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十五話 慈愛

 神殿の崩落は加速していた。天井の石材が、エライザから放たれる漆黒の氷によって粉砕され、豪雨のように降り注ぐ。

 魔獣の核をその身に取り込んだエライザは、もはや人の形をした天災だった。彼女の周囲には、触れるものすべてを分子レベルで凍結させる死の波動が渦巻いている。


「止まれ、エライザ! これ以上は君の魂が焼き切れる!」


 レオが咆哮し、紅蓮の長剣を振るった。剣から放たれた炎の斬撃が、エライザの展開する黒い氷壁と激突し、爆鳴を上げる。ジャスティの岩の巨拳、ミカの奔流、ゲールの真空刃が次々とエライザへ叩き込まれるが、彼女はそれを感情の消えた瞳で見つめるだけだった。


「……邪魔……。温かいものは、全部……壊す……」


 エライザが指先を振るうたび、地面から黒い氷の棘が爆発的に突き出し、王たちの足を止める。核に意識を乗っ取られた彼女にとって、かつて憧れた「強さ」も「王座」も、今はただの破壊の衝動へと書き換えられていた。


「リッカ、下がっていろ! 彼女はもう、言葉が通じる相手じゃない!」


 レオが再び踏み込もうとしたその時、リッカが静かに、けれど揺るぎない足取りで前に出た。


「……いいえ、レオ様。彼女を止められるのは、私だけです」

「何を言っているんだ! あの冷気の中に飛び込めば、君の体だって──」

「信じてください」


 リッカは振り返り、レオに微笑んだ。その微笑みは、雪山で彼に抱き上げられた時のような、どこか儚くも力強いものだった。

 リッカは、自分を護っていた銀色の結界「友待つ小雪」を、あろうことか自らの手で霧散させた。


「……っ!?」


 周囲が驚愕に目を見開く。防御を完全に解いたリッカを、エライザの絶対零度の風が容赦なく襲う。ドレスの裾が凍りつき、頬に薄い氷の膜が張る。それでも、リッカは足を止めなかった。


「エライザ。……寒いわね。ずっと、一人でこの寒さに耐えていたのね」

「……来るな……来ないで! 偽物のくせに……お姉様のくせに!」


 エライザが絶叫し、リッカの胸元を目掛けて鋭利な氷の槍を放つ。

 ドシュッ、と鈍い音が響き、リッカの肩を氷の刃が貫いた。鮮血が舞い、白銀の雪原のような床を赤く染める。


「リッカ!!」


 レオが半狂乱になって駆け寄ろうとするが、リッカはそれを片手で制した。肩を貫かれたまま、彼女はさらに一歩、妹へと歩み寄る。


「……痛くないわ。これくらいの痛み、あなたが感じてきた『孤独』に比べれば、何でもない」


 リッカの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は凍ることなく、彼女の頬を伝い、エライザの足元へ届く。

 リッカの中に眠る「番人」の血が、そしてレオに温められた「六花」の魔力が、攻撃としてではなく「慈しみ」として溢れ出していた。


「覚えている? 小さい頃、冬の初めに二人で隠れて食べた、焼きたての林檎の温かさを。……あなたが私の刻印がないことを知って、こっそり泣いてくれた日のことを」

「……黙れ……思い出させないで……!」

「あなたは、私を追い出したんじゃないわ。……私と一緒に、この冷たい場所から逃げ出したかっただけなのよね。でも、あなたは女王という重荷に縛られてしまった」


 リッカは、ついにエライザの懐へと飛び込んだ。

 氷の刃がリッカの体を幾重にも切り裂くが、彼女は構わずに、異形と化した妹の体をその腕で強く、抱きしめた。


「もういいのよ、エライザ。……もう、頑張らなくていい。怖がらなくていい」


 リッカの全身から、眩いばかりの純白の光が放たれた。

 それは魔獣を縛る「檻」ではなく、凍えた魂を包み込む「真綿」のような魔力。

 リッカの体温が、レオから分け与えられた「熱」が、エライザの胸にある魔獣の核へと流れ込んでいく。


「……ああ……あ……」


 エライザの瞳に、色が戻った。

 黒い氷が溶け始め、彼女の体から異形の翼が崩れ落ちていく。核の闇が、リッカの放つ圧倒的な「慈しみ」に浄化され、静かな銀の輝きへと姿を変えていく。


「……お姉、様……? ……温かい……。私……どうして……」

「大丈夫よ。全部、私が持っていくから」


 リッカは、エライザの体内にあった魔獣の怨念を、自らの「番人」の力ですべて吸い上げ、己の魔力で無害な雪へと変えて天へ逃がした。

 それは、己の命を削るほどの過酷な作業だった。リッカの髪は一瞬で白銀から透き通るような白へと変わり、その場に力なく膝をつく。

 エライザは、ただの幼い少女のような顔で、リッカの腕の中で眠りについた。

 暴走は止まった。神殿を支配していた死の冷気は消え、代わりに、春の訪れを予感させるような穏やかな静寂が訪れる。


「……リッカ!」


 レオが滑り込むようにリッカを抱き止めた。

 リッカの体は、先ほどまでの熱が嘘のように冷たくなっていた。けれど、その顔には、長年の呪縛から解き放たれたような、清々しい微笑みが浮かんでいた。


「……レオ様。……私、……守れましたか?」

「ああ。最高に、格好良かったよ。……僕の自慢の婚約者だ」


 レオはリッカの冷たい手を自分の頬に当て、熱い涙を零した。

 背後では、ジャスティやミカたちが、静かに武器を収めていた。そこにはもはや「敵」も「味方」もなく、ただ一つの「家族」の物語の結末があった。

 神殿の崩落が止まる。

 粉々に砕けた天井から、一筋の朝日が差し込み、重なり合う姉妹の姿を神々しく照らし出した。

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