四話 温もり
意識の糸が、ぷつりと切れる音がした。
雪の上に倒れ伏したリッカの視界は、もはや白一色の靄に覆われている。盗賊たちを追い払ったあの紅蓮の炎が、幻覚だったのか現実だったのかさえ判別がつかない。
ただ、死に至る直前の安息のように、猛烈な「熱」が自分の身体を包み込んでいることだけが理解できた。
「……ひどい熱だ。氷の魔力が暴走しかけているのか、それとも……」
耳元で、誰かの低い声が聞こえる。
フローズン王国の男たちの声は、常に研ぎ澄まされた刃のように硬く冷ややかだった。しかし、この声は違う。まるで暖炉の薪が爆ぜるような、心地よく、そして強烈な生命力を宿した響き。
重い瞼を、奇跡に近い意志の力で僅かに持ち上げる。
そこには、吹雪の切れ間から差し込む月光を背負った、一人の男がいた。
旅装束に身を包んでいるが、その身のこなしには隠しきれない気品と、戦士としての凄みが同居している。夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。そして、リッカを見つめるその瞳は、凍土の民が見れば恐怖で震え上がるほど鮮やかな「黄金色」を湛えていた。
「……あな、た……は……」
リッカの声は、掠れた呼吸となって消えた。
男はリッカの頬にそっと手を添える。その掌から伝わる温度は、氷の国で生きてきたリッカにとって、火傷しそうなほどに熱かった。けれど、その熱は決して不快なものではなく、凍りついた彼女の魂に直接染み渡るような、優しさを孕んでいる。
「僕はレオ。通りすがりの、ただの旅人だよ」
男──レオは、ふっと口角を上げて微笑んだ。
絶望の淵にいるリッカに対して、彼はまるで春の陽だまりのような眼差しを向ける。
「こんな雪深いところで眠りにつくには、君の瞳は美しすぎる。……そんな哀しい色をしたまま、命を投げ出させてやるわけにはいかないな」
情熱的な言葉。フローズンの貴族たちが決して口にしない、剥き出しの賛辞。
リッカは驚きで胸を震わせた。自分は「無能」だと蔑まれ、妹の影として捨てられたはずなのに。この見知らぬ男は、リッカそのものを見つめ、その瞳を「美しい」と断じたのだ。
「……でも、私は……魔力、も……何も、ない……石ころ、だから……」
自嘲気味に呟いた言葉に、レオは僅かに眉を寄せた。彼はリッカの身体を軽々と抱き上げると、自分のマントの中へと深く引き入れた。
レオの胸板から伝わる鼓動が、リッカの背中に響く。その力強く、規則正しいリズムが、何よりも確かな「生」を彼女に伝えていた。
「石ころ? 冗談だろう。……君の奥底には、まだ誰も触れたことのない、極上の宝石が眠っている。僕には見えるよ。氷の底で、今か今かと開花を待っている六花の輝きが」
レオの言葉は、予言のようにリッカの心に突き刺さった。
誰も信じてくれなかった自分を、出会ったばかりのこの男が信じている。その奇妙な事実に、リッカの目から熱いものが溢れ出した。涙が頬を伝うそばから、レオの熱がそれを蒸発させていく。
「さあ、もう無理をして目を開けていなくていい。火の国の馬車は暖かいよ。目が覚める頃には、君を苦しめる氷の世界なんて、遠い過去になっているはずだ」
レオはリッカを腕の中にしっかりと固定し、雪原に待機させていた馬車へと歩み出す。
リッカは、彼の首筋に顔を埋めた。
フローズンの冷徹な規律。エライザの冷笑。ゴードンの裏切り。母の絶望。
それらすべてが、レオという太陽の光によって、遠い幻のように霞んでいく。
レオの身体から発せられる熱量は、リッカが知る「温もり」の概念を根底から覆すものだった。
それは単なる体温ではない。絶大な魔力を制御し、慈しみを持って他者に分け与えることができる者だけが持つ、誇り高い「熱」だ。
(……溶かされて、しまう……)
身体の芯まで凍りついていた孤独が、じわり、と音を立てて解けていく予感。
リッカはレオの服を、震える指先でぎゅっと掴んだ。
これまで「氷の王女」として、自分を律し、凍らせることで守ってきた心。けれど、この男の腕の中にいる間だけは、崩れてもいいような気がした。
「……連れて、いって……どこへ、でも……」
微かな呟きを聞き取ったのか、レオは抱きしめる腕に一層の力を込めた。
「ああ。約束する。君の心が春を迎えるまで、僕がずっと暖めてあげよう」
その言葉を最後に、リッカの意識は深い、深い微睡へと沈んでいった。
馬車の揺れが、ゆりかごのように心地よい。
もう、風の音に怯える必要はない。
自分を拒絶した故郷を背に、リッカは「火の国の太陽」に導かれ、新しい運命の扉を開こうとしていた。
吹雪が止み、雲の隙間から差し込んだ月光が、雪原に残されたリッカの足跡を静かに消していく。
そこにはもう、絶望に打ちひしがれた少女の姿はなかった。




