駄、というのが一般の常識である。
「魔法の才能、ですか?」
「ええ。最初からそれなりに使える娘もいたけど、どちらかと言えばまだまともに使えない娘の方が多くてね。なのにアイリスはそれを見抜いて、その娘達の手解きをしているのよ」
私は表に出ないように、心の底で深い溜息を吐く。
アイリス先輩がどうやってその魔法の才能を見抜いているのか、なんてのはわからない。本当に手解きをした人全員に魔法の才能があるのかどうかもわからない。
しかし、言いたいことはわかる。アイリス先輩が眼を掛けた人間だから、私にも魔法の才能があり、それの使い方を教えてあげる、ということだろう。それでその見返り(というより、多分こちらが本命)にアイリス先輩は自らの欲を満たしているというわけだ。
だが知っての通り、私に魔法の適性は何一つとしてない。アイリス先輩がどうやって魔法を教えているのかは知らないが、土が悪いのに種が芽吹くわけがない。
まぁ、誰にだって間違いはある。別に何かを期待していたわけじゃないし、適当に話を聞いて適当に断ることにしよう。
と、考えた所で私の手の上に横から手が乗った。反射的に振りほどきそうになるがぎゅっと軽く握られる
。
顔をあげるとテオがいつになく真面目な表情で私の方を見ている。
どうかしたかと目で問いかけるが返ってくるのは真剣な眼差しだけだ。しかし私的には手を離してほしい。親でも恥ずかしいのに同年代と手を繋ぐのはちょっと。
「それで……」
「ローリエ、流石にあとは私が話すわ。じゃないと筋が通らないもの」
ローリエ先輩が言いかけたのをアイリス先輩が遮ると同時に、私は視線をそちらへと向けた。
そしてアイリス先輩は一度深呼吸をしてから頭を下げる。
「まずは、昨日はいきなりごめんなさい。他の子達も、私のせいで迷惑を掛けたことにこの場を借りてお詫びをするわ」
……私には謝ったけど、三人にはお詫びをするって言っただけで謝ってないんですがそれは。
まぁ、いいながらも頭は下げているからまだ良い……のかな? 一番不安だったテオも何も言わないし。
「それで、順番が逆になってしまったけれどお詫びとして、リリィに魔法を教えようかと思うの。勿論私を嫌う気持ちもわかるけれど、リリィを一人前以上の魔法使いにすることを約束するわ。私と二人きりが不安なら見張りをつけたっていい、だから――――」
「リリィは、魔法が使えない」
ぽつりと、テオはそう漏らす。 ぎゅっ、と私の手の上に重ねられた手に力が篭もる。少し痛い。
私が魔法を使えないことは、そういえばテオも知っていたっけ。けど人のことをおいそれと話すのはどうかと……思う。
それにこの世界は誰もが大なり小なり魔法を使うことの出来る世界だから、その説明じゃ首を捻られるだけだ。現に私達以外の全員が怪訝な顔を示しているし。
テオはそんな反応を見て『なんでわからないんだよ』とでも言いたげに少しばかり唇を尖らせて続ける。
「……よくわかんねーけど『代償』だかなんだかで魔法の適正が何もないんだって、師匠が言ってた……だよな?」
自分から言うつもりはなかったけど嘘をつくつもりもないし、私はテオの言葉を肯定するように頷いた。それに対してカエデやレスターが少し驚きつつも納得の表情を見せる。
そういえばカエデにも言ってなかったっけ。態々自分の傷口を抉る趣味はないし、武術組だったからそういう話になったこともなかった。
「ん。ママもそう言ってた。……し、自分でも確認した」
「そうなんだ……っていうことは、リリィも『祝福』持ちなんだね。何の『祝福』を持っているのか聞いても大丈夫?」
カエデのその問いかけに関しては首を横に振っておく。
動物と話せるだけ……というわけではないけれど、どんな言葉でも読めたり話したり出来るだけで魔法を使えなくさせられた、なんて……同情でもされたら惨めだ。腫れ物を触るような感じになっても嫌だし。
「まだわかってない」
「あっ、そう、なんだ……でも、『代償』があるぐらいだからきっと凄い『祝福』だと思うよ!」
「そうですよ、リリィさん。それに、仮に『祝福』などなくとも、貴女はここにいるだけで十二分にその使命を果たしています!」
ごめんなさい、文字が読めるだけです。精々動物と話したり、失われた言語の解読が出来る程度です。
私は『祝福』と『代償』については自分の例しか知らないけど、強力な『祝福』なら『代償』があるだなんて嘘っぱちじゃないかと思ってる。パパが言ってた『鑑定』とかならわからなくもないけど……いや、私的には『鑑定』が出来る代わりに魔法が盗られるのも嫌だけど。
しかし自分の『祝福』を知らないことになっている私がそんなことをいうわけにもいかないので、曖昧に小さく笑っておく。カエデも気遣ってくれたのだろうし。
「でも、どんな『祝福』だろうと魔法が使えないってことには変わらないってわけね……はぁ。この馬鹿、勝手に先走ってこの娘にどう責任をとるつもりなの?」
ローリエ先輩が呆れたように言うが、返ってくる言葉はない。
見ると、アイリス先輩はじっとテーブル上を見て……いや、多分見てない。しかし、視線をそこに固定して、何かを考えるように口元に手を当てている。
友人から見てその様子は不思議に映ったようで、顔を覗き込むようにして名前を呼んだ。
「……アイリス?」
若干漂う不穏とも呼べる空気に、私達は示しあったわけでもないのに会話を止める。
視線がちらりとローリエを見たのがわかるが、すぐに視線は戻された。
終いにはその眼を閉じたかと思うと、不意に大きな音を立てながら椅子から立ち上がる。
「ごめんローリエ、後お願い! 少し調べ物してくるから、これで支払い頼むわね!」
「えっ、は? ちょっと待っ」
「リリィもごめんね! そのうちまた会いにいくから!」
アイリス先輩は懐から袋を取り出したかと思うと、ローリエ先輩の話も聞かずに小銀貨一枚をテーブルの上に放り投げて風のように店を出て行く。
あまりに突然だったために私達はぽかんとそれを見送ることしかできなかった。
なんだったんだろう、一体。
「……はぁ~」
アイリス先輩を止めようとして立ち上がりかけたローリエ先輩は頭を抱えながら腰を再び下ろす。
そしてアイリス先輩が残した小銀貨に手を伸ばすと、それを指で弄ぶ。
「……よくわからないけどアイリスが会いに来るって言ってたんだから、そのうちお詫びの代案を引っさげて来るんでしょうよ。その時はまぁ、貴方達の誰かが居ればあれも暴走しないでしょうから、安心して頂戴」
「……それならいいけど……なら、もう行ってもいいのか? 結局、昨日は鍛錬があんまりできなかったから今日こそはちゃんとやりたいんだけど」
「私自身は特に話とか無いから別にいいけど、休むための休日なんだから程々にしておきなさいよ?」
「ああ、わかってる! リリィ、行くぞ!」
テオはその言葉に頷くやいなや、既に掴んでいた私の手を引いてそのまま立ち上がる。
思わずそのまま立ち上がって数歩進んでしまうが、ハッとしてすぐにテオの手を強く振り払う。テオは私がそんなことをするとは予想もしていなかったのか、自分の掌を見て唖然としたような表情を浮かべた。
「ちょっと待って」
私がそう言うとテオは我に返り、再び私の手を掴みにかかる。
だが、残念。私の徒手に関する回避力はレスターに(嫌々ながらも)鍛えられているのだよ。私が回避して伸びきったテオの腕を、横から逆に掴み取る。
「ちょっと、待って」
もう一度ゆっくりと、言い聞かせるように言う。無感情に相手の眼を見つめながらだとさらに効果的。そしてそのまま手を離すと、テオはたじろぐように一歩後ろに下がった。
それを横目で見ながら、私は再び席に座る。ティーカップを傾けていたローリエ先輩が不思議そうな顔で私を見た。
「……どうかしたの? もしかしてアイリスのことかしら」
ふるふると首を振った。別にアイリス先輩については……まぁ、どうでもよくはないけど。今は関係ない。
じゃあ何? とローリエ先輩が口にすると同時に、テーブルの傍に人が寄ってくる。
丁度いいタイミングだと思いながら顔をそちらに向けるとやはり思った通り、ウェイトレス姿の店員がそこに立っていた。
「おまたせしました、パンケーキです」
その言葉に私のだと小さく手を挙げると、店員さんはにっこりと笑った後に私の前にその皿を置いた。
ローリエ先輩は先程私が注文した通りシロップ多めで頼んでくれていたようで、改めて塗り広げる必要がないほどにたっぷりとケーキの上に掛けられていた。
「あぁ……そういえば、リリィさんは先ほどお代わりを頼んでましたね」
「……え、俺、これだけのために怒られたの? 昨日、散々走らされたのに?」
「それはそれこれはこれ、でしょ。……あの、ローリエ先輩。私にも紅茶のお代わりを頂けますか?」
「ええ、構わないわ。あと、別に敬語じゃなくたって気にしないけれど? 今後のことも考えて、貴女とは仲良くしておきたいからね」
「いただきます」
なんか回りがごちゃごちゃ言っているけれど、気にしない。邪魔なものでなければ貰えるものは貰っておく、それが私のポリシーの一つだ。
そうして手を合わせた後、ナイフとフォークを手に取り、パンケーキを適当な大きさに切り取って口の中に放り込む。
大量のメープルシロップが口の中いっぱいに広がる。甘くて、甘くて、甘くて。そして、幸せの味。
その幸せに、そして一抹の懐かしさに浸り、私はほんの数分ばかりそれに身を任せるのだった。