11.王女さま、郵便です。(2)
コトハは走った。長い廊下を、とにかく走った。
長いドレスの裾が絡みつくのを、ものともしないで走っていた。
どこに王女の居室があるかも分からないで。
息が切れても立ち止まらず、とにかく王女がどこにも移動しないうちに辿り着かなければならない。
(でも、もうダメかもしれない)
また足首が痛み始めたのだ。
当初は治療のおかげか平気だった足首が、どんどん痛みを増していく。
(ああ、ダメだ)
そう思った時。廊下の端に辿り着いた。
突き当たりを左に曲がると、螺旋階段があった。上に上がるだけで、下りはない。
「か、階段……」
その段数を見れば気が遠くなるような思いがするけれど、今のコトハは何故かこの先に、王女の居室があることに絶対的な確信もっていた。
(なんだろう。これ)
暗闇に灯った小さな光のように、彼女を導く力があった。
それに勇気を得て、コトハは一歩一歩階段を上り始めた。
(みんな、いつもこんな階段上り下りしているんだろうか)
エレベーターもエスカレータもない世界。
元の世界とは根本的に違う世界だということを改めて感じる。
(わたし、体力ないな……)
自覚していることだとは言え、ここまでとは思わなかった。
やっと上の階に辿り着き、コトハは肩で大きく息をついた。
(あっちだ)
階段から続く廊下の先。
そこだけが周囲よりも明るく見える扉があった。
その不思議にさして疑問を持つこともなく、コトハは扉に向かう。
そこも下の階と同じで、壁はタペストリーや絵画で飾られていた。
王太子が描いたと思われる王女の肖像ばかり。
(王太子さま。よっぽど妹のことが可愛いんだ)
ほっこり温かい気分になりながら扉を目指していると、その扉が中から開けられた。
びくっとして辺りを見渡すが、身を隠す場所はない。
(どうしよう)と思う間もなく、出てきた若い女官と目が合った。
「あら。どちらの女官?」
明らかに訝しく思っている目でコトハを睨みながら、女官は足早にコトハに近付いた。
「どこの女官かと聞いているのです。許可なく王女さまの部屋に近付くことは許されないわ」
では、やはりここが王女の居室なのだ。
「ねえ。何か答えなさいよ」
肩をぐいっと押された瞬間、コトハは扉に向かって走った。
「あっ!誰か!曲者よ~っ」
女官の声が廊下に響く。
その声にも後押しされるように、コトハは扉を開け中に飛び込んだ。
突然のことに女官たちが悲鳴を上げる。
「王女さまを!ユリアさまをお守りするのよ~!!」
何人かの女官が隣の部屋に入って行くのが見えた。
(あそこだ!!)
コトハを制止しようとする手を払いのけ隣の部屋に走る。
「早く。止めるのよ!」
「親衛隊長を呼びなさい!」
怒号が飛び交う中を走り抜ける。
もう少しで隣の部屋というところで、女官が一人飛び掛かってきた。
「行かせてよ!」
自分にこれほどの力があったとは知らなかった。
これが火事場のくそ力と言うのか。
コトハはその女官を背負い投げで沈めると、ついに隣の部屋に辿り着いた。
「キャ~~~ッ!」
その時のコトハは、人生でこれ以上はないというくらいに酷い顔をしていたに違いない。
荒い息を吐きながら、結い上げていた髪をぼろぼろにして、奇人さながらに女官たちを睨みつける。
彼女らは一カ所に集まり、皆一様に怯えた顔をしながら王女を取り囲むように守っていた。
「あなた……」
まるで天使が話したのかと思うほどに美しい声だった。
「あなた、昨日大広間にいたわね」
王女が自分を覚えていた?
どんな時にコトハを見ていたのか。
見当も付かなかったけれど、コトハは「はい」と頷いた。
「早く、捕えなさい!親衛隊長は何をしているの?」
初老の女官が取り乱したように喚いている。
ここで落ち着いているのは、王女とコトハだけのようだった。
(親衛隊長……カールさま……。きっと怒ってらっしゃるよね)
それでも、ここで引くわけにはいかない。
「王女さま。恋文をお届けに参りました」
ついに、その言葉を王女に告げることが出来た。
安堵したのも束の間、両腕を羽交い絞めにされた。
「離して!」
「早く、連れてお行き」
「お待ちなさい」
凛とした声で声で言って、王女がすっと立ち上がると、女官たちがさっと道を開けるように脇に控えた。
「王女さま?」
初老の女官が戸惑いの表情で王女を見ている。
「離してお上げなさい」
「でも」
「いいから。その方、わたくしに用があって、おいでになったのだわ。そうでしょう?」
コトハは力強く頷いて、「グレニー、グレニー・モンティーノ卿の恋文を」と言いかけた時、王女が「待って」と、それを制した。
「皆、下がっていて」
「王女さま!?」
「お下がりなさい。親衛隊長がお見えになっても、しばらく待っていてもらって」
命令とあっては仕方ない。女官たちは不安げにしながらも、コトハから手を離し、部屋から出て行く。
「お前もよ。アン」
その場に留まろうとしている初老の女官に、そう言った。
「王女さま……」
「この方は大丈夫。安心して、待っていて頂戴」
花が咲くような笑顔を向けられ、その女官は仕方ないと言うように溜め息を吐くと次の間へと出て行った。
「あなた、恋文専門の郵便局の方ね」
「ご存じなんですか?」
「ええ。貴族の娘たちの間では、ちょっとした憧れよ。美しい主がいるって」
そう言って、王女は年頃の娘らしく、頬を染めて微笑んだ。
「ええ、そうですね。ちょっと無愛想だけど、主さまは綺麗です」
「あら、そう」
ほほと笑って、王女はまた椅子に腰かけた。
「……グレニーの、文を?」
「は、はい」
ドレスの裾をめくり上げて、ごそごそと何やら始めたコトハを、王女は面白そうに見ている。
そしてドレスの下に隠しておいた小さなポシェットから恋文を取り出した。
「これです」
「ごめんなさい」
「は?」
「ごめんなさいね。大変な思いをして届けてくださったのに」
「王女さま?」
「わたくし、その恋文受け取れません」
(な、な、なんですと〜!)
「そ、そんな、受け取って頂かないと困ります!」
「わたくしがその文を受け取れば、グレニーを危うい立場に追い込むことになります。彼を王室の事情に巻き込むことは出来ないわ」
凛として言う王女は、とても美しくて、けれどとても悲しそうだった。
言葉とは裏腹に、彼女はグレニーを求めている。
子供なコトハにも、そのくらいは分かった。
「大人と事情というやつですね。だったら、わたしにも大人の事情があります。子供だけど」
「……」
「仕事に責任があります。王女さまに受け取ってもらわないと、わたしは主さまの信用を失います。これ以上、信用を失ったら、わたし、ここにいられなくなります。受け取って頂ければ、あとは王女さまの自由にしてください。煮ようが焼こうが、王女さまの勝手です」
「……そう。ならば、受け取りましょう」
差し出された白く細い手に、コトハはそっとグレニーの恋文を乗せた。
「確かに、お届けしました」
「ご苦労さま」
王女はふっと微笑んだと思うと、さっと立ち上がりつかつかと暖炉に向かって歩いて行く。
「な、何するんですか〜!?」
コトハは恋文を暖炉に放り込もうとする王女の腕に飛び付いた。
「な、なんてことするんですか?」
「焼くのはわたくしの勝手だと仰ったのは、あなたよ」
「本気で焼いてどうすんですか?グレニーさんの心まで、燃やしてしまうつもりですか!?」
王女が目を見開いてコトハを見た。
見る間に、彼女の瞳に涙が溜まる。
そして王女は、その場に崩れ落ちた。
泣き伏す王女の背を、コトハは何度も何度もさすってやった。
きっと、苦しい恋なのだ。
身分が違う。それが、どれくらい二人の枷になっていることだろう。
その上、王女はもうすぐ異国に嫁ぐのだ。
これ以上事情に踏み込むことは出来ないと分かっていながら、コトハはその若さ故、性分故に、何とか二人の恋を助ける方法はないかと考えていた。
「王女さま。グレニーさんとずっと一緒にいたいですか?それとも、このまま別れちゃってもいいですか?」
コトハの問い掛けに、涙を流し続ける王女はゆっくりと顔を上げた。
「一緒にいたいに決まってます!でも……」
「でも?」
「でもわたくしは王族です。そんなこと望んではいけない」
「望んでください!それは王女としての責任じゃないですか。ユリア・ロゼットは、グレニー・モンティーノと幸せになりたくはないんですか?」
「なりたいわ。なりたいに決まってる!」
大人しやかな王女の中に、熱い情熱が外に出ようともがいているのを感じて、コトハは微笑んだ。
「だったら、だったらなりましょう。幸せに」
「……夢物語だわ」
「夢物語を現実に変える。それが、わたしたち女の子の力です!!」
コトハは拳を握って立ち上がった。
「行きましょう、王女さま。グレニーさんの所に」
「え?」
「今度は王女さまをグレニーさんの所に配達します!」