3.主(あるじ)さま
コトハと漆黒の男の間で、気まずい空気が流れている。
案内状とか呼ばれる便箋を手に、言葉なく立ちすくむコトハと。
何やら大切な書類でもあったものか。
破れた紙片を前に、呆然としている漆黒の男と。
互いが、それぞの理由で絶句していた。
しばらくして、「おい」と男が呼んだ。
「そこに書かれている通り、お前は今日からここの従業員だ。さっそく、配達に行ってもらうぞ」
「……わたし、無理矢理ここに連れて来られたんだって、知ってます?」
「あいつは俺に、お前を頼むと言った。俺は了承した。ここに来たのは、お前が望んだからではないのか?」
「……わたし、頼んだ覚えありません」
と言いながら、コトハは自身の心のうちを見つめていた。
あの時、確かに自分は、何処かへ逃げてしまいたいと思っていたのではなかったか。
イケメンな神官が言った言葉が蘇る。
『偶然であって、偶然ではない』
言われた時は(は?)と思ったが、もしコトハの深層心理にあるものが、何らかの力でこの不思議を呼び寄せたのだとしたら。
今ここにいるのは、ひょっとすると自分の望んだ結果なのかもしれない。
自身を見つめるうちに、コトハはそのように考えるようになった。
「ふん。お前もあながち阿呆という訳ではないらしい」
この漆黒の男の言葉は、やけに鼻につくけれど。
「それで、さっきから、あなたはわたしに配達に行けと仰いますけど。わたし、何したらいいんですか?」
「言葉の通りだ。配達に」
「だから、何の配達なんですか!?」
その時突然男が立ち上がった。
椅子がガタンと大きな音を立てる。
コトハはビクッとして身構えた。
男は小柄なコトハの頭二つ分は高い位置から、威圧感たっぷりに見下ろしている。
「あ、あの……」
気圧されて、コトハは一歩後ずさった。
「どうやら、お前には、細かな説明が必要なようだな」
面倒臭そうに溜め息混じりに言う彼に、コトハは「出来ればお願いします」と、か細い声で応じた。
彼は付いて来いと言って、さっさと居間を出て行った。
コトハも慌てて小走りであとに続いた。
居間を出ると、そこは小さなカウンターのある部屋だった。
部屋はそのまま、建物の出入り口と繋がっている。
「ここが、客から郵便物を受け付ける窓口だ。お前はここでは働くことはない。専ら、配達に出てもらう」
「はあ」
それが与えられた仕事というならするけれど……。
「なんだ。何か不満か?」
漆黒の瞳がギロっと睨んだ。
「い、いえ……。でも、配達じゃないといけないのかなあとは思います」
「……ここに来る奴は、配達員と決まってるんだ」
「え?わたしが初めてじゃないんですか?」
「ここで受け付ける郵便物は、人の想いが詰まってる恋文。大切に扱えよ」
(うわっ、はぐらかされた。)
指摘する間もなく、彼は扉から外へ出て行こうとしている。
(なんだか、すごく大切なことをさらさら言われてるような……)
コトハはまた小走りで後を追った。
扉を出ると、そこは庭だった。
綺麗に手入れされた芝生と、季節の花々と。
それらを時折愛おしそうに眺めながら、彼はある所で立ち止まった。
そこにはのぼりが立っていた。
『あなたの恋文、届けます』
はためく布地には、そう縫い取りがしてあった。
「人々の想いが詰まった恋文を届ける。それは、とても責任のある仕事だ。お前の心の持ちようで、人の恋がダメになることもある。分かるか」
コトハは小さく頷いた。
さっきまで怖かった漆黒の瞳が、今はとても優しい光をたたえている。
この人は……。
(この仕事が大好きなんだ)
「あの。あなたの名前は?」
コトハは初めて、彼のことを知りたくなった。
名前は?年齢は?今までどのように過ごして来たのか。
一見無愛想で、言葉が少なくて、怖いけれど。
あの花たちを愛でるように、きっとこの人の心にはたくさんの優しさが詰まってる。
「俺のことは、主さまと呼べ」
「あ、あ、あ、あるじさま?」
「そう。今までの奴らもそう呼んで来たからな。シャキシャキ、しっかり仕事をこなしてたら、そのうち本名も教えてやるさ」
彼はニヤリと笑った。
(前言撤回!やっぱり、この人、意地悪だ)
その時一陣の風が庭を駆け抜けた。
のぼりがパタパタと音を立てて風に翻弄される。
コトハは長い髪を押さえて、その風をやり過ごした。
彼は。主さまは、風に抗うことなく、漆黒の髪をなびかせていた。
(綺麗だな……)
思わず見惚れると、その視線に気付いた主さまがコトハを見下ろした。
「……コトハ」
「は、はい!?」
「動きが鈍い。さっさと配達に行って来い」
(がびょ〜ん)
こんな主さまとのこれからの生活に、コトハが一抹の不安を覚えたのは言うまでもない。
…
それから半月。
王都までの街道を行くコトハ。
恋文を届ける日々にも徐々に慣れ、この日も誰かの大切な手紙を持って歩いている。
(主さまの人使いの荒さにも大分慣れたよねえ)
無愛想な所にも。
言葉数の少ない所にも。
彼女がここの生活を楽しんでいることは、そんな主さまにはまだ内緒。
王都まで、あと少しの道のりだった。