8.わたしが鬼かと思っていましたが、あなたが鬼でしたか。
「あれ?どうしたの」
なかなか反応しないコトハに、その人はゆっくり近づいて来る。
「ひっ」
コトハはやっと我に返って、一歩後ろに後ずさった。
そんなコトハを気にする様子はなく、その超絶美形さんは一枚の絵を指差す。
「これはね。国境沿いにある山脈を描いたものだ。王都の周辺には山がないだろう?あまりに綺麗でね。思わず筆を走らせた。それから、あちらは」
超絶美形さんはよほど絵を褒められたことが嬉しかったのか、怪しさいっぱいのコトハを捕らえようともせず、絵の説明に熱がこもっていった。
「海の絵も視察に行った時のものだが、この時は嵐が近付いていてね。ご覧。ここに大きな波を描いているだろう?本当にこんなに大きな波が、岸壁にぶつかっていたんだよ」
「へえ」
そして何故かコトハも、その説明に聞き入っていたりするのだ。
二人仲良く絵画の鑑賞。
『鬼ごっこ』はどこへ行ってしまったのか。
王女の姿はとっくに廊下の向こうに消えているというのに、コトハはすっかり失念している。
超絶美形さんに浮かれてしまっているのだ。
「それからこれは……私の妹を描いたものだ」
廊下を先に進むと、初めての人物画が飾ってあって、美しい女性が描かれていた。
「え。妹さんですか?」
「そう。君が今追いかけていた、ね」
パチンと片目を瞑って見せて、超絶美形さんは絵に向き直る。
「妹はもうすぐ異国へ嫁ぐんだ。その前に、彼女の絵を残しておきたいと思ってね」
「異国に……嫁ぐ?」
ちょっと待て。
コトハははたと考え込んだ。
ユリア・ロゼット王女は、グレニーさんと恋仲だ。
そのグレニーさんからの恋文を今自分は持っている。
でも、王女は異国へ嫁ぐのだとか、今、この王女の兄だという人から聞いてしまった。
(ん?)
この超絶美形さんは、そもそも誰なんだ?
コトハは、妹の肖像に見入っている彼を見上げた。
「あの……」
「ん?」
「超絶美形さんは王女さまのお兄さんで、絵を描くのがお好きなんですね?」
「ああ、そうだよ」
クスリと笑った、その表情すら、神懸かっている。
その笑顔に半ば瞬殺されながら、コトハは懸命に意識を保とうと努力した。
「あの、それで……。王女さまが嫁がれるのは……」
コトハは突然、ようやくいろんなことが見えてきた。
本当にようやくだ。
鈍いにも程がある。
「そっか、だから、モンティーノ卿はあんなにやつれてたんだ……」
恋人が自分以外の男と結婚する。
身分違いの恋だから、表立って悲しむことも出来ず。
グレニー・モンティーノ卿は、ずっと一人で苦しんでいたんだ。
…
「モンティーノ卿?カールのことかい?」
「え?いえ、違いま」
言いかけて、コトハはハッとした。
(あれ?カールさまも、モンティーノ卿だ?)
うおう!
何が何だか分かんなくなってきた!
コトハは頭を抱えそうになった。
「あ、あの。超絶美形さん」
「その超絶美形さんって、さっきから気になってたけど、私のことかい?」
「あ、はい、そうです」
「君、面白いね」
「はあ。何故か、よく言われます」
「うん、面白い。どうだろう。君さえよければ、また鬼ごっこの続き、やらないかい?」
その美しい顔で、どんな変態なこと言うんですか。
「あの、わたし、急いでるので……」
「私にもう少し付き合ったら、ユリアに会わせてあげよう」
悪い話じゃないだろ。そう言って、超絶美形さんはコトハに顔を近づけた。
(うわあん。頭がクラクラする〜)
美形は遠くから鑑賞するものだ。
こんなに近くだと、まともに直視出来ないのだから。
「名前は?」
「は?」
「君の名前」
「コ、コトハです」
「コトハか。いい名だ」
吐息がかかるくらい近くて、コトハの背中がトンと壁についた。
もう逃げ場がない。
身長差をいいことに、超絶美形さんは壁に手を付き、コトハを囲ってしまっている。
「君にまだ触れてないから、私が"鬼"のままだよ。1・2・3・4・……」
「これじゃ、逃げられません!」
必死に言い募ったが、超絶美形さんは手を避けようとはしない。
コトハを囲ったまま、数を数えて行く。
「8・9」
唇が触れそうなくらい顔が近づいた。
「10」
コトハの唇に、彼の温もりが伝わった。
「なに、してるんですか。殿下」
聞こえてきた不機嫌な声は、聞き慣れた声。
ハッとして、超絶美形さんの腕の下から見れば、そこには剣を携えたカールが立っていた。
「カールさま!」
超絶美形さんを押しのけ、カールの元に駆け寄る。
そして彼の背後に逃げ込んだ。
「ナイトのお出ましか?随分、タイミングがいいな」
「後宮への立ち入りは許されていませんから。こいつの声が聞こえるまで、入ってもいいものか、迷っていました」
「ふむ。しかも、帯刀してとは、極刑に値するな」
「こいつは免疫がないんです。あんまりからかわないでくれますか」
「……お前の女か?」
超絶美形さんの声が低くなる。
コトハはカールの服をギュッと掴んだ。
「いえ。違います。ですが、こいつは特別なんで。いかに王太子殿下と言えど、こいつを傷つけることは許しません」
「言うようになったな、若造が。まあ、いい。私がその気になれば、いつでも後宮に呼べるのだからな」
カールの背中がピクッと揺れた。
「後宮に?」
「その気になれば、だ。ここを後宮とも知らずに入り込み、私を王太子とも知らずに超絶美形さんと呼んだ。こんな面白い女。野放しにしておくのはもったいないだろう?」
「超絶美形さんって、なんだよ……」
カールが絶句している。
彼の後ろで赤くなりながら、コトハは己の無知を恥じていた。
(わたし、いろんなこと、知らな過ぎ!)
この人、王太子殿下だったなんて。
いずれ国王になる人を超絶美形さんって。
そりゃ、カールさまも絶句するよ。
「さて、どうする?」
「……」
「どうやらコトハは妹に用があるようだが。妹は生憎体調を崩して、もう休んでいる。出直すか?」
「……それでも、お会いしたいです」
「無理を言う」
コトハはカールの後ろから顔を出した。
「それでも、無理でも、わたし、王女さまに会わなくちゃ」
ガクンと体が落ちた。
「え?」
「コトハ?」
振り向いたカールが、コトハを支える。
「どうした?」
「な、なんだか、力が抜けて」
「おまっ、すごい熱じゃないか!」
コトハの手を握ったカールが顔をしかめた。
「何で、言わないんだ?」
「だって、熱なんてないって……。自分でおでこ触ったら、冷たかったから」
「同じ体温の手とおでこくっつけたって、同じ体温なんだから、熱あるかどうかなんて分かるかよ」
「あ、そっか……。へへ。やっぱり、カールさまって、物知り……」
「おい、コトハ!?」
「気を失ったな」
王太子の冷静な声に、カールも落ち着きを取り戻した。
「ゼノさま」
「ダブリング先生を呼ぼう。後宮の一室を提供してやる」
さっと立ち上がって廊下を進んで行く王太子。
カールはコトハを抱き上げると、それに続いた。
見れば、コトハの足首が倍以上に腫れ上がっている。
「無茶しやがって……」
カールは側を離れたことを後悔していた。
「守るって契約だったのにな」
ごめん……。
静かな後宮の廊下に、王太子とカールの靴音が響いていた。