第十話 氷の国の落日
氷の国・フローズンの空は、かつてないほどに不気味な灰色に濁っていた。
この国において、空の青さは魔力の安定を意味し、降り積もる雪の白さは賢者の加護を意味する。しかし、新女王エライザが即位して一ヶ月。フローズン王国の各地からは、建国以来一度も起きたことのない「異変」の報告が相次いでいた。
王宮のバルコニーから下界を見下ろすエライザの顔は、屈辱と焦燥で歪んでいる。
「……どういうことなの。なぜ、氷が溶けるのよ!」
彼女の視線の先では、千年もの間、決して溶けることのなかった王宮の防壁が、無惨に滴り落ちていた。それだけではない。国の食糧を支える「氷晶米」の田んぼは、冷気を失ってただの泥濘へと変わり、天災とも呼べる長雨が国土を侵食している。
氷の国から氷が失われる。それは、国そのものの死を意味していた。
「陛下、落ち着いてください。一時的な魔力の揺らぎに過ぎません……」
背後から声をかけたのは、リッカを捨ててエライザを選んだ男、ゴードンだった。しかし、その声には以前のような自信に満ちた響きはない。彼の顔には、隠しきれない疲労と困惑が刻まれていた。
「揺らぎ!? ゴードン、あなたはこの惨状が見えないの!? 領民たちは『偽りの女王が天罰を招いた』と囁き始めているのよ!」
「それは……。しかし、エライザ様の手には確かに『刻印』が……」
エライザは、己の右手の甲を忌々しげに見つめた。
かつて鮮やかに輝いていたはずの雪結晶の紋章は、今やひび割れ、煤けたような色に変色している。リッカを追放したあの日から、彼女の魔力は目に見えて衰え、逆に制御不能な暴走を繰り返すようになった。
彼女が手に入れたのは「賢者の力」ではなく、姉から掠め取った「残滓」に過ぎなかったのだ。
ゴードンは、そんな彼女の姿を冷めた瞳で見ていた。
(……失敗した。これほどまで脆いものだったのか)
彼はリッカを捨てたことを、心の底で後悔し始めていた。リッカがいた頃、この国の魔力は静かではあったが、岩盤のように盤石だった。彼女という「真の器」が、国全体の魔力バランスを無意識のうちに調整していたことに、失って初めて気づいたのだ。
その時、急使が息を切らせて広間に飛び込んできた。
「陛下! 大変です! 『五大国会議』の招集状が届きました。……送り主は、火の国・フレア。レオニダス殿下の名でございます!」
「レオニダス……。あの傲慢な男が、何の用よ」
「それだけではありません……。その招待状の副書に、フレア王子の婚約者として──リッカ様の名が、記されております!」
空間が、一瞬で凍りついた。
エライザの手元にあったクリスタルのグラスが、彼女の制御を失った魔力によって粉々に砕け散る。
「リッカが……フレアの婚約者!? あの石ころが、火の国の王妃になるというの!?」
「ま、まさか……あの山で死んだはずでは……」
ゴードンの顔から血の気が引く。もしリッカがフレア王国の後ろ盾を得て、真の力を開花させているのだとしたら。自分たちがした仕打ちの報いが、火の国の軍勢と共に押し寄せてくるのではないか。
一方、その頃。
火の国・フレアの王宮は、フローズンの寒々しさとは無縁の、生命力に満ちた輝きの中にあった。
「──本当に、私が行っても良いのでしょうか」
リッカは、レオの私室の鏡の前で、不安げに自らの姿を見つめていた。
彼女が纏っているのは、フレア王国の象徴である真紅と、彼女自身の本質である銀白が美しく混ざり合った、最高級の正装だ。
「何を言うんだ、リッカ。僕の婚約者として、これほど相応しい女性が他にいるものか」
背後からレオが歩み寄り、彼女の細い腰を抱き寄せた。彼はリッカの首筋に顔を埋め、深く、愛おしげにその香りを吸い込む。
「五大国会議は、世界の理を決める場だ。そこで各国の王に披露するんだよ。フローズンが捨てた『石ころ』が、実は世界を照らす唯一無二の『宝石』だったということをね」
「レオ様……」
リッカの手の甲には、今や「刻印」という形に縛られない、透き通るような銀色の光が宿っていた。レオとの交流──愛し、愛されるという「熱」を得たことで、彼女の回路は完全に開き、伝説の六花がその蕾を膨らませている。
「エライザも、あのゴードンという男も来るだろう。……リッカ。君を傷つけた者たちが、君の輝きの前に跪く瞬間が楽しみだ。君の横には、僕がいる。何も恐れることはない」
レオはリッカの手を取り、その指先に執着を込めた熱い口づけを落とした。
リッカは、かつての臆病な自分を脱ぎ捨てるように、静かに、けれど強く頷いた。
「はい、レオ様。……私、逃げません。私が私であるために、そして、私を見出してくださったあなたのために」
火の国の熱い風が、二人の門出を祝うようにカーテンを揺らした。
五つの王国が交わる「五大国会議」。
そこは、氷の王女の「復讐」と「真の覚醒」の舞台となる。




