六話 溶けゆく心
フレア王宮のテラスは、リッカがこれまで知っていた「屋外」の概念を根底から覆す場所だった。
フローズン王国の庭園といえば、美しく整えられた氷像や、寒さに耐える針葉樹が静謐な空気を形作る場所だ。しかし、ここには溢れんばかりの陽光が注ぎ、見たこともない色鮮やかな花々が咲き乱れている。空気そのものが甘く、柔らかな熱を帯びて肌を撫でた。
「……信じられない。外が、こんなに暖かいなんて」
リッカは、レオに贈られた深紅のドレスの裾を揺らしながら、手摺りから庭園を見下ろした。
雪山で死にかけてから数日。レオの献身的な介抱によって、リッカの顔色には少しずつ赤みが戻っていた。しかし、「無能」と蔑まれ、最後には肉親にさえ捨てられた心の傷は、そう簡単には塞がらない。
「リッカ。あまり身を乗り出すと危ないよ。ほら、こちらへおいで。君のために最高のお茶を用意させたんだ」
背後からかけられた甘い声に、リッカは肩を揺らして振り返った。
そこには、上着を脱ぎ、ゆったりとしたシャツ姿のレオが、白テーブルの傍らで微笑んでいた。その視線は、まるで壊れやすい宝物を見守るかのように、どこまでも優しく、そして熱い。
リッカがおずおずと椅子に座ると、レオは待ってましたと言わんばかりに、銀のポットを手に取った。
「フローズンでは冷たい食事ばかりだったと聞いた。この国の料理は、胃の中から熱を届けてくれる。……おっと、少し冷めてしまったかな?」
レオがポットにそっと手を添えると、指先から微かに橙色の光が漏れた。
リッカは息を呑んだ。魔力の無駄遣い──フローズンではそう一蹴されるような行為だ。魔力は権威であり、外敵を退けるための武具。それを「飲み物を温める」という、ただそれだけのために使うなど。
「レオ様、そんな……。貴重な魔力を、このようなことに使うなんて」
「貴重? 君の喉を温めること以上に、僕の魔力の使い道なんてあるのかい?」
レオは事もなげに言ってのけると、温め直したばかりの黄金色のスープを小皿に分けた。
リッカはスプーンを手に取ろうとしたが、それよりも早く、レオがスプーンを差し出してきた。
「さあ、一口。まずはスープからだ。君はまだ細すぎる」
「え……あ、あの、自分でできます」
「いいから。病み上がりなんだ。……さあ、あーん」
リッカの頬が、一瞬で耳の付け根まで赤く染まった。「あーん」などという言葉、物心がついてから一度も聞いたことがない。王族とは、常に毅然とし、誰の手も借りずに完璧に振る舞うべき存在だったはずだ。
「レオ様、恥ずかしいです。誰かに見られたら……」
「ここには僕と君しかいない。それに、僕が君を甘やかしたいんだ。拒まないでほしいな」
レオの黄金の瞳が、悪戯っぽく、けれど有無を言わせぬ光を宿してリッカを射抜く。
リッカは観念したように、小さく口を開けた。
運ばれてきたスープは、驚くほど濃厚で、それでいて優しい味がした。複数のスパイスが組み合わさっているのだろうか。飲み込んだ瞬間、胃の中からじんわりと熱が広がり、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「……美味しい、です」
「そうか。良かった。……じゃあ、次はこれだ。フレア特産の蜂蜜をたっぷり使った焼き菓子だよ」
レオの「あーん」攻撃は止まらない。
最初は戸惑い、落ち着かない様子だったリッカも、レオの屈託のない笑顔と、彼の放つ心地よい熱量に包まれているうちに、不思議と心が穏やかになっていくのを感じていた。
フローズン王国での生活は、常に薄氷の上を歩くような緊張感の中にあった。
エライザと比較され、期待に応えられない自分を責め、ゴードンの冷たい視線から逃げるように努力し続けてきた。そこには「甘え」が許される隙間など、どこにもなかった。
けれど、目の前のこの男は、リッカが「無能」であろうと、「捨てられた身」であろうと、そんなことは微塵も気にしていない。ただ、リッカが今ここにいて、食事を摂り、微笑むことだけを求めている。
「……どうして、そんなに優しくしてくださるのですか?」
ふと、リッカの口から疑問が漏れた。
レオは、リッカの口元についた菓子の屑を指でそっと拭うと、その指を自分の唇に当ててから微笑んだ。
「まだそんなことを言っているのか。……言っただろう? 君に一目惚れしたんだと。理由が必要な優しさなんて、本物じゃない。僕は、ただ君が好きなだけだよ」
ストレートすぎる愛の言葉に、リッカは俯いた。
胸の奥が、熱い。それはレオの魔法のせいではなく、彼女自身の内側から溢れ出してきた感情だった。
「……私、、ずっと一人だと思っていました。誰からも必要とされず、消えてしまうのが正しいのだと。でも、レオ様にこうして温めていただいていると……生きていてもいいのだと、そんな気がしてくるのです」
リッカの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
レオは椅子のままリッカに近づくと、彼女の細い手を両手で包み込んだ。
「リッカ。君を捨てた奴らは、世界一の愚か者だ。君がどれほど気高く、どれほど美しい心を持っているかを見抜けなかった。……でも、そのおかげで僕は君に出会えた。そのことだけは、彼らに感謝してもいいかもしれないな」
レオはリッカの手の甲に、誓うように唇を落とした。
「君の氷は、僕の熱で溶けるためにあるんじゃない。僕の熱を受けて、世界で一番美しく輝くためにあるんだ。……信じて。君は、僕が命をかけて守る女性だ」
リッカは、レオの温かな掌に自分の手を重ねた。
まだ、自分の力を信じることはできない。エライザへの恐怖も、故郷への複雑な思いも消えたわけではない。
けれど、今この瞬間の「熱」だけは、本物だと信じられた。
テラスを通り抜ける風が、リッカの髪を優しく揺らす。
リッカは、自分でも気づかないうちに、小さく、けれど確かに微笑んでいた。
凍てついていた氷の王女の心が、火の王子の情熱によって、静かに、そして確実に溶け始めていた。




