1.コトハのこと
「おい、お前。きっちり、かっちり。この住所に届けてくるんだぞ」
今日も意味もなく不機嫌な主さまに言われ、コトハは誰かさんの恋文を手に集配所を飛び出した。
抜けるような青空。
涼やかな風。
「んー。配達日和」
コトハは一度大きく伸びをすると、意気揚々と王都へと続く街道を歩き始めた。
ここへ来て、もう半年が立つ。
仕事には随分慣れたけれど、それでもまだまだ戸惑うことは多い。
彼女の仕事。それはとても特殊なものだった。
郵便屋さんではあったけれど。
ただの郵便屋さんではない。
受け付けるのは、恋文だけ。
誰かがしたためた、狂おしいばかりの想いが詰まっている恋文を、その相手に届ける。
それがコトハに課せられた仕事だった。
慣れるまでの苦労を思うと、今でも溜め息が出るけれど。
主さまの不機嫌な顔と声を思い出すだけで、体が硬直するけれど。
それでも、彼女はなんとか、この異世界での暮らしに順応しつつあった。
異世界?
そう。彼女は元々、この美しく和やかな世界の住人ではなかった。
この世界には、本当に偶然に(作為的に?)やって来たのだ。
彼女が元いた世界。
それは言わずもがな。
日本という小さな島国に、たくさんの人がひしめいている、この世界のことである。
…
コトハは、ごくごく普通の女子高生だった。
勉強は人並み程度。友達はそこそこいる。
交際歴なしで、目下片思い中。
と、至って平均的な女子だった。
ある日の下校時間。
自他共に親友と認めるナオがすり寄ってきた。
「ねえ、コトハ。須賀くんに告んないの?」
彼に恋していると打ち明けてから、何度言われたか分からない言葉をこのタイミングで言われ、コトハは思わず鞄に入れようとしていた教科書をバラバラと床に蒔いてしまった。
「わあ、コトハ。どうしたのよ」
「どうしたのじゃないでしょ。なんで今、そんなこと聞くのよ」
「え、だって気になったし」
「気になったしじゃないよ。告白する気はないって、何回も言ってるでしょ」
片思い中の須賀くんとは、普通に会話出来るくらいには仲が良かった。
だから、今のところコトハはこの状況に満足している。
もし思い切って告白して、挙句に玉砕、彼と気まずくなったりしたら悔やんでも悔やみきれない。
「付き合いたいって、思わないの?好きで好きでたまらない人と、友達としてでは出来ない、あんなことやこんなことをしたいって思わない?」
「ナオはしてるの?あんなことやこんなこと」
つい最近彼氏が出来たばかりのナオに水を向けてやると、案の定顔を真っ赤にして「やだあ。してるに決まってるじゃない」などとのろけ始めた。
「遊園地行ったり?ご飯食べに行ったり?そんなこと、友達でも出来るよ」
「恋人同士ってところに醍醐味があるんでしょ」
一転真面目な顔になって、ナオは断言した。
「わたしはいいんだってば」
「何がいいの?」
突然ナオとは違う低い声が背後からして、コトハは固まった。
「す、す、す、須賀くん?」
「もう、帰るの?コトハ」
「う、うん」
慌ててばら撒いたままの教科書を拾い集めて鞄に突っ込む。
「須賀くん。いつからそこにいたの?」
「ん?ついさっきだけど」
ついさっきとは、いつからでしょうか。と重ねて尋ねたかったが、墓穴を掘りそうなのでやめておいた。
「じゃ、じゃあ、わたしはこれで」
ナオと須賀くんの横をすり抜け、そそくさと教室を出た。
意識しただけでこれだ。
告白なんてした日には、とてもじゃないが正気でいられる気がしなかった。
…
逃げるように下駄箱までやって来て、自分の靴を手にした時だった。
「コトハ」と声をかけられた。走ってきたのか、息を切らしながら。
「須賀……くん……」
振り向けば、須賀くんがとても真剣な顔をして立っていた。
「どうして……」
「……本当は聞いてたんだ」
「え?」
「ナオが告白しないのかって言ってたとこから」
何てこと!
コトハは青ざめ、脱力した。
一番聞かれたくない人にやっぱり聞かれてたなんて。
人生とは、かくも思い通りにいかないものか。
打ちひしがられるコトハに、須賀くんは言を重ねる。
「何て言っていいのか……。お前がその気はないって言った時、けっこうショックで。ああ俺、やっぱりコトハが好きなんだって思ったんだ。お前が告白しないなら、俺からしようって思って」
「え?今なんて?」
コトハは自分の耳がどうにかなったのかと思い聞き返した。
「だから。俺。コトハが好きだ。付き合おう」
一気に冷めて行くのが分かった。
自分でも怖いくらいに、気持ちが冷えて行く。
(あれ、わたし……)
あんなに好きだと思っていたのに。
彼しかいないと思っていたのに。
「わたし……」
「うん」
彼は当然、コトハの答えはひとつだと思っているだろう。
もうすでに、これからの幸せな日々に心は飛んでいるかもしれない。
けれど、コトハは。
「ごめん!」と叫ぶように言い捨て、そのまま脱兎のごとく駆け出したのだ。
「コトハ!?」
須賀くんの驚いたような声が背中に突き刺さる。
(わたし、もう転校するしかないかもっ)
自分でも分からない。
彼が好きだと思っていたのに。
何故、告白を断ったのか。
何故、逃げ出しているのか。
コトハ自身にも、分からなかった。