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九話 愛の調律

 静寂が、フレア王宮のレオの寝室を支配していた。

 窓の外では夜の帳が下り、暖炉の中で爆ぜる薪の音だけが時を刻んでいる。

 リッカは、深い眠りの中にいた。

 庭園での戦闘で「二の花」と「三の花」を立て続けに発動させた代償は、魔力を持たぬと信じて生きてきた彼女の体にはあまりに重かった。空っぽだった魔力回路に、激流のような力が流れたことによる過負荷。リッカの肌は陶器のように白く、時折、苦しげに眉を寄せては熱い吐息を漏らしている。

 その細い手を、レオは片時も離さずに握りしめていた。

 彼はリッカの枕元に椅子を寄せ、彼女の顔を覗き込むようにして座っている。毒を浴びた肩の傷は既に癒え、今はただ、自分を救うために力を使い果たした愛しい少女のことだけを案じていた。


「……あ、……」


 リッカの唇が微かに動く。

 レオは即座に上体を起こし、彼女の手を包み込む力を強めた。


「リッカ? 分かるかい、僕だ。レオだ」


 リッカの睫毛が震え、ゆっくりと、霞んだ黄金の瞳に焦点が合っていく。彼女の視界に最初に映ったのは、心配そうに自分を見つめるレオの、燃えるような金の瞳だった。


「レオ、様……。ご無事、……なのです、か……?」

「ああ。君のおかげだ。……君が僕を、守ってくれたんだよ」


 レオは安堵の溜息を漏らし、リッカの手の甲に額を押し当てた。その肌は驚くほど熱い。魔力の使いすぎによる「魔力熱」だ。氷属性の彼女が、内側から熱に浮かされているという皮肉な状況に、レオの胸は締め付けられる。


「……よかった。……私、お役に……立てたのですね……」

「役に立ったどころじゃない。……君は、僕の命を繋ぎ止めた。だが、もう十分だ。これ以上、自分を削るような真似はしないでくれ。……リッカ、君を失うかと思って、僕は気が狂いそうだったんだ」


 レオの声は、これまでに聞いたことがないほど震えていた。

 リッカは驚き、弱々しい力でレオの手を握り返す。


「ごめんなさい……。でも、レオ様が……いなくなるなんて、そんなこと、耐えられなかったから」

「リッカ……」


 レオの瞳に、激しい感情が宿る。それは執着であり、愛であり、そして逃れようのない独占欲だった。

 彼はリッカを抱きしめるようにして、彼女の首筋に顔を埋めた。


「君の魔力回路が、悲鳴を上げている。氷の魔力を使いすぎて、体のバランスが崩れているんだ。……僕の魔力で、君を『調律』させてほしい」

「調律……?でも、属性が……」

「魔力の根源は生命力だ。僕の熱を君に流し、凍りついた回路を解かしてあげる。……少し、熱いかもしれないけれど、我慢してくれるかい?」


 レオがリッカの背中に腕を回し、彼女をそっと抱き寄せる。

 リッカの体温が氷のように冷え切っていく一方で、内側は熱に焼かれるような矛盾した苦しみが、レオの肌が触れた瞬間に和らいでいく。

 

 レオはリッカの首筋や耳元に、熱い吐息を吹きかける。

 リッカの身体が、彼の放つ圧倒的な魔力の奔流ほんりゅうに震えた。レオの魔力は、暴力的なまでの熱さを持ってリッカの回路に侵入し、詰まっていた魔力を溶かし、再び循環させていく。


(ああ……熱い……けれど、すごく、落ち着く……)


 リッカはレオの胸板に顔を埋め、彼の心音に耳を澄ませた。

 フローズン王国では、魔力とは戦うための武器であり、誰かに与えるものではなかった。ましてや、これほどまでに密接に、魂を混ぜ合わせるような行為など想像もできなかった。


「……リッカ。僕は、もう君を手放すつもりはない」


 耳元で、レオの掠れた声が響く。

 彼はリッカの顎を優しく持ち上げ、至近距離で彼女を射抜くように見つめた。


「君がフローズンでどんな扱いを受けてきたとしても、僕にとっては関係ない。……君は、僕がこの手で守り、愛し抜く唯一の女性だ。……正式に、僕の婚約者になってほしい。政治的な駆け引きでも、同情でもない。僕が君を、僕の隣に閉じ込めておきたいんだ」


 リッカの瞳から、一筋の涙が溢れた。

 レオはそれを指で拭い、そのまま彼女の頬を愛おしげに撫でる。


「私で、いいのですか? ……魔力が覚醒したとはいえ、私はまだ、何も知らない、捨てられた王女なのに……」

「君がいいんだ。……君じゃなきゃ、駄目なんだ」


 レオはリッカの額に、誓うように唇を落とした。

 その瞬間、二人の魔力が共鳴し、部屋の中に銀と金の光が混ざり合って渦を巻いた。それは、異なる属性を持つ二人が、魂のレベルで契約を結んだ証だった。


「……はい。……私、レオ様の隣に、いたいです。……あなたの太陽で、私を……溶かしてください……」


 リッカの言葉に、レオの顔にようやく笑みが戻った。

 しかし、その笑みの奥には、獲物を決して逃さない捕食者のような、深い独占欲が潜んでいた。


「ああ、溶かしてあげる。……二度と冷たさを思い出せないほど、僕の熱を刻み込んであげるよ。……リッカ、僕の愛しい婚約者リッカ


 レオはリッカをさらに強く、折れんばかりに抱きしめた。

 

 暖炉の火は穏やかに燃え続け、二人の影を一つの大きな形として壁に映し出している。

 フローズン王国の冷たい風は、もうここには届かない。

 

 翌朝、フレア王宮には驚天動地の知らせが駆け巡ることになる。

 第一王子レオニダス・フレアが、フローズン王国を追放された第一王女リッカとの正式な婚約を発表したからだ。




 そして同時刻。

 フローズン王国の王座の間では、エライザが鏡を粉々に砕いていた。

 自らの右手の甲から、「氷の刻印」が砂のように崩れ落ち、その下に隠されていた薄汚れたあざが露わになっていたからである。


「そんなはずはない……! 私が賢者の生まれ変わりなのよ! あの無能な姉さまが、どうして火の国で……!」


 物語の歯車は、リッカとレオの誓いによって、決定的な逆転へと動き出した。

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