三話 炎の救世主
王都を追われた馬車が止まったのは、月明かりさえ届かない深い森の入り口だった。
「降りろ。ここから先は隣国との国境だ。二度と敷居を跨ぐなよ、無能王女」
兵士たちの冷ややかな声と共に、リッカは雪の上に突き飛ばされた。
ガタガタと音を立てて去っていく馬車の背を見送りながら、リッカは一人、闇の中に残された。
フローズン王国の冬は、死の同義語だ。
身に纏っているのは、儀式の際に着ていた薄いシルクのドレスのみ。氷の国の王族にとって、寒さは本来恐れるべきものではない。魔力があれば、体温を一定に保つことも、周囲に防壁を張ることも容易だからだ。
しかし、魔力を持たぬリッカにとって、吹き付ける夜風は剥き出しの刃と変わらなかった。
(歩かなければ……ここで立ち止まれば、本当に氷になってしまう)
リッカは震える腕を抱き、膝まで埋まる雪を掻き分けて歩き出した。
エライザは「追放」と言ったが、実質的には死刑宣告に等しい。この装備で国境の山嶺を越えることなど不可能だと分かっていて放り出したのだ。
指先の感覚はとうに消え、肺に吸い込む空気は喉を焼くほどに冷たい。
その時だった。
風の音に混じって、ガサリと不穏な足音が響いた。
「おっと、こんなところに上等な獲物が転がっているじゃねえか」
木々の影から現れたのは、毛皮を無造作に纏った粗野な男たちだった。五人……いや、六人。ぎらついた瞳を向け、下卑た笑いを浮かべている。
国境付近を根城にする盗賊団だ。
「そのドレス、見たところ相当な高値で売れそうだな。……いや、女の方も悪くない。フローズンの王族の血筋か? 魔力がないから捨てられたって噂の『石ころ王女』様かよ」
リッカは足を止め、男たちを冷静に見据えた。
恐怖がないわけではない。心臓は早鐘を打ち、全身の毛穴が逆立っている。だが、彼女の意識は驚くほど冴え渡っていた。
「……退きなさい。あなたたちに関わっている時間はないわ」
「ははっ! 言い草だけは立派なもんだ。魔力もねえくせに、何ができるってんだよ!」
先頭の男が、下品な叫びと共にリッカの腕を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間、リッカの身体がしなやかに動いた。
相手の力を利用し、手首を捻りながらその巨体を雪原へと転がす。
リッカは十八年間、魔力が出ない不安を打ち消すように、人知れず武術の鍛錬に明け暮れていた。王族が野蛮な体術を学ぶなどと嘲笑されるのを恐れ、深夜の訓練場で一人、騎士団の教本を読み込み、型を繰り返してきたのだ。
「ぐわっ!? てめえ、何しやがった!」
「魔力がなくても、関節を折ることはできるわ。死にたくなければ去りなさい」
リッカの声に、盗賊たちの顔から余裕が消えた。
「野郎ども、構わねえ! 叩きのめせ!」
残りの男たちが一斉に襲いかかる。リッカはドレスの裾を大胆に引き千切り、動きを確保すると、正面から来る男の懐に潜り込んだ。
掌打を顎に叩き込み、続けざまに回し蹴りで後続を怯ませる。
しかし、多勢に無勢。加えてこの極寒だ。体力の消耗は激しく、視界がチカチカと点滅し始める。
「しぶとい女だ……死ね!」
一人の男が錆びた剣を振り上げた。
リッカの体は硬直し、回避は間に合わない。絶体絶命の瞬間──
(嫌。……こんなところで、終わるなんて。私はまだ、何も……!)
胸の奥から、熱い塊が突き上げてきた。
それは今まで一度も感じたことのない、剥き出しの衝動。
リッカが右手を突き出した瞬間、指先からパキパキという硬質な音が響いた。
「一の花、『断罪氷柱』!」
無意識に叫んだその言葉と共に、地面から鋭利な氷の棘が爆発的に突き出した。
それはエライザが儀式で見せたような優美な花ではなく、歪で、荒々しく、ただ「敵を貫く」ことだけに特化した、執念の結晶だった。
「ひ、ひぃぃっ!? 魔法だと!?」
足元を氷の刃で裂かれた盗賊たちは、悲鳴を上げて後ずさる。
リッカ自身も、自分の指先から生まれた現象に目を見開いた。刻印はない。魔力測定にも反応しなかった。けれど、今、確かに彼女の意志に応えて「氷」が形を成したのだ。
しかし、その代償は大きかった。
一瞬だけ灯った魔力の奔流は、リッカの残り少ない生命力を根こそぎ奪い去った。
氷柱は霧のように消え、盗賊たちはその隙を見逃さなかったが、彼らが再び襲いかかるよりも先に、森の奥から圧倒的な「熱」が迫っていた。
馬のいななき。そして、闇を切り裂く鮮烈な紅蓮の炎。
「……そこまでだ」
低く、地響きのように響く声。
次の瞬間、盗賊たちの周囲の雪が一瞬で蒸発し、猛烈な熱風が吹き荒れた。男たちは悲鳴を上げる暇もなく、その場から逃げ出していく。
リッカの意識は、もう限界だった。
氷の魔法を使った反動か、全身が火に焼かれるように熱い。皮肉なものだ、氷の王女が最後は熱に浮かされて死ぬなんて。
膝から崩れ落ちる間際、誰かの逞しい腕が彼女の身体を受け止めた。
「無茶をする。……魔力回路が凍りついているじゃないか」
耳元で聞こえる声は、フローズンの男たちの冷徹な響きとは異なり、太陽のように温かかった。
霞む視界の中で見えたのは、夜の闇よりも深い黒髪と、燃えるような金色の瞳。
「……熱い、です……」
リッカが掠れた声で呟くと、その人物は彼女を包み込むようにマントを羽織らせた。
「ああ、熱いだろう。僕の国はいつもこうだ。……眠っていい。もう、凍えさせるような真似はさせない」
リッカはその温もりに抗えず、深い眠りの中へと落ちていった。
自分が誰に救われたのかも、これからどこへ運ばれるのかも知らないまま。
ただ、その「熱」だけが、彼女の閉ざされた心の一部を静かに溶かし始めていた。
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