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硝子の心臓はまだ鳴っている  作者: しげみち みり


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第9話 世界の音が止まる夜

 放課後の空は薄い灰色で、街の輪郭が早めに溶けていった。由井からのメッセージは一文だけだった。校内の回線が数分ごとに切れて復帰する。変だ、気をつけろ。凪はスマホをしまい、昇降口を抜けた。澪が待っている。校庭の隅の桜の根元、風の抜ける場所で、彼女はノートを胸に抱いて立っていた。

「行こう」

 凪が言うと、澪はうなずいた。顔色は悪くないが、目つきが鋭い。あの夜以来の、戦い前の目だ。ふたりは校外へ出て、人の少ない裏道を縫う。商店街に届く前に、澪が袖を引いて立ち止まった。ノートを開き、短く書く。

 空気、変。

 音が、薄い。

 凪も、気づいていた。遠くの車の走行音が、紙の裏から聞こえるみたいに遠い。交差点の信号の切り替わる音も、耳に届く前に硬くなって崩れる。風の気配はあるのに、街が鳴っていない。空が大きく、地面が軽い。嫌な感覚だ。

 角を曲がったところで、黒いワゴン車がゆっくりと止まった。ナンバープレートの縁に薄いテープ。助手席の男がこちらを見た。笑っていない目だ。凪は澪の手首を掴み、走った。路地をひとつ、ふたつ、抜ける。住宅の間の細い隙間に入り、ブロック塀の上の植木鉢の列をかすめて、さらに走る。

 背後で靴音が増えた。三人、いや四人。ワゴンは路地に入れない。代わりに人が来る。追い込み方を知っている足取りだ。凪は息を整える暇もなく、旧校舎の方角を探した。そこなら、音が味方する。澪は転びそうになりながらついてくる。ノートは抱えたまま、手から離れない。

 角をひとつ飛び出した瞬間、前方がふいに開けた。幅の広い道路。横断歩道。夕暮れの光が横から差し、白線を長い影に変える。人が多い。助かると思う間もなく、世界から音が消えた。

 音が消えるということは、こういうことだと、その瞬間初めて知った。自分の足が地面を叩く感触はある。呼吸もある。体の重さもある。なのに、何も響かない。靴底がアスファルトに触れる感触だけがやけに鮮明で、それ以外の連絡が遮断される。車は走っているのに、タイヤは無言で回り、信号の青はただの光になる。通行人が口を動かす。叫ぶ。笑う。眉をひそめる。なのに、世界は絵だけだ。

 誰もが、同時に口を閉じたように見えた。驚きも、怒りも、伝わらない。表情はあるが、色がない。感情が、街から抜けた。凪は立ち尽くした。心臓は鳴っているのに、胸の内側で跳ね返る壁がない。吸い込んだ空気がどこへ行ったのか、確かめられない。

 澪が、袖を強く引いた。彼女の目は凪を見ている。揺れていない。ノートを開く余裕はない。代わりに、掌を差し出した。凪はその手を握り返した。指が合わさった瞬間、細い一本の糸がふたりの間に張った。誰の音でもない、ふたりだけの線。

 追っ手は音のない世界でも音もなく近づく。三人。黒い服。目だけが光る。口の動きで指示を交わし、両側から詰めてくる。真ん中の男の耳に、薄い透明のイヤーピース。彼らの世界では、まだ何かが鳴っているのか。凪はふと、そう思った。考えたところで、できることは変わらない。澪の手を引いた。横断歩道を渡り切る。彼らも渡る。距離は縮まるばかりだ。

 旧校舎は遠い。間に大きな道がある。人も多い。音はないのに、人は動く。奇妙なパニックの前触れ。誰かが地面に落としたスマホが、転がる音もしないまま滑っていく。子どもが泣いている。泣き顔はあるのに、泣き声はない。世界が薄い膜で覆われ、言葉が内側に貼りついて動けない。

 角をもうひとつ曲がったところで、古い高架橋が見えた。その下に、薄暗い通路がある。凪はそこに身を滑り込ませた。コンクリートの匂いが濃い。壁に古い落書き。電灯は半分切れて、光と影が縞を作る。澪が肩で息をしている。音はないのに、息の形は見える。追っ手の影が入り口に現れ、こちらに向かってくる。

 凪は背中で壁を探り、手のひらをコンクリートに当てた。冷たい。乾いている。反射しない。ここでは、音は生まれない。そう思った瞬間、自分の中の何かが強く反発した。音は、作るものだ。どれだけ奪われても、どこかに残る。そう信じたい意地が体の奥から立ち上がる。

 澪がノートを無理やり開いた。走り書きの字が紙の上に踊る。

 施設、動いてる。

 街を、無音に。

 凪はうなずいた。あの資料の図。収束体と共鳴体。街全体をひとつの実験室に変える装置が再稼働し、感情の波を吸い取って平滑化している。怒りも、恐れも、喜びも、笑いも。すべてが均され、どこにも引っかからずに流れていく。人の表情から意味が抜ける。世界が、ただの形に戻る。

 追っ手が近づく。残り十歩。凪は澪の手を強く握り、首を振った。逃げるだけでは終わらない。終わらせられない。旧校舎に辿り着けなくても、ここでやれることがある。彼は澪の手を胸に持って行った。自分の鼓動が彼女の掌に触れる。その瞬間、細い糸が太くなった。ふたりの間だけ、音が戻る。

 凪は叫んだ。声が出るかどうか、わからないまま口を開いた。音が出た。出るはずがない世界で、声が出た。耳ではなく、骨で聞いた。彼は全身で叫んだ。

「音があるうちは、生きてる!」

 壁が揺れた。影がたわんだ。追っ手の足が一瞬止まる。耳で聞いたのではない。体で受け取った。叫びは空気の波ではなく、意味の塊として彼らを押し返した。澪の目が開く。彼女の唇が震える。声は出ない。それでも、その目ははっきりと頷いていた。

 凪は続けた。言葉が溢れ、音のない街にぶつける。「奪うな。均すな。静けさは僕らのものだ。必要な静けさは、僕たちが選ぶ。お前たちに渡さない」

 追っ手が真ん中の男を見た。男は手で合図を送り、腰のケースから棒状の機器を取り出した。スイッチが押される。目に見えない波が通路を走る。凪の声は一瞬で消えた。澪の手から熱が引き、糸が細くなる。男の口が動く。語尾の形が命令を示す。二人を拘束しろ。

 無音が戻る。凪は息を吸い込んだ。もう一度叫ぼうとしたが、喉の奥で言葉が崩れた。出ない。通路の隅で、古い瓶が倒れる。転がる音は聞こえない。追っ手が距離を詰めてくる。腕が伸びる。捕まる。終わる。

 澪が凪の腕を引いた。彼女の目はまだ凪を見ている。そのまま、凪の胸に掌を押し当て、もう片方の手で自分の胸を叩いた。自分の胸に、音があると言うように。次に、ノートに短く書いた。

 返して。

 全部、返して。

 ここで。

 凪はうなずいた。やるなら今だ。旧校舎の弦の代わりに、コンクリートの壁を使う。鍵盤の代わりに、ふたりの骨を使う。彼は通路の壁に体を預け、背中で薄い振動を探した。ここは反射が少ない。だからこそ、響きは正直に出る。無音は無音ではない。支える沈黙がある。

 凪は左手で澪の手を、右手で壁を探した。指の腹で擦る。ざらつき。微かな粉の感触。そこに、自分の中の残響を合わせる。昨夜、返したはずの彼女の痛みの旋律。その残り香。雷の低音。ガラス片の摩耗。欠けた子守歌の薄い光。呼び起こすのではない。鞭打つのでもない。置き換える。ここに、返す。

 追っ手が腕を伸ばす。指先が凪の肩に触れた。その瞬間、澪の目から涙が落ちた。光の線が頬を走り、顎の先から零れて、コンクリートに落ちた。音がした。

 小さかった。針の頭ほどの短い音。しかし、それは確かに耳で聞けた。世界が無音のはずの高架下で、澪の涙が、凪の耳を叩いた。澪自身の音だった。誰の残響でもない。誰の装置でもない。彼女の中から、生まれて、外に出た、小さな音。

 凪は目を見開いた。鼓動が跳ね、糸が太くなる。涙は無音に耐えられなかったらしい。装置がいくら平滑化しても、ふたりの間に立った「音」は均されなかった。澪の目が驚きで潤む。自分でも聞こえたのだ。彼女は瞬きを忘れ、息を忘れ、ただ、その事実を受け入れた。

 追っ手が動きを止めた。彼らには聞こえなかったのかもしれない。だが、通路の空気が確かに変わった。凪はその隙に壁から背を離し、澪の肩を抱いた。糸は縄になり、縄は橋になった。ふたりは橋の上に立ち、無音の川を渡る。意味のある音がひとつだけ、川面に残る。

 凪は叫んだ。もう一度。今度は言葉ではなく、澪の涙の音に寄り添う短い叫びだ。喉からではなく、胸から出る音。二人の間で増幅され、通路のコンクリートが震える。追っ手の手首がわずかに外へ弾かれ、棒状の機器のライトが一瞬だけ明滅した。

 澪がノートに走り書きする。字が滲んだ。

 聞こえた。

 わたしの音。

 いる。

 いるよ。

 凪は頷き、笑った。追われている。捕まりかけている。世界は無音だ。だが、いま、彼女は自分の音を持った。その事実に比べれば、追っ手の足音がどれほど近くても、意味は薄い。凪は澪の手を引き、通路の出口へ走った。追っ手は再び棒を構える。ライトが安定する。無音の波が発せられる。意味を潰すための波。だが、間に合わない。ふたりは橋を渡り切った。

 通路を抜けると、旧校舎の角が見えた。まだ遠い。だが、目だけで触れられる距離だ。凪は足を止めずに走り続けた。息が苦しくなる。喉が焼ける。音は戻らない。けれど、澪の指が凪の手を握り返す。その圧力が、世界の全ての楽器よりも確かだった。

 旧校舎の通用口は鍵がかかっていなかった。由井が先に来て、開けておいてくれたのかもしれない。中に滑り込み、扉を閉める。足音が外を通り過ぎ、戻り、止まる。いつまでも止まらない。外の世界の無音に、彼らの焦りが溶けていく。中は薄暗い。古い木の匂い。音はない。だが、支える沈黙はいつも通りだ。

 音楽室のドアを開ける。ピアノに近づく。鍵盤に触れない。代わりに、弦に、直接触れる。昨夜と同じだ。凪は弦の上に手を置き、澪の手をその上に重ねた。二人の手が重なり、その重みが弦に伝わる。弦は黙っている。黙っているのに、凪の胸に響く。澪の指が、わずかに震える。その震えを弦が吸い、木が受け、部屋が覚える。

 凪は小さく、彼女に言った。「もう一度、泣けとは言わない。でも、そこにいることはわかった。君の音は、君のまま出てくる。装置じゃない。君だ」

 澪は頷き、目を閉じた。頬に溜まった涙がもう一粒、弦に落ちる。弦がほんの少しだけ沈む。今度は、さっきよりはっきり音がした。小さく、澄んだ音。鈴でもガラスでもない。彼女の音。凪はそれを聞いた。耳で。部屋で。部屋の中の古い木も、それを聞いた。

 世界の無音は続いている。外の街は平滑化され、喜びも怒りも均されて、ただの光景になっている。だが、この部屋の中だけは別の規則で動き始めた。澪の音が一度鳴れば、凪の鼓動がそれに合わせて形を変える。返すことで増える音。増えた音が、壁に薄く残る。残った音が、ふたりの間の橋を太くする。

 凪は忘れていた息を吐き、短く笑った。「やれる」

 澪はノートに短い単語を置いた。

 勝つ。

 ドアの向こうで、金属の触れる音がした。鍵穴に細工をしている。無音の世界でも、人は侵入できる。扉は揺れない。時間は少ない。それでも、凪は慌てなかった。曲ではない。音の布を、ここに縫い付けるだけだ。彼は弦に指をすべらせ、先ほどの澄んだ音に薄い低音を重ねた。雷の残り香ではない。土の奥に眠っている安心の音だ。澪はそれに合わせて、ノートの白の外側にひと筆だけ輪郭線を足す。輪郭は閉じない。開いたままで、外へ向く。ふたりで外と繋ぎ直すための形だ。

 鍵穴の中で金属が止まる。扉の向こうに、人の気配が集まる。凪は最後に弦から手を離し、澪の手を両手で包んだ。彼女の指は温かく、汗ばんでいる。震えはない。目は強い。無音の世界の真ん中で、ふたりは笑った。

 凪は囁いた。「音があるうちは、生きてる」

 澪は頷き、今度は涙をこぼさなかった。必要なときに必要な分だけ泣く。それもまた、音の選び方だ。彼女はノートの最後のページに、大きな文字で書いた。

 聞こえる。

 わたしの音。

 あなたの音。

 世界の音は、戻す。

 扉が開く。黒い影が流れ込む。無音の夜が濃くなる。だが、もう怖くない。澪の小さな音が部屋に残り、凪の胸の音がそれに寄り添い、古い木がそれを覚えている。橋は崩れない。橋の上で、ふたりは一歩をそろえた。

 世界が無音を選んだ夜、ふたりは音を選んだ。消されるのではなく、選ぶための音。奪われるのではなく、返すための音。均されるのではなく、輪郭を描くための音。それがこの夜の真ん中で、確かに息をした。

 外の闇から、何かが押し寄せる。けれど、押し寄せるものにも、ふたりの音は届く。届いた音は、誰かの中で意味になるかもしれない。意味にならなくても、床のどこかで光になる。澪の初めての音はたしかに鳴り、凪の叫びはたしかに響いた。だから、この夜は、終わらない。続きは次の朝に渡される。音があるうちは、生きているのだから。

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