1話 帰らない日
ロドリオット・ハーデンバルツが失踪した。
噂は瞬く間に学園中にかけ巡った。
そして、その噂が、噂でないことがロデリオットの妹、キャサリン・ハーデンバルツの口から告げられた。
「どんな些細なことでも構いません。兄に関することを知っている人は、どうか教えてください」
身分も低く、魔法の適性も低いクラスにもみずからキャサリン・ハーデンバルツは足運び、綺麗なお辞儀を見せた。
それをぼんやり見届けるミクシリオ・クーロは貴族かつ強力な魔法適性を持つものが入れる最上級クラスに属する学生とは対極の下級クラス。それに加えて、キャラサリンは一つ下の学年。だから、同じ学び舎に通うことがあってもほとんど顔を合わせることはなかった。
だから、ミクシリオが、キャサリンのその美しい相貌に惹かれるものの一人にすぎなかった彼が、一歩踏み出たのは本人も意図しない、本能的な判断だったのかもしれない。
何しろ、キャサリンは美しかったから。
ぱっちりと会った目線。
青い瞳は、ロドリオットと同じ色なのに、全く違った。
安心や望郷、とにかく込み上げるもので泣きたくなるような凪いだ青だった。
「何か、知っているのですか……」
大粒の青が、ミクシリオだけを写す。
一秒でも長く、そこに留まりたかった。
ビシリと、一歩も動けずにいるミクシリオ。
風が吹いたわけでもないのに、彼のポケットに忘れ去られていたクシャクシャの紙が、彼女の前に滑り落ちた。
二人の視線が、向かう。
慌てて手を伸ばした時にはすでに全てが手遅れだった。
まんまるの瞳が、波打って、そしてミクシリオをもう一度見た。
最初の視線には、疑念と悲しみが込められていたのに、今キャサリンがミクシリオを見るその目には長いこと会えていなかった友人に、偶然にも相対した時のような友愛と希望が込められている。
「あなたは、兄の友人だったのですね」
彼女の形の良い唇が音を紡ぐ。ミクシリオただ一人に向けて。
その言葉をすぐに否定しなかったことが、ミクシリオの犯した最初の罪だった。
――ロドリオット・ハーデンバルツ失踪発覚十三時間前
「ミクシリオ! ああ、いたいた。探したんだぞぉ」
ヘラヘラと笑う同学年の言葉に、僕も真似して笑みを作ってみる。だが、それは失敗したようだった。彼はゲッと顔を引き攣らせて、本題に入った。
「いつもの、頼むよ〜〜」馴れ馴れしく、僕の肩に手をのせて、不快な声色で言った。
もちろん彼は僕の友人ではない。
名前もあやふやだが、そのナナシ野郎は気にするような繊細な心を持っていないようで、白紙を一枚目の前に垂らした。
「お前、得意なんだろ? こっちが魔道解析学の解答だから、リド・ラシェルの筆跡で一つ頼むわぁ」
自分に指を向けて強調するように名前をはっきりと発音した。小袋も忘れずに握らせる。
この重みに現金にも、口角が上がるから、いつまで経っても浅学の平民如きと揶揄されるのだろう。僕がどれだけお前らの弱みを握っているのかも忘れて。
帰ったら、ノートに付け加えないと。白の巡り、三角月数えで二十日、リド・ラシェル、魔導解析学の課題写し、銀貨3枚。
こいつは誰の紹介できたんだろうか。あまり注目を集めてアベルにバレれば、厄介なことになる。
「邪魔だ。どけ」
周りの人間は全て取るに足らない雑魚だ、とでも言ってるような物言いだった。ラシェルが情けない声を漏らしながら飛び跳ねて、慌てて後ろを確認する。振り返った勢いで、気障ったらしい髪束が弧を描く。
「聞こえなかったのか? どけ」
尊大な男は側頭部に片手を手てて眉間に皺を寄せる。頭痛だろうか。
「ロドリオット……! わ、悪いっ、じゃあ、お前はちゃんとやれよっ」
目の前の男には媚びへつらうな笑みを振り撒き、僕には睨みをくれたラシェルはこの空間からすぐさま離脱した。
そうだ。この男はロドリオットだ。
「じゃあ、僕も……」流れに便乗して、僕も去ろう。「まて」
あの、ロドリオット・ハーデンバルツが、僕に話しかけている。
入学初日に起こした暴力沙汰、その後も魔道使用禁止エリアでの違法魔道行使及び器物損壊。キャサリン入学後は彼女に声をかけた男を血祭りにあげたとか。
僕は彼と同期という立場ではあるが、もちろん関わりなんてない。
「お前の筆跡模倣、どういう仕組みだ?」
聞こえないふりをして、後ずさろうとした僕の考えを見透かしたのか、踏み込んだロデリオットによって軋むほど握られた腕が痛い。
答えない限り、解放されない感じ?
「え、へっ、へ、よく知ってるね……も、っ変化魔法の一種だよぉ、こ、こうやって」
息が上手く吸えない。吐けない。いや、吐きそうだ。
瞳孔かっぴらいた美丈夫って、怖い。額から、汗が流れる感覚が冷たくて居心地が悪い。僕はもう種明かしをした。それでも、彼は満足しない。仕方ない。僕はヨレヨレの魔法陣を腕の付け根を横断するように展開させる。
「全身じゃないのか。変化魔法は――」
「ふっ普通はそうだよね!? でも、僕は、ほら魔法の量少ないから、部分的に……」
しまった、遮ってしまった。あのハーデンバルツの現当主の言葉を、庶民である僕が。現当主!そうだ、ロデリオットは入学時にすでにハーデンバルツ家当主だった。僕には想像もできない壮絶な人生。
だが、意外にも目の前の男は静かだった。続きを促すように頷いただけ。
「それで?」
たが、掴まれたままの腕、魔法陣を展開するのと逆の腕は血流が止まりそうだった。片腕を失う危機。ロドリオットは、着痩せするタイプなのだろうか、腕はさして太くも見えないのに、すごい万力だ。
半ばパニックの中、僕はロドリオット・ハーデンバルツの腕を模倣していた。
「ほお、俺か」
本当はもっと魔力の流れ見せてもらったり、筋肉の着き方を知る必要があるのに、恐怖に屈した僕は想像で補った。目の前の情報以外にも、フラッシュバックしたトラウマである去年の秋のクラス混合試合でロドリオットにボコボコにされたことが構築成功に効いたらしい。小グループに分けて殺し以外なんでもありの試合。僕以外の一年生が皆棄権したあの悪夢のような試合とも言えない試合――僕だって、棄権というシステムがあるなら喜んでそうしたのに―を思い出してなんとか構成した。
そこでようやく、ロドリオットが掴んでいた手が離される。久しぶりの血流。使い物にならなくなってしまう前でよかった。
「これに書いてみろ」
差し出されたのは学園の購買にも売っているごく普通のノートの紙片とペンだった。てっきり名家の子息はみんな家紋の透かしが入った文房具を使っているのかと思ったがロドリオットはそうでもないらしい。
言われるがままに、見たこともないロドリオットの筆跡を想像で書いてみる。もしこれが彼の気に入らないものだったら、僕は殺されたりするんだろうか。
「はははっ、すごいな、お前」
どうやら、デットエンドは回避した上に、大口を開けて笑うロドリオット・ハーデンバルツというレアな瞬間すら観測できた。
一気にご機嫌になったロドリオットはバンバンと僕の背中を叩く。「お前の普段の筆跡とどのくらい違うんだ? 書いてみろ」振動のたびに僕の心臓が一ミリずつ、正しくない場所へ移動しているようだ。言われるがままに、模倣したロドリオットの名の隣に、僕の筆跡でマクシリオ・クーロと書いた。少しも似ていないが、両方間違いなく僕の手で書かれたものだ。その並びはロドリオットの気にるものだったらしい。
「はあぁ、最後におもしれーもん見せてくれるのが、よりよってお前とはなぁ」
目尻を親指で押し上げて、いつもの表情に戻ったロドリオットは紙片をポケットに押し込んだ。だがペンは依然として僕の手の中にある。
「こ、これ……」
「やるよ、もう俺には必要ないからな」
どこか寂しげに笑うロドリオットは、本当にロドリオット・ハーデンバルツなのだろうか。
あまりにも、噂とは異なる。
そんな愚かな勘違いをした僕は一歩踏み出ししまった。僕が自分で考えたことはいつもろくな結果を産まないのに。
「だ、大丈夫……?」
それは少し奇妙な光景だった。彼の深海のような暗い青目が、掛かる金髪のせいだろうか。怒りよりも憂いを帯びているような気がした。
だが伸ばした手ははたき落とされる。
それはそうだ。ハーデンバルツの子息。いくら学園が在学中の学生の平等を謳おうとも、僕たちは全く異なる存在なのだ。それが、勝手にその心のうちを想像して同情するなんて。どう考えても出過ぎた行動だった。
背を向けて無言で歩き出したロドリオットを見送ることしかできない。
まだ授業があるはずだ。でもなぜか、彼はどこか、全然見当違いで、遠い場所に行ってしまう気がした。
だけど僕は止めない。
それもそうだ。これが僕らの正しい距離感。もう今年の合同剣術大会まで関わることもないだろう。いや、やはり今年は絶対棄権しよう。




