09 花開く時
湖のほとりで足を伸ばして座り込み、見上げる。
そこでは二羽の鳥が黒い影を落としつつ空に円を描いていた。
その更に上には疎らな雲と、天辺にはまだ少し届いていない太陽が浮かんでいる。
世界が変わっても変わらないものはある。その一つが空だ。
どこまでも広く、どこまでも青く。俺の記憶にあるものとなんら変わらない。
まぁ、前世ではこんな風に落ち着いて空を見上げることなんて滅多になかったが。
「……はぁ」
しかし、知らず溜息を吐いてしまう。
こんなにも景色は綺麗だというのに、俺の心はどこまでも穏やかにはなれなかった。
こうしてのんびりしているのも久しぶりだというのに、精神的な疲労は取れるどころか溜まる一方だ。
これならマルタも連れて来ればよかった、と思う。
大型犬だから生命力は強いだろうが、魔物がいる以上危険なために連れてくることは出来なかった。
態々セーブポイントから出て我が身を危険に晒しに行く必要もないし、丁度湖があるのだし、水浴びをするのもいいかもしれない。そうやっていつものように遊んで、疲れたら昼寝をすればいい。
そうすれば、何も余計なことを考えることなどせずに済むのだから。
ぴちょん、と湖の真中で魚が跳ねる。
まるでそれを皮切りにしたように、湖の縁にいた動物達が森の中へと消えていく。
きっと昼飯時なのだろう。いくら自分たちを捕食する魔物が出てこない場所とはいえども自分たちの餌といえばここにあるのは草ぐらいのものだし、ずっと過ごすわけにはいかない。何より人が休憩地点として利用する以上狩られることもあるだろう。
最も、距離が離れていたからか今回は俺達がいても関係なしとばかりに羽を休めていたが。
というかそう考えたら急にお腹がすいてきた。今気がついたが、俺は母から昼食をもらっていない。父が全部持っていたのかもしれないけど、それも受け取っていない。
鍛錬の一環で自分で取れということなのか。父はこの辺りの魔物なら俺やテオでも追い払えると言っていたし、もしかしたらそうなのかもしれない。
あまり危険を犯すつもりはなかったけれど、鍛錬というなら仕方がない。動物はきっと殺せるが、問題は殺した後どう調理するのかということだ。
とりあえず火にかけておけばなんとかなるかなと思いつつ立ち上がる。働かざる者食うべからず、ではないけれど動かなければ食事が出ないというのなら仕方がない。
「リリィ」
「……何」
立ち上がった俺の後ろから、名前を呼ばれた。それに俺は少しだけ驚くが、振り返りもせずぶっきらぼうに答えてしまう。ここに俺の名前を呼ぶ人物などテオしかいないからだ。
俺は父がいなくなってからまともにテオを見ておらず、じっと湖や空を見ていた。何をしていたのか、視界の中にテオが映ることもあったが多分、父に念の為警戒というか、セーブポイントの近くにいる魔物でもいたら観察しておけとでも言われたのではないだろうか。
驚いた理由は、その視界に映った時にテオはきょろきょろと忙しなく辺りを見渡していて、こちらを気にしている様子はなかったからだ。話しかけてくる気などきっとないのだろうと思っていた。
「昼飯、食べるだろ」
そう言われて振り返ると、テオはその手に見慣れた包を持っている。父がいつも家から出かける時に持っている昼食の包だ。
ああ、と納得した。父は別れ際にテオに昼食を渡していたのだ。
その時のことを思い出し少しばかり胸の奥が痛むが、俺は意識して深呼吸をしてそれを誤魔化す。
「……食べる」
一呼吸置いた後それを告げると、テオの表情が強張ったをした。
そんなに嫌なのだろうか。でも父から分けて食べろといわれているのだろうし話しかけざるを得なかった、ということなのだろう。
テオは眼を閉じて先ほどの俺のように深呼吸したかと思えば確かめるように一度頷く。
「…………よし。じゃあついてきてくれ」
「なんで?」
間髪言わずに問いかける。
どこにいくのかは分からないが、この口ぶりだとこの辺りではないのだろう。少なくとも見える範囲なら指をさすなりして、あそこで食べようとでも言う筈だ。
森の中で食べるというなら危険だし、テオがそういうんなら俺は自分の分だけもらって一人で食べる。一人で食べるのは慣れているから、特に問題はない。
「っ……いいからっ! 師匠に言われてるんだよ!」
また、心に棘が刺さる。
俺は怯んだ精神を震わせ、なんとか言葉を捻り出す。
「……わかった」
言われているから、仕方がないのだ。
俺は、言われていないが。
テオが父から言われているから、仕方がないのだ。
俺の返答にテオはホッとしたような顔になる。
そんなに安心するのか。師匠の――父の言うことが聞くことができて、そんなに嬉しいのか。
俺には、そんな顔しないくせに。
「じゃあ、行くぞ。魔物は大丈夫だから、心配すんなよ」
何を根拠に大丈夫だというのかわからないが。
俺にはそれに言い返す気力すら残ってなかった。
☆
一年前の話をしよう。
父の指南後、俺がマルタと遊び終えて戻ってきた時にテオがまだ母と話していた時の話。
見たことのある布を床に広げ、テオは母に言われるがままにその真中に手を置いていた。
すると六つある内の一つ、緑色の石が淡く光を発する。
おおっ、と興奮するテオに母は笑みを深めた。
その時の母の台詞は、すぐにでも思い出せる。
『テオには風属性の適性があるのね。じゃあ私に言ってくれれば、いつでも教えてあげるからね』
半年前の話をしよう。
父の前でテオが俺と手合をして、初めて勝った時の話。
テオは俺に勝って、手放しで喜んでいた。
俺はテオに負けた事は悔しいが、次は勝ってやると大の字で地面に横たわりながら思っていた。
見るとテオは興奮してはしゃいでいて、父はそれをもう少し落ち着けと咎めながらも彼の頭を撫でていた。
丁度、先ほど父が深層に行く前、テオと内緒話をしていた時のように。
そんな時、父が何気なく言った言葉が今でも耳に残っている。
『俺に息子がいたら、きっとこんな気分なんだろうな』
三日前の話をしよう。
つまりテオと喧嘩をしてから四日目の話。
俺はいつも通りに鍛錬をしていた。
いや、いつも通りというのもおかしい。喧嘩をした日以来、俺は鍛錬の量を増やしていたからだ。火の曜日にはそれこそ倒れるぐらい。
その日も俺はランニングを終えて、素振りをする前のクーリングダウンとして村の中心にある広場を歩いていた。
その時に偶然テオを見かけたのだ。
テオは、笑っていた。
俺じゃない友人とボール遊びをしていて、俺には滅多に見せない笑顔を見せていた。
その時の光景は、脳裏にこびりついて離れない。
下らない『祝福』、その『代償』で魔法も使えない。
きっと息子が欲しくて、剣術を打ち合いたかった父の期待にも答えられない。
テオには俺は数ある友人の一人、いや師匠の娘だと言うことを除けばそれ以下でしかない。
俺は一体何なのだろうか。
俺はなんでここにいるのだろうか。
俺はどうして生まれ変わったのだろうか。
先を行くテオの表情は勿論伺えず、見えるのは背中だけだ。
俺にはそれの予想すら許されない。
この三年間で知ったテオが、今の俺には酷く遠くに感じられた。
こんなに嫌な思いをするのなら。
こんなに苦しい思いをするくらいなら。
俺は。
俺は――――
「ここ……だな」
テオの言葉に、ハッ、と意識を取り戻す。
どうやら目的地についたらしい。立ち止まったテオの後ろからそこを覗きこんだ。
そこにあったのはただ鬱蒼とした木々の中にある、人が四、五人いれば満員になるだろう程度の広場だ。
特別見晴らしのいい場所というわけでもない。これならあの湖の近くで食べたほうが良かった、というのが俺の正直な感想だった。
「……魔物がいて危ないから、早く食べよう」
テオを押しのけて、その広場に入ろうとする。
しかしテオはそんな俺を手を掴んで入るのを阻んだ。
「いや、それは大丈夫だから、もう少し入るのは待ってくれ」
「……どうして」
何が大丈夫なのか、なんで入るのを待たないといけないのか。説明もなしには納得もできず、つい手を振り払ってテオを睨みつけてしまう。
険悪な雰囲気になっているのは、俺が悪いはずなのに。わかっているのに、敵視するのを止められない。最悪、取り返しがつかなくなることだって知っているのに。
テオはそんな俺からバツが悪そうに一瞬眼を逸らすが、しかしすぐに視線をぶつけてきた。
「大丈夫なものは大丈夫なんだよ! だから、もう少しだけ待って…………!」
「……? 何を…………っ!」
テオの眼が驚愕に開かれる。
それは俺を見ているわけではなく、その向こう。
何を見ているのかと思い振り返ると、そこはただの仄暗い広場ではなくなっていた。
太陽の光が木々を縫うようにして差し込む。暗い森の世界において、それは柱となって姿を見せる。
エンジェルラダーを彷彿とさせるその光の柱は、ただそれだけで幻想的だ。
だが、それだけでは終わらない。
広場にあった萎びた草は、その陽の光を浴びてまるで生き返ったかのようにその花を芽吹かせたのだ。
「すげぇ……」
そう呟いたのは、俺だったかテオだったか。
生前でもテレビやパソコンでこういったこの世のものとは思えない風景を見たことがあったが、実際に芽にすると言葉すら失う。
正しく、『凄い』。それしか感想が出てこない程に。
「……これを、見せたかったの?」
「……あ、ああ。師匠に、教えてもらった。見せるか見せないかは、俺次第って言われてたけど」
教えてもらった本人ですらここまでと思ってなかったのか動揺が隠せていない。余計なことまで口を滑らせてしまっている。
それを見て、思わず笑みが漏れてしまった。
目には目を、歯には歯を。そして、礼には礼を。例え今の関係が悪くとも、そうせねばなるまい。
「テオ」
「……んぁ?」
「……ありがとう」
信じられない風景に呆けていたテオに対してそう口にすると、面白いようにテオの顔が真っ赤になる。
先ほどとは違った雰囲気で俺から目を逸らして、言い訳をするかのようにぼそぼそと言う。
「いや! 俺は師匠から教えてもらっただけだし、ただ連れてきただけだし……ああもう、さっさと飯食うぞ! ここに光が刺すのは、太陽が真上にあるときだけらしいからな!」
そういうとテオは包を開いて、その中に入っているサンドイッチを手渡してくる。
私的にはピクニックといえばおにぎりだけれど、この付近では米がとれないようで八年間一度も米を食べていなかった。
でも今はこれでよかった。いや、これが、よかった。
会話もなく二人並んで木の根に座り、サンドイッチを食べる。
先ほどまでなら絶対に嫌だったのに、どうしてだろうか。この沈黙も悪い気はしない。
間もなく、ぺろりと全てのサンドイッチを食べ終える。
太陽も徐々に傾き始めて、広場の端から陽の光が失われていく。
名残惜しいがもう終わりだ。俺は立ち上がり、テオの前に立った。
「行こう」
「え? いや、最後まで見ててもいいんじゃ……」
その言葉に俺は首を振った。
確かに最後まで見ていたい気持ちもある。が、だからこそ最後まで見ないのだ。最後まで見てしまったら、この温かい気持ちも終わってしまうような気がしたから。恥ずかしくて言えないけれど。
それに、もう一つ理由がある。
「魔物が来るかもしれない。パパはこの辺りのなら追い払えるって言ってたけど、会わないがいいから」
その言葉にテオは少し考えるような素振りを見せた。
俺が首を傾げると同時、テオはまた何かを確かめる様に一度頷いて口を開く。
その手はポケットに突っ込んでおり、何かを取り出そうとしている様に見えた。
「実はさ、師匠から……」
瞬間。
言葉ではない咆哮が俺達を貫いた。
『■■■■■■――――!!』
びくん、とテオの身体が跳ね、その手から俺に見せようとしていた何かが溢れ落ちる。
近い。ただそれだけなら、怯えながらもさっさとセーブポイントに戻ろうと全力疾走をしていただろう。
だが俺は、森全体を打ち震わせた先の哮りに心臓が信じられないくらいに早鐘を打つ。
だって、俺には聞こえていたのだ。
その叫喚の中身が、何を意味していたのかということを。
『鏖』
そこに宿っていたのは明確な殺意。
知能ある猛獣の、狙いを定めた蹂躙の合図。