12 二つで一つ
意識が僅かに覚醒する。
しかし俺の眼は開いておらず、残る五感(つまり視覚を除いた四感)で外界を感じ取っていた。
音はせず、匂いも目立ったものはない。口の中は若干粘ついていて、肌に伝わってくる感触は暖かくそして柔らかで、心地の良い物だった。
そして、何よりも眠い。どうしようもないくらいに眠い。
瞼を開けようとしても、その眠たさでどうでもよくなるぐらいに眠い。
きっと少しでも思考を手放せば意識は暗闇の底へと沈んでいってしまうだろう。
不意に頬に触れられた。
いきなりの感触に俺が身体を強ばらせると、それは一瞬で離れていってしまう。
何事かと思い薄っすらと眼を開けると、そこにあるのは天井。少し横に視点を移動させたら、そこに居たのは目を若干見開いて息を呑むテオの姿だった。
……テオ?
「ここ、は」
「リリィ……? リリィ! 大丈夫か! どこか痛い所は!?」
身をゆっくりと起こした俺に対してテオは身を乗り出して俺に訊ねてくる。近い。
興奮しているようで唾が少しばかり飛んできた。それを拭きつつ、テオを遠ざけようとその近づいている顔を手で押す。
瞬間、ズキンと腕と腹部に痛みが走る。
不意打ちだった為に思わず口に出して顔を歪める。
「いっ……」
「リリィ、無理はするな!? エミリアさんは危ないのだけ治したって言ってたから!」
危ないのだけということは骨折は安静にしていれば治るから、ということか。
それとも、生前にやっていたゲームでも下手に回復魔法に頼りすぎると身体が弱くなるだとか骨に折れ癖がついてしまうだとかいうのがあったから、それなのかもしれない。
……まぁ、どちらでもいい。
痛みで眠気も吹き飛んだ。俺は右手で左腕を軽く撫でつつ周囲を見渡す。
窓ガラスから光が差し込んでいて、レースカーテンがその光を調節している。それでも部屋の中は結構明るい所をみるに、この時間帯は陽が入りやすいのだろう。
他にあるのは服や下着が入っているチェスト。一番上を開けるのは、今はまだ一苦労する。
それ以外には何もない。
強いて言うなら、俺の枕元の台におそらく水の入っているだろうボウルのような器と、小さなタオルが置いてあるぐらい。
いつもなら部屋の隅に立てかけておいてある木剣がないが……まず、間違いない。
ここは、俺の部屋だ。
オールランド家が住む家の一室。一人娘のリリィ・オールランドが寝泊まりしている部屋だ。
この時点で、いやそもそもテオがいて俺のことをリリィと呼んでいる時点で、俺が俺に戻っていることはありえなかった。
つまり、俺は……リリィ・オールランドは。
まだ死んでない。
俺は、俺の場所に帰れない。
ゆっくりとその事実を飲み込み、痛みが胸の奥に広がっていく。
俺はテオを庇って虫の息だった。放っておけばきっと、いや確実に死んでいただろう。
しかし、俺はこうして実際に生きている。
どうして?
意識を失う直前まではちゃんと覚えている。テオが助けに戻ってきたから。
そして俺とテオが時間稼ぎにもならない時間稼ぎをしていたお陰で、助けが来たから。
それでも、俺は問わずにはいられない。
疑問が頭を侵食して胸が、心臓が、酷く疼いた。
なぜ。
なんで。
どうして。
俺は、ここにいたらいけないのに。
「とにかく……うん、よかった。リリィが無事で」
よかった? 何が?
何もよくない。
少なくとも、俺にとっては。
「それじゃ、俺は師匠達にリリィが起きたことを教えに行くから、少し待っててくれ!」
「……たかったのに」
「え? 何か言ったか?」
扉の方へ足を向けかけたテオは俺の言葉を拾って振り返る。
俺は考えごとをしている時に下がっていた視点を上げて、その眼をテオに向ける。
そして、今度ははっきりと。
「俺は、死にたかったのに」
それを告げる俺はどんな顔をしていただろう。
その言葉に俺はどんな感情を込めていただろう。
テオの表情はそれの答えを雄弁に示していた。
疑問と、困惑と、唖然と、否定。
数十秒掛けて、全部を呑み込んだテオが真っ先に表したのは怒りだった。
「リリィ、お前何言ってる!?」
「だって」
「だってじゃねぇ! だったら師匠だって俺だって、何の為に」
「だって!!」
テオの言葉を遮り、俺は絶叫する。
「ここは、俺の居場所じゃない!!」
砕けるのではないかと思うほどに歯を噛み締め、俺の言葉にたじろいだテオに畳み掛けた。
「父さんがいない、母さんもいない! 歩もマルも、爺ちゃんだって婆ちゃんだって! 誰もいない!」
近所の顔見知りの人だって。
学校の先生だって。
友達達だって。
親友だって。
「誰も、いない」
俺は時久誠だ。例え生まれ変わったのだとしても、それは変わらない。
断じて俺は、リリィ・オールランドじゃない。
時久誠である俺を見てくれるのは、ここには、誰もいない。
「俺は……帰りたい」
堰を切ったように、哀愁の感情が心を占める。
きゅっと締められたように胸が苦しくなって、眼には涙が溢れる。
喉の奥から嗚咽が漏れて、それらを我慢しようと口を引き結んで涙を堪える。
八年。そう八年、俺は耐えてきた。
初めは、魔法を極めればと気長に思ってきた。
しかしその望みは断たれ、今度は仕方がなしに冒険者として強くなれればそういったアイテムが見つかるかもしれないと思った。
けれど俺の『祝福』は戦闘には全く役に立たない代物で、剣の才と呼べるものもあるわけではない。魔物を相手にできるという父の評価から、子供にしてはうまくやるのだろうがそれはあくまで物心付く前から鍛錬をしていたためだ。才能ある人が始めればすぐに追い抜かされるのがオチだろう。
どこぞの物語の主人公なら、きっと何か特別な能力に目覚めたり、或いは努力が功を奏するまで続けたりするのだろう。
けれど、俺は違う。
俺は、どこまでいっても普通の人間なのだ。
俺が俺じゃなくて、苦しくて苦しくて、けれど逃げることも自殺を選ぶこともできない。
少し機嫌が悪い時に気遣ってくれた友人に対して八つ当たりをしてしまう、そんな人間だ。
けれど、皆はそれを知らない。俺を見ず、子供であるリリィ・オールランドという存在を見ている。それがまた、自分が将来役立たずになるだろうことがわかっているが故に心苦しさを増していく。
それは、死んでここから逃げたいと思うほどに積み重なっていった。
ならば、と。俺は思ったのだ。
自殺が出来ないのなら、誰かの為にという大義名分で死ねばいいのだと。
テオが生きるべきだ、と思ったのは決して嘘じゃない。
しかし、その根底には俺の自殺に付きあわせたら見せる顔がないと、俺の死は無意味ではなかったのだと自分が思いたいが為の行動だった。
それなのに。
それなのに!
「お前がっ! お前が戻ってきたから!」
爆発する。
頭が真っ白になって、怒りと憎しみが身体中を突き抜けた。
掴みかかろうとベッドから飛び降りて、しかし身体がついていかずにベッドから落ちるようにして床に倒れる。
「あぐっ……!」
「リリィ!」
左手は支えるのには使えないから右手だけで起き上がろうとし、慌てて近寄ってきたテオに肩を掴まれた。
俺はテオに身体を触られてカッとなり、倒れるのも無視してテオの胸倉を掴む。
「うおっ!?」
テオが俺から手を離さずに踏ん張ってくれたお陰で俺は倒れこまずに済む。
そしてまだ思考が整っていないだろうテオに、唾が飛ぶのさえ気にせずに怒鳴った。
「お前がっ、お前がっ……!」
しかし涙が止まらず嗚咽で言葉が途切れ、俺は言葉尻が下がるとともにテオから顔を背けて俯いた。
「おまえがぁあああ……ッ!!」
わかってる。
テオは悪くない。俺が勝手に自殺しようとして失敗しただけで、寧ろ友人が死んだという罪を背負わせようとした俺のほうが責められるべきだ。
でも、俺は逃げたかった。自分の居場所に帰りたかった。
例えそれが万に一つの可能性しかなく、十中八九死ににいくようなものだとわかっていても、将来穀潰しになるよりはよっぽどいいのだと。
部屋の中に、俺の押し殺した啜泣だけが響く。
テオは俺をゆっくりと床に下ろして、俺はへたり込む様に座った。
「あのさ。俺ってそんな頭よくないから、リリィの言ってることあんまりわかんなかったけどさ」
そのテオの声に、もう怒りは宿っていない。
寧ろこれ以上ないほどの優しさが篭っていた。
「俺はリリィの傍にいるよ。だって、俺は……うん。お兄ちゃん、だからな」
「……俺は、リリィじゃない」
「……あーもう!」
この期に及んで何をいうかと思いたくなる言葉が口から漏れる。
それに対してテオは頭をくしゃくしゃと掻き毟り、その両手で俺の顔を挟んで無理矢理に自分の方へと向けさせた。
「じゃあ、リリィだろうがリリィじゃなかろうが関係ない! 俺は、お前の兄! んでお前は妹! それでいいだろ! 駄目とはいわせねぇぞ、俺が兄なんだからな!」
「…………いも」
「わかったらはいだろ!」
言いかけた俺の言葉を上書きしつつ、むにゅ、とテオは挟んだ両手で頬を圧迫する。
その間も俺の嗚咽は止まらず、仕方がなしに俺は一度だけ頷いた。
テオもそれに対して満足気に一度頷き、俺の両頬を開放するやいなや素早く立ち上がった。
「よし、じゃあ今度こそ師匠たち呼んでくるからな! ベッドに戻って大人しく待ってろよ!!」
そう言い残すと有無を言わせず、部屋を飛び出していく。きちんと扉を閉める辺りが律儀だ。
俺はすん、と一度だけ鼻を鳴らす。
「……妹でも、ない、けど」
アニメでもよくある台詞。『お前が誰だろうが関係ない』。
テオが言った言葉は厳密に言えば違う。やっぱりあれは俺がリリィであることを前提とした言葉だ。
けれどテオは言ってくれた。リリィではなく、俺を見ると。
それが、俺にはどうしようもなく嬉しく思えた。死ぬのはもう少し後でもいいかなと思うぐらいには。
嗚咽が治まってきた頃、ようやく俺はふらふらと立ち上がる。
ベッドにそっと転がり、天井を見た。
俺は、時久誠だ。
日本人の両親の間に生まれた、歴とした日本人。
けれど、今はリリィ・オールランドとも呼ばれている。
つまり俺は時久誠であり、リリィ・オールランドでもある。
今はそれでいいじゃないか。
少なくとも俺を俺として見てくれると言う、頼れる兄がいるのだから。
今は、それで。
元々眠気が酷かったのと泣くのに体力を消費したのか、睡魔はすぐに俺に襲いかかってきた。
そうしてベッドに横たわってから数秒もかからず、俺は夢の世界へと落ちていく。
☆
俺はテーブルに座って一番の好物であるカレーを食べていた。
母さんと、父さんと。姉の歩と、それからペットのマル。
皆と一緒に食卓を囲んでいる。
談笑しながらカレーを食べていると、母が時計を見て俺に言う。
「もうこんな時間? 誠、確か今日外にいくんじゃなかったっけ? 時間大丈夫?」
「……ん、そうだね。もう行かなきゃ」
残っているカレーを口の中にかけこんで、皿を洗面所に持って行きその足で部屋へと向かう。
雑多にある物の中で、俺が持つのは一つだけだ。
携帯も財布もゲームも鞄も、何も要らない。
ただこれだけでいい。
「よし、これでよしと」
準備を終えた俺は居間へと向かい、出かける前に家族に挨拶をする。
「それじゃあ行ってきます」
「ん、気をつけろよ」
「はい、いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
三人の言葉を背にドアを閉めようとすると、マルが凄い勢いでこちらへと滑りこんできた。
わんわんとけたたましく鳴く我が家のペットに俺は苦笑しつつその頭を撫でる。
「行ってきます。ちゃんと帰ってくるから、ほら戻って戻って」
俺が言うと最後に一声鳴いて、マルは僅かに開いていた扉の隙間をくぐり抜けて居間へと戻っていく。
こちらを振り向くその姿に小さく手をふり、俺は扉へと手をかける。
とん、と小さく押すだけでそれはかちゃんと閉じた。
扉があった。
枠は木製で、真中で十字に仕切られたガラスが張り付いている。
取手はレバーハンドル式。元はもっと綺麗だっただろう、鈍く光る銀色が瞬く。
しかし俺はその取手には手を掛けず、身を翻す。
その手には木剣を持ち、その姿は長い銀髪をたなびかせる少女として。
俺は扉へと背を向けて、しかしいつか必ず戻ると決意する。
例え、どれだけ長い時間がかかったとしても。
例え、その時俺がどんな姿になっていたとしても。
俺はどこまでいっても時久誠であり、同時にリリィ・オールランドであるから。
……でもできるならやっぱり、なんとかして男に戻ってからにしたいな。