TSヒロインもの。
ふん、ふん、と。鼻歌を口ずさみながら笑顔を浮かべる、一人の機嫌が良さそうな少女がいた。
外見は十代の半ばといったところだろうか、子供らしいあどけなさが残る顔立ちとは裏腹に、女性特有の身体的特徴が見てそれと分かるほどに表れている。
栗色の髪を纏めたサイドテールをフリフリと揺らし、スカートの上からでも見てとれるヒップをモデルのウォーキングのように動かして歩くその姿は、ある種のあざとさがあるものの女性的な魅力を感じさせるものだった。
彼女の美少女と言って差し支えない容姿も合わさって、そこらの町なら道行く男の視線を集められるであろうその行動を、彼女は誰に見せつけるでもなく行っている。
木目模様の廊下を進む彼女は、とある部屋の前でその足を止めた。
先ずはマナーとしてのノックを行い、それに返答がないのを確認してから、彼女はそっと扉を開ける。
その部屋の中には、一人の男がいた。寝間着姿でベッドの上に寝転がり、抱き癖があるのか毛布を引き寄せる形で右横に纏めている。
彼の寝姿を見て、彼女は小さくクスリと笑った。
彼が朝遅くまで寝ているのはいつものことで、彼女がそんな彼を起こすのも最近は日課となり、それを彼女は喜んで行っている。
彼女が彼を見つめる目には、熱が籠っている。その視線を見れば彼女が世話を焼く理由など一目瞭然だし、事実、彼女と彼が暮らすこの家の近所では、彼女と彼はそういう関係として見られていた。
そっと、彼女が彼の側に寄る。ベッドと近くで腰を落とすと、いとおしそうに彼の頬を撫でた。
すると、彼がむず痒そうに身じろぎをする。その様子をかわいく思った彼女は、小さく笑いを漏らして。悪戯を思い付いた、と言わんばかりの表情を浮かべると、彼の唇に目掛けて顔を徐々に近づけていった。
窓から差し込む朝日が照らしていた彼の顔に、影が掛かる。
光を遮った犯人は頬を若干赤く染めて、迫ってくる彼の顔面に視線を埋没させていた。ドキドキと胸の高鳴る音が彼女自身の耳に響き渡り、視界が彼の顔で一杯になるまで近づくとその目蓋を閉じる。
彼の寝息が、彼女の顔にかかる。その熱を感じてさらに頬の赤みを増しながら、彼女はそっと、唇を重ね合わせようとして――
「おい」
ガシリ、と。彼女の顔面を鷲掴みにした彼が、無理矢理それを止めた。
「……あれ? 起きてたのかい、君」
「起きたよ。今起きたよ。何してんのお前、何しようとしてんだよ、おい」
「何って、そりゃあ、おはようのキスを――」
「ふんっ!」
彼女の言葉を聞いた瞬間、彼は上に覆い被さる彼女を払い除けるようにして飛び起きた。
わぷ、と尻餅をついた彼女に視線をやることもなく、彼は足早に部屋を後にしながら空中で指を手早く動かす。すると彼の格好が、寝間着からラフなシャツとズボンへと一瞬で変化した。
あまりに非現実的な光景ではあるが、それを見ていた彼女は特に驚く様子も見せない。まるで当然のことのように受け流して、慌てて彼の後を追った。
「お、おい、そう怒らないでよ……。可愛い悪戯だろ、ね?」
「……あのな。悪戯で唇奪われかけた俺の身にもなれよ」
「うぐ。……で、でも、僕だってファーストキスは未だだし……」
会話を交わしながら、二人揃って廊下を進んで行く。
男は不機嫌そうな様子を隠さずに、先程の少女の行為を詰る。それは照れ隠しでも何でもない、男の本心からの言葉である。
別に彼は同姓愛者ではないし、彼女のことを嫌っているわけでもない。むしろ多大な好意を寄せていると言っていいが、それは決して異性に対するものではなかった。
言い訳を続ける彼女に、彼は一つ溜め息を吐いて振り返る。
何度も言った筈だが、と前置きをして、彼は彼女に指を突きつけて。
「――いいか。俺は、これっぽっちも、ホモになるつもりなんてないッ!」
少女――ほんの数ヵ月前までは男だった彼女に、そう言い放ったのだった。
オンラインゲームのプレイヤーが、使っているキャラクターになってそのゲームの世界にトリップした。そんな小説なら既に使い古された展開が現実に起こってから、数ヵ月の時が経過している。
そのゲームは、昔からの伝統的な範囲を外れないファンタジーを世界観にしたゲームだった。
魔法があり、剣があり、エルフがあり、妖精があり、ドワーフがあり……。さして珍しい要素は含まない、言うなれば王道ファンタジーを地で行く正統派なものである。
たかがテンプレ、されどテンプレ。個性よりもクオリティと運営に力を入れていたそのゲームは、正統派故の安定した面白さがあり、昨今のオンラインゲーム戦国時代においても中々の人気を誇っていた。
とある男性――『ジン』という名前のキャラクターでプレイしていた男は、そのゲームを初期からやっていた人間の一人だった。
元々オンラインゲームに興味はなかった彼は、親友に誘われる形でそのゲームを始めた。それからずっとゲームを続けている彼のキャラは、一部の廃人達を除いた中では上位に入るくらいのレベルにまで成長している。
そして彼も、ゲーム世界への集団トリップに巻き込まれたうちの一人だった。
いつものように親友と冒険に出掛けていたら、突然彼の視界はゲーム内でのキャラが見ているであろうものになっていて。自分がゲームの世界に来たのだと認識したのは、一緒にいた人間の中身が彼の親友であることを理解した時だった。
彼にとって幸いだったのは、彼がプレイしていたキャラクターの設定がその世界に反映されていたことである。
キャラクター、つまりジンにはその世界での家――所謂拠点であり、多額のゲーム内通貨を払うことで入手可能だった――があり、身分があり、信用がある。
社会的な基盤がある状態だったために、彼はゲームの世界にいきなり放り込まれたという状況でも、なんとか生活を送ることが出来た。
……そして。ある意味不幸だったのは、彼の親友の存在であろうか。
親友はゲーム内での自分の家を持っておらず、仕方がないからと彼は自宅での同棲を認めた。
リアルでは気心の知れた仲だということもあるし、何より親友はとある問題を抱えていたからそれを心配してのことだった。
親友のリアルでの性別は、男である。テニスが得意な優男で、気取った口調がよく似合う男だった。
そんな彼がプレイしていたキャラクターは、まさかの女性だった。それもどれ程気合いを入れてキャラメイクを行ったのか、アニメのヒロインのような可愛らしい美少女だった。
彼曰く、どうせならリアルではやれないようなことがしたい、という理由でそんなキャラにしたらしい。ゲームではネカマを演じていた彼は、演技の才能もあったのか、何度か男のキャラクターにナンパされることすらあった。
ゲーム内の自キャラになった彼、もとい彼女は当初、自分が性転換してしまったことに酷く落ち込んでいた。
あくまでネカマは演技であり、女体化願望があったわけではない。男であったアイデンティティーの崩壊は、彼女にショックを与えるに十分すぎた。
その様子が見ていられないと、ジンは甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。彼女を必死に励まして、気分を変えようと様々なことを試した。
それがなんとか効を奏し、一月が経ってようやく彼女は気を取り直した。女になった現実を受け入れて、新たな生活をポジティブに楽しむことにしたのである。
それで話が終わればよかったのだ、が。幸か不幸か、それが新たな事態を産み出した。
ショックから吹っ切れた彼女は、どうやら他の色々な部分も一緒に吹っ切ってしまったようで、気がつくとジンに対して明確な好意を向けるようになっていた。
元々そういう資質があったのか、それとも精神が体に引っ張られたのかは分からないが、一月もの間優しくされたことが随分と心に響いたらしい。彼女がジンに向ける目は、恋する乙女のそれになっていた。
それから彼女はジンに人前問わず抱きつくようになったり、家では不自然なほどに薄着をしたり、風呂での裸の付き合いを強要してきたり。彼女が思い付く限りのアプローチでもって、彼にアピールをしてきた。
外見は美少女である彼女だが、その中身は自分のよく知る男であることを理解している彼は、その誘惑に負けたことは一度としてない。
彼は健全な異性愛者であり、例え形は女であっても男を愛するのは御免であった。……少なくとも今は、という言葉は付くけれど。
「ところで、さ。今日はどうする?」
彼女が作った朝食を食べ終え、二人で一息ついていた時のこと。
ソファーに座るジンに寄り添いながら、彼女はそう問いかけた。
ゲーム内での彼女の名前は、『カノン』という女の子らしいものである。
勿論リアルとは別の名前なのだが、ゲームの世界に来たならリアルのことは忘れた方がいいと彼女が言い張ったために、二人がそちらの名前を使うことは今では殆どない。
ジンは手元の珈琲を啜りながら、視線を横のカノンに向ける。
足を揃えて横に流し、しなを作って見つめてくる彼女の仕草は、女性のそれと言うには若干の違和感を拭えなかった。
当たり前ではあるが、男として過ごしてきたカノンが女性の仕草や心得を身に付けているはずもなく、普段の彼女は男のような振る舞いにならざるをえない。
ジンに恋心を抱いてからは、彼にアピールするためなのか精神が女になりつつあるのか、今のように女のような振る舞いを試みることが何度もある。が、それはまだまだ猿真似の域を出ないために、女性が普通に振る舞うような自然さはジンには感じられなかった。
「そうだな……。とりあえずギルド行って、良さそうなクエストがないか探してみるか。金は幾らあっても困らないし」
「おいおい、一昨日に討伐クエスト行ってきたばかりだろ? わざわざ遠くの火山まで行ってきたんだし、もうちょっとインターバルをだね……」
「分かってる、受けるとしても軽いやつだよ。ホフゴブリンの討伐とかでいいだろ」
「……むぅ」
ジンの言葉に、分かっていないとカノンは頬を膨らませる。
トン、と彼が珈琲を溢さない程度の強さで抱きついた彼女は、上目遣いに彼を見上げて。自身の女の証を彼に押し付けながら、彼女は口を開いた。
「ったく、分からないかなー。僕は遊びに行きたいんだよ、遊びに」
「遊びにねぇ……。つーかくっつくな、気持ち悪い」
ぎゅう、と甘えるようにして体を擦り寄せるカノンを、ジンは照れる様子も見せずに冷たくあしらう。
部屋着として双方共に薄目の服を着ているため、彼女の母性の塊がふにふにと当たる感触をこれでもかと感じているだろうに、彼は一寸たりとも動じていなかった。
それが若干気に触った彼女は、これなら反応せずにはいられまい、と足を絡ませるようにしてさらに密着する。
彼はそんな彼女を押して引き剥がしながら、言葉の続きを口にした。
「遊びって言っても、まともな娯楽施設なんかあんまないぞ? ここゲームの世界だし、世界観が中世ファンタジーだし」
「店とか適当に見て回って、ご飯食べて、そういうので構わないよ。それに、途中でご休憩に入るのも、僕としてはいっこうに――」
「せいっ」
ゴツン、と。カノンの頭に降り下ろされた拳が、彼女の言葉を無理矢理に中断させる。
ご休憩。それが言葉通りの意味ではなく、とある隠語として使われていることは彼女のにやけていた表情が物語っていた。
頭を押さえて痛みに悶える彼女に、ジンはただただ冷ややかな視線と言葉を送る。
「……あのな。ホモ云々以前に、俺とお前はそういう仲じゃないだろ。気色悪いことを言うなよ友達止めんぞ」
「ちょ、ちょっとした冗談なのに、そこまで言わなくても……。ていうか君、僕みたいな美少女も平気で殴るんだね……」
「中身が男だからな。安心しろ、普通の女には紳士的に接してるから」
「……え? ひょっとして、ある意味僕が特別な存在宣言?」
「……」
「待て、待つんだジン。僕が悪かったし今のも冗談だから、その振り上げた拳を下ろすんだ」
無言で握り拳を形作ったジンを見て、カノンは慌ててそれを止める。
筋力のステータスを重点的に振ったキャラクターの拳骨は、それが本気ではなくともかなり痛いということを彼女は身を以て知った。
一瞬星が見えたあの一撃は、彼女としてももう一度味わいたいものではない。
そのまま数秒ほど睨み合いをして、結局折れたのは彼の方だった。
はぁ、と溜め息を吐いた彼は上げていた手を下ろし、飲み終えていたコーヒーカップを机に置く。
それから彼女に視線を戻した彼は、ふと、真面目な表情を形作った。
「……あれ? なんだい、どうし――うひゃあっ!?」
もにゅ、と。ジンの両手が、カノンの乳房を鷲掴みにする。
彼の様子を訝しんでいた彼女はその瞬間奇声をあげて、頬を一気に紅潮させた。
一分ほどか、それとも数分ほどか、時が経つと彼はようやく手を離した。
頬をリンゴのようにして俯いている彼女を見やると、彼はそっと彼女の体を遠くに押しやって。視線をしっかりと彼女に向け、諭すような口調で口を開いた。
「……ったく。胸揉まれたくらいでそんなに顔赤くするなら、初めからあんな冗談言うんじゃないよ、ホント」
「……」
「まあ、いきなり胸を揉んだのは悪いとは思う、が。でも分かっただろ、お前はいざとなったら――」
……きっと。彼の意図は、こうだった。
アピールを段々とエスカレートさせてくる彼女に対し、あえて逆に一歩踏み込んで見せることで、彼女にそれ以上の行為を躊躇させる。
自分が、男と、“本番”をする――。それが現実に起きうるものだと認識させることで、その可能性への危機感をしっかりと抱くようになるのではないか。
まさか、いくらなんでも本気で男と合体することに躊躇がないはずもないだろう、と。彼はきっと、そう考えていたのだ。
ある意味、彼は彼女に対する強い信頼を抱いていたと言える。
それがただの自分の願望だったのかどうか、彼は自分の身で思い知ることになったが。
「――『パラライズ』」
ポツリ、と。カノンが呟いた言葉は、力を持った言霊として効力を発揮した。
彼女が行使したのは、この世界における魔法である。
言葉に魔力を込めて言霊とすることで、世界に何らかの干渉を行う。それが魔法なのだと設定されていた。
彼女が今行使したのは、特定の対象に麻痺を引き起こす魔法だった。
それはしっかりと仕事を果たして、ジンはあっという間に体の自由が効かない状態へとなってしまっていた。
いったい何のつもりかと問いかけるまでもなく、彼は彼女の意図を理解する。
顔を上げた彼女は、明らかに性的な興奮による熱を帯びていた。
「……」
あ、これアカン奴や、と。目の前の少女の本気さを計り違っていたことに気づいた時には、既に時遅く。
何かのスイッチが入ってしまったのか、野獣のような眼光でジンを見つめるカノンは、即座に自分の服を脱ぎ捨てる。
麻痺状態であるために舌の先まで固まっている彼は、逃げるどころか話すことも出来ず、自分はまな板の上の鯉なのだと理解することしか出来なかった――。