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作者: 能勢恭介

 風が暖かかった。暖かかったが、砂埃が思い出したように瞳に飛び込み、涙が浮かんだ。放課後の街は茜色に染まり、もうちらほらと街灯が瞬いていた。窓辺に頬杖をつき、わたしは暮れる空を見上げたり、昇降口を出て行く生徒たちを見送っていた。真新しい制服がぎこちないのは、きっと新入生。こんな時間まで残っているのだから、おそらくもうどこかの部に入って、つまらない下積みを始めているに違いなかった。わたしもちょうど二年前は、そんな新入生の一人だったのだ。長く伸びた影を連れて今日を終える彼女たちに、そっと手を振った。ひっそりとけだるい空気をいっぱいに吸い込んで、わたしはひとり、春の風が耳元で囁くのを聴いていた。

部活を終えて着替えに戻った教室では、風とカーテンが優雅に舞っていた。

誰もいなかった。

黒板は磨いたようにチョークの粉一つ付いていない。今週の掃除当番はよほど几帳面なのだろう。クラス換えからまだ日がたっていなかったから、誰がここまで黒板を拭いたのか、見当が付かなかった。出席番号順の日直、わたしの当番は一週間前だった。わたしは日誌にほとんど手を触れず、もうひとり、去年も同じクラスだったデブの植田が細々と女々しい字体でページを埋めてくれた。

そうだ、今わたしの下でわたしを支えてくれているのは、その植田デブの机だ。夏でもないのにハンカチを手放さない脂性の奴の顔が、わたしの隣でニヤついているような気がして、机を下りた。靴音が意外に大きく、教室に響いた。

放課後の教室が好きだ。

背伸び真っ盛りでかまびすしい坂崎のグループも、毛先を茶色くブリーチし、服装検査で必ず引っ掛かるリカも、ギターキッズの渡辺も、銀縁眼鏡がいつも曇っているアニメマニアの岡田や植田デブも担任のモリモトもいない。つい一、二時間前までの喧燥が信じられない。教室の壁も天井も茜色。机も床も、わたし自身も茜色。日暮れ直前の光線が教室を横切ったりすると、わたしは理由もなく涙がこぼれそうになる。郷愁か寂寥か。夕焼け空の下で、わたしは自分の居場所をそっと探すのだ。

生徒たちがいない教室は、ただの入れ物に思えた。黒板も並んだ机も掲示板にピンで留められた時間割も何もかも、茜色の舞台照明に浮かび上がるよくできたセットのようだ。一日が終わり様々な思いが帰路につけば、部屋はほっと一息つく。そんな安息の時間に、わたしはそっとお邪魔するのだ。

誰かが開け放ったままの窓を閉めると、外界の雑音から隔離された。見ているうちに青さを増していく空と、通りを流れるヘッドランプ、テールランプの群れ。わたしは廊下側最前列の自分の机に戻り、通学カバン代わりのデイパックを背負い、トレーニングウェアの入ったサブバッグを手にする。スカートのポケットに自転車の鍵を確認し、冷たい感触を指先で弄ぶ。黒板上の二分遅れた時計は午後五時少し前を指している。新学期早々、高文連向けの新しい芝居の練習が始まり、最後の舞台に三年生たちはみな気合いが入っていた。雪解け直後の汗を流すにはまだ早すぎる季節に、柔軟運動や発声練習の段階で、トレーニングウェアはしっとりと湿気を帯びていた。新一年生の手前、余計な気合いが入っているのだ、とりわけ部長の西野が。だいたい彼は去年秋の学祭公演でも張り切りすぎ、ゲネプロで舞台装置につまずいて足をくじいて、公演当日は冷や汗ものだった。座りの演技がメインの配役だったから救われたが、立ち回りが多かったらあれで終わっていた。だが今思い出すと、宙を舞った眼鏡と、受け身をとりそこねてのた打ち回る部長の顔が浮かんできて、ひとりわたしは笑いを噛み殺した。

いつしか教室は薄暗く、水槽の底のような青藍に沈んでいた。

(もう帰ろう)

扉に手をかけると、それは自動ドアのごとく、わたしが加えた力以上の勢いで開いた。

「おぉ、相川?」

「北野くん」

クラスメイトの北野裕。美術部の部長。わたしより頭一つ背が高く、きょろりとした円い目で、わたしを見下ろしている。絵の具で汚れたエプロンを着けたままだ。

「今帰るの?」

「そうよ。待ってる?」

「ああ待っててよ。辞書忘れちゃってさ」

真っ黒い髪、鷲鼻ぎみの鼻梁。なかなか美形だとわたしは思うのだが、本人に直接伝えたことはなかった。

わたしは教室の蛍光灯をすべて点灯させ、壁に寄りかかって彼の後ろ姿を追った。いきなり白々しい夜の姿をさらす教室で、裕は最後列の窓際へ、机と机の間を身軽に移動した。ひょろりとした背中を縮めて、満足そうな顔をこちらに向ける。彼の愛用の英和辞書。

「いつも辞書、学校に置いてるの?」

「置いてくべ、こんな重いのはさぁ。相川、もしかして毎度持って帰ってんの?」

「うん」

「さすがは相川みつきさんだなぁ。やっぱ今度英語教えてもらおうかな」

裏のない笑顔が蛍光灯の下で顔色が悪い。こんなときだけ彼はわたしをフルネームで呼ぶ。

「さあ、じゃあちょっと待ってて。カバンとか全部部室なんだわ」

辞書の背を叩きながら、汚れたエプロンがわたしの目の前。

「わたし、ついていくよ」

「そう」

裕は辞書でわたしの頭をぽんぽんとノックした。教室を消灯し、わたしは彼について、一本間隔で蛍光灯を点した廊下を行く。汗の臭いを漂わせ、サッカー部のユニフォームとすれ違う。一人が裕に舌を出し、裕は歯をむき出して応酬した。猫の額ほどの中庭を見下ろしながら廊下を右に折れ、階段を上がる。階下から駆け足で迫ってくるのは女子バスケットボール部の一団。わたしも裕も左端によけ、やり過ごす。クラスメイトのミカの顔がちらりと見えた。三階から四階へ、吹奏楽部のトランペットが響き渡っていた。生徒会室の角を曲がり、廊下を進めば美術室。開け放たれた扉から、部員たちの笑い声が聞こえた。

「ちょっと待ってて」

裕はわたしの肩を二度軽く叩き、部屋に入った。廊下には絵の具の匂いが漂っていて、芸術選択が音楽のわたしにとっては慣れない匂いだ。わたしは少し扉から離れ、教室でしていたように、肘をついて中庭を見下ろした。灯りは廊下から漏れる蛍光灯の光だけ。中庭といっても花畑があるわけでもなく、コンクリートの地面に、裕たち美術部がペイントしたフェルナン・レジェの絵画が描かれているだけ。それも一冬越して、ところどころ色褪せているようだ。空を見上げると、瑠璃色の空を赤と青のランプを瞬かせ、飛行機が飛んでいる。姿が校舎に隠れてようやく、微かなエンジン音が耳に届く。

「お待たせしました」

背中を突付かれ振り返ると、裕がカバンを肩に笑っていた。優しい笑顔を、心の中の刺が一本一本抜け落ちていくような、そんな笑顔を向けてくれる。だからわたしは彼が好きだ。

「帰ろ」

わたしも微笑んでみたつもりだが、彼の目がどう捉えてくれたのかは分からない。わたしの肩の高さに、裕のだらしなく結んだエンジのネクタイがあった。

駐輪場にはもう自転車はまばらだった。朝が苦手のわたしはどうしても屋根のないスペースに置くことになってしまうが、裕はしっかり、学校側一番手前の、屋根の下に自転車を停めていた。わたしがU字ロックを外してハンドルに引っかけ、ようやくサドルにまたがったとき、裕は籠の中にカバンを突っ込み、もうペダルに足をのせていた。

「遅刻の王様だもんなぁ」

「わたし、低血圧なのよ。それに王様じゃないでしょ、女だから」

彼の隣に並ぶ。ブレーキの効きが悪くなっていた。

「お前は女王様って感じじゃないからな」

首を傾け、哀れむような目をした裕の脛を、わたしは爪先で軽く蹴った。

「そっちこそ、山賊って感じのくせに」

「おお、そうかい。山賊が絵なんて描くもんかね?」

「贋作ばっかり描いて、適当に売り飛ばすんでしょ」

「おいおい、そりゃないなぁ。これでも部長だぜ?」

眉を八の字にして苦笑する。点灯直後の水銀灯がちらちらうるさい。

「信じられないな、北野くんが部長なんて」

「はっ。まぁいいや。行くべ行くべ」

わたしはうなずき、彼の六段変速機付きママチャリを追った。美術部の割に、彼の足は速い。わたしにペースを合わせてはくれるが、わたしは彼のペースに合わせたかった。これでも中学時代はバスケットボール部だった。身長の伸びが一五四センチで止まらなければ、高校でも続けたかったのに。


裕とわたしでは、三番通を渡ると帰路の方角が変る。裕はそのまま道道を直進して手稲駅のそばまで。わたしは三番通を北原駅の方角へ。でもふたりで帰るときはたいてい途中、寄り道をした。それは書店で新着の雑誌を立ち読みしたり、CDを買うでもなく眺めたりと、他愛のない寄り道だった。ファストフード店でハンバーガーをぱくつくこともあったし、公園のベンチでひたすら下らないおしゃべりに興ずることもあった。今日は書店と併設のドーナッツ店で、裕はフレンチクルーラーを、わたしはチョコレートリングを二つずつ、それぞれコーヒーと一緒に頼んだ。

「太るぞ、それ」

トレーにのったドーナッツを指差し、裕がにやり。

「そっちの方が甘いでしょ」

「お前みたいにコーヒーに山盛りの砂糖、なんてしないからな、俺は」

「山盛りなんて入れてないでしょ」

 彼の一言で、わたしはいつもより一袋、砂糖を減らした。

「よくコーヒーに砂糖なんて入れるよなぁ。根っからの甘党だもんなお前って」

彼は気取った仕種でコーヒーをすする。わたしは指に溶けたチョコレートをさり気なくなめた。

店内には有線放送が流れていたが、わたしの耳には少しボリュームが大きい。テーブルには制服姿のカップルがもう二組、セーラー服を着たグループが奥に陣取っていて、さほど広くもない店内は高校生だらけだった。ああ、来年、わたしはもう制服を着られない。来年の今ごろ、わたしはどこで何をしているだろうか。漠然とした不安が、最近胸の底にじわりと巣食っていた。

「演劇部、調子はどう?」

二つ目のフレンチクルーラーをかじりながら、裕が訊いてきた。

「一年生、女の子ばっかり入ってきちゃった。で、男どもはもう、張り切っちゃって張り切っちゃって、見てらんない。『隙あらば』って感じで」

「お前んとこ、女多いもんなぁ。うらやましいよ」

「美術部って、女の子の方が多いんじゃないの?」

「いやぁ、うちの部の女は、あれよ、生物学的に女ってだけサ。かわいい子がいないんだよなぁ。演劇部からちょっと調達してや。書割りくらい描いてやるからさぁ」

わたしはニヤつく裕の脛を、今度は強めに蹴ってやった。

「痛ぇなぁ」

眉を八の字にして、大げさに脛をさする。

と。

有線が曲調を変えた。新曲ではない、古い曲。イントロのコーラス、そしてチープな音色。わたしはその曲に聞き覚えがあった。

「なしたのさ」

「この曲」

わたしは天井のスピーカーを指さしていた。

「ん?」

裕はスピーカーを見上げ、耳を傾けた。

およそこんな店にはふさわしくない、八〇年代のテクノ・ポップを、どういう選曲かスピーカーは流していた。

「なに、これ。俺聴いたことないけど」

「『今までこんなかわいくないパン食べたことがない』」

わたしは目をドーナッツのかけらが残る皿に落とし、呟いた。

「えっ?」

「この曲の歌詞。”This must be the ugliest piece of bread I’ve ever eaten.”」

英語詞をそのまま、わたしはメロディにのせて小声で歌ってみせた。

「はぁあ、なに、それ」

裕は唇を歪め、首をかしげている。

「YMO、聴いたことない?」

「ワイ・エム・オウ? YMCAなら知ってるけど?」

「違うよ。そっか、知らないよね、流行ったのってわたしたちが小学校に上がる前だし。

 この曲ねぇ、そうそう、昔散歩で父さんと寄ったお店でね、よくかかってたのよ。……懐かしいな」

「よく憶えてんな、そんなこと」

「んん、あとでレコード買ったから」

「その、YMO、だっけ?」

「そう、YMO、『イエロー・マジック・オーケストラ』。気に入っちゃって、小学生のとき、かな、買ってもらったの。ずいぶん変った小学生よね。曲が耳から離れなくなっちゃって。その時のレコードはもう駄目になっちゃったけど、CDだったら持ってるわ。今度聴いてみる?」

わたしが言うと裕はちょっと考え、

「そうだな、お前のうちに遊びに行ったときにでも、聴かせてもらうかな。二人っきりでさ」

そう言って彼は意味深にウィンクしてみせた。その顔が何だかとてもいやらしかったから、わたしは今日三回目になる蹴りを、裕の脛に叩き込んだ。


園町の交差点、青信号で裕はわたしに手を挙げ、別れを告げた。午後六時四七分、わたしはひとりになる。三番通を南へ、こちらの通りは水銀灯が照明だ。冷たく白く、足元に残像を落として。わたしはペダルを踏み込んだ。広い歩道の中央線を目印に、右へ左へスラローム。海風に背中を押され、自転車のペダルは軽い。そう、この通りを反対に進めば二〇分で海に出る。正面のシグナルはオール・グリーン。仰ぐ空に残光はなく、ただ南の方角がぼんやりと明るい。一七〇万人が暮らす大都市の空だ。一体何人のわたしが自転車を漕ぎ、それぞれの家路に向かっていることだろうか。わたしは彼女たちに電波を送る。彼女たちもわたしへ電波を送る。わたしたちだけが感じられる、それは独特の空気。轟音と排気ガスを撒き散らして、横をトラックが追い抜いていく。生暖かく、胃の入り口あたりをむかつかせるディーゼル臭を、わたしを押してくれる四月の風が振りはらう。宵の月、宵の風、宵の道。わたしは締まったアスファルトの上を行く特急だ。耳元で風が叫んでいる。襟元で髪が首筋をくすぐる。薄く砂ののった路面でわざと後輪ブレーキを強くかけ、乱れる挙動を綱渡りのように楽しむ。裕と別れた直後のわたしは、いつだってライダーズ・ハイだ。嬉しさと寂しさと、こみ上げてくる感情。鳩尾のあたりがむずむずして、膝が一気に軽くなる。いくら経験しても慣れることがない、わたしだけの帰り道。十七歳という年齢は、わたしにとって意味がない。彼の前ではいつもの自分を見失い、わたしはまるで初めて人を好きになり、相手の一挙手一投足に一喜一憂する中学生に戻ってしまう。

ありがとう。

わたしはちらりと西を向いて、そっと口に出してみた。ありがとう、あなたのおかげで胸の底の暗いもやもやが、にわか雨が晴れたの午後みたいに明るくなるわ。

 午後六時五八分、わたしは自宅のドアを開ける。暖かく優しい、わたしの居場所へ。


CDプレイヤーの調子が悪い。ドーナッツをかじりながら聴いたあの曲を、わたしは久しぶりにラックから取り出し、ケースの埃に鼻をむずむずさせながらプレイヤーにセットした。ところが、機械はキュルキュルと妙な音を立て、まともにトラックを読み込もうとしなかった。それは小学生のときに父にせがんで繰り返し聴き、駄目にしてしまったレコードに似ていた。音が飛び放題だった。ディスクをいったん取り出して埃や傷を確かめたが、円盤そのものには異常は見られなかった。レンズクリーナーを使っても、どうも状況は改善しない。それで試しに別のディスクをセットし再生すると、何の問題もなくハスキーヴォイスのヴォーカルが叫んだ。ようするにあの曲だけがまともに再生されないのだ。相性が悪くなったのだろうか。それとも見えない傷をディスクに付けてしまったのだろうか。わたしはあきらめてプレイヤーの電源を切った。

階下からは時代劇のテーマ曲が聞こえていた。父はまだ老け込む歳でもないのに、時代劇が好きなのだ。子供の頃は付き合わされて毎週、勘定奉行や徳川八代将軍の荒唐無稽な活躍を見せられた。

ベッド脇のスタンドから、青いボディのエレクトリック・ギターのネックをつかむ。ファストフードのアルバイト代をつぎ込んで去年の夏に買ったギターだが、わたしには音楽的センスがないのかただの練習不足か、いくら指先を赤くしても上達しない。それでも左手がネックを握ると、自然と指はCコードを抑えるようにはなった。もっとも、一番最初に憶えたコードだからかもしれない。ふた月前に買い換えたピックでじゃらんと鳴らす。このギターはチューニングが狂いづらい。C、G、Aマイナー、F、G、C。途中にEマイナーやDなどを混ぜて適当に鳴らしていると、適当な曲になる。半分衝動買いしてしまったこのギター、学校の音楽ではクラシックギターを使うから、細いネックになれてしまうと授業では難儀する。まあこのギターのおかげで課題に困ることがなくなったのはめでたいのだが、果して八万円も払う価値があったのかどうかは分からない。わたしはロックミュージシャンがするように髪を振り乱し弦を掻き鳴らし、一度ハイノートの奇声を上げるとギターを抱えたままベッドの上に寝転がった。小柄なわたしにもちょうどいいボディサイズだが、お腹の上ではさすがに重い。ぼんやり天井を向いていると、ドアが軽く二度、ノックされた。わたしの返事を待たずに顔を出したのは、兄だった。

「おお、うるさいぞ」

ぼさぼさの頭に痩せた身体、鷲鼻に丸眼鏡。カマキリを連想させる容姿の兄・勇とは、六つ歳が離れている。大学を卒業し、そのまま大学院に入学してしまった彼。眼鏡の奥の瞳だけは鋭い。

「ごめんなさい」

「何やってたの」

ギターをお腹の上に載せてひっくり返っているわたしを、ものめずらしい動物でも見るような顔で眺めている。

「見てのとおり」

顔だけ向けてわたしは答える。兄は目を細めて微笑み、すっと部屋に入りわたしの隣に腰掛けた。彼の体重でベッドが弾む。

「ちょっといい」

兄はギターをつかみ、六弦から順にチューニングを確かめる。ふむ、とうなずき、ミドルテンポのアルペジオを奏でる。この青いボディのオリジナルの持ち主、新曲を出せば必ずヒットのロック・デュオの曲。兄はイントロだけを弾いてわたしを向いた。彼は大学で逸脱行動論とやらを研究している割に音楽のセンスもあった。「あった」といってもわたしより程度だったが、譜面を初見でちゃんと弾けるのだからまったくうらやましい。彼もまた部屋に一本エレキギターを所有している。

「もう終わり?」

不満を言うと、今度はさっきわたしが弾いていたコードを鳴らしていく。そして彼は歌い出す。あまりにも有名なリバプール出身のバンドの曲を。すべて、なすがままに、と流暢に。兄はかなり英語の発音が達者だ。天井を向き目を閉じていると、本当にイギリス人が歌っているように聞こえる(もっとも兄の英語は米語だが)。わたしは彼に合わせ、サビのコーラスを控えめに歌う。1コーラス歌いきると、兄は「Yeah」と唇を吊り上げた妙な笑顔を向けた。

「こんなことしてていいのか、受験生」

TV番組のナレーション並みに低い声。受験のことを言われても、不思議と担任ほどに腹が立たなかった。

「お兄ちゃんこそ、修士論文、書かなくていいの?」

「書いてるさ。息抜きだよ」

「わたしも息抜き」

「お前は息抜きの合間に勉強しているんだろう」

「うるさいなぁ」

兄はギターをわたしに寄越し、両腕を伸ばして伸びをした。背中の関節が鳴るのが、わたしにも聞こえた。

「肩でもお揉みしましょうか?」

「俺のじゃなくて、父さんの肩でも揉んでやれよ。お前の力じゃ、物足らないけどな」

「あっ、マッサージって力で揉むんじゃないんだよ」

「はっ」

兄は立ち上がり、ぐるりとわたしの部屋を見渡した。裕よりさらに長身。兄の身長を十センチもらえれば、わたしの不満は解消するのに。

「相変わらずマニアックなもの聴いているんだな」

プレイヤーの上に置いたYMOのジャケットを指差し、兄は笑いを含んで言う。

「音が飛んじゃって、聴けなかった」

「へぇ?」

兄はディスクの裏返し、まじまじと見つめる。目線の高さにかざし、蛍光灯をあてる。

「レンズクリーナーは?」

「かけたけど変らなかったよ。他のCDは聴けるんだもん」

「はぁあ」

兄はまだディスクを点検している。

「ねぇ憶えてる?」

「ん?」

「昔ほら、小さい頃父さんと一緒に散歩したでしょう。散歩のあとでさ、いつも喫茶店に寄ってくれて、そのお店ではいっつもYMOがかかってたの。憶えてない?」

わたしは起き上がり、蛍光灯の下の兄を向いた。

「散歩。お前いくつのときだっけ?」

「ええと、小学校に上がる前か、一、二年生の頃」

「それじゃ、俺は下手すりゃ中学生だよなぁ。一緒に散歩なんて行ってないと思うよ」

「そうだっけ」

「俺、一緒だったことってある?」

思い出してみた。父の背中と、茜色に染まる街角、空を走る電線、線路沿いの道と畑、ドアのベル、コーヒーの匂い、ボックスシートと観葉植物、昏いカウンター、流れる音楽。兄の姿が見えないことに今気がついた。

「一緒じゃなかったんだ」

「そりゃそうだろう。父さんの散歩に付き合ってたのなんて、やっぱり俺が小学校に上がるかどうかって頃だったもの。

 ああ、CD、ちょっと傷ついてる。それで飛ぶのかもしれないよ」

兄はディスクをケースに戻し、わたしの椅子に座った。

「その店がどうかしたのか?」

「ううん、ただちょっと、思い出していただけ。懐かしいなぁって」

「懐古趣味か?」

「そんなのじゃないよ、ただ、思い出していただけ」

「ふん」

「お兄ちゃん、お父さんと喫茶店に入ったことなかったの?」

「そりゃ何回かはあるけどね、憶えてないな。そんな通ったような店はなかったと思う」

「そうか」

いまさらなぜあの店が気になるのかは分からない。それにあの曲なら今も時々聴く。でも聴くたびにあの頃の風景が蘇ってくるわけでもなかった。それが今日、コーヒーの匂いとテーブルや椅子、人々のざわめきの中で曲を聴き、唐突とも呼べるほどのタイミングで、まだ幼かった日々の夕景が、わたしの脳裏に鮮やかに浮かんだのだ。はるか高みからわたしを見守っていた父の顔、足が届かなかった止り木、すべてが黄昏時の茜色に染まっていた風景。胸の底の暗いもやもやなど影もなかった、あの頃。

「父さんに訊いてみればいいじゃないか、気になるんだったらね。俺は分からないよ。あの人はあれで喫茶店好きだから、馴染みの店がそこら中にあるみたいだし。

さて、そろそろ戻るかな。お前の言うとおり、修論書かなきゃな」

兄はすっくと立ち上がる。彼の長身は父親譲りなのだ。顔も声も、父によく似ている。似ていないのは堅実な父と異なり、兄はもっぱら夢想家で物事の好き嫌いが激しいところだろうか。わたしはどちらに似たのだろう。少なくとも体格だけは母に似てしまった。

兄は片手を振って部屋をあとにし、わたしは彼と入れ替わって机に向かった。明日、裕が恐れる英語の小テストが待っているからだ。


窓の外は、雨。

水滴がガラスを伝い、しかし叩くような強さではない、冬の名残を流し尽くす暖かい雨だ。わたしは熱帯魚の水槽を覗き込んでいるような気分で頬杖をついていた。膝の上に載せていた台本が落ちたのがいつだったのかももう憶えていない、ひとりの部室。汗が染みたトレーニングウェアを着たまま、夕方を待っていた。どこかからドビュッシーの「アラベスク第1番」が聞こえていた。土曜日、雨の午後、それはおあつらえのBGMだった。

今日、いよいよ本読みが始まった。わたしは入部して初めて、準主役をもらった。脚本を渡されると、役者は自分のセリフをまず探す。だがえてして自分のセリフだけを完璧に読み、他のシーン、他の登場人物のセリフ、アクションをまるっきり落としがちになる。与えられた役のセリフだけでは演技など出来ない。登場人物、シチュエーションを本一冊「理解」しなくては駄目なのだ。新しい芝居を始めるとき顧問のヤマヤがいつもするのは、劇の登場人物の簡単な履歴を全員に配り、与えられたシチュエーションで数分間のアドリブ劇を行うというもの。今回の劇は、ある少年が不可解な自殺を遂げ、友人の死に疑問を抱く主人公の、葛藤を描いた芝居。わたしは自殺した少年の恋人役だ。真夏の太陽の明るさと、秋の夕暮れの沈黙を同時に内包する少女。わたしはほとんど地で演じ、ヤマヤの絶賛を浴びてしまった。もっともアドリブは半分演技、半分地だから、脚本に書かれたセリフを読むのはわけが違う。大概の部員は、いざ本を読むとたどたどしく、アドリブで演じた初回の足元にも及ばない。そのたび、顧問のダメが出る。いつもヤマヤが張り付いているわけではなく、実際は演出の人間がいる。あくまで生徒に劇をゆだねるのが彼のやり方だった。ところが今日は、部員の一人がまるっきり本を読んでこなかった。二年生の男子部員で、今回が初めての舞台。掛け合いの相手のセリフはおろか、自分のセリフもまともに入れてこない。それで演出を務める三年の城崎が激怒し、西野がなだめても怒りは収まらず、完全にへそを曲げてしまった。当たり前だ、二年の部員が託されたのは主人公の友人、つまりわたしと同じ準主役だ。結局練習は三時過ぎにお開きになってしまった。

中二階、昔は物置だった部屋がそっくり部室に改造されている。部員三十人がようやく入れるだけの広さだが、大道具小道具衣裳が詰め込まれているから仕方がない。元々が物置だから窓も西側にひとつあるだけ。わたしはそこでひとり、見えない夕焼けを探していた。

 アラベスクは繰り返し繰り返し、降りしきる雨音のようにわたしの耳に届いていた。音楽室のピアノだろうか。放課後、合唱部の練習がなければ誰でもグランドピアノを弾ける。誰が弾いているのか、なかなかの腕前だ。わたしはセリフを呟く。ドビュッシーをBGMにわたしはわたしを演ずる。たったひとりの観客、わたしのために。

震えがきた。汗が冷えたのだろうか。捲っていた袖を元に戻す。雨音が胸のそこのもやもやを増殖させている。もうすぐ五月。しかしまだ緑は芽吹かない。不意に、最後の春という言葉がよぎる。そうだ、実際今年は最後の春なのだ。同じ春はもう来ない。なのにわたしは流れにまかせて下っていくだけなのだ。曇った目は岸辺を見渡すこともできない。そう、わたしの目はいつしかひどく曇るようになったのだ。身体全体をくすんだ汚れが覆っていて、それが目をも濁らせている。

わたしは椅子を立ち、板張りの床を大股で歩く。舞台でするように、力強く、胸を張って。壁の大鏡に姿を映し、練習前にするように身体を柔軟させる。消えかかっていた火が再び点る。灯りのない部室で、わたしひとり、自動人形のようだ。心の入っていない、お人形だ。

「あーっ!」

やけっぱちの発声練習。鍛えた腹筋が絞り出す長音は、鋭く光る鋼並みの強さ。鏡の向こうで立ち居振舞いを見つめるわたし。アラベスクはまだ続いていた。わたしは長音練習を続けた。息が続く限り、なるべく同じ強さで。だから部室にカオルが入って来たことに気が付かなかった。

「みつきちゃん?」

肩を叩かれてようやく振り向いた。制服姿のカオルが、怪訝な目でわたしの瞳を見つめている。岡崎薫。彼女は照明担当。カオルのライトは舞台で心地よい。彼女の照明は的確で、きっかけを迷わない。

「いつからいたの?」

「今入ってきたのよ。どうしたの、明かりも点けないで」

カオルはネクタイが曲がっている。

「練習。今日はまともにできなかったから」

「うん」

カオルは壁際から椅子を引っ張ってきて座る。彼女は二脚椅子を出してくれた。

「みんな帰っちゃったの?」

カオルの隣に腰を下ろし、訊いた。

「帰ったわ」

「有香も?」

「真っ先に帰ったわ。今日のはヤバイよ、城崎、完璧に切れちゃったもんね」

「仕方ないよ。もとからあの子、司田と折り合い悪いしさ」

「折り合い悪いじゃ済まないわ。先輩にタメ口きくし、部会には遅刻するし。やる気ないのよあいつ。一回締めなきゃ駄目ね、あれ」

カオルはいまいましそうに顔をしかめる。

「締める、なんてカオルらしくないな」

わたしは小さく笑う。

「じゃあ、ヤキを入れる」

「古いよ」

「おいおいテメェ、あとでトイレ来いよ、あァあ?」

どすを利かせ、真顔でカオルは唸った。わたしは声を出して笑った。

「いつの時代よ。駄目だめ。今度本読み代わりにやる?」

「あたしは、裏方。みんなを陰で支えるの」

「光で支えるんでしょう?」

「あ、そうか」

顔を見合わせ、笑顔が行き交う。

「今までずっと図書室にいたの?」

カオルに訊ねる。

「ううん、自習室。数学の復習を、ちょっと」

「いやなこと言うなぁ、今日の数学、ちっとも分からなかった」

「教えてあげようか?」

「試験前になったら、お願い」

「数学は日々の積み重ねです。数多い問題を解き、知恵を絞って解法を見つけるの。知識じゃなく、知恵をつけるには経験しかないのよ」

「ううん、経験ねぇ」

「いいじゃない。みつきちゃんは英語得意でしょう?」

「得意っていうか、好きなだけね」

「うらやましいわ。あたしLとRの聞き分けができなくて困ってんのに」

「ううん、リスニングは得意かな。でもあれって教えようがないのよ」

「ああうらやましいうらやましい!」

 カオルは声を荒げ、コミカルに言う。

「円周上を移動する点Pの軌跡をもとめる方がよっぽどしんどいよ。『お前の動力源は何よ』って、マジで訊きたいわ」

わたしの言葉にカオルはころころと笑った。

「みつきちゃん、北星だっけ」

「そう。一応ね。カオルは、ええと」

「小樽商大、よ、一応」

「すごいねぇ」

「合格すればね。みつきちゃんも教育大くらいなら受かるんじゃないかな?」

「無理無理。今から数学なんて勉強したくないし」

 いつのまにかアラベスクは聞こえなくなっていた。

「有香、日大受けるって張り切ってるよね」

「演劇?」

「でしょ」

「はああ」

池野有香。寺山修司を信奉している彼女。今回は友人役の一人を演じる。去年の部長選出の際、部員の取りまとめが上手い西野か、情熱家の有香かで先輩たちやヤマヤは迷ったらしい。結局、突っ走りがちの有香よりもリーダーシップが強い西野が選ばれた。

「みんな、バラバラか」

わたしの言葉が部室の空中に放り出され、気泡のように漂った。

「……」

カオルも無言だ。

トタンの屋根を叩く雨音が勢いを増していた。部屋はいよいよ暗く、カオルが席を立ち、電灯のスイッチを入れた。フィルムの中の1シーンを思わせた空間が、いきなりリアルな部室に戻ってしまった。

「まだ、何ヶ月も先よ。みつきちゃんはセリフを覚えて、あたしは照明を考える。火傷に気をつけて、手が震えないように。絞りの具合にも気をつけて」

「わたしはセリフを噛まないように、ね」

「そうそう。去年、ゲネでは何ともなかったのに、本チャンでやっちゃったもんね」

「思い出したくないわ」

学祭公演での小さな失敗を思い出し、動悸が一瞬速くなる。西野の足より、わたしの失敗の方が目立ったかもしれない。上手くごまかしたつもりだったが、ヤマヤと有香、カオルにはばっちりばれていたのだ。

「帰らない? もう五時だよ」

「えっ、そんな時間?」

「今日、北野君は?」

カオルがにやり。わたしと彼のことを知っている友人は、実はそれほど多くない。

「バイトだって、さっさと帰っちゃった」

「おお、寂しかろう寂しかろう。私がその痛みを癒してあげよう、ミシェール、さあ来るがいい」

カオルは喉を絞めたような変な声を出し、妙な身振りでわたしに迫った。

「どうしたミシェール、このわたし、フランソワがそなたを暖めてあげよう!」

「やめてよカオル、誰よ『ミシェール』に『フランソワ』って」

カオルの演技にわたしは腹筋が痛くなる。涙さえ浮かんだ。

「知らないの? 著名なフランス文学者、ジャン-ピエール・グレイヤールの『セーヌの岸辺』って戯曲」

「知らない」

初めて聞いた人名とタイトルに、わたしはカオルの博識にあらためて驚いた。だがカオルは不敵に眉を吊り上げた。

「ふん、知らなくて当然ね、今あたしが考えたんだから」

わたしは唖然とした。またやられた。カオルは時々真顔で冗談を言う。

「わかったわ、今着替えるから、ちょっと待っててフランソワ」

「おお、待つともミシェール。ところで外は雨だ。傘など君は持っているのかい?」

相変わらずの芝居口調。今日は着替えもカバンも部室まで持って来ていた。だが今朝は晴れていたから、傘は持って来ていなかった。

「持ってないわ、フランソワ。あなたの懐に抱かれてカルチェ・ラタンを歩くのよ」

トレーニングウェアのジッパーを下げながら、わたしもカオルに合わせて答えた。

「ああなんとミシェール、嬉しいよ。わたしは傘を持っている。懐とはいかないが、よろしければ途中のバス停まで、わたしの傘に入ってくれたまえ」

カオルは両手を広げ、続ける。

「フランソワ、上着とスカートを取ってくださる? あ、そこのネクタイも取っていただけると嬉しいんですけど。ところで『バス停』とはムードぶち壊しじゃございません?」

カオルは衣裳ハンガーに掛けておいたわたしの制服を一式手渡し、次のセリフを考えているようだ。だがあきらめたらしく、「おおう」と身をのけぞらせ、

「ああそうか、『バス停』じゃ、なんか変よね。メトロの駅だったらよかったかな。でも、北原に地下鉄なんて走ってないし」

「いつの時代の話なのよ、その『セーヌの岸辺』って?」

ブラウスのボタンを留め、ネクタイを結ぶ。Tシャツが何となく汗臭かったが、替えは持って来ていない。

「十九世紀末の、燃えるような恋物語よ」

「はいはい。今度本当に戯曲書いてみたら? 案外いけるかもよ?」

スカートをはき、トレーニングウェアを脱ぐ。ベストを着、ブレザーに腕を通し、鏡の前でチェック。わたしはいつもネクタイを右に曲がって結ぶ癖があったから、確認しないとカオルのそれよりみっともない。

「戯曲なんて書けないよ。だいたいうちの部、現代劇ばっかだから、十九世紀のフランス衣裳なんて、ないでしょ」

「それもそうね。さあフランソワ、帰りましょうか。傘、よろしくね」

「はいはいミシェール。窓閉まっているよね?」

「OK」

「鍵、電気、椅子は片したし、じゃあ帰りましょう」

「まいりましょうフランソワ」

「もうやめてェ」

わたしが腕をカオルの腕に絡ませると、カオルは甲高くおどけた調子で叫び、部室のドアを閉めて鍵を掛け、鍵をキーボックスに放り込むとダイヤル式のロックを掛ける。顔を寄せたカオルの制服からは、ほのかな甘い匂いがした。


雨上がりの日曜日、どこまでも澄んでいた朝の空気は、夕方になって一日分の吐息を集めて霞がかかっていた。わたしは快速電車がヘッドランプを輝かせ、レールの上をすっ飛んで行く線路脇を自転車を押して歩いていた。過ぎる列車の窓はコマ落としのフィルム。眠りこけるスーツ、窓辺に置かれた烏龍茶の缶、向かい合うカップル、そしてわたしを射る子どもの目。わたしの時計は最近午後五時で止まる。永遠の夕焼け、果てしない茜色。世界は自転を止めてどこまで行ってもあの日の夕方。取り戻せないのはわたしの目。

今日は裕とアメリカ製のアクション映画を観た。手稲駅で待ち合わせ、大通に程近い劇場でふたり並んで遠い異国の銃撃戦を二時間眺めた。マクドナルドでハンバーガーと異様に塩っぱいフライドポテトをかじり、書店と雑貨店をひやかして、大通公園のベンチで下らないおしゃべりをした。裕は、ベンチに座る人間を見れば寄ってくる都会の土鳩をからかい、わたしが鳩の目は恐いと言うと、侵入者を威嚇する番犬のような唸り声を立てて平和の象徴を羽ばたかせていた。駅前通の中途に構える楽器店の前で、知らないバンドが街頭ライブを行っていた。わたしはギタリストの運指を見、裕の爪先がリズムを刻んでいた。わたしは兄のギターの方かはるかに上手いと、内心長髪のバンドマンに落胆した。

 去年の初夏から裕と毎週日曜日、時々穴は空いたがこうしてデートを繰り返している。「デート」などと小恥ずかしくて口にすら出来ないセリフだが、いつだってわたしは裕の広い背中が愛しい。でも彼はまだ一度もわたしの手を握ってくれなかった。口ではいろいろ言っても裕は、別れ際に人目を気にしながらしてくれる、触れるだけのキスより先に進もうとしない。でもわたしは彼の唇の感触が夢から覚めても消えないのだった。きっと彼に抱きしめられでもしたら、全身が炎天下のバターのように溶けてしまうに違いない。赤面する自我が、わたしからはみ出で流れ出すのは彼の前で好ましくなく思えた。

再びヘッドランプがフィルムを連れてやってくる。レールが軋み、パンタグラフが架線に爆ぜる。茜色に電車の赤がにじんで一気に加速する。手稲山の稜線が夕日に燃える。あたりには秋の実りを願う肥料の匂いが風に乗り、錆びた鉄の匂いと混ざり合ってわたしの嗅覚を狂わせる。そびえる送電塔が街をまたいで灯りの種を運んでいた。

休日が終わる。わたしはそっと唇に触れる。裕の部屋を出るとき、彼は背中を屈め、わたしは爪先で立ち、触れ合うだけのキスをした。裕は両手をわたしの肩にかけ、わたしの両手は居場所を探した。息を止め、周囲の音が消え、部屋の中でわたしたちは「わたし」になる。彼の意識がとても近くに感じられる瞬間。唇が離れ、裕の吐息を聴く。目の前に彼の喉仏が上下して、見上げた瞳は心なしか潤んでいた。子どもをあやすように裕はわたしの頭を叩くように撫で、別れの儀式はそれでおしまい。(また明日)、わたしの言葉はなぜか掠れていた。(また明日。遅刻するなよ)、裕の声がいつまでも残響。一日分の思いは誰にも秘密で胸の中。自転車のペダルを踏み込み、彼の部屋を振り返る。窓を開け、上半身を乗り出した裕の笑顔に寂しさを信じ、軽く右手を上げて角を曲がる。複雑な夕焼け雲はわたしにとって変らない時間。ああ、今だけは瞳の曇りを晴らして欲しい。角を曲がって通りに出ると、途端に雑多な音が蘇った。わたしが主人公からエキストラに降りた瞬間だ。

耳の底であの曲が流れている。チープなシンセのメロディが。わたしを幼い夕焼けへと誘うあの曲が。カウンターで、飲めないコーヒーを父にねだった小さな記憶。楽しかった日曜日のエンディングは、そうだ、いつでもあの店だった。客の少ない店内に、YMOのリフレイン。

わたしはその店の名前を思い出せない。


父は居間のソファの上で胡座をかき、背中を丸めてNHKのニュースを見ていた。台所から母が揚げる鶏の唐揚げの香りが漂い、わたしの空腹を煽る。

「みつき、お皿並べてちょうだい」

わたしによく似た声が、振り向きもせずに呼びかける。なぜわたしの帰宅が分かるのか、母の背中には第三の目が付いているに違いない。

「おかえり、みつき」

父がこちらを向き、柔和な表情で姿勢を崩す。

「ただいま」

グレイのスウェットを気楽に着こなす父は、五〇代に手が届くおじさんにしては若々しく見える。

「みつき、早く」

ショートにした髪、小柄な背中。わたしの二五年後が急き立てる。食器棚から四人分のご飯茶碗、箸たて、味噌汁の椀、大皿に小皿を食卓に並べる。

「あなた手を洗ってないでしょう」

「だって仕方ないじゃない、帰ってきたところへいきなり言うんだもの」

「手を洗って、勇を呼びに行って、ご飯よそって」

「お兄ちゃん、いるの?」

「一日中部屋から出てこないけど」

母は背を向けたまま、ひとつひとつの唐揚げに集中している。まるで本職の料理人だ。わたしはすべての食器を並べ終え、階段を一段飛ばしで上る。兄の部屋をノックし、夕食ができた旨をドア越しに伝えた。気のない返事が1テンポ遅れてわたしの背中に投げつけられ、わたしは自室に戻らずそのまま階段を降り、洗面所で手を洗うと食卓では父が既にビールの栓を抜いていた。父は弱いくせに酒好きだった。

三人が席について、父が二杯目のビールをグラスに注いで、ようやく兄がパンクロッカーのような頭で現れた。全員が揃って夕食。カオルに話してホームドラマだと笑われたわたしの習慣。兄は気のない返事を寄越したわりに、真っ先に唐揚げに手を付け、黙々と口を動かした。父は三杯目のグラスで、早くも首筋を桃色に染めていた。兄はまったくの下戸だが、実は母が酒豪だということをわたしは知っている。母は時折父と酌み交わし、出来上がった彼をソファに置き去りにして寝室へ引っ込むことがあるのだ。いくら飲んでも酔わないのだから、キッチンドランカーの心配がない。これも自分の未来の姿なのだろうかと、そのたびわたしは苦笑するしかない。食事を終え、背後のソファで伸びている父の息遣いを聞きながら、母と並んで食器を洗う。この姿を見てもカオルはきっと大爆笑するに違いない。あるいは神妙な顔をして意味深げにうなずくだろうか。これも、わたしの日常に過ぎないのに。

最後にテーブルをから拭きし、台所の明かりを母が消す。父はようやく復活し、セブンスターを吹かしながらNHKの大河ドラマに見入っていた。母は風呂場へ湯を張りに部屋を出た。わたしは父の隣にそっと座った。

「どうした? 時代劇、嫌いなんだろう」

よく通るバリトン。こけた頬が兄の横顔とうりふたつ。

「あのさ、憶えてないかな」

わたしはソファの上で膝を抱え、首を父に向ける。

「なんだい?」

「喫茶店。あの、小さい頃、連れていってくれた」

父はセブンスターを一際深く吸い込む。

「喫茶店」

「そう、喫茶店」

わたしは裕ほど煙草の煙が苦にならない。

「手稲にいた頃か?」

「たぶん」

父はTVを向いたまま灰皿に灰を落とす。

「ほら、日曜日、散歩に行ったでしょ、ふたりで。その帰りにさ、よく寄ったの、憶えてない?」

わたしが言うと父は少し上を向き、眉を寄せる。しばらく「んん」と考え込んで、

「ああ……、美味しくないジャムトーストの店か?」

 わたしを向いてそう言った。

「えっ?」

「みつきが何か食べたいって言ってな、甘いのがいいかなって思って、ジャムトースト、頼んだんだよ。したら、お前『美味しくない』ってほとんど全部残しちゃったんだ。憶えてないのか?」

「ううん」

「何だ、じゃあ違うかな」

父はTVに向き直り、短くなったセブンスターをもみ消した。

「それ、なんていう店?」

美味しくないジャムトースト。わたしの耳にあの曲が流れ出す。

「ああ、名前、名前。なんて言ったかなぁ、えらい昔だろう。お前が小学校に入るか入らないかだからなぁ」

両手を首の後ろで組み、目を細める。わたしは何も言わずに答えを待った。

「……、『ホットペッパー』だったかな」

指を組んだまま、父はわたしに向いて言った。

「『ホットペッパー』」

「そうだ、『ホットペッパー』。手稲の家の近所だったかな。どの辺だったかな。何せ昔だからなぁ、ちょっと怪しいな」

父の息は煙草の匂いが混ざっていた。わたしの知っている、父の匂いだ。

「行けば思い出すけど、……あの店がどうかしたのか?」

「ううん、別に、ちょっと思い出しただけ。あの、音楽聴いてて」

「YMO、か」

「うん」

「お前も変った子だな。ああいう曲を聴いて喜ぶんだからな」

「……うん」

わたしは父から視線を外し、小さくうなずいた。変った子。確かにそうだ。

TVでは今日のドラマが佳境に入っているらしく、父はそれっきりわたしを向かなかった。会話が終わるのを見計らったように母が戻って来て、風呂に入る順番を訊いてきた。父が最初、次がわたし、母、最後の風呂洗いが兄だ。いつだってこの順番。これも、わたしのささやかな日々の習慣だった。


塵を吸い込んだ鼻がむずむずした。薄曇りの空を見上げて、くしゃみをひとつ。わたしは窓辺でほうきを持ち、突っ立っていた。

「相川ぁ、サボってんなよなぁ」

同じ班の葛西が黒板消しを両手にあごを突き出して言う。今週は教室の向かい、第一自習室の掃除の当番だ。普段ほとんど使われることのない教室だけに、黒板も床もきれいなものだ。葛西はそれを知っていて、わざわざ黒板消しをクリーナーにかけに行く。

「俺バイトあるんだよ、かったるくてやってられないぜ」

薄い肩をいからせて葛西は自習室をあとにした。残ったのは植田デブとアニメ岡田、三つ編みの伊崎、銀縁眼鏡の榎波。他の面子はさっさと逃げてしまった。どうもこの班は地味すぎる。口を開くのはわたしと葛西。アニメ岡田はのそのそと机を抱え、植田デブは脂っぽい額に汗を浮かべていた。伊崎と榎波は仲がいいらしいが、二人が普段どんな会話をしているのか、わたしは知らない。

「榎波さん、塵取りお願い」

わたしが言っても、返事がない。言葉が通じているのか不安になるが、無言で塵取りを添えてくれるのだから、わたしの日本語は理解できたのだろう。

苦痛。

おとなしい人間は嫌いじゃない。わたしだって、どちらかといえばあっち側の人間だ。だけど、おとなしいのと陰鬱なのは違う。彼女たち前でわたしは気の強い女を演じてしまう。叱られて拗ねた子どものようにうつむく榎波や伊崎を見ていると、ときどき無性に腹が立った。

ほうきで集めた塵を塵取りからゴミ箱へ。一日で一杯になる三年一組のゴミ箱と違って、潰れた牛乳パックや菓子パンの包みがここにはない。わたしが塵取りを払うと、伊崎が黙ってゴミ箱を抱え、廊下に消えた。背後では机を並べ終わった植田デブとアニメ岡田が、窓辺でぼそぼそ談笑していた。彼らが熱心なのはゲームや美少女アニメの品評会。こいつらの会話にもついていけない。陰鬱というより排他的で閉鎖的だ。わたしはちょっと乱暴に、ほうきと塵取りを用具箱に放り込むと、勝手に掃除終了を宣言し、自習室を出た。教室に戻るところで、シンバルを叩くような格好でふらふら帰ってくる葛西とすれ違った。

「もう終わったのかよ」

「もう終わったよ」

「ああそう」

教室の掃除も終わっていた。こちらはせっかちなミカの班。手際が悪いはずがない。うちの班と何人か、トレードを申し込みたかった。

わたしはカバンを肩に引っかけ、トレーニングウェア入りのサブバッグを右手に教室を出る。もっと手際よく掃除が終われば、部室にあと五分早く到着できるのに。わたしは早足に廊下を進む。部員たちが集結する前に、さっさと着替えを済ませたかった。

部室のドアを開けると、案の定着替えを済ませた部員が輪になっていた。到着が遅れると、人目を気にして制服を脱がなくてはならない。この部に更衣室など用意されていない。書割りと大道具で囲まれたトイレみたいなスペースで、慌ててトレーニングウェアに着替えた。

西野と福井が大道具のパイプベッドに腰掛け、脚本を指で追っている。舞台監督と音響、だから二人は制服のままだ。いざ準備が本格的になれば、福井の指は切り傷だらけになる。オープンリールのテープを切り貼りするからだ。今年の予算でDATを請求したのに放送部に持って行かれて、たいそう福井は憤慨していた。もともと今使っている4トラックのオープンリールは放送部からの払い下げなのだ。演劇部と放送部。メディアが違うがやっていることは実は近い。ドラマ制作の際、放送部から役者を貸して欲しいとたびたび頼まれるし、こちらから機材を借りに放送部を訪れることもある。調整室に並んだ36チャンネルのミキサーを、福井は放送部員並みに操ることができるのだ。

演出の城崎がスカートのほつれを弄びながら、大道具の稲田と顔を突き合わせている。大会は六月下旬。二ヶ月先の話だが、もう部室は臨戦体勢に入っていた。毎年ゴールデンウィーク返上で稽古が入る。わたしは壁にずらりと並んだ賞状を見上げる。地区大会最優秀賞、道大会優秀賞、最優秀賞……。輝かしい戦歴だった。甲子園に行けない弱小野球部の代わりに、わたしの学校では演劇部に合唱部、放送部の知名度が高い。

最後の舞台。

栄誉を目当てに全国大会へ行きたいとは思わない。ただたくさんの人たちに観てもらいたい、大きな劇場で演じてみたい。わたしのなかのもうひとりに火が点る。

「おはようございます!」

西野の朗々とした声が部室に響く。途端に騒がしかった部員が、水を打ったように静かになる。わたしは張り詰めたこの瞬間が好きだった。

「おはようございます!」

全員が応える。腹式呼吸を会得しているだけに、ガラスが震えるほどの凛々しさ。演劇部は決して文化系の部ではない。トレーニングから上下関係まで、限りなく体育会系の組織だった。

西野は微笑を口許に、じっと一同を見渡す。線の細い小柄な彼が、部長の顔になる。メモも見ずに連絡事項を手早く話し、今日の予定、公演に向けての進行状況、各部門への指示、そしてそれぞれの担当からの連絡事項。わたしは、部長の言葉に熱心に相づちをうつ新入部員の女の子の肩越しに、砂埃を巻き上げて吹き抜ける風の色を数えていた。


部活を終えたわたしは、帰途につこうとざわめく部室からトレーニングウェアを着替えないまま、図書室へ向かった。別段読みかけの本があったわけでもないし、借りたままになっている小説があったわけでもなくて、トレーニングや稽古の熱気が抜けない部室の、むっとする匂いがちょっとうざったかっただけ。八人入部した一年生、大半が女の子だったが、西野が辟易するほど元気がよく、実のところわたしにとって、彼女たちのやる気はまぶしすぎたのだ。

閉館時間まで三十分を切った図書室では、カウンターで私語に花を咲かせる委員のほかは、数えるくらいの生徒しかいなかった。蛍光灯が白々しくて、実際以上に暗く沈んで見えた。

「ミッキー、部活サボってんの?」

小学校からの顔見知り、七組のエリコがカウンターから声をかけてきた。エリコは三年連続の図書委員。そして昔からの友人たちは、わたしをその小恥ずかしいニックネームで呼ぶ。

「終わったの。新刊何か入ってないの?」

「うちは本屋と違うからね」

片肘をカウンターにつき、柔らかいストレートヘアを指先にからめ、眠そうな目が応える。

「閉館、五時半だっけ」

「あと二〇分ね。探したい本でもあんの?」

「別に」

わたしは彼女に背を向け、館内をぐるりとなめる。手前のテーブルで、目を悪くするのではとこちらが気になるほどの猫背で、眼鏡をかけた小柄な女の子がしきりに何かを書いている。

「あれぇミッキー、名札とれそうだよ」

エリコが赤ん坊のような指でわたしの胸を指した。トレーニングウェアの左胸に縫いつけてある名札が、糸がほつれて半分ほどめくれている。

「あぁ、つけたばっかなのに」

わたしはぺらぺらと名札をつまみ、ポケットのようになった空間に指を突っ込んだ。

「裁縫、ヘタクソだもんなぁ」

「すいませんね」

「ソーイング・セット貸してあげようか?」

「いいよ、面倒だもの」

めくれた名札を元に戻そうとするが、糸が切れているのはどうしようもない。すぐまたぺろりと垂れてしまった。

「まだ帰らないんですか、『3年1組相川みつき』さん?」

わたしの胸に書かれた文字を指先でなぞって、エリコは一重の黒目がちな瞳を向ける。

「帰りますよ。ただ、何となく、時間を潰しているだけ」

「ここは時間潰しの場所じゃねぇぞっと」

「ああそうだったの?」

「失礼な」

エリコはそう言って小声で笑った。

「五時、二○分、か」

図書室の時計は、わたしの腕時計より一分遅れていた。腕時計は三日に一度は調整しているから、狂っているのは図書室の時計だ。秒針が音を立てずに時を刻んでいる。

「暇そうだね」

エリコはたいして濃くもない眉毛を抜いていた。本人に意識のない、彼女の癖。

「暇ですよぉ、ここだけの話ね。私も演劇部入ればよかった」

ぎしりと椅子を引きずる音に振り向くと、眼鏡の子が立ち上がり、分厚く煤けた本を抱えて奥の書架に歩いていくところだった。彼女はわたしよりも背が低かった。

「戻るわ、わたし。今度なんか面白い本が入ったら、キープしといてね」

「予約はできませんよぉ。ちゃんと申請してください」

「了解、了解。じゃあまたね」

「はぁい、まったねぇ。ああ、ちゃんと名札、つけるんだよぉ」

「はいはい」

小声で応え、わたしは図書室を出る。廊下に蛍光灯は点っておらず、煌々と明るい図書室はまるで、深夜の住宅街のコンビニエンス・ストアだった。角のスイッチを入れると、点々と蛍光灯に照らされるリノリウム張りの廊下は、薄暗い地下道を思わせた。わたしは見知らぬ地下道を歩く少女を演じる。近未来、管理社会からの脱出を夢見、そっと歩幅を広げる強気の女の子。(ははっ)、安直な設定に苦笑した。

いつだってわたしは「相川みつき」を抜け出ることができる。「失恋に悩む女の子」、「今時の女子高生」、「嫌味な優等生」、「怪我をした友人を憂える陸上部員」、「その他大勢に埋没した高校生」、……。そのうち自分を見失う。自分をきちんと保持していないと、別の人格なんて演じられない。なのに時々わたしは「相川みつき」を置き忘れてしまう。公演が終わっても、しばらく役を引きずってしまうことがある。スイッチの切り替えが下手なわたしは、演劇に向いていないのかもしれない。

階段を一段飛ばして駆け降り、最後は五段目からジャンプした。誰にも見られなかった。子供っぽいわたしが顔を出す。まっすぐ部室に戻らずに、手洗い前に並ぶ蛇口から水を飲み、顔を洗った。洗ったあとで、ハンカチは制服のポケットに入れたままなのを思い出す。仕方なくトレーニングウェアの袖で顔を拭った。汗の匂いが染みていた。

もう閉じられていると思っていた部室の鍵はまだ開いていた。ドアの向こうは蛍光灯がたった一列だけ、場末のつぶれかけた事務所のように点っていた。まだ部員たちの熱気は残っていたが、人の姿は見えなかった。誰かが鍵をかけず、灯りも点けたままで帰宅してしまったのだろうか。大道具に囲まれた「更衣室」に入ろうと、ついたて代わりの書割りに手をかけると、部屋の窓際から物音が聞こえた。わたしはサスペンス映画のヒロインよろしく、びくりと身体を止め、息を殺した。基本的に部内恋愛が禁止の演劇部だが、時折いるのだ、誰もいなくなった部室で身を寄せ合うカップルが。わたしは足音をたてないように、そっと物音の方角へ向かう。

「……西野?」

「相川さん」

西野がパイプベッドの上で、あたかも自室でくつろぐような格好で台本を読んでいた。わたしは拍子抜け。

「なにやってるの?」

「見てのとおり」

「ひとり?」

「見てのとおり」

西野はブレザーをパイプにかけ、ネクタイを解いていた。さながら仕事から帰ったサラリーマンだ。わたしは彼のつま先に腰を下ろした。パイプベッドは数年前、誰かが粗大ゴミ置き場から回収してきたものだと聞いている。錆が浮いていたものを塗装し直し、見た目だけは新品同然。病院や保健室のシーンで活躍しているベッドだが、幸か不幸かわたしはまだこれに横たわったことはない。

「帰らないの?」

「帰るさ。ただここにいると、真剣に本を読めるからさ」

胸に台本を伏せ、西野は目を細める。

「日が長くなってきたね」

腕を枕に、西野は窓を向く。外はいつもの水の底のような街。これでカーテンを閉めれば、確かにここは病室のベッドになる。

「どこ行ってたのさ?」

外を向いたまま、ぽつりと西野。

「図書室」

「着替えもしないで?」

「一年生の若さに、当てられちゃった」

「はんっ」

西野は脚を縮め、わたしのスペースを作ってくれた。上履きを脱いでベッドの上にのり、わたしは膝を抱えた。とぎれた会話の先を、ぼんやり探す。

「どう、今回の芝居?」

声だけ聞くと、深夜FMのDJ並みに渋い。見ると西野は薄い唇を尖らせ、薄目をわたしに向けている。

「なんで?」

「ううん、なんかさ、気になるんだねぇ。悪い意味じゃないんだけど、んん。こう、冷めているっていうんだろうか、まだまだ本を読んでる段階だから何ともね。だけど、相川さんらしくないってぇのかね、陳腐な言い方だけどさ。冷静に見えるんだな。だからさ、不満でもあるのかな、それとも……。まぁ、部長として、舞台監督として、気になったんでね」

手を首の後ろで組み、尖った鼻をひくひくさせている。

「冷めて見える?」

「役に入っちゃう前ね。ストレッチやってるときとか、発声やってるとき。前はもっと、他の連中としゃべったりして、叱られたりしてたでしょう。ここんところ、そうじゃないから」

「大人になったのよ」

わたしは彼から視線を外し、茶化し気味に応えた。

「違うね」

西野は驚くほどきっぱりとそう言った。

「違うな。そういうんじゃないな。あれは何かに迷ってる顔だったね。迷っているって、欲しいものをどっちにしようかっていうんじゃなくて、そうだな、一本道で迷っている、みたいなね」

「一本道で、なに?」

「迷路で迷っているんじゃなくて、まっすぐ歩いてきた道で、先に行こうかどうしようかって、立ち止まっているっていう感じかな。そんな顔に見える」

西野は言って上半身を起こした。体格はわたしとあまり変らない。

「ブンガク的だね、相変わらず」

「文学部を目指してんだから、ブンガク的さ」

わたしは膝頭に顎をのせ、ガラスに映る自分と向かい合っていた。あぐらをかく西野の顔が、鋲の外れたポスターのように歪んでいた。

「最後の公演で、神経質になっているのかって、最初は思っていた。だけと違うんだな、そういう感じじゃない。もちろん最後の公演っつうのは、関係してるとは思ったけど、でも、相川さんはそういうプレッシャーとは無縁でしょう。本番で袖で待機してるときだって、新城とか南沢が足踏みしてんのに、相川さんはこう、レース直前のF1ドライバーみたいな顔して、目がすわっちゃったりしててね。そうそう、学祭公演のとき、僕がこけて足くじいて、他の連中が慌てふためいてんのに、あんただけは冷静だったもんな。冷たいんじゃなくて、冷静。セリフ噛んじゃったのは別としてね。

だけど、ここ十日ばかし、冷静じゃなくて冷めてるんだよね、普段の表情が。例えて言うなら、幕間に登場するナレーターさ。で、気になったわけ。一年生にあてられたとか言ったけど、本当は違うんだろう?」

股割りをするように座り、淡々としゃべる。

「迷っている、のかな、わたし」

トレーニングウェアの膝は擦れて、てかてか光っている。

「振り返りたくなるっていうか。今の自分が、自分じゃないみたいに。ひとりだけ、そう、西野が言ったとおり、幕間のナレーターみたいに、世界から引き離されている、そんな感じ」

わたしの耳の奥で、旋律がエコーする。茜色が蘇る。

「んん……」

目を閉じ、膝に顔を埋めた。

「どうした、相川さん? なんかまずいこと言ったかな。でも、僕が感じたのは本当のことだからね」

西野の言葉は左の耳から入ったきり、出てこない。

「ねぇ西野?」

「なに」

「時間てさ」

「うん?」

「時間って、流れるんじゃなくて、コマ送りのビデオみたいに、並んでいるんじゃないかって、そんなふうに考えたことない?」

わたしが訊くと西野は小さく唸って、答えはしばらく返ってこなかった。わたしは膝に顔を埋めたまま、自分の匂いに浸る。廊下を誰かが駆けていく。甲高いバイクのエンジン音が耳を刺す。蛍光灯のノイズが気になる。

「いきなりだなぁ。そうね、僕は、……時間って、ただの記憶そのもののことだと思う」

「記憶?」

「そう。一人ひとりの記憶が、その人の時間なんじゃないかな。だから、昔に戻ることもできるし、先に行くこともできる。でもその世界はその人の中だけで完結してるから、みんなが共通して持ってる時間は、本当のところ、共通じゃない。それに、もし『記憶』なんて機能が人間になかったら、時間が連続してるなんて思わないよね。一瞬々々が『点』として存在しちゃうから、奥行きがないっていうの? つまるところ、時計の中でしか時間を見ることができなくなるっていうか。僕が言いたい『時間』は、絶対的なものじゃなくて、人それぞれ相対的なもの……時計が刻んでる時間じゃなくて、場面、シーンとセットになったものかな。物理学の話はよくわかんないけど、文系の僕が考えているのは、まあこんな感じだね。

 ははっ、いきなり哲学的だよね。相川さんだって、十分ブンガク的じゃない」

 西野は鳶色の目をくるくる動かして、何だか高校生らしからぬ難解な言葉を羅列した。平均的学力のわたしでは、彼の言わんとする真意に手が届きそうで届かなかった。

「ごめんなさい、変なこと訊いて」

「いいえ」

顔を上げると、彼は先程と変らない姿勢で股割りをやっている。顔を見合わせて笑いあい、そしてお互いに視線を外し、またしばらくの沈黙。わたしは唐突におかしなことを言ってしまったことを、ほんの少しだけ後悔した。だが、西野が言った一本道で迷う自分の、そのイメージは、時間の流れそのものを感じさせたのだ。

一本道で迷っている。

西野の言葉はわたしの中で、容易に鮮やかな映像となって浮かんだ。そう、茜色の夕焼けの下で、枝道のない一本道を、ポプラ並木の続く一本道を頼りなげに歩くわたし。振り返っても道の先には何も見つからなくて、きっとどちらの地平の果てにも、何かがあるのは間違いないのだけれど、歩いてきた道程の風景だけは確実で、つま先が向く方角は、微妙に霞がかかっている。だからわたしは立ち止まる。バスの待合所で破れかけた時刻表を見ても、わたしが乗れるバスはやってこない。仕方がないから腐りかけたベンチに腰掛けて、永遠の夕焼けを四角い箱の中から見上げて。

先に進むのが、恐いのか。それだけなのか。こんなに近くにいる西野も、間もなく遠い存在になってしまう。

「帰らないの?」

西野の声がさっきより遠い。見ると西野はベッドを降り、ブレザーに腕を通していた。

「帰るの?」

「いい加減、お腹が空いたので。もう六時ですよ、相川さん」

紺のブレザーにグレイのスラックス、エンジのネクタイ。サラリーマン然としていた先ほどと比べれば、制服を着込んだ西野はまだはっきりと高校生の顔をしている。わたしは何だかほっとした。

「先、帰って。わたしが鍵閉めて帰るから」

「はいよ。じゃあまた明日」

「さよなら」

西野はよれよれのカバンをタスキかげにし、大きな前歯を見せて歩き出す。

「あ、西野」

「なに?」

半身が影に入った彼が振り返る。

「どうして、わたしが『迷ってる』なんて感じたの?」

わたしが訊ねると、長いような短い間がぽつんと空いた。西野の口許が蛍光灯に照らされて、顔の上半分は陰になっていた。

「自分が好きな女の子のことは、案外気になるものだよ」

「えっ?」

「ふん、冗談だよ。部長として、部員に気を配るのは当然だから、さ。じゃあさいなら」

重々しくドアが閉じ、わたしは部室にひとり残された。廊下に消えた部長の後ろ姿を見送る。

一列だけ点った蛍光灯、薄暮に沈む部室。わたしは「更衣室」に入り、トレーニングウェアのジッパーを下ろした。


ホリゾントは緩やかな茜色のグラデーション。わたしは観客のいない舞台に立っている。舞台は信じられないほど広く、靴の裏はアスファルトだ。仰ぐと天井から吊られているはずの照明はなく、ホリゾントのグラデーションがそのまま続いて、劇場は不意にポプラ並木の帰り道にオーバーラップ。遠くから学校のチャイムが風にのり、快速電車がレールを滑る、潮騒にも似た音が聞こえる。画用紙と色紙で作ったような家が並んで、パンを焼く匂いがわたしのまわりに漂っていた。ポプラはたおやかに空を突き、オレンジ色のフィルターをとおした街は、若手のイラストレーターの作品を思わせる。

わたしは道の真ん中に立っている。向かってくる車や玄関のドアを目指す人たちの姿もない。たったひとりの夕方……いや、わたしの右手を握る柔らかく暖かい感触。父の大きな手。見上げた高みに、父の微笑みがあった。目尻にしわを集め、つるんとした前歯を見せて。父はわたしにあわせ、ゆっくりゆっくり進む。わたしは父に遅れないよう、懸命に足を運ぶ。どこまで行ってもポプラ並木。永遠の夕焼け。わたしはぼんやりと、(ああ、夢を見ているんだ)、そう思っていた。懐かしい夢。父と歩む街並みが、わたしの世界のすべてだった幼い時間。見るものすべてが面白く、触わるものすべてに目を輝かせていた、あの頃。父の手に引かれ、わたしはこの夢が醒めないことを願った。

(みつき)

父の声が降ってくる。

(なぁに?)

見上げるわたし。

(またオレンジジュース飲んで帰ろうか)

(うん)

 笑顔で答えるわたし。父の頬が見える。

(今日は楽しかったか?)

(楽しかった)

(そうか、よかった)

(お父さん、明日はおしごと?)

(そうだよ)

(お父さんのカイシャって、センセイはいるの?)

(センセイはないなぁ)

(いいなぁ。わたしのセンセイ、恐いんだぁ)

(ははっ)

他愛のない会話、夕日に向かって歩くわたし。茜色に染まる父の横顔。長身と短針、二人の影が長く伸び、遠ざかる二人の会話はやがて夕焼けに溶けて、わたしの耳には届かなくなる。ふと振り向くと、青い夜がするするとわたしを包み始めていた。ポプラの梢に星が瞬き、道端の街灯が涙ににじんだ。ずっと胸の奥で、あの曲が繰り返し流れていた。最初は空の彼方で鳴っていた音楽が、次第に茜色のステージいっぱいのエコー。あの頃父にせがんで毎日聴いていたレコードは、やがて針が頻繁に飛び、同じフレーズをリフレインするようになった。今聞こえる旋律は、あの擦り切れたレコードだった。繰り返し繰り返し、もどかしいほど先へ進んでくれない。そしてわたしを染め上げていた夕焼け空が、無機質でまっ平らな白さで満たされ、それが自室の天井だと、目が開いてもしばらくわたしは気がつかなかった。

午後五時の邂逅と、午前七時三○分の現実。こめかみを涙が濡らしていた。ポプラ並木も幼いわたしも微笑む父も追憶の彼方。ただひとつ変らないのはリフレインを続ける音楽だった。

目覚まし代わりにかけておいたCDは、いくらクリーニングしても次のトラックに移ろうとしないあのCD。わたしはしばらく夢の余韻に浸っていた。

時間は、人の記憶そのもの。

わたしは西野の言葉を反芻し、父と歩いた並木道を思い起こしてみた。わたしの過去はしっかりと、記憶の溝に刻み込まれている。休日の午後、二人歩いた散歩道。そう、わたしはいつだって時間旅行ができるのだ。

(ポプラ並木……)

取り戻したい自分が、きっと今でもバスを待っている。腐りかけたベンチに座り、ひとり来るはずのないバスを待っている。切り取られた四角い空を瞳に映し、頬杖をついて今にも泣きだしそうな顔をして。

(バス停……)

あの日の景色がフラッシュバック、思いがけないリアリティで鮮やかに蘇る。そうあの日、幼いわたしは散歩の帰りに父とはぐれて、いつも通ったポプラ並木のあの道の、朽ちかけたバス停、その待合所で途方に暮れていた。

(バスに乗れば家に帰れる)

 破れかけた時刻表。

(バスに乗らなければ家に帰れない)

あの頃、休日というと父に手を引かれ、乗客の少ないバスに乗り、少し離れた公園に散歩へ出かけた。だだっ広い公園で、芝生も築山も遊園地みたいに立派な遊具も、わたしにとっては別の新しい世界だった。ひとりでは行けない、遠い場所。だから父とはぐれたとき、わたしはバス停を探した。きっと父もバスに乗らなければ元の世界には帰れない。だから父もバス停にやってくるに違いない。

(喫茶店……)

帰りのバス停へ向かう途中の喫茶店で、父はわたしにオレンジジュースを飲ませてくれた。家で飲むジュースと違ってずいぶんと酸っぱかったけれど、甘いだけのジュースよりも大人になった気がして嬉しかった。

(ジャムトースト……)

美味しくないジャムトースト。

家では母が夕食の支度をして、わたしたちを待っている。だから普段、父はジュースを飲ませてくれただけで、何か食べさせてはくれなかった。でも一度だけ、お腹が空いたと拗ねるわたしに、父がジャムトーストを頼んでくれた。

(……あんまり美味しくない)

わたしはトーストをほとんど食べることができなかった。父の困った顔、カウンターの向こうで苦笑を浮かべるオーナー、流れ続けるYMO。堰を切ったようにこみ上げてくる「記憶」、わたしは「時間」を取り戻す。不安も悩みも孤独も何もなかった、あの頃の「時間」を。

スピーカーからは変りなく、あの曲がエンドレスで流れていた。

わたしを時間旅行から連れ戻したのは、遅刻を心配する朝の習慣、ヒステリックな母の金切声だった。


ペダルを踏み込み大きく息を吸い込むたび、暖かい空気を実感する。桜がそろそろ咲きはじめていた。わたしは赤信号で足をついた交差点で、うっすらと、文字どおりの桜色がほころんだつぼみを見つけ、青空に映える満開の桜の木をちらりと描いた。北海道のエゾヤマザクラは、本州のソメイヨシノより紅が濃く、力強い。卒業式や入学式の印象ばかりが強調される桜だけれど、わたしにとってこの花は、春、というより、駆け足でやってくる夏へとつながる躍動感に満ちた花だった。

信号が変わる。園町の交差点では、コーンが並んで道路工事の真っ最中。ブレザーにうっすらと埃が散る。時計の針は間もなく八時半を指そうとしていた。裕のにやつきが目に浮かび、担任の不機嫌な顔がわたしの前方で揺らめいた。懐かしい時間旅行の代償が、今学期三度目の遅刻になりそうだ。このペースが続けば、きっとモリモトもわたしの遅刻回数をごまかしきれなくなるに決まっている。皆勤賞ねらいの裕がうとましく思えた。

校舎がようやく視界に入ったところで、わたしの耳をチャイムが打った。予鈴ではなく、始業のチャイムだ。わたしはあきらめ、ペダルにこめていた力を抜き、あとは惰性で校門に滑り込む。裕の自転車は例によって一番手前のスペース。わたしは彼方の青空駐輪場に愛車を止めると、U字ロックをかけてため息をひとつ。靴を履き替え、見当で髪の乱れを手櫛で直してから、ホームルーム真っ最中の教室へ向かう。教室前部の扉を開けると、担任がまずねめつけて、生徒全員がわたしを向いた。もはや呆れ顔のカオルに、ニヤニヤ笑いの裕、妙な愛想のよさで手を振るミカ。不本意だけれど、これもわたしの習慣になりつつあった。担任が(あっち行けシッシ)のしぐさをよこして、わたしは黙って席につく。裕はまだハロウィンのカボチャみたいな顔をしていて、口の形が(チコクノ・オウサマ)と動くのが分かった。わたしは何となく決まりが悪くなって、埃を含んだ髪をぱりぱりとかいた。

教室では普段、裕はほとんどわたしに話しかけてはこない。休み時間は韮沢だとか斎藤だとかとクルマ雑誌のページを繰って、スカイラインがどうの、RX7がどうのと免許もないのに騒いでいる。わたしもミカやカオルと音楽雑誌を広げたりして、彼に話し掛けることは滅多にない。だから学校内でわたしが裕と並んで歩けるのは、生徒たちがはけた部活帰りくらいだった。付き合っていることを知られたくないのではない。知らせたくないのだ。派手好きのミカは、これ見よがしに付き合いはじめたばかりの彼氏と手をつないで昇降口を出て行ったりするが、わたしには真似ができない芸当だった。カオルはわたしを「中学生の恋愛だ」とけらけら笑うのだが、それがわたしのスタイルなのだからしかたがない。そんなわたしに裕はときどき不満気な顔をする。「相川って、淡白だねぇ」。だからなのか、まだわたしは口を開いて彼とキスをしたことがない。

わたしが彼と付き合うようになったのは、去年の秋。きっかけは残暑の京都だった。

見学旅行で泊まった京都の旅館で、部屋に遊びにきた男子生徒たちの熱気に耐えられず、わたしは真夏の更衣室みたいにねっとりした部屋から、薄暗い廊下に逃げ出した。九月だというのに、額には玉のような汗が浮いた。廊下に出ると、後を追うように出てきた誰かがわたしの肩を叩いた。それが裕だった。裕は黄色いTシャツの襟元と脇の下に汗を染みをつくって、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。一言、「暑いね、やってらんないね」と。わたしも彼に同意してうなずいた。わたしは四組、彼は二組。わたしは彼のことを知らなかった。でも彼はいきなり背後からわたしをフルネームで呼んだ。一瞬どきりとしたが、何のこともない、その夜は自前のTシャツを使い果たして、しかたなく学校指定の体操服を着ていたから、胸と背中にはでかでかと、わたしのフルネームが番号つきで縫いつけてあったのだ。しかし裕は、あらかじめわたしの名前を知っているようだった。自分の名前を相手が知っているのに、目の前で馴れ馴れしく話す彼の名がわからないのが少し不愉快で、最初のうちは彼の言葉に適当に応えていた。廊下は十数人の吐息が渦巻く部屋よりは格段に涼しく、わたしは裕に誘われて、エレベーターホールのちゃちな応接セットに差し向かいになり、他愛もないおしゃべりをした。そして話しているうちに、薬師寺の坊主並みに軽妙な裕の話術にはまっていた。行きの寝台特急から、降り立った京都駅の暑さ、大仏の鼻の穴に清水の舞台、奈良公園で誰それが鹿に噛まれた、うどんが旨かった、そして美術部の話。ほとんど一方的に十五分も話してから、ようやくわたしが彼の名を知らないことを悟ったのか、裕は唇をアヒルのように突き出して名乗った。そのしぐさは彼が落胆したときのサインなのだが、そのことに気付いたのは、二人一緒に大通公園のホワイトイルミネーションを見に行ったとき。帰りの電車に、散々撮りまくった使い捨てカメラを裕が置き忘れたのだ。手稲駅で電車を降り、わたしがバスに乗ろうとして、突然裕はしゃっくりのような声を出し、そしてアヒル口になってカメラを忘れたことを告げた。彼はわたしを見送るのももどかしく慌てて駅舎に戻って行ったが、結局カメラは見つからなかった。どうせ夜景を撮るのにフラッシュを焚いていたのだから、まともに写っている写真はなかっただろう。だけど裕はいまだにそのことを口にしてはアヒルになる。

二人で眺めた京都タワーが懐かしい。わたしも裕も汗だくで、ムードもなにも皆無の出会いだったが、それだけに強烈で、それから彼は学祭公演で最前列に陣取ってくれたり、TVで放映された演劇をわざわざエアチェックしてくれたりと、細々と気を使ってくれて一緒にいる時間も多くなった。ミカが「ホワイトイルミネーションを見に行ったカップルは破局する」と茶化しても、わたしは絶対に信じなかった。なぜなら三年の四月のクラス替えで、わたしたちは図らずも同じクラスになったのだ。気障な言い方をすれば、きっと運命がわたしたちの味方をしているに違いない。そんなこと誰にも、口が裂けても言えないけれど。

授業中の裕は、ぼんやりと窓の外を眺めていることが多い。仲のいい生徒と席が近ければ、ぼそぼそと口を動かしているが、そうでなければノートの端に、窓から見える風景や先生の顔を落書きしていた。わたしは彼の指先が、わたしを描き出してくれることをこっそり待っていた。わたしをモデルに絵を描いて欲しいわけではなくて、彼の風景の一角に、果してわたしはきちんと存在しているのか、そのことを知りたかったのだ。

わたしの中にスケッチブックがあるのなら、描かれているのは茜色に染まったポプラ並木の道を、裕と並んで歩くわたしの姿だ。あの幼い日、半べそをかいて父を待ったバス停で、今度はきっと、裕がわたしの手を引いてくれるに違いない。いつ来るともわからないバスを待つより、わたしは彼の姿を夕焼け空の下で探すのだ。いや、探す必要などはなかった。彼となら、どこへ行ってもはぐれることはないだろうから。彼と歩むわたしは、幼かったあの頃のわたしではなくて、現在のわたし。でもわたしは、あの頃の目をまだ、取り戻してはいないのだ。


午後六時、珍しくみな上機嫌で部活が終わった。わたしは部員たちが引き上げた部室でゆっくり着替えて、ひとり美術室へ向かった。何ともなしに、裕の後ろ姿を見たくなったからだ。誰もいない部室の鍵を閉め、自分の汗の匂いを気にしながら階段を上がった。自然と一段飛ばしで上っていた。

四階の廊下には、溶き油の匂いが漂っている。相変わらず聞こえるリズムが狂った吹奏楽。今日はそれに白鳥の鳴き声みたいなサックスが加わっていた。うっすら闇に包まれはじめたとはいえ、ずいぶんと日が長くなった。わたしは窓から裕たちが描いた床絵を見下ろした。今年も新しく何か描くのだと、裕がこの間話していた。わたしはゆっくりゆっくり、廊下を進む。

美術室の扉は匂いがこもるのを嫌ってか、いつも開け放たれている。今日は部員たちの話し声が聞こえない。部屋をのぞきこむと、イーゼルが一脚、キャンバスを載せて立っているだけで、誰の姿もなかった。蛍光灯が煌々と点り、ついさっきまで人がいた形跡はあるのに、完成間近と思われるキャンバスと、デッサンのモデルに使われる石膏製の彫刻のほかは、がらんとしていた。イーゼルに向かう椅子の下に、見覚えのあるカバン。どうやら部員が全員帰ったあとも、裕が一人残っているらしい。キャンバスに描かれる筆致は、確かに彼のものだった。

裕は製作途中の絵を滅多にわたしに披露してくれない。例えばスケッチブックは見せてくれても、そこからスタートする一枚の絵の道筋は、一切彼の中に閉じ込めているようで、完成の名のもとでイメージが解放されるまで、彼の風景は彼以外の誰も見ることができない。だから今、わたしはこっそりと、裕の視点で彼のイメージを探る。

それは、既視感だった。

裕は絶妙な遠近法を利用した、広がりのある風景画を得意としている。絵心のまるでないわたしが描けば、ただのっぺりとした二次元でしかない一枚の絵に、裕はもう一つ、次元を付け加えることができた。なのにわたしが前にしているキャンバスは、彼得意の遠近法を見出すことができなかった。

ポプラ並木と、バス停。

わたしはキャンバスを見て、一瞬ではあったがぞくりとした。わたしの記憶、時間が裕の伝播したのかと、美術室が別な空間のような気分になった。

夕方の、風景。

わたしの記憶のバス停と、緻密な筆遣いによってキャンバスにはめ込まれた風景は、ジグソーパズルのピースのように、同じ形をしている。わたしは椅子に座り、絵の具をのせたばかりの四角い窓をのぞきこむ。記憶としてしまいこまれたあのバス停は、確かにわたしが幼い日に見た風景なのだ。だから裕がその場所でスケッチブックを広げたとしても、何の不思議はなかった。そもそも彼が住んでいる手稲の街は、わたしが小さい頃に駆け回っていた街でもあるのだから。

一見、遠近法を無視した技法で描かれているように見えたが、二本のポプラに挟まれた朽ちかけた待合室は、奥へ向かって広がりがついていた。影が斜めに陰陽を分けていて、表で一人の少女がバスを待っている。キャンバスはカレンダー程度のサイズだから彼女の顔までは分からない。だが、顔をちょっと傾けた表情は、茜色に染まる空の下、軽い憂いを含んでいるように思われた。

ノックの音に振り向いた。

「北野くん」

裕は壁に寄りかかるように立って、苦笑をこちらに向けている。

「見られちゃったか」

「誰もいなかったから」

「職員室に行ってたんだよ」

そう言って、赤い表紙の参考書を揺らす。

「開けっ放しで、不用心ね」

「何も盗るものなんてないだろう?」

苦笑を浮かべたまま、わたしの隣に立った。

「絵は?」

「誰が盗るの、素人の絵を?」

「わたし、とか」

「ははっ」

椅子の下からカバンを拾い上げ、参考書を無造作に放りこんだ。

「確かに不用心だな、お前に見られちゃったもんな」

腕を組み、わたしを見下ろす。

「見たっていいじゃない」

「減るもんじゃないって?」

わたしはうなずいた。

「減るんだよ、描いている途中に見られるとさ。余計なイメージが増えて、正しいイメージが減っちゃうんだよ。ああ、まだ乾いていないから、触わんないでよ」

わたしが指を近づけると、裕は真顔で驚く。

「部活、終わったのかい?」

「うん」

「じゃあ俺も、終わろうかな」

裕はキャンバスを取り上げ、部屋の隅の棚に載せた。パレットや筆はもうすでに洗って、片付けたあとらしい。イーゼルをたたみ、わたしに部屋を出るよう促す。蛍光灯を消し、鍵をかけ、周りを見渡してから扉の上に載せた。鍵の隠し場所。階段を並んで下り、昇降口から自転車置き場へ。二人の距離が再び広がる。わたしはちらりと校舎を振り返り、演劇部の部室を見た。灯りはなく、中の様子はうかがえない。誰もいない、部室。他の教室にはちらほらとまだ灯りが点った窓が見られた。わたしは埃まじりの風を受け、自転車にまたがった。裕はもうゆっくりと校門にさしかかっていた。ペダルをこぐ足に力が入る。校門を出、道道を手稲方面へ。裕はわたしにペースを合わせてはくれるが、必要以上にスピードを落としてはくれない。カオルはわたしたちの関係を「ドライ」だと評した。確かに教室を出た途端に手をつなぐミカよりは数段冷めているかもしれない。しかしそれをわたしは不満に思ったことはない。わたしにとって、これが普通だと思っていた。熱い想いは胸の中で発酵させるのだ。感情は徐々に徐々にあふれ出てくれればよかった。裕がそんなわたしの態度をどう感じているのかは気になったけれど、彼もまた、強くわたしを求めたりはしなかった。幸せな時間が長続きするとは思えない。いつか終わりがきてしまう。ならば、ゆっくりと歩めばいい。そうすれば、終点に到着するのは遅い時刻になる。

ナトリウムランプのオレンジ色を受けた彼の横顔は端正だ。裕は順調に行けば、来年この街を離れてしまう。さっき手にしていた参考書は、東京の美術大学のもの。学力だけでなく、実技試験の勉強も、部活の傍らにこなしているらしい。時折訪れる彼の部屋で、静物デッサンでびっしりになったスケッチブックを見せてもらった。

遠くへ。

わたしは普通がどんなものかわからない。彼が遠くへ行ってしまう。こんなとき、普通の女の子ならどうするのだろうか。追って、自分も東京の大学を受験するのだろうか。それとも彼を引き止めるのだろうか。わたしにはどちらもできそうにない。彼の望む道を、わたしが邪魔をする道理はないし、逆もまたそうだからだ。裕もわたしに東京の大学をすすめたりはしなかった。本当は一緒にいたい。もうひとりのわたしは身悶えする。彼について行けたら。だけど拒絶されたら。……現在のように、これからも二人の関係が続いていくのだろうか。案外刹那的な自分の感情を、一瞬ではあるがぞくりと確かめる。そう、わたしは今がいいのだ。流れる川のちょっとした淀みに手を伸ばし、そこから見える景色を楽しむのだ。

久しぶりに、ドーナッツ店に立ち寄った。甘党だとからかわれるのを覚悟で、わたしはチョコレートリングを二つと、トレーに載ったコーヒーにたっぷり砂糖を入れた。

「太るぞ、それ」

裕がおなじみのセリフを口にし、笑った。彼の笑顔は永遠だ。この笑顔が来年の今ごろは、一二〇〇キロ彼方へ遠ざかってしまうのだ。そう考えると、何かがわたしの奥底をわしづかみにする。一緒にあの茜色の空の下を歩くことができるのだろうか。もしはぐれても、彼はわたしを探してくれるのだろうか。

「食べてる分、動いてるから大丈夫」

「甘いコーヒー飲むくらいなら、ココアを飲めばいいんでない?」

「ココアは甘すぎて、ちょっと苦手」

「面倒なんだなぁ」

顔を突き合わせ、笑い合った。裕の唇が微かに湿っていて、それを見つけてどきりとした。

「そっちこそ、砂糖も入れないコーヒーなんて、よく飲めるよね」

「お茶に砂糖、入れる?」

「入れないよ、気持ち悪い」

「一緒だよ」

「そうかなぁ」

裕はブラックのまま、表情も変えずにカップを運ぶ。いかにも旨そうに飲んだりしないのが、わたしは好きだった。

「ねぇ?」

わたしはチョコレートリングのふたつめをかじりながら訊いた。

「ん?」

 裕もフレンチクルーラーのふたつめ。

「さっきの絵、あれどこ?」

「さっきの絵?」

「そう」

「俺が描いている?」

裕はさっと目線をそらし、とぼけた様子で訊き返す。彼は自分の作品に関しては意外に照れ屋だ。

「ポプラの木と、バス停の」

「うん?」

コーヒーを飲み干し、フレンチクルーラーを食べ尽くし、裕は一呼吸置いた。

「あれね」

「あれ」

わたしのチョコレートリングはまだ半分。

「手稲のはずれだよ。前田寄りの。うちから近くもなく、遠くもなくって、そんなとこ。どうして?」

裕の目は、今はまっすぐわたしを向いている。

「いい絵だなぁって、思ったから」

「そりゃ、どうも」

鳩が歩くように首を突き出して、裕が言う。照れているのだろうか。

「いつもと、雰囲気、違うよね」

「あの絵?」

「うん」

「そうだな、そう見えたのかな。でもまだあれ、途中だよ。だからじゃないのかな」

チョコレートリングをかじる。裕は手持ちぶさた。

「ほとんどできているんでしょ?」

「まだまださ。細かいところを、これからやるの」

「ふうん」

「いやぁ、描いてる途中の絵をお前に見られたの、初めてだな。失敗しっぱい」

「どうして?」

「んん、他の奴は知らないけど、俺はさ、描いてる途中で見られるのって、あんまり好きじゃないんだよね。例えばほら、ファッションモデルがね、着替えている最中を見られて、いい気分しないだろう? モデルは、きちんとメイクして、着こなして初めてモデルなわけでさ。だいたいお前だって、芝居の練習をひとに見せたいとかって思わないだろう?」

「うん、まぁ」

「おんなじだよ」

「そんなもんかな」

「そんなもんだね」

そう言って、裕は笑った。それだけの理由で、あれだけ強固に作成中の絵を見せたがらないのだろうか。

「で、あの絵は気に入ってくれたわけだ」

「うん、まあ、気に入ったっていうか、きれいだなぁって」

「それだけかい?」

裕はニヤニヤ笑い。

「どうして?」

「じゃあ何で場所を訊いたのさ?」

わたしは一瞬言いすくむ。確かに彼の絵はいいと思った。だからこそ、わたしは妙な既視感を感じたのだ。美術室から絵の中へ、わたしの記憶とリンクして、一気にジャンプすらしそうになっていた。それはあの絵が真に迫っていたからだ。

「あのね、なんて言ったらいいかな。北野くん、どうしても忘れられない場所だとか、風景ってない? 小さい頃でも、最近でも。心に焼き付いちゃって離れない、どうしても忘れられない場所。風景だけぺらって憶えているんじゃなくて、その時の思い出だとか、なんて言ったらいいだろう、ストーリーっていうのかな、そういうものがくっついて忘れられない場所。例えば、ホワイトイルミネーションを思い出すとしたら、ただ電飾がぴかぴかきれいなんじゃなくて、北野くんが一緒にいたこととか、カメラを忘れちゃったこととか一緒に思い出すでしょ? そういう風景のもっと強力な奴。ううん、本のページをどんどんめくっていったら、最後に残る挿し絵っていうか、自分の根底に必ずある、一枚の絵、みたいな」

言いたいことがまとまらず、まわりくどくなってしまった。裕はソーサーのふちを指でなぞっている。

「原風景ってやつ?」

低く、ぼそりと裕が言った。

「原風景?」

「自分の原点、奥底にあって、そこが出発点のような風景、って、読んだ本に書いてあった」

裕はもう茶化すような顔をしていない。絵筆を握っているときはきっとこんな顔だろう。こんなときの彼の顔がわたしはやはり好きだ。

「そうかもしれない。『原風景』……」

「それが、俺が描いた絵の場所なの?」

「だと思うの」

「できすぎてるな」

「わたしもそう思う。だけど、きっとあの場所だと思う。ほら、いつか話さなかったっけ、ここでYMOがかかったとき、小さい頃散歩で寄った店のこと」

「憶えてる」

「そのお店がね、ポプラ並木の道と、バス停のそばにあったような気がするの。ううん、気がするんじゃなくって、あったのよ」

「うん」

「小さい頃、日曜日っていうと、お父さんと一緒に、散歩に行ったのね。もう場所もよく憶えていないけど、うちのすぐそばからバスに乗って、広い公園まで。そこで遊んで、帰りにね、そのお店に寄ってね、またバスに乗って帰るのね。いつも夕焼けで、ポプラの木は信じられないくらい背が高くて、なんだか今思い出すと全部夢だったんじゃないのかなっていうくらい、なんかもう、本当に絵に描いたような思い出。

どうしてかわからないけど、最近よく、あの頃のことを思い出すのよ。そこで、北野くんの絵を見ちゃったの。北野くんが描きかけの絵を誰にも見せないのは知ってたよ。だけど、目を離せなくなっちゃったのね。ああ、本当にある場所だったんだって」

長ゼリフ。わたしは温くなったコーヒーを飲んだ。甘さだけが舌に残った。

「偶然、なのかな」

「きっと」

「いや、あんまりできすぎてて、少女マンガみたいだな」

「そうね」

裕の笑顔に誘発され、わたしも笑う。そう、確かにできすぎている。でも、あの場所は裕が描かなくても実際にある場所なのだ。それがたまたま彼がキャンバスに描いただけなのだ。

「ダメ押しをしてやろうか?」

 裕は唇の端を吊り上げて、変な笑い方をした。

「なに?」

「バス停に立つ女の子が描いてあったろ?」

「うん」

「あのモデルは、一体誰でしょう?」

それこそわたしは笑わずにはいられなかった。

「ピンポン、そのとおりです。あれはあなたです」

裕の耳たぶが微かな赤味を帯びていた。

「やってらんねぇな、これじゃ本当に安っぽい少女マンガだぜ?」

「本当ね」

「描き直すかなぁ」

「だめよ、あれがわたしなのなら、初めて描いてくれたってことになるでしょ?」

「そうだっけ?」

「そうですよ。もっとも、あれじゃ誰だかわかんないけど」

「ははっ、まあね」

わたしはカップに残ったコーヒーの甘さをすべて飲み干して、また笑った。


引き出しを開ける。筆記用具はほとんどがペン立てとカバンの中のペンケースの中だから、引き出しの中にはもらい物のレターセットや買い置きの封筒、年賀状の残りに何本かの定規、コンパスやノートの類が雑然としている。それぞれきちんと整理すべきなのに、部屋の掃除と違ってどうもわたしは苦手だ。袖の三段目には、修学旅行や友達と撮った写真を入れてある。思い出を手繰るとき、わたしは写真を眺めることは少ない。アルバムはわたしの内にあるからだ。だからといって、友達がくれる写真を突っ返したり、処分したりということはできない。何のかんのいってはため込んで、三段目は写真専用の引き出しになってしまった。その奥から、こっそりと小さなアルバムを取り出した。

わたしは滅多に写真を眺めたりしない。だけど、このアルバムは別だ。時折取り出して眺めることがあった。ページを繰ると、目を細め白い歯を覗かせる裕の表情があふれだす。修学旅行からこっち、集めた彼のスナップ。わたしが撮った写真はそれほど多くなく、彼がセルフタイマーで撮ったものや、カオルが撮ってくれたものが多かった。だから裕とわたしの2ショットは数えるほどで、ほとんどは数人の輪の中で笑う彼の姿だった。

友人の中には、机の上を自分の写真で埋め尽くしている子もいる。ミカの部屋には、案の定彼とふたりで撮ったむずがゆい写真が何枚も飾ってあった。カオルの場合は、演劇部で撮った写真を大事にしていたし、裕の部屋にはキャンバスはあっても写真がない。もしわたしの写真などを飾られていたら、真っ赤になって逃げ出してしまうところだが、彼はカメラを向けられれば抵抗なくファインダーにおさまっても、そのあと焼き上がった印画紙を手元にとっておこうとは思わないらしい。思考のすべてが絵画に集約されているのだろうか。

わたしは一葉写真を抜き出して、おもむろに机の上に載せた。去年の学校祭で撮られた、お気に入りの一葉。美術部の展示で、自らの作品をバックに、照れ笑いの裕。カオルと一緒に展示を冷やかしに行って、彼女のカメラで撮った写真。カオルは彼の隣に並ぶようにすすめてくれたが、わたしは慌てて首を振った。だから、裕はひとり写真におさまっているが、ファインダーのこちら側にはきっと、変に意識して地に足がついていないわたしがいるのだ。わたしは時々、この構図を眺める。いつもは強気でふざけてばかりの裕が、初めて主役をもらった素人役者のように照れている。わたしは彼の自然な表情が、気に入っていた。

一葉一葉。わたしは自分のペースで写真の中を散歩する。誰にも見られたくない、裕にだけは絶対に見せたくない、わたしの姿。

だけどわたしは思う。

もし、彼と離れ、実際の距離だけでなく、心の距離までも、お互いが見えないくらいに遠く離れてしまったら、そのときのわたしは、今のわたしをどんな気分で思い出すのだろうか。鳩尾がわくわくしていた日々を懐かしむのだろうか。それとも、寂しさに耐えられず、涙を流すだろうか。

時間が逆回転を始める。秋の放課後、冷え冷えとした廊下。最後の言葉は、近づく冬の足音よりも鮮明に、わたしを酷寒の闇に突き落とした。言葉を咀嚼できず、立ち尽くした中学三年の秋、ままごとのようだった交際。たった一年、わたしは同級生と「お付き合い」をした。あまりにもささやかな、子供っぽい交際だった。でも、わたしはそれだけで有頂天になっていた。そして彼が終局の言葉をわたしに告げたとき、冗談でもなく世界が音を立てて崩れていくのを感じた。憶えているのは、ガラス玉のような目の彼の顔。そして、瞬時にわたしは楽しかった思い出が過去のものになっていくのを感じた。もう、あんな辛い思いはしたくない。そう、わたしはいつかは果てる時間を心底恐れていた。

葉書ほどの大きさもない印画紙の中で、裕はぎこちない微笑みをこちらに向けている。何度もわたしは彼に問う。あなたに好かれる資格が、わたしにあるのだろうか、と。それを実際に問うことはできなかった。言った時点で、緩やかな下り坂がはじまってしまいそうに思えたからだ。いや、本当はすでに坂を下り始めているのかもしれない。残された時間。春へ向けてのカウント・ダウン。わたしの未来はまだ色が着いていない。そして鮮やかな夕焼けが広がる。幼い日の記憶がそうであるように、きっといつか、今が過去になっていく。いつの日かのわたしは、今をどんな色で見ているのだろう。西野に話した自分のセリフが蘇る。流れる時間は回るフィルムの一コマ一コマ。わたしという風景を、誰かがカメラで撮っているのだ。膨大な量のフィルムの1シーン、1カット。そのどれもがわたしにとっては大切で、胸の中の映写機はいつでも鮮やかに過去の記憶を映し出してくれる。何日か、何ヶ月か、何年かのちに、十七歳だった自分のフィルムをあらためて見直したとき、映し出される色はいったいどんな色だろうか。そのときに後悔しないよう、レンズの曇りを磨かなくてはならない。そうだ、わたしのレンズは、確実に曇っている。幼い日の夕焼けが鮮やかなのに、わずか数日前の青空すらくすんでしまう。どこかでレンズを磨く術を忘れてきてしまったのだろうか。

わたしは頬杖をつき、裕の写真をスポットライトにかざした。そうか、彼と過ごした時間は、まだ一年もたっていないのか。ずっと以前から彼を知っているような、そんな気がしていた。

「これからも、よろしく」

握られた手を握り返せるように。

わたしは声に出して呟いてみた。

すると不意に隣の部屋からギターをかき鳴らし、わめき散らす兄の声が耳を打った。不安も希望も畏れも絶望も、兄の「ハイウェイ・スター」がみんな持っていってしまった。

わたしは写真を元どおりアルバムに戻し、引き出しの奥へ押し込んだ。誰に見られたわけでもないのに、照れくさい。兄の「ハイウェイ・スター」は続いていて、わたしは本棚に載せてあるミニサイズのバスケットボールを手に取り、勢いをつけて壁に投げつけた。すると途端に、兄のシャウトはスイッチを切ったように止まった。わたしは一つ大きくため息。

日曜日、わたしは裕と時間をさかのぼろうと約束した。そう、あの茜色に染まった道を、ポプラ並木の道を二人で歩こうと。だから、少しでもレンズの曇りを磨かなくてはならない。


朝のTVニュースが、札幌の桜が満開となったことを告げていた。カレンダーはもうゴールデンウィークに突入している。公演に向けての練習は子供の日に入っていたから、今日の日曜はまるまるの休み。日、月、火と、春休み以来の連休で、桜色の風とともに、なんとなく街は浮き足立っているようにも思えた。朝から空は気持ちよく晴れていた。わたしは裕と、午後一時に手稲駅で待ち合わせた。待ち合わせの時刻が遅いのは、わたしの寝坊を憂慮してのことだろうか。だがわたしは、休日というと早起きしてしまう悪癖を持っていた。今朝も七時過ぎには目を覚まし、日曜の朝というと九時近くまで誰も起きてこない居間でひとり、朝刊を読んだ。

カーテンを開けると、隣家の庭先の桜の花が、紙細工の桜のように咲き乱れ、穏やかな風に身を揺らしていた。わたしはソファに寄りかかり、パジャマの袖から自分の匂いをかいでいた。奥の部屋からは父の軽いいびきがまだ聞こえていて、壁の振り子時計が時を刻んでいる。穏やかすぎる休日の朝だ。ふとわたしは、裕の姿を想った。彼はまだ布団に包まっているのだろうか。脈略もなく、彼の寝顔を見てみたいと思った。寝顔はその人の素がもっともよく現れる。いつもは気取り屋のミカだって、修学旅行でのぞいた寝顔は、信じられないほどかわいらしかった。昼行灯のような兄は、意外に端正な顔をして眠っている。わたしの寝顔は、知らない。でも裕になら、自分の素を見せてもいいと思った。

昼過ぎに家を出た。

ただでさえ「遅刻の王様」と不名誉な称号をつけられているだけに、待ち合わせに遅れたら、格好の餌食にされてしまう。余裕をもってペダルをこぐ。新川を渡るとき、強烈な海風にハンドルを取られそうになった。砂塵混じりの風はもう暖かかったけれど、髪を逆立てて乱す風を、わたしは少し呪った。手稲区に入ってしばらくは狭い歩道と行き交う人をよけながら進み、跨線橋を渡って信号を右に折れる。雑多な飲み屋とパチンコ店を駅前に持つのが手稲駅だった。裕の家はここから歩いて三十分。。本当は彼の家で待ちあわせればいいのだろうが、裕が待ち合わせにこだわった。だから彼の部屋を訪れるのはたいがい、デートコースの終着だった。

駅舎直結のパン屋の前で自転車を降り、スタンドをかけた。時刻は午後十二時四七分。彼は待ち合わせ時刻五分前に姿をあらわすことが多く、今日もまた、計ったように十二時五五分に右手を挙げて現れた。裕の自転車は油が切れかけているのか、しゃりしゃりとチェーンが擦れる音がした。

「よお」

「こんにちは」

ブレーキを鳴らして裕が横に並んだ。見上げた顔は、なぜか冴えない表情だった。わたしは何かやらかしたのかと一瞬不安になったが、裕の口がアヒルになっていた。

「どうしたの?」

わたしが訊ねると、裕は眉間にしわを寄せ、じろりとわたしを見た。

「なに?」

「いやぁ、言いにくいんだけどさ」

裕は鼻をつまみ、首の後ろをかいた。

「なんなの?」

「忘れ物した」

拍子抜けした。

「なんだ」

「というわけで、ちょっとうちまで付き合ってくれる?」

「取りに戻ればよかったのに」

「いや、お前って学校は平気で遅刻するけど、待ち合わせに遅れたことってないからさ。気がついたの、もう駅のすぐそばまで来ちゃってからだから、取りに戻ったら、二〇分は遅れるべ? そしたら、お前に何言われるかわかんないからさ」

裕は苦笑。わたしは微笑してペダルを踏んだ。

彼の家は国道五号を札幌方向にしばらく走り、トヨタのディーラーを曲がってアンテナが並ぶ塔のすぐ下に建っている。ここからだと最寄りの駅は稲積公園なのに、待ち合わせ場所は手稲駅だ。わたしの家から稲積公園までだと三〇分以上はかかってしまうが、手稲駅は二人の家のほぼ中間地点だった。

初めて裕の家を訪れたのは去年の秋。こんな風に日曜日、都心まで出かけた帰りに、ふらりと寄った。裕の家は高台に建っているから、その二階の彼の部屋からは、ぽつりぽつりと点りはじめた街の灯りがきれいだった。

わたしを部屋に通し、裕は机の引き出しをごそごそと何かを探していた。わたしは彼のベッドに腰かけ、乱雑な部屋をぐるりと見渡す。ベッドは彼が抜け出したままの状態で、布団は捲れ、枕はあさってを向いている。壁には達者な油彩が四点、水彩が三点、そこに掲げられるのが当然といった風情で並んで、裕が何度も受賞してもらっているはずの賞状は一枚もない。演劇部の部室を見たら、裕はどんな顔をするだろうか。賞状を飾ったりすることを、彼は嫌っているようだった。

目的のものはなかなか見つからないらしい。とうとう押し入れを調べはじめた。わたしは本棚に並ぶスケッチブックを取り出して開く。近所の公園から住宅街、電柱やポスト、間抜けな顔をした犬にしわを刻んだ老人の顔。絵画の才能は、きっと持って生まれるものに違いない。わたしには逆立ちをしても、何十年修行したって描けそうにないデッサンが、スケッチブック十数冊に渡って描かれている。押し入れには、彼が小学生時代からのスケッチブックもしまってあるそうだ。

新しいブックには、静物デッサンが延々と描かれていた。美術教師に頼んで受講している、実技試験向けのデッサンだった。芸術系大学の入試問題を見せてもらったが、真っ当な受験勉強では到底身につくことのない、特殊な問題が踊っていた。天賦の才能と、その後の努力。裕はその両方を身につけようとしている。そして、わたしの前からいなくなってしまう。

「ねぇ」

ボール箱の中身をひっくり返している彼の背中に、呼びかける。

「来年、東京に行っちゃうんだよね」

わたしの言葉に、しばらく返事がこなかった。

「……受かればね」

低く、平淡に彼は応えた。

「札幌の大学は受けないの?」

わたしは何を言っているんだろう。

「……」

「ごめんなさい」

裕は探し物の手をほんの少し止めたが、再び箱の底をまさぐりはじめた。

「相川は、北星、受けるんだよね」

「うん」

「社会福祉だっけ」

「うん」

裕の動きがぴたりと止まった。途端にくしゃみが弾けた。裕は雑な部屋に住んでいる割りに、ハウスダストに弱いらしい。

「遊びに来ればいいさ」

洟をすすり、喉を鳴らして裕が言う。

「えっ?」

「東京に。俺がいくらでも案内してやるからさ。泊めてやるよ」

低く優しい声だった。わたしはいつのまにか、膝の上で両手を握り締めていた。

「うん」

「受かったらの話だぜ、全然わかんないからな」

押し入れに反響して、裕の声はくぐもっていた。

「受かるよ。こんなに勉強してるもの」

「勉強っていうのかね、実技」

「勉強でしょ、やっぱり」

「そうか」

裕は別の箱にとりかかっている。

「相川もさ、頑張って」

「うん。……頑張るよ」

「お前なら大丈夫だよ。クラスきっての秀才だから」

振り返り、わたしに白い歯を見せた。つられてわたしも微笑んだ。

「強気だなぁ、否定しないもんな」

 こちらを向いた裕の鼻が赤い。

「何が?」

「秀才って言われて、否定しないもんな」

「だって、本当に秀才だもの」

「ははっ、その意気だね。頑張ってくれよ」

「お互いにね」

「お互いに」

そしてしばらく会話は途切れた。わたしはスケッチブックのページを繰った。鉛筆の線を引きずらないように、ページの端を持つ。試験向けの静物デッサンより、やはり彼がふだん描いているスケッチが楽しかった。電柱を描いても、さり気なくカラスがこちらを向いていたりして、絵になっているからだ。

押し入れの中でふたたび裕のくしゃみが弾けた。唸りながら、彼の右手が机の上のティッシュペーパーを探る。盛大に鼻をかみ、「おかしいな」と呟いて、またボール箱に顔を突っ込んだ。

「ねぇ北野くん」

わたしは思い余って訊ねた。

「もし、わたしが、東京に行くって言ったら、どうする?」

裕の手が止まった。

「遊びに来るんじゃなくて、か?」

「ううん、東京の大学を受けたらってこと」

裕は手を止め、箱に首を突っ込んだままで黙った。射光に埃がたゆたっていた。

「嬉しいよ」

ぼそりと、応えた。

「嬉しいけど、でも。……考え直せって、言うだろうね」

「どうして」

 裕は赤い鼻をすすりながら、向き直った。埃のせいか、目がうるんで、充血している。

「……相川の本心じゃないのが、わかっているからさ」

「本心じゃない……って」

「相川がもし、東京で行きたい大学があるんなら、行けばいいよ。だけど、なんて言うのかな。もし、俺のことを想って言ってくれているんなら、本当に嬉しいよ。うん、嬉しいさ。だけど、たったそれだけのことで、一生を左右するかもしれないようなことを決めるのは、俺は間違っていると思う。だからさ」

わたしは二の句がつげない。裕の瞳が優しすぎて、わたしは言葉を見失ってしまった。

「お前は大げさだって、いつも言われる。そんなに深く考えなくてもいいのかもしれない。でも、それこそそんな理由で相川が東京の大学を受けるなんて言いだしたら、安っぽい少女マンガだよ。俺はそういうの、嬉しいけど好きじゃないし、お前もそういうのを好きじゃないのはわかってる。そうだよね?」

わたしは黙ってうなずいた。

「それが答えだよ」

「だけど、来年、いなくなっちゃうわけでしょ。わたし、なんだろう、ううん、どうしていいかわかんないっていうか」

「別に、外国へ行くって言っているんじゃないんだからさ。それに、受かるかどうかもわかんないし。心配性なんだよな、相川って意外とさ。大丈夫だよ。時々は帰ってくるだろうし、それこそお前が東京に遊びに来ればいいんだしさ。考え過ぎだよ」

裕は歩み寄り、いつもするようにわたしの頭をなでた。

「ごめん」

見上げると、裕の頬は赤味が差していた。でもそれが埃のせいなのだと、充血した目とすすりあげる洟が物語っていた。

「いやあ、何だか本当に、少女マンガみたいだなぁ」

裕はそう言って首の後ろに手をやった。照れているときのサイン。

「そうね」

またわたしたちは声を上げて笑った。裕はもう一度鼻をかみ、そしてようやくふたつめの箱の底から探し物を見つけた。それは彼が修学旅行で持ってきていた、全自動のカメラだった。

「忘れ物って、これ?」

「そう。たまには、スケッチブックじゃなくて、カメラを持っていこうかなってね。よく考えたら、俺、相川だけが写っている写真って、ほとんど持ってないんだよね」

時計を見ると、もう二時に近かった。ひっくり返した箱の中身もそのままで、わたしたちは家を出た。階段を下りたところで、裕の母が彼によく似た笑顔をわたしに向けてくれた。物腰の柔らかい、穏やかな口調は裕のそれそのままだ。


わたしが幼い頃に住んでいたのは、裕の家と手稲駅の、だいたい中ほどのアパートだった。わたしが小学校に上がる頃、今の北原に家を新築して引っ越した。もう十年以上昔の話。昔のアパートで憶えていることは、多くなかった。近くを線路が走っていたこと、兄と部屋が一緒だったこと、父が熱帯魚の水槽をひっくり返して大騒ぎをしたこと。雨の日に母と手稲駅まで父を迎えに行ったこと。カオルが聞けば大爆笑間違いなしの、ささやかなわたしの記憶。でもとっくの昔にそのアパートは取り壊され、豪華なマンションが跡地に建っていた。駐車場を子どもたちが駆けまわっていて、幼い日の自分の姿と重なった。

わたしは裕の家に自転車を置き、ふたり歩いて手稲駅に向かった。駅前から出るバスに乗って、あのポプラ並木のバス停に向かうのだと裕は言った。

現れたバスは一時間に一本。本数は少なく、したがって乗客も少ない。わたしたちは最後列に並んで座った。車内には微かに煙草の匂いがした。きっと運転手は発車時間待ちでセブンスターを一服するのを至上としているに違いない。煙草の匂いは間違いなく、父がいつも喫っているものと同じだった。

短いクラクションを鳴らし、野太いエンジン音を響かせてバスが走り出す。乗客はわたしと裕と、最前列の中年女性、真ん中の座席に初老の男性が一人。柔らかい日差しを受けて、銀髪がうつらうつらと揺れていた。裕はカメラを取り出し、途中で買ったフィルムを装填した。窓際のわたしにレンズを向けるが、なかなかシャッターを切ろうとしない。絵と写真。風景を切り取ることでは共通しているのに、表現方法が異なるのだろうか。

バスは手稲本町をぐるりと回ってから、さきほどわたしが自転車を走らせた跨線橋を渡って道道に出た。いくつかの停留所はみな通過した。おそらく幼いわたしは父と一緒にこのバスに揺られたのだ。なのにわたしは流れる風景に見覚えがなかった。十年という歳月は、街の表情を変えるには充分すぎるのだ。バスは新川通まで行かず、途中で左折した。住宅街を行く道路は狭く、路面も悪かった。バスが大きく揺れ、裕が大げさにわたしに寄りかかる。まだ彼は一枚もシャッターを切っていない。

工業大学のそばで銀髪の老人がバスを降りた。変わって学生風の男がひとり、眠そうな顔で乗り込んでくる。頭には寝癖がついていて、年齢がわからない風貌だった。その彼も四つほど先の停留所でバスを降りた。

わたしの側の窓から、まだ冬眠から覚めたばかりの手稲山が見えた。ぱっと見せられたら、初秋の姿と見まがいそうだが、ちらほらと見える裾野の桜色は、確かにこの季節の色だった。

いくつかの停留所を通過し、何人かの乗客を乗せ、何ヶ所かの信号で身震いさせ、バスは走る。わたしは一つひとつの停留所ごとに、胸の奥の時計の針が逆転しているのを実感していた。父の手を握ったつもりで、裕の手を握っていた。彼がこちらを向いた気配を感じたが、わたしは窓を向いたままだった。彼が優しくわたしの手を握り返してくれた。

何度角を曲がっただろうか。やがて車内にはわたしたち以外の乗客の姿がなくなっていた。裕がわたしの腕を突っつき、前方を指差した。吊り輪が揺れる車内を通して、ポプラ並木が始まっているのが見える。ああ、来てしまった。わたしは裕の絵を見たときと同じ、既視感にとらわれていた。車内アナウンスが終点を告げる。板張りの床を歩いて、運賃箱に硬貨を入れる。温厚そうな運転手と目が合った。「ありがとうございます」運転手の礼にわたしは小さく頭を下げ、バスを降りる。わたしたちが降りると、背後でドアが閉まり、手稲駅を出たときと同じくクラクションを鳴らし、エンジンがあえぎながらバスは去った。

そこは手稲の外れだった。手稲の外れはすなわち札幌の外れを意味する。もうすぐそこが海で、まわりは人家よりも畑が目立った。

「ここ?」

裕が訊いた。わたしはぐるりとまわりを見渡した。赤や青、緑色のトタン屋根、白い壁の家々。道路の片方に、ポプラが天を突いていた。わたしが想っていたより、ずっと狭い道だった。バス停の待合所は、裕の絵のとおり、台風が来れば飛ばされそうなくらいくたびれている。破れかけた時刻表。バス停のポールの基部は、車のホイールを流用したものだ。通る車も少なく、手稲山が遠い。

「ここだったんだ」

わたしは夢遊病者の足どりで、一歩進んだ。

「憶えてる?」

「うん」

ここで間違いない。休みの日、父とわたしはバスに乗り、この街外れまで散歩に来たのだ。

「近くに、『ハルニレ公園』って、ちょっと広い公園があるよ。相川が話してた公園って、多分そこだと思う」

わたしは背の高いポプラを見上げた。あれほど夢で見たポプラの肌は、ざらっとしていて生々しかった。バス停も、記憶の中のそれよりもずっと荒れ果てていた。

わたしたちは並木道を進み、公園に向かった。ポプラ並木は道を離れると、北原の街にもある防風林を思わせた。わたしは一歩ずつ、現実を確かめながら歩いた。瞬時に天蓋が茜色に染まるのではないかと、ほんの少し恐かった。そんな心情を察してくれたのか、裕がそっと手をつないでくれた。今度はわたしが握り返す。

バス停から十分も歩かない場所。中学校に隣接して、中規模の公園があった。そこが「ハルニレ公園」だ。公園の真ん中には、名前のとおり、一本のハルニレが突っ立っている。まだ芽吹いておらず、大きな枝は寂しそうだ。近所の子どもたちだろうか、ブランコから嬌声が上がっていた。どこまで高くこげるか、競争だぞ。

築山を上る。追憶の中では確かに「山」だったのに、十七歳のわたしにとって、それはただのでっぱりくらいに思われた。それでも頂に立つと、バスを降りたポプラ並木や、少し離れた手稲山、ぐるりと北原の市街、札幌の街まで見渡せた。日差しを受けて乾いた頂上に、わたしは膝を抱えて座った。裕もわたしにならって腰を下ろした。中学校からチャイムが聞こえる。列車が過ぎる音が風に乗る。そうだ、ここだったんだ。わたしはそっと、裕の肩に頭をのせた。思い起こす日々は、今よりもずっと視点が低かった。空は青く、茜色の時間は遠いどこか。気付けばわたしは涙を流していた。頬につたわる温もりは、父のものではなく裕の体温。公園で遊ぶ子どもたちは、いつかの自分ではあっても現在の自分ではなかった。裕がそっと肩を抱いてくれていた。どうして涙が流れたのか、一時的な郷愁は、瞬きの時間よりも短い。わたしはしばらく裕の肩に頬をあずけることにした。


どれくらいそうしていたのだろう。雲がふっと太陽を隠し、空気がわずかな冷気をまとった。それがタイミングだったのか、裕がそろそろ行こうと囁いた。立ち上がり、お尻の砂をはらうと、塵が風に舞ってどこかへ散った。築山を降り、錆だらけの時計塔が午後四時を知らせてくれた。ここに着いてからまだ一時間もたっていなかった。わたしは裕と手をつないだまま、公園をあとにした。振り返ると公園は、すっかり今の色をしていた。父と遊ぶわたしの姿を探しても、もう彼女はどこにもいなかった。

最初入ったのは、公園の正門ではなかったらしい。「ハルニレ公園」とレリーフされた門は、ところどころが欠けている。トタン屋根の住宅街を進んだ。日曜日も部活だろうか、トレーニングウェア姿の中学生がわたしたちを追い抜いていく。庭をいじる休日のお父さん、白い毛の柴犬とじゃれ合っている少女。わたしは過ぎた日を心の底に押し込んだ。道を進むうち、裕が曲がり角を差した。微かにコーヒー豆を煎る香りが漂っていた。

『HOT PEPPER』

無愛想な看板が、軒下に吊るしてあった。茶色の壁、白いドア、ウィンドチャイム。わたしは裕と顔を見合わせた。街はゆるやかなグラデーションで、茜色にシフトしている。しばし立ち止まり、わたしは「営業中」の札が下がるドアを開いた。

コーヒーを煎る香りが強い。カウンターの奥で、オーナーらしき男性が、コーヒーミルを回している。店内はファストフード店と比べると、停電しているのかと錯覚するくらい薄暗く、天井から下がったシーリング・ファンがからからと音を立てていた。オーナーはわたしたちをちらりと見、軽く会釈をよこした。父と座ったように、わたしはカウンター席に腰を下ろす。高校生のカップルがカウンターに座ったのが珍しいのか、オーナーはミルを回す手を止め、「いらっしゃい」と低く言った。掠れ気味の声だった。

壁の角かどにスピーカーが吊られていて、そこから流れているのはYMO。裕はメニューを開いているが、わたしは言葉が出ない。だが、薄汚れた店がわたしに語りかけてくるのは邂逅の挨拶ではなく、一人の客を迎えただけの無機質なセリフに過ぎない。でもそれをわたしはある程度わかっていた。あの頃と寸分違わぬ情景が広がることの方が、むしろおかしかった。ずっと探していた風景をようやくつかみ、わたしは胸の底がしんと冷えていくのをずっと感じていた。楽しかった夢が、覚醒によって跡形もなく消えてしまうのと一緒だ。

「ご注文は?」

裕が腕を突っつく。わたしは慌ててメニューをのぞきこむ。

「あ、この、ジャムトーストのセット、お願いできますか?」

わたしはオーナーの顔を向き、そう言った。彼の顔に見覚えはなかった。

「僕も、それください」

裕の声が妙に愛想よく、白々しく聞こえてしまった。

オーナーは「はい」と掠れて言うと、保温庫から厚切りのパンを取り出してナイフを入れ、バターをのせてオーブンに入れた。サイフォンから湯気が上がり、厨房の窓から射し込む光に帯を作る。裕が振り返り、店内を見渡している。体重が移動するたび、椅子が軋んだ。わたしは黙って高橋幸宏のヴォーカルに耳を傾けていた。

This must be the ugliest piece of bread I’ve ever eaten.

(今までこんなかわいくないパン食べたことがない)

わたしたちのほかには誰もいなかった。時間帯のせいだろうか。ここが舞台のセットだと言われても、わたしは納得してしまったかもしれない。幼い記憶を手繰る主人公が、ラストシーンでたどりついた店。壁に下がったドライフラワーが、変に目立っていた。美術の誰かがミスをしたのだ。

やがてふたり分のジャムトーストが並んだ。ストロベリーではなく、オレンジママレードだった。わたしが手をつけるまで、裕は待っていた。一口、二口とかじっても、味はよくわからなかった。オレンジママレードの苦味が利いていて、案外自家製なのかもしれないなどと、ぼんやり思った。裕は満足げにお腹におさめたが、わたしは複雑だった。

不味くはない。

でも、美味しいの?

一緒に出されたコーヒーは熱すぎず美味しい。そういえば、いつからわたしはコーヒーを飲むようになったのだろうか。砂糖をいくら入れても、苦いだけだったコーヒーを。裕は例によってブラックのままカップに口をつけ、「おう」と喜びの声をあげる。オーナーに賛辞でも述べるのかと思ったが、裕は静かにコーヒーを味わっている。カウンターの向こうで、きっとオーナーは十年前からずっと同じ動作を繰り返してきたのだろう。何人かの馴染みの客と、滅多に訪れない一見の客を相手に。彼はわたしのことなどおそらく憶えてはいない。それでいいと思った。きっとわたしは、もうここへ来ることはない。記憶とともに時間は存在しているから、過去を読み出すのはイメージだけで十分なのだ。同じ時間は二度と手に入らないのだから、それを求めるのが不自然なのだ。わたしが感じていた曇りはきっと、レンズが今のわたしに適合しなくなったから。幼いままでは生きてはいけない。新しい目を、しっかりと認めなければいけないのだ。

スプーン一杯の砂糖で、ここのコーヒーはちょうどよかった。苦味を受け入れることができるほど、わたしは大人に近づいている。中途半端な年齢だけれど、きっともう、わたしはあの頃の自分とは会話ができない。今となっては別人に等しい。

高橋幸宏のヴォーカルが、今日に限ってやけに寂しく聞こえる。『ジャム』。それがこの曲のタイトル。厨房と店内を仕切る場所にラックがあり、そこにCDプレイヤーが収納されていた。もう、レコードは流行らない。

裕がカップを空にしたのを見て、わたしは出ようと彼の袖を引いた。割り勘で支払い、時代から取り残された価格だけ、何となくほっとした。だけどそれがなおさら悲しかった。店を出るときオーナーの横顔が老人のそれにすら見え、わたしはすっかり茜色に染まった街に急ぎ足で踏みだした。ウィンドチャイムの音色がじんわりと沁みた。わたしは裕の手を握り、バス停へ足を向ける。

「どうだった?」

裕はあまり抑揚をつけず、静かに訊いた。わたしは数歩進んでから、

「なんだか、寂しいね」

わたしはそれ以外に答えが見つからなかった。

「そうか」

前を向きわたしに応える裕の横顔は、あの頃の父とは似ていなかった。これはリプレイではない。新作なのだ。裕のカバンの中で、かちゃかちゃとカメラが転がっている。手稲駅からバスに乗り、揺られて訪れた過去の街。やはりわたしは時間旅行者などではなかった。ここはしっかりと、わたしの知る世界とつながっていた。そのことがなぜか無性に寂しかった。

角を曲がると、ポプラ並木が近かった。これだけしか距離がない。年月はスケールを縮小させるのだ。幼いわたしはきっと、今わたしが身を置く世界の住人ではなかった。わたしが受け入れたのか、それとも受け入れられたのか。取り戻せないものは必ずあるのだ。ただ、わたしはなくしたものを躍起になって探すふりをしていただけ。はぐれることもなく、くたびれた待合所が近づく。わたしは茜色の夢に鍵をかけた。そして掌にすっぽりとおさまるその鍵を、燃えるような空に向かって放り上げる。鍵はきらりとオレンジ色に瞬いたが、すぐに空に溶け、やがて消えた。マスターキーはわたしの記憶。これからは静かに一人でたどるだけにしよう。

バスの時間まではまだ間があった。裕がここを描こうとした理由が、何となくわかる。薄っぺらい郷愁ではなく、残酷な時間の流れが存在していた。

「ねぇ」

わたしは場違いかと思われるような明るい声を出した。

「なに?」

裕の温もり。穏やかな返答。

「写真、撮ってよ」

「お前の?」

「そう」

わたしは裕の両手を握った。絵筆を握るのは、こちらの手。

「ここで?」

「そう。北野くんの、あの絵と同じ構図でね」

裕は微笑を浮かべてカメラを取り出した。結局フィルムを入れて、一枚も撮っていない。

「お前って、写真撮られるの好きでないんでなかったかい?」

「そんなことないよ」

わたしは彼の手をはなし、バス停の脇に立った。美術室で見た、描きかけのあの絵と同じに。

「じゃあ、撮るよ」

「よろしく」

わたしを茜色の空気が流れる。止まらず、わたしを翻弄して、でもわたしはしっかりと両足を地につけて。

裕は後ずさりし、おもちゃのようなカメラを構えた。

「んじゃ、いいですか」

「いいですよ」

「撮りますよ」

「撮ってください」

「はいっ」

雲が流れていた。風が暖かかった。わたしは軽く顎を引き、そして考えられる最高の笑顔をカメラに向けた。裕の足もとに影が伸びている。少しの間を置いて、シャッターの切る音。フィルムの巻き上げ音。日曜日が終わる。夕焼け空が帰り道を誘う。エンジン音か耳に届き、見ると帰りのバスがヘッドライトを輝かせ、こちらへ向かっていた。

「帰ろうか」

裕に呼びかける。彼はうなずき、道路を渡ってわたしの隣に並ぶ。バスを待つのはふたりだけ。いつもならここで醒めるはずの世界は終わろうとせず、当たり前に続いていく。フィルムはまだ回りつづけている。

わたしたちはふたり、帰りのバスを待っていた。

最後、バスに乗りこむ瞬間、わたしは微かなコーヒーの香りをかいだ。しかし耳の奥で流れていた音楽は、もう聞こえなかった。そう、音楽はもう、聞こえなかった。わたしはわたしにそっと別れを告げ、窓の向こうを眺める裕の視線を追う。バスが動き出し、遠ざかるバス停を見たとき、フィルムの切れ端に幼い日のわたしを見た。彼女の映写機は止まっていたが、わたしのフィルムはまだ止まらない。

裕の横顔は、街並みを眺めていた。夕日が髪を栗色に透かしていた。わたしはやさしく、彼の掌を握った。




                                   (終わり)


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