表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
硝子の心臓はまだ鳴っている  作者: しげみち みり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第6話 記録されない声

 一時間目の前、教室はいつもよりざわついていた。

 黒板の脇に貼られたプリントが一枚、誰かの手で重ねられている。画鋲を外してから差し替えたのだろう。上に来ている紙には、見慣れないロゴが印刷されていた。英字で「MIRO-AUDIO LAB」とある。下の小さな文字は、機械の仕様書のように固い言葉で並ぶ。


 凪は席に荷物を置き、前へ歩いた。数歩の距離のあいだにも、ひそひそと声が寄せては返す。

「昨日のアカウント、また上げてた」「動画、見た?」「消されてたよ。朝には」

 紙を覗き込むと、モノクロの図とグラフ、そして人の胸の断面図に似たイラスト。脈拍と音圧の波形が重ねられている。片隅に「感情—音変換試行」と日本語が添えられていた。

 その文字列を目で追った瞬間、凪の背中に冷たい汗がじわりと浮いた。


 澪が教室に入ってきた。いつもと違って、ノートを胸に抱える手が固い。視線を上げ、黒板脇の紙を見た途端、彼女の足が一歩だけ止まる。

 担任の林が入ってくる前に、凪は紙をはがして折りたたみ、鞄に突っ込んだ。「先生に渡す」と言い訳しながら席に戻る。廊下からはまだ先生の足音がしない。教室の空気は妙な期待で膨らみ、誰かがスマホを構える気配がした。

 凪は澪の方を見た。彼女はノートを開かない。真っ直ぐ前を見て、机の角を両手でつかんでいる。顔色は悪くないのに、目の焦点が遠い。


 ホームルームが始まると、林は教科の連絡を淡々と済ませ、最後にこう付け足した。「最近、匿名の掲示板に学校の生徒に関する悪質な投稿がある。見るなとは言わないけど、広めないでほしい。内容が真実かどうかは関係ない」

 短く言って、すぐ黒板に背を向けた。教室の空気が一度だけ沈んで、またすぐ揺れた。凪は胸ポケットの内側が汗ばむのを感じた。折りたたんだ紙は、熱い石ころみたいに存在感を持ち続けた。


     ◇


 昼休み、屋上は風が強かった。空は透けるようで、校庭の砂の色がいつもより白い。

 凪がドアを押すと、すでに澪が柵のそばに立っていた。ノートは開かれていない。彼女は来る足音に振り向きもしなかった。

 隣に立ち、「見た」と凪は言った。

 澪は、短くうなずいた。唇が動いた。声はない。代わりに、ノートを開く。手つきにいつもの迷いがない。最初の一行は、まっすぐだった。


 わたしだよ。


 凪は、息を呑んだ。

 澪は続けて書いた。筆圧が少し強くなり、鉛筆の芯が紙に深く沈む。


 あれは、わたしがいた場所。

 ラボの地下。

 実験室の色。

 匂い。

 ぜんぶ、覚えてる。


 凪は折りたたみの紙を取り出した。黒板の脇に貼られていたものと同じロゴ。小さなQRコード。印字の浅いところで「第七試行」と読める。

 「見せない方がいいか」と言いかけると、澪は首を振った。

 自分で見る、と言うようにノートを閉じ、紙を受け取る。黙って目を通し、やがて、両手でそっと返した。指先がわずかに震えているのに、表情は崩れない。

 彼女はゆっくりと字を書く。

 

 感情を音に変える。

 そのために、心の音を別の層に引き出す。

 あのラボは、それをやってた。

 わたしは、試行の一つ。

 失敗の一つ。


 凪は手すりに手を置いた。金属の冷たさが手のひらに沁みる。

 「なぜ、今、こんな紙が出回っているんだろう」

 澪は少し考え、ページの余白に小さな点をいくつか置いた。人。観客。

 そして、端に一行。


 誰かが、開けた。

 閉じてたはずの箱。


 風が強くなった。巻き上げられた髪の一本が、澪の頬に触れて戻る。凪は紙を丸めてポケットに押し込み、風で飛ばされないようにした。


「君の声は、その実験で……」

 言葉を選びあぐねていると、澪が先にペンを走らせた。


 声を失ったのは、事故のせい。

 でも、事故だけじゃない。

 音が外に漏れるのをやめさせた。

 自分で。


 彼女は胸の中央に手を置いて、服の上から軽く押さえた。

 そこにあるはずの、見えない蓋。

 ノートが続く。


 漏れると、壊れると思った。

 あの部屋で、何回か。

 笑ったとき、泣いたとき、怒ったとき。

 わたしの中から、音がどっと外へ出て、機械が鳴った。

 鳴ったあと、しばらく、何も感じなくなった。


 凪は、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われた。

 感情が音に“変換”される。外に出たぶん、内側は空く。

 彼は思い出す。初めて澪に会った日の、無音。穴。風だけが通ると彼女が言ったこと。

 それは器の比喩だったのかもしれない。外へ大量に注がれて、内部が一度空になったのだ。


「僕の――この聞こえる体質も、似たものなのかな」

 凪は自分の胸に触れる。

 澪はうなずき、ノートに書いた。


 同じライン。

 共感覚の派生。

 心音の可視化、可聴化。

 ラボの資料に、あった。


 視界がぐらりと揺れた気がした。

 同じライン。

 同じ欠陥。

 そう書かれたに等しい文。

 凪は手すりから手を離し、額に当てた。暑さのせいばかりではない。自分の輪郭が一瞬ぼやける。


 澪は彼の肩に軽く指先を置き、ノートを彼の方へ傾ける。

 今度の文字は、小さかった。


 欠陥って、書かれてた。

 「制御不能の変異」と。

 だから、たぶん、わたしたちは、欠陥。


 言葉が胸の奥に刺さる。

 凪は、腹からゆっくり息を吐き出した。言い返したい言葉はいくらでも見つかる。「欠陥なんかじゃない」とか、「誰にとっての欠陥だ」とか。

 けれど、目の前の彼女は、その言葉を支えに立っているわけではなかった。支えにしているのは、事実だ。

 貼りつけられたラベルをいったん飲み込み、そこから自分の足で歩こうとしている。


 澪は、ページの下の方に新しい文章を置いた。

 ゆっくり。

 泣きながら。


 わたしたちは、音を奪われた実験体なんだよ。


 最後の一字を書き終えたとき、澪の視界から文字がにじんだ。彼女は慌てて袖で涙を拭う。白い布に小さな濡れ色が点をつくる。

 凪は反射的にポケットからハンカチを出した。ためらいながら差し出すと、澪は受け取って、眼尻を押さえた。その仕草があまりに静かで、凪は胸が痛くなるのを止められなかった。


「逃げようか、今日は」

 彼が言うと、澪は首を横に振った。

 ノートの余白に短く書く。


 逃げない。

 でも、隠れる。

 隠れる場所、いる。


 凪は考え、音楽室以外の静かな部屋を思い出した。理科準備室のさらに奥、使われていない旧視聴覚室。古いプロジェクターとスクリーンだけが残っていて、窓が小さい。

「そこへ行こう」

 澪は頷き、目元の涙をもう一度拭いた。ハンカチをたたんで渡してくる。凪は受け取り、ポケットにしまう。布は少し温かかった。


     ◇


 旧視聴覚室は薄暗く、ほこりの匂いがした。遮光カーテンの隙間から線のような光が落ち、古い机の角が浮かび上がる。

 ドアを閉めると、外の足音は遠くなった。

 澪は席に座る前に、スクリーンの前に立った。ノートを開き、凪の方を向いてペンを握る。


 記憶、話す。

 書くから、見て。


 凪は「聞く」と短く答え、椅子を引いた。


 澪はページの上に、灰色の長方形を描いた。

 あの部屋の壁。

 白ではなく、音を吸うための灰。床はビニールの光沢。天井に走る細い配線。

 黒い箱のような機械。

 透明なチューブ。

 胸に貼られた電極の冷たさ。

 彼女のペン先は、細い線でひとつひとつを記していく。


 最初の数回は、何も起きなかった。

 先生たちは優しかった。笑って、励ました。

 「君の感じていることが音になる。世界はもっと正確に、君のことを受け取れる」

 そう言った。

 澪はそれを信じた。自分の感じているものを言葉にするのが下手で、うまく説明できないことが多かったから。

 音なら伝わる。

 機械なら嘘をつかない。

 そう思った。


 ある日、たまたま線の一本が外れ、彼女の笑い声が部屋のスピーカーに乗った。

 笑い声は自分のもののはずなのに、違って聞こえた。

 明るいのに、硬い。

 凪が見ているのと同じ、金の粉なんて混じっていない。

 スピーカーの前にいた同年代の見学者が、怪訝そうに眉を寄せた。

 「これが、喜び?」

 誰かがそう言い、別の誰かが「もっと強い刺激を」と答えた。


 次の試行で、心の音が「出すぎた」。

 怒りを思い出すようにと言われ、彼女は過去の小さな傷を拾い集めて胸に置いた。

 機械が鳴った。

 赤いランプが走り、記録のバーが跳ねた。

 その瞬間、澪の中から何かが大量に外へ漏れた。

 息ができなくなるような空白。

 胸の中央に穴が開き、そこから風が出入りする感覚。

 スタッフが駆け寄り、別のスタッフがメモを取り続けた。

 「成功」

 誰かがそう言った。

 彼女は、失敗したと思った。


 ノートの文字が小さく詰まっていく。

 鉛筆の芯が折れ、澪は無言で削り直した。


 事故は、その日の帰り道だった。

 車のライトが眩しく、道路脇のガードレールがここにあるべき場所から少しずれて見えた。

 何もぶつけられていないのに、ぶつかりに行ってしまったみたいに。

 病院の天井は白かった。

 何日か過ぎ、喉から音が消えているのに気づいた。

 医師は声帯の損傷を説明し、時間がかかるとだけ言った。

 澪は頷いた。

 喉のせい。

 そう思った方が、楽だったから。

 でも、本当は知っていた。

 わたしの声は、胸から来る。

 胸の音が来ない。

 だから、出ない。


 凪は指の関節を握り締めて、静かにほどいた。

 「やめればよかったのに、って言うのは簡単だ。でも、君は、音を信じたんだね」

 澪は頷いた。

 ノートの端に一行。


 信じた。

 そして、止めた。

 漏れるのを。

 蓋をして。

 黙ることを覚えた。


 旧視聴覚室の空気は、深い水の中のように静かだった。

 澪はペンを置き、両手で顔を覆った。肩が一度大きく上下する。嗚咽の音はない。涙だけが、指の隙間からあふれて、落ちた。

 凪は立ち上がり、彼女のそばにしゃがんだ。近づきすぎない距離で、床の一点を見つめる。「僕も、たぶん、同じラインのどこかで生まれた」

 彼はこれまでのことを、短く、途切れ途切れに話した。

 先生の笑い声の裏に泣き声が聞こえて怖かったこと。

 友だちの告白が“音”だけでバレてしまい距離を置かれたこと。

 音楽室に逃げて鍵盤に触れて、やっと自分の音を掴めたこと。

 そして、澪に出会って初めて、無音に触れ、救われたこと。


 澪は顔を上げ、彼の手の甲をノートの角で軽く叩いた。

 書く。

 そう合図して、ページをめくる。


 同じ欠陥。

 同じ実験の隅。

 でも、同じ欠陥だから、同じやり方で壊れない。

 ちがうやり方を、探す。


 凪は、初めて深く息が入った感覚を覚えた。

 「探そう」

 短く言って、彼はポケットから件のプリントを出した。

 QRコードにスマホをかざす。ページはすでに削除されていたが、キャッシュが残っていた。

 画面には、地下室の写真が小さく表示される。機材。ケーブル。壁の質感。

 そして、日付。

 凪は眉をひそめた。「三か月前……?」

 澪は、目を凝らして画面を覗き込む。首を横に振った。

 ノートに書く。


 違う。

 もっと前。

 これは、別の誰か。


 凪は背筋に寒気を覚えた。「……まだ、続いてる?」

 短い一語のあと、澪は筆圧を上げずに頷いた。


     ◇


 その日の放課後、校門の外で由井が待っていた。

 生徒会の腕章を外し、疲れた顔で苦笑する。「ちょっとだけ時間いい?」

 空き教室に場所を移すと、彼は机に封筒を置いた。中にはUSBメモリが一本。

「学校のメール宛に、匿名で届いた。生徒会に回せって。変だと思って開かなかったけど、校務PCに接続したログが残ってる。誰かが勝手に見た。内容は……これ」

 彼は、怖がっている。無理もない。

 凪が頷くと、由井は手を上げた。「俺はもう触らない。渡したって証拠、残したくないから」

 「ありがとう」

 由井が出ていくと、教室の扉が静かに閉まった。

 凪はUSBを見た。細い銀色。どこにでもある安物の形状なのに、重く感じられる。

 澪はノートに小さく「見る」と書いた。

 図書室の奥の端末なら、外部メディアの読み込み制限が緩い。

 ふたりはその足で図書室へ向かった。


 夕方の図書室は高校生の自習で賑わっていたが、端末の並ぶ一角は空いていた。カウンターの司書に会釈して、奥の席に座る。

 画面に差し込む。ディレクトリには、フォルダがひとつ。「BELL」と名づけられていた。開くと、動画ファイルが並んでいる。

 凪は迷った。「再生しよう。きつかったら、そこで止める」

 澪は頷き、椅子の背にもたれた。


 画面に映ったのは、質素な部屋だった。白い壁。黒い椅子。椅子に座っているのは、目元をぼかされた若い女性。胸にセンサーが貼られ、耳にヘッドホン。

 画面下のテロップが英語と日本語で交互に走る。「感情—音変換試行」「被験者C-12」

 スピーカーから音が流れた。低いノイズに、小さなさざなみ。しばらくして、女性の肩が上下する。

 声は聞こえない。

 代わりに、ノイズが形を変え、尖った波形が現れては消える。

 テロップ。「喜び」

 続いて「恐怖」「羞恥」「憤り」。

 音は感情の種類によって特色を変え、しかしどれも「音楽」にはならない。

 最後に、機械の表示が乱れ、赤いランプが点滅し、画面が暗転した。

 凪は再生を止めた。

 澪は、顔を伏せた。ノートを開く。

 鉛筆の先が少し滑って、字がうまく出ない。

 それでも、書いた。


 わたしのと、似てる。

 でも、ちがう。

 この人は、まだ、鳴ってる。

 止めてない。

 だれか、止めて。


 凪は喉の奥を掴まれたような感触を覚え、首を振った。「君が止めろって言うのは、救うために、だよね」

 澪は強く頷いた。

 彼女は画面に手を伸ばし、指先で黒い枠の角に触れた。

 ノートに、もう一行。


 記録されない声が、ある。

 音に変わらない声。

 わたしの声。

 あの人の声。

 聞こえないけど、ある。

 それを、残す方法を探す。


 凪はUSBを抜き、封筒に戻した。

 司書に軽く会釈して、図書室を出る。

 階段を降りる間、二人とも何も言わなかった。

 外は夕焼けで、校庭の端に長い影が伸びている。

 凪はポケットからスマホを取り出し、検索窓に「MIRO-AUDIO LAB」と打ち込んだ。

 結果は曖昧で、古い学会資料しか出てこない。

 澪はノートに「消してる」と短く書く。

 凪は頷き、しまったスマホの重さが急に頼りなく感じられた。


     ◇


 夜。

 家のリビングに、テレビの青白い光が漏れている。母はニュースを見ていて、凪の顔を見るとすぐ音量を下げた。「今日、学校、どうだった?」

 「普通」と言いかけて、言えなくなった。

 母は息子の顔色から何かを読み取り、言葉を変えた。「困ってる子がいたら、先生に言いなさい。あなたが全部背負うことはないよ」

 凪は曖昧に笑い、部屋に戻った。

 机の上にUSBを置く。

 封筒の口を指でなぞる。

 目を閉じると、地下室の灰色の壁が浮かんだ。

 耳に残っているのは、録音された音ではなかった。

 無音の映像の向こうで、誰かが言おうとして言えなかった言葉の空白。

 それは確かに、音にならなかった声だった。


 スマホが震えた。澪からのメッセージ。

 短い文章に、写真が添えられている。

 ノートのページの上に、手書きの円。

 その中央が、空白で残されていた。

 外側にたくさんの短い線が並ぶ。

 線は音の形に見える。

 でも、中心の空白は、音では埋まらない。


 澪の文。


 ここに、わたしの声がある。

 聞こえないけど、ある。

 名前、つけたい。


 凪は少し考えて、返した。


 記録されない声。


 送信すると、すぐ既読がついた。

 水色の付箋のスタンプがひとつ。

 その下に一行。


 それ、タイトルにする。

 わたしたちの話の。


 凪は、胸の奥の固い部分が少し解けていくのを感じた。

 タイトルがあると、物語になる。

 ただの事故や噂や資料の山が、筋を持ち始める。

 筋は、進む方向を示す。

 進む方向があれば、足は勝手に前に出る。


 彼はUSBを手に取り、引き出しにしまった。

 その前に、ひとつだけスクリーンショットを撮る。動画ではなく、黒い画面に映った白いテロップだけ。「試行」

 その文字を見て、凪は思った。

 自分たちのすることも、たぶん試行だ。

 正しいやり方は、最初からはわからない。

 けれど、やってみなければ始まらない。


     ◇


 翌日。

 学校に着くと、教室の空気は、少し変わっていた。

 黒板脇のプリントは貼られていない。代わりに、林が朝一番でこう言った。「昨日の件、学校として調べる。勝手な掲示や掲示物の差し替えは禁止だ。情報は、生徒会・教員・保護者会で共有する」

 由井が小さく頷いている。彼の存在は、頼もしかった。


 休み時間、澪が前を向いたまま、ノートを机の端に滑らせてきた。

 開くと、短い企画書のように見えた。


 記録されない声 第一回

 場所:音楽室

 内容:音と絵で、声のない声を残す。

 参加者:わたし、あなた。

 目的:なくしたものではなく、いまあるものを、残す。

 ルール:

 ・痛くなったらやめる。

 ・途中で笑ってもいい。

 ・だれかに覗かれたら、風を通す。

 ・終わったら、何か甘いものを食べる。


 最後の一行に、凪は笑った。

 「甘いもの、必要だね」

 澪は頷き、ペンで小さくドーナツの絵を描いた。

 休み時間の終わり、凪は教室の後ろからスマホを取り出し、由井に短いメッセージを送った。

 「放課後、音楽室、鍵お願い」

 返事はすぐに来た。「了解」


     ◇


 放課後の音楽室は、静かだった。

 澪はスケッチブックと絵の具を広げ、凪はピアノの蓋を開ける。

 窓の外の空はまだ明るい。秋に寄っていく季節の光は、夏ほど派手ではないが、物の輪郭をくっきりさせる。

 凪は椅子に座り、鍵盤の上に指を置いた。

 今日、彼が弾くのは、曲ではない。

 音の試行錯誤。

 澪の「空白」を埋めるためではなく、空白の周りに記号を立てるための音。


 最初の音は、短かった。

 澪の筆は、紙の中央の白をそのまま残し、外側に薄い青で輪を描いた。

 次の音は、少し長く。

 輪は増える。

 色を重ねすぎないように、彼女は水を多く含ませ、紙の地の白を活かす。

 凪は音を変える。

 鋭い音は避け、柔らかい音だけでは飽和する。

 だから、ときどき、あえて少しだけ硬い音を混ぜる。

 澪は紙の縁に薄い紫を置き、すぐに金の点を一つ足した。

 金の点は、音に紐づくわけではない。

 笑った合図。

 彼女が笑ったから、金が置かれる。

 記録は、そこから始まる。


 扉の向こうで、足音が一度止まり、また遠ざかった。

 覗かれた気配。

 凪は音を少し下げ、澪は窓を少しだけ開けた。

 風が入り、カーテンの裾が揺れる。

 覗く人には、見えないままでいい。

 いまは、二人の記録だ。


 澪が筆を止め、ノートに一行書く。


 もう一回、昨日の言葉、言って。


 凪は笑い、鍵盤から手を離した。

 彼女の正面に立ち、真っ直ぐに言う。

「好きだ」

 澪は頷き、紙の白のすぐ外に、金の点を置いた。

 白の中には何も描かない。

 そこは、彼女の声のいる場所。

 記録されない声のために、空けておく。

 周りを、音と色で囲う。

 囲って、残す。

 残った形は、絵と言葉と音の三つでしかできない。


 短い時間で、一枚の紙が生まれた。

 中央の白。

 外側の青と紫。

 散った金。

 端に小さく、鉛筆の文字。


 記録されない声 第一回。


 凪はスマホで写真を撮り、澪に見せた。

 彼女は親指を立て、次に「甘いもの」とノートに書いた。

「ここの近く、ドーナツ屋、あったよね」

 凪が言うと、澪は頷き、鞄を肩に掛けた。


 音楽室を出る前、凪は鍵盤に軽く触れた。

 音が鳴ったかどうか、わからないくらい、軽く。

 それでも、彼の胸には、確かに響いた。

 記録されない声が、そこにいるとわかる音だった。


     ◇


 商店街の角の店は、いつも混んでいるのに、今日は空いていた。

 ドーナツを二つずつ紙袋に入れてもらい、店の前のベンチに座る。

 外は風が涼しく、紙袋の油染みがじわりと広がっていくのを見ていると、不思議と落ち着く。

 澪は一口食べ、目を細めた。

 ノートに「甘い」とだけ書く。

 凪は笑い、同じ言葉を口にした。「甘い」

 その一語で足りる場面があることを、彼は最近知った。


 食べ終えてから、澪は急に真面目な顔になった。

 ノートを開く。

 彼の方を見て、文字を置く。


 明日、もう一回、図書室。

 USB、全部は見ない。

 でも、名前、探す。

 誰かを、止めるために。


 凪は頷いた。

「一緒に行く」

 澪は、今度は大きく頷いた。

 紙袋を畳んで、ゴミ箱に入れる。

 商店街の夕暮れは、昨日までとは違う色に見えた。

 世界が急に巨大になったわけではない。

 ただ、自分たちの小さな輪が、物語のタイトルを得た。

 「記録されない声」

 タイトルがあると、人に話せる。

 人に話せると、味方ができる。

 味方ができると、伸ばせる手が増える。

 増えた手で、誰かを掴める。

 掴んで、止められる。


「帰ろう」

 凪が言うと、澪はうなずき、歩き出した。

 横断歩道の信号が赤から青に変わる。

 車の列がゆっくり進み、止まり、また進む。

 人の歩幅はささやかで、それでも前に進む。

 澪は、何度か指で輪を作って見せた。

 凪も同じ輪を返す。

 きっと、怖さは消えない。

 でも、怖さを記録しておけば、あとで優しくなる。

 彼女がそう言ったから、彼はそれを信じることにした。


 夜、ベッドに横になって目を閉じると、地下室の灰色はもう鮮やかではなかった。

 代わりに、音楽室の白い紙が浮かんだ。

 中央の空白に、彼は静かな言葉を置く。

 聞こえないけれど、ある。

 記録されないけれど、あり続ける。

 それを明日も残す。

 そのために、明日を迎える。


 凪はゆっくり目を閉じ、眠りに落ちた。

 深い静けさの中で、誰かの笑いに似た温かな何かが、遠くでかすかに光った気がした。

 それは、音にはならなかった。

 でも、確かに、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ