二話 追放
聖堂での儀式が終わり、場所を王宮の「氷晶の間」へと移しても、リッカを取り巻く絶望的な静寂が晴れることはなかった。
本来であれば、ここは新たな賢者の再来を祝う歓喜の渦に包まれているはずだった。しかし、シャンデリアが放つ眩い光は、今のリッカにとっては己の無能さを際立たせるためのスポットライトでしかない。
給仕たちが運ぶ上質なワインや料理の香りが漂う中、リッカは壁際に立ち尽くしていた。誰一人として、彼女に声をかける者はいない。つい数時間前まで、彼女の機嫌を伺おうと列をなしていた貴族たちは、今やリッカの存在そのものがこの場に相応しくない汚れ物であるかのように、露骨に距離を置いていた。
「……リッカ様」
その低い声に、リッカの心臓が跳ねた。
振り返ると、そこには婚約者であるゴードン・グラキエスが立っていた。氷の国の名門公爵家の嫡男であり、幼い頃からリッカと共に学び、将来を誓い合った男だ。
リッカは縋るような思いで、彼の瞳を見つめた。
「ゴードン様……。あの、儀式では、その……」
「言葉は不要です、リッカ様」
ゴードンの声は、かつてリッカに囁いた甘い響きを微塵も残していなかった。彼はリッカの横を通り過ぎると、その先にいた人物──刻印を授かった妹、エライザの前へと進み出た。
そして、信じられないことに、彼は衆人環視の中でエライザの前に膝をついた。
「エライザ様。……いや、偉大なる賢者の継承者よ。あなたの光り輝く刻印を拝見し、私は魂が震えるほどの啓示を受けました」
ゴードンはエライザの右手を恭しく取り、その甲に刻まれた雪結晶に熱っぽい視線を送る。
「私が愛すべきは、血筋だけの空殻ではない。真の継承者である、あなたのような気高さを持った女性だ。……リッカ様との婚約は、あくまで『氷の賢者の再来』という前提の元に結ばれたもの。その前提が崩れた今、契約は無効と言わざるを得ない」
リッカの指先が、ガタガタと震え出した。
周囲からは、驚きの声ではなく、むしろ納得したような頷きが漏れている。
「ゴードン様、そんな……お姉様の前で、ひどいわ」
エライザは困ったように眉を下げ、唇に指を当ててリッカを見た。しかし、その瞳の奥には、エライザがかつて一度も見せたことのない暗い愉悦が灯っている。
「ひどいものですか。私は真実に目覚めただけです」
ゴードンは立ち上がり、背後で見守っていたリッカを、氷点下の視線で一瞥した。
「リッカ・フローズン。魔力も持たぬあなたが、私の妻として、そしてこの国の王族として居座り続けることは、フローズン王国の数千年の歴史に対する冒涜だ。身の程をわきまえたらどうだ、この『石ころ』が」
石ころ──その一言が、リッカのプライドを粉々に打ち砕いた。
彼女が血を吐くような努力で積み上げてきた教養も、剣術も、国を思う心も、魔力がないというただ一点の事実の前では、路傍の石以下の価値しかないのだ。
その時、広間の奥の扉が重々しく開いた。
侍女たちに支えられ、青白い顔をした女王が姿を現した。
「母上……」
リッカは声を漏らしたが、女王の視線が自分に向けられることはなかった。女王は震える手で、側近が捧げ持っていた白銀の王冠を取り上げる。
「皆のもの、聞きなさい。……私は、老いと病に蝕まれ、もう長くはない。この国の安寧のため、そして賢者の意志を継ぐため……本日この時をもって、王位を第二王女、エライザ・フローズンに譲位する」
会場に地鳴りのような拍手が沸き起こる。
リッカは目眩を覚えた。継承の儀の当日に即位が行われるなど、前代未聞だ。だが、今のこの国でエライザを拒む者など存在しない。
女王の手によって、エライザの金髪の上に重厚な王冠が載せられた。
その瞬間、エライザから発せられた魔力の波動が、広間全体を震わせる。
「これより……私が、この国の主です」
エライザの声は、聖堂で聞いた震える声とは別人のように冷たく、傲慢に響いた。
新女王となったエライザは、壇上からリッカを見下ろす。その顔には、隠しようもない冷笑が浮かんでいた。
「お姉様。……いいえ、リッカ。あなたは昔から私より優秀だったわね。勉強も、ダンスも、礼儀作法も。先生たちはいつもあなたを褒め、私はあなたの影に隠れて、ずっと惨めな思いをしてきたの」
エライザはゆっくりと階段を降り、リッカの目の前まで歩み寄る。そして、リッカの耳元に口を寄せ、周囲には聞こえないほど低い、毒を含んだ声で囁いた。
「でも、神様は正しかったわ。器の美しさなんて、魔力の前では無意味。……あなたのことが、ずっと大嫌いだった。毎日毎日、完璧な顔をして私を哀れむあなたのその瞳を、潰してしまいたいほどに」
リッカは息を呑んだ。
信じていた妹、守らなければならないと思っていた愛らしい妹は、もうどこにもいなかった。
「新女王として、最初の命令を下します」
エライザが凛とした声で宣言する。
「リッカ・フローズンを、王籍から剥奪する。……賢者の血を汚す無能者は、我が国には不要。即刻、国境の外へ追放しなさい。今後、この地へ足を踏み入れることは二度と許さない」
「追放……? エライザ、待って、そんな……!」
叫ぶリッカを、兵士たちが無情に取り押さえる。
母である先代女王は、ただ静かに目を閉じ、娘が連行される様を黙認していた。
リッカが引きずられていく中、最後に見た光景は、エライザの腕に抱き寄せられ、満足げに微笑むゴードンの姿だった。
外は、夜の帳が下りていた。
フローズン王国の冷たい風が、ドレス一枚のリッカを容赦なく打ち据える。
かつて彼女の城だった場所の門が、重々しい音を立てて閉ざされた。
リッカの手元に残ったのは、何も刻まれていない、ただ震える両手だけだった。




