第6話 記録されない声
一時間目の前、教室はいつもよりざわついていた。
黒板の脇に貼られたプリントが一枚、誰かの手で重ねられている。画鋲を外してから差し替えたのだろう。上に来ている紙には、見慣れないロゴが印刷されていた。英字で「MIRO-AUDIO LAB」とある。下の小さな文字は、機械の仕様書のように固い言葉で並ぶ。
凪は席に荷物を置き、前へ歩いた。数歩の距離のあいだにも、ひそひそと声が寄せては返す。
「昨日のアカウント、また上げてた」「動画、見た?」「消されてたよ。朝には」
紙を覗き込むと、モノクロの図とグラフ、そして人の胸の断面図に似たイラスト。脈拍と音圧の波形が重ねられている。片隅に「感情—音変換試行」と日本語が添えられていた。
その文字列を目で追った瞬間、凪の背中に冷たい汗がじわりと浮いた。
澪が教室に入ってきた。いつもと違って、ノートを胸に抱える手が固い。視線を上げ、黒板脇の紙を見た途端、彼女の足が一歩だけ止まる。
担任の林が入ってくる前に、凪は紙をはがして折りたたみ、鞄に突っ込んだ。「先生に渡す」と言い訳しながら席に戻る。廊下からはまだ先生の足音がしない。教室の空気は妙な期待で膨らみ、誰かがスマホを構える気配がした。
凪は澪の方を見た。彼女はノートを開かない。真っ直ぐ前を見て、机の角を両手でつかんでいる。顔色は悪くないのに、目の焦点が遠い。
ホームルームが始まると、林は教科の連絡を淡々と済ませ、最後にこう付け足した。「最近、匿名の掲示板に学校の生徒に関する悪質な投稿がある。見るなとは言わないけど、広めないでほしい。内容が真実かどうかは関係ない」
短く言って、すぐ黒板に背を向けた。教室の空気が一度だけ沈んで、またすぐ揺れた。凪は胸ポケットの内側が汗ばむのを感じた。折りたたんだ紙は、熱い石ころみたいに存在感を持ち続けた。
◇
昼休み、屋上は風が強かった。空は透けるようで、校庭の砂の色がいつもより白い。
凪がドアを押すと、すでに澪が柵のそばに立っていた。ノートは開かれていない。彼女は来る足音に振り向きもしなかった。
隣に立ち、「見た」と凪は言った。
澪は、短くうなずいた。唇が動いた。声はない。代わりに、ノートを開く。手つきにいつもの迷いがない。最初の一行は、まっすぐだった。
わたしだよ。
凪は、息を呑んだ。
澪は続けて書いた。筆圧が少し強くなり、鉛筆の芯が紙に深く沈む。
あれは、わたしがいた場所。
ラボの地下。
実験室の色。
匂い。
ぜんぶ、覚えてる。
凪は折りたたみの紙を取り出した。黒板の脇に貼られていたものと同じロゴ。小さなQRコード。印字の浅いところで「第七試行」と読める。
「見せない方がいいか」と言いかけると、澪は首を振った。
自分で見る、と言うようにノートを閉じ、紙を受け取る。黙って目を通し、やがて、両手でそっと返した。指先がわずかに震えているのに、表情は崩れない。
彼女はゆっくりと字を書く。
感情を音に変える。
そのために、心の音を別の層に引き出す。
あのラボは、それをやってた。
わたしは、試行の一つ。
失敗の一つ。
凪は手すりに手を置いた。金属の冷たさが手のひらに沁みる。
「なぜ、今、こんな紙が出回っているんだろう」
澪は少し考え、ページの余白に小さな点をいくつか置いた。人。観客。
そして、端に一行。
誰かが、開けた。
閉じてたはずの箱。
風が強くなった。巻き上げられた髪の一本が、澪の頬に触れて戻る。凪は紙を丸めてポケットに押し込み、風で飛ばされないようにした。
「君の声は、その実験で……」
言葉を選びあぐねていると、澪が先にペンを走らせた。
声を失ったのは、事故のせい。
でも、事故だけじゃない。
音が外に漏れるのをやめさせた。
自分で。
彼女は胸の中央に手を置いて、服の上から軽く押さえた。
そこにあるはずの、見えない蓋。
ノートが続く。
漏れると、壊れると思った。
あの部屋で、何回か。
笑ったとき、泣いたとき、怒ったとき。
わたしの中から、音がどっと外へ出て、機械が鳴った。
鳴ったあと、しばらく、何も感じなくなった。
凪は、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われた。
感情が音に“変換”される。外に出たぶん、内側は空く。
彼は思い出す。初めて澪に会った日の、無音。穴。風だけが通ると彼女が言ったこと。
それは器の比喩だったのかもしれない。外へ大量に注がれて、内部が一度空になったのだ。
「僕の――この聞こえる体質も、似たものなのかな」
凪は自分の胸に触れる。
澪はうなずき、ノートに書いた。
同じライン。
共感覚の派生。
心音の可視化、可聴化。
ラボの資料に、あった。
視界がぐらりと揺れた気がした。
同じライン。
同じ欠陥。
そう書かれたに等しい文。
凪は手すりから手を離し、額に当てた。暑さのせいばかりではない。自分の輪郭が一瞬ぼやける。
澪は彼の肩に軽く指先を置き、ノートを彼の方へ傾ける。
今度の文字は、小さかった。
欠陥って、書かれてた。
「制御不能の変異」と。
だから、たぶん、わたしたちは、欠陥。
言葉が胸の奥に刺さる。
凪は、腹からゆっくり息を吐き出した。言い返したい言葉はいくらでも見つかる。「欠陥なんかじゃない」とか、「誰にとっての欠陥だ」とか。
けれど、目の前の彼女は、その言葉を支えに立っているわけではなかった。支えにしているのは、事実だ。
貼りつけられたラベルをいったん飲み込み、そこから自分の足で歩こうとしている。
澪は、ページの下の方に新しい文章を置いた。
ゆっくり。
泣きながら。
わたしたちは、音を奪われた実験体なんだよ。
最後の一字を書き終えたとき、澪の視界から文字がにじんだ。彼女は慌てて袖で涙を拭う。白い布に小さな濡れ色が点をつくる。
凪は反射的にポケットからハンカチを出した。ためらいながら差し出すと、澪は受け取って、眼尻を押さえた。その仕草があまりに静かで、凪は胸が痛くなるのを止められなかった。
「逃げようか、今日は」
彼が言うと、澪は首を横に振った。
ノートの余白に短く書く。
逃げない。
でも、隠れる。
隠れる場所、いる。
凪は考え、音楽室以外の静かな部屋を思い出した。理科準備室のさらに奥、使われていない旧視聴覚室。古いプロジェクターとスクリーンだけが残っていて、窓が小さい。
「そこへ行こう」
澪は頷き、目元の涙をもう一度拭いた。ハンカチをたたんで渡してくる。凪は受け取り、ポケットにしまう。布は少し温かかった。
◇
旧視聴覚室は薄暗く、ほこりの匂いがした。遮光カーテンの隙間から線のような光が落ち、古い机の角が浮かび上がる。
ドアを閉めると、外の足音は遠くなった。
澪は席に座る前に、スクリーンの前に立った。ノートを開き、凪の方を向いてペンを握る。
記憶、話す。
書くから、見て。
凪は「聞く」と短く答え、椅子を引いた。
澪はページの上に、灰色の長方形を描いた。
あの部屋の壁。
白ではなく、音を吸うための灰。床はビニールの光沢。天井に走る細い配線。
黒い箱のような機械。
透明なチューブ。
胸に貼られた電極の冷たさ。
彼女のペン先は、細い線でひとつひとつを記していく。
最初の数回は、何も起きなかった。
先生たちは優しかった。笑って、励ました。
「君の感じていることが音になる。世界はもっと正確に、君のことを受け取れる」
そう言った。
澪はそれを信じた。自分の感じているものを言葉にするのが下手で、うまく説明できないことが多かったから。
音なら伝わる。
機械なら嘘をつかない。
そう思った。
ある日、たまたま線の一本が外れ、彼女の笑い声が部屋のスピーカーに乗った。
笑い声は自分のもののはずなのに、違って聞こえた。
明るいのに、硬い。
凪が見ているのと同じ、金の粉なんて混じっていない。
スピーカーの前にいた同年代の見学者が、怪訝そうに眉を寄せた。
「これが、喜び?」
誰かがそう言い、別の誰かが「もっと強い刺激を」と答えた。
次の試行で、心の音が「出すぎた」。
怒りを思い出すようにと言われ、彼女は過去の小さな傷を拾い集めて胸に置いた。
機械が鳴った。
赤いランプが走り、記録のバーが跳ねた。
その瞬間、澪の中から何かが大量に外へ漏れた。
息ができなくなるような空白。
胸の中央に穴が開き、そこから風が出入りする感覚。
スタッフが駆け寄り、別のスタッフがメモを取り続けた。
「成功」
誰かがそう言った。
彼女は、失敗したと思った。
ノートの文字が小さく詰まっていく。
鉛筆の芯が折れ、澪は無言で削り直した。
事故は、その日の帰り道だった。
車のライトが眩しく、道路脇のガードレールがここにあるべき場所から少しずれて見えた。
何もぶつけられていないのに、ぶつかりに行ってしまったみたいに。
病院の天井は白かった。
何日か過ぎ、喉から音が消えているのに気づいた。
医師は声帯の損傷を説明し、時間がかかるとだけ言った。
澪は頷いた。
喉のせい。
そう思った方が、楽だったから。
でも、本当は知っていた。
わたしの声は、胸から来る。
胸の音が来ない。
だから、出ない。
凪は指の関節を握り締めて、静かにほどいた。
「やめればよかったのに、って言うのは簡単だ。でも、君は、音を信じたんだね」
澪は頷いた。
ノートの端に一行。
信じた。
そして、止めた。
漏れるのを。
蓋をして。
黙ることを覚えた。
旧視聴覚室の空気は、深い水の中のように静かだった。
澪はペンを置き、両手で顔を覆った。肩が一度大きく上下する。嗚咽の音はない。涙だけが、指の隙間からあふれて、落ちた。
凪は立ち上がり、彼女のそばにしゃがんだ。近づきすぎない距離で、床の一点を見つめる。「僕も、たぶん、同じラインのどこかで生まれた」
彼はこれまでのことを、短く、途切れ途切れに話した。
先生の笑い声の裏に泣き声が聞こえて怖かったこと。
友だちの告白が“音”だけでバレてしまい距離を置かれたこと。
音楽室に逃げて鍵盤に触れて、やっと自分の音を掴めたこと。
そして、澪に出会って初めて、無音に触れ、救われたこと。
澪は顔を上げ、彼の手の甲をノートの角で軽く叩いた。
書く。
そう合図して、ページをめくる。
同じ欠陥。
同じ実験の隅。
でも、同じ欠陥だから、同じやり方で壊れない。
ちがうやり方を、探す。
凪は、初めて深く息が入った感覚を覚えた。
「探そう」
短く言って、彼はポケットから件のプリントを出した。
QRコードにスマホをかざす。ページはすでに削除されていたが、キャッシュが残っていた。
画面には、地下室の写真が小さく表示される。機材。ケーブル。壁の質感。
そして、日付。
凪は眉をひそめた。「三か月前……?」
澪は、目を凝らして画面を覗き込む。首を横に振った。
ノートに書く。
違う。
もっと前。
これは、別の誰か。
凪は背筋に寒気を覚えた。「……まだ、続いてる?」
短い一語のあと、澪は筆圧を上げずに頷いた。
◇
その日の放課後、校門の外で由井が待っていた。
生徒会の腕章を外し、疲れた顔で苦笑する。「ちょっとだけ時間いい?」
空き教室に場所を移すと、彼は机に封筒を置いた。中にはUSBメモリが一本。
「学校のメール宛に、匿名で届いた。生徒会に回せって。変だと思って開かなかったけど、校務PCに接続したログが残ってる。誰かが勝手に見た。内容は……これ」
彼は、怖がっている。無理もない。
凪が頷くと、由井は手を上げた。「俺はもう触らない。渡したって証拠、残したくないから」
「ありがとう」
由井が出ていくと、教室の扉が静かに閉まった。
凪はUSBを見た。細い銀色。どこにでもある安物の形状なのに、重く感じられる。
澪はノートに小さく「見る」と書いた。
図書室の奥の端末なら、外部メディアの読み込み制限が緩い。
ふたりはその足で図書室へ向かった。
夕方の図書室は高校生の自習で賑わっていたが、端末の並ぶ一角は空いていた。カウンターの司書に会釈して、奥の席に座る。
画面に差し込む。ディレクトリには、フォルダがひとつ。「BELL」と名づけられていた。開くと、動画ファイルが並んでいる。
凪は迷った。「再生しよう。きつかったら、そこで止める」
澪は頷き、椅子の背にもたれた。
画面に映ったのは、質素な部屋だった。白い壁。黒い椅子。椅子に座っているのは、目元をぼかされた若い女性。胸にセンサーが貼られ、耳にヘッドホン。
画面下のテロップが英語と日本語で交互に走る。「感情—音変換試行」「被験者C-12」
スピーカーから音が流れた。低いノイズに、小さなさざなみ。しばらくして、女性の肩が上下する。
声は聞こえない。
代わりに、ノイズが形を変え、尖った波形が現れては消える。
テロップ。「喜び」
続いて「恐怖」「羞恥」「憤り」。
音は感情の種類によって特色を変え、しかしどれも「音楽」にはならない。
最後に、機械の表示が乱れ、赤いランプが点滅し、画面が暗転した。
凪は再生を止めた。
澪は、顔を伏せた。ノートを開く。
鉛筆の先が少し滑って、字がうまく出ない。
それでも、書いた。
わたしのと、似てる。
でも、ちがう。
この人は、まだ、鳴ってる。
止めてない。
だれか、止めて。
凪は喉の奥を掴まれたような感触を覚え、首を振った。「君が止めろって言うのは、救うために、だよね」
澪は強く頷いた。
彼女は画面に手を伸ばし、指先で黒い枠の角に触れた。
ノートに、もう一行。
記録されない声が、ある。
音に変わらない声。
わたしの声。
あの人の声。
聞こえないけど、ある。
それを、残す方法を探す。
凪はUSBを抜き、封筒に戻した。
司書に軽く会釈して、図書室を出る。
階段を降りる間、二人とも何も言わなかった。
外は夕焼けで、校庭の端に長い影が伸びている。
凪はポケットからスマホを取り出し、検索窓に「MIRO-AUDIO LAB」と打ち込んだ。
結果は曖昧で、古い学会資料しか出てこない。
澪はノートに「消してる」と短く書く。
凪は頷き、しまったスマホの重さが急に頼りなく感じられた。
◇
夜。
家のリビングに、テレビの青白い光が漏れている。母はニュースを見ていて、凪の顔を見るとすぐ音量を下げた。「今日、学校、どうだった?」
「普通」と言いかけて、言えなくなった。
母は息子の顔色から何かを読み取り、言葉を変えた。「困ってる子がいたら、先生に言いなさい。あなたが全部背負うことはないよ」
凪は曖昧に笑い、部屋に戻った。
机の上にUSBを置く。
封筒の口を指でなぞる。
目を閉じると、地下室の灰色の壁が浮かんだ。
耳に残っているのは、録音された音ではなかった。
無音の映像の向こうで、誰かが言おうとして言えなかった言葉の空白。
それは確かに、音にならなかった声だった。
スマホが震えた。澪からのメッセージ。
短い文章に、写真が添えられている。
ノートのページの上に、手書きの円。
その中央が、空白で残されていた。
外側にたくさんの短い線が並ぶ。
線は音の形に見える。
でも、中心の空白は、音では埋まらない。
澪の文。
ここに、わたしの声がある。
聞こえないけど、ある。
名前、つけたい。
凪は少し考えて、返した。
記録されない声。
送信すると、すぐ既読がついた。
水色の付箋のスタンプがひとつ。
その下に一行。
それ、タイトルにする。
わたしたちの話の。
凪は、胸の奥の固い部分が少し解けていくのを感じた。
タイトルがあると、物語になる。
ただの事故や噂や資料の山が、筋を持ち始める。
筋は、進む方向を示す。
進む方向があれば、足は勝手に前に出る。
彼はUSBを手に取り、引き出しにしまった。
その前に、ひとつだけスクリーンショットを撮る。動画ではなく、黒い画面に映った白いテロップだけ。「試行」
その文字を見て、凪は思った。
自分たちのすることも、たぶん試行だ。
正しいやり方は、最初からはわからない。
けれど、やってみなければ始まらない。
◇
翌日。
学校に着くと、教室の空気は、少し変わっていた。
黒板脇のプリントは貼られていない。代わりに、林が朝一番でこう言った。「昨日の件、学校として調べる。勝手な掲示や掲示物の差し替えは禁止だ。情報は、生徒会・教員・保護者会で共有する」
由井が小さく頷いている。彼の存在は、頼もしかった。
休み時間、澪が前を向いたまま、ノートを机の端に滑らせてきた。
開くと、短い企画書のように見えた。
記録されない声 第一回
場所:音楽室
内容:音と絵で、声のない声を残す。
参加者:わたし、あなた。
目的:なくしたものではなく、いまあるものを、残す。
ルール:
・痛くなったらやめる。
・途中で笑ってもいい。
・だれかに覗かれたら、風を通す。
・終わったら、何か甘いものを食べる。
最後の一行に、凪は笑った。
「甘いもの、必要だね」
澪は頷き、ペンで小さくドーナツの絵を描いた。
休み時間の終わり、凪は教室の後ろからスマホを取り出し、由井に短いメッセージを送った。
「放課後、音楽室、鍵お願い」
返事はすぐに来た。「了解」
◇
放課後の音楽室は、静かだった。
澪はスケッチブックと絵の具を広げ、凪はピアノの蓋を開ける。
窓の外の空はまだ明るい。秋に寄っていく季節の光は、夏ほど派手ではないが、物の輪郭をくっきりさせる。
凪は椅子に座り、鍵盤の上に指を置いた。
今日、彼が弾くのは、曲ではない。
音の試行錯誤。
澪の「空白」を埋めるためではなく、空白の周りに記号を立てるための音。
最初の音は、短かった。
澪の筆は、紙の中央の白をそのまま残し、外側に薄い青で輪を描いた。
次の音は、少し長く。
輪は増える。
色を重ねすぎないように、彼女は水を多く含ませ、紙の地の白を活かす。
凪は音を変える。
鋭い音は避け、柔らかい音だけでは飽和する。
だから、ときどき、あえて少しだけ硬い音を混ぜる。
澪は紙の縁に薄い紫を置き、すぐに金の点を一つ足した。
金の点は、音に紐づくわけではない。
笑った合図。
彼女が笑ったから、金が置かれる。
記録は、そこから始まる。
扉の向こうで、足音が一度止まり、また遠ざかった。
覗かれた気配。
凪は音を少し下げ、澪は窓を少しだけ開けた。
風が入り、カーテンの裾が揺れる。
覗く人には、見えないままでいい。
いまは、二人の記録だ。
澪が筆を止め、ノートに一行書く。
もう一回、昨日の言葉、言って。
凪は笑い、鍵盤から手を離した。
彼女の正面に立ち、真っ直ぐに言う。
「好きだ」
澪は頷き、紙の白のすぐ外に、金の点を置いた。
白の中には何も描かない。
そこは、彼女の声のいる場所。
記録されない声のために、空けておく。
周りを、音と色で囲う。
囲って、残す。
残った形は、絵と言葉と音の三つでしかできない。
短い時間で、一枚の紙が生まれた。
中央の白。
外側の青と紫。
散った金。
端に小さく、鉛筆の文字。
記録されない声 第一回。
凪はスマホで写真を撮り、澪に見せた。
彼女は親指を立て、次に「甘いもの」とノートに書いた。
「ここの近く、ドーナツ屋、あったよね」
凪が言うと、澪は頷き、鞄を肩に掛けた。
音楽室を出る前、凪は鍵盤に軽く触れた。
音が鳴ったかどうか、わからないくらい、軽く。
それでも、彼の胸には、確かに響いた。
記録されない声が、そこにいるとわかる音だった。
◇
商店街の角の店は、いつも混んでいるのに、今日は空いていた。
ドーナツを二つずつ紙袋に入れてもらい、店の前のベンチに座る。
外は風が涼しく、紙袋の油染みがじわりと広がっていくのを見ていると、不思議と落ち着く。
澪は一口食べ、目を細めた。
ノートに「甘い」とだけ書く。
凪は笑い、同じ言葉を口にした。「甘い」
その一語で足りる場面があることを、彼は最近知った。
食べ終えてから、澪は急に真面目な顔になった。
ノートを開く。
彼の方を見て、文字を置く。
明日、もう一回、図書室。
USB、全部は見ない。
でも、名前、探す。
誰かを、止めるために。
凪は頷いた。
「一緒に行く」
澪は、今度は大きく頷いた。
紙袋を畳んで、ゴミ箱に入れる。
商店街の夕暮れは、昨日までとは違う色に見えた。
世界が急に巨大になったわけではない。
ただ、自分たちの小さな輪が、物語のタイトルを得た。
「記録されない声」
タイトルがあると、人に話せる。
人に話せると、味方ができる。
味方ができると、伸ばせる手が増える。
増えた手で、誰かを掴める。
掴んで、止められる。
「帰ろう」
凪が言うと、澪はうなずき、歩き出した。
横断歩道の信号が赤から青に変わる。
車の列がゆっくり進み、止まり、また進む。
人の歩幅はささやかで、それでも前に進む。
澪は、何度か指で輪を作って見せた。
凪も同じ輪を返す。
きっと、怖さは消えない。
でも、怖さを記録しておけば、あとで優しくなる。
彼女がそう言ったから、彼はそれを信じることにした。
夜、ベッドに横になって目を閉じると、地下室の灰色はもう鮮やかではなかった。
代わりに、音楽室の白い紙が浮かんだ。
中央の空白に、彼は静かな言葉を置く。
聞こえないけれど、ある。
記録されないけれど、あり続ける。
それを明日も残す。
そのために、明日を迎える。
凪はゆっくり目を閉じ、眠りに落ちた。
深い静けさの中で、誰かの笑いに似た温かな何かが、遠くでかすかに光った気がした。
それは、音にはならなかった。
でも、確かに、そこにあった。




