第3話 心臓のない日
朝、窓を開けた瞬間、街の低いざわめきが一斉に押し寄せてきた。
新聞受けを閉じる音、角を曲がる自転車のチェーンの軋み、朝食の皿が触れ合う乾いた音。それらに、見えない鼓動が混ざる。眠気と、急ぎと、ため息と。
凪は右手の指で、いつものように机の端を四拍で叩いた。三拍吸って、二拍止めて、四拍吐く。自分の中に小さなメトロノームを置くと、世界はわずかに整列する。
教室のドアを開いた瞬間、耳の奥で波が立った。
今日の波は、高い。
黒板に貼られたプリントの端がめくれ、そこに記された短い文が視界に入る。転入生情報、と鉛筆書きの落書き。
凪はふわりと眉を寄せただけで、席へ向かった。
席に近づくにつれ、ざわめきが形を持ち始めた。囁きはいつだって、心臓の弾みを連れている。
「事故ってさ、声帯切ったらしいよ」
「手術、失敗したとか」
「いや、メンタルのやつ。ショックで声が出ないって」
「だってあの子、ずっと口閉じてるじゃん。絶対わけあり」
噂は、ギザギザの黒に薄い紫が混じる音だ。自分には関係ない場所から、濡れた傘を振るうみたいに飛沫が飛んでくる。
凪は深く息を吐いた。
教室の後ろの掲示板には、昨日の美術の課題が貼り出されている。自画像、静物素描、色相の練習。澪の欄は空白だ。色が苦手だからではない。声が出せないから発表をパスし、順番が後に回っただけ。
それでも、空白は目立つ。
目立つものは、すぐに理由を求められる。
席に着くと、机の上に水色の付箋が一枚置いてあった。丸。青い縁取り。
凪は唇の端をわずかに上げ、ポケットの付箋に丸を描いて貼り返した。
澪が振り返り、目で笑う。
彼女の周りの空気は、今日も薄く澄んでいる。その澄んだ場所に、噂の黒いギザギザは入り込めない。近づくと、自然に丸くなって、ただの点になる。
ホームルームが始まっても、こそこそ声は消えなかった。担任の林が生徒指導の連絡を読み上げる間も、最後列ではスマホのカメラ音を消したシャッターのスワイプ音が連続する。
凪の耳の奥で、違う音が膨らんだ。
羨望。
好奇。
それらが濁った色で重なって、鼓膜の内側を擦る。
凪は、自分の中の鍵を回した。
教室の左上の角に視線を固定する。黒板の角じゃない。ほんのわずかに外した、何もない一点。
三拍吸って、二拍止めて、四拍吐く。
澪の席から柔らかな静けさが広がり、そこから伸びた目に見えない帯が凪の胸に触れて、ざわめきを薄くする。
音が引いて、かわりに文字が入ってくる。
林の声は一定で、板書の動きも一定だ。意味だけがまっすぐ落ちてくる世界は、少しだけ居心地がいい。
◇
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
澪は教室の片隅で、スケッチブックを膝に乗せていた。美術室から借りてきたのか、厚手の紙だ。
凪が近づくと、澪は小さく会釈して、ページをめくった。そこには、いくつもの線が重ねられた抽象的な図形が描かれていた。
波形のような、弧のような、雫のような。
不思議なのは、その線の間に白が多いことだ。沈黙の余白がきれいに残っている。
何を描いているのか、訊く前に澪がペンを走らせた。
音。
今日の教室の音。
騒いでるのは、あの席。
ここは、静か。
四角の座席表の中で、数カ所が黒く濃く塗りつぶされている。ギザギザが生えて、周囲の線を侵食している。それは噂の源泉の形。
凪が目で礼を言うと、澪はスケッチブックの最初のページに戻した。そこには、昨日の音楽室で描いたらしい連続した弧が並んでいた。まるで、水面に落ちる雫が規則的に波紋を作っているようだ。
あなたの音。
昨日の。
きれいだった。
凪は不意に喉が詰まった。
音を褒められることはない。
自分が聞いているのは他人の音であって、自分のものではないから。
なのに、澪はそれを「あなたの音」と呼んだ。
凪は指で机を軽く叩いた。四拍。
その拍に合わせて、澪が線を一本、長く引く。
線は途中で途切れず、紙の端までたどり着いた。
やわらかな音が、最後まで届くときの長さだった。
凪は小さく笑い、口の中の緊張をほどいた。
「ありがとう」
口に出すと、澪は目を細くして頷いた。
彼女の周りの空気に、金色の粉が一粒だけ舞ったように見えた。
◇
昼休みは、早めに屋上へ上がった。
空は薄い春の青で、風が運動場の羽虫を数匹連れてくる。フェンスの向こうでバスケットボールが反発する音が、小さく遅れて届く。
澪はスケッチブックを膝に、凪は手すりに肘をかけた。今日は、下から追ってくる視線が少し多い気がする。屋上へ上がる階段の踊り場、開いた扉の隙間。誰かの影がやわらかく揺れ、すぐに消える。
澪がペンを走らせた。ページいっぱいに、縦と横の線が交差する。
凪は黙って見ていた。
線はやがて、心臓の形に近づいた。ただし、少し歪んでいる。左右非対称。片側はなめらかで、片側はわずかに欠けている。
澪はその輪郭の中に、薄い青で小さな丸を一つ描き入れた。
あなたの心音。
この丸から広がる。
凪は胸に手を当てた。
実際の心臓は左側にある。でも、澪が描いた丸は少し中央寄りだ。
音を聞く場所は、肉の位置とは別なのだ、と凪は思った。
そういえば、自分が苦しくなるときは、胸の真ん中が熱くなる。心音を拾いすぎると、中央が詰まるみたいにきしむ。
澪はそこを知っている。
見えている。
「澪はさ」
凪は言葉を探し、慎重に並べた。
「事故で、声が出なくなったって、噂されてる」
澪は頷いた。表情は動かない。
紙に、一行。
事故は、ほんとう。
でも、わたしの声は、音が来ない。
喉じゃない。
胸が、鳴らない。
喉じゃない。胸だ。
凪はそこにひっかかった。
彼女の胸の奥には、音そのものがない。
初めて彼女を見たときから続いている、無音の中心。
肉体の機能としての声帯ではなく、声の源になっていたはずの何かが、ある日ふっと消えてしまったのだとしたら。
凪は目を閉じた。
耳の奥で、教室のノイズが遠ざかっていく。
澪の無音が、近づく。
凪は言った。
「僕ね、みんなの心音が聞こえる」
澪は、知っているというふうに頷いた。
凪は続ける。
「聞こえない人は初めてだった。だから、最初は怖かった。生きてないみたいで。でも、違うね。生きてる。無音は、空っぽじゃない。そこに、何かがある」
澪はペン先を止めた。
少しだけの躊躇のあと、彼女は自分の胸の中央を指差してから、紙に短い線を描いた。
線は、途中で薄くなって消えた。
その上に、文字。
ここに穴がある。
穴は黒でも、白でもない。
透明。
風だけ通る。
凪は思わず笑ってしまった。
表現が、美しいから。
彼女の言葉はいつも短く、無駄がない。そのぶん、比喩が正確だ。
「風だけ通る穴、か」
凪が繰り返すと、澪は小さく笑った。
その笑いの重さが、凪の耳にやわらかく落ちた。音として。
穴は、音を拒むのではない。音を、通す。
だから、澪の周りでは、音が滞らない。
滞らないから、うるさくない。
無音は、凪にとって吸い込める空気だった。
「秘密を交換しよう」
凪は、言った。
「僕は、誰の心音も聞こえるってことを、ずっと隠してきた。変に思われるし、うっすら気味悪がられるから。でも、君には話す。君の無音は、僕の例外だ。例外は、秘密でできてる」
澪は真面目な顔で頷き、スケッチブックに短く書く。
わたしの秘密。
声がないのは、事故だけが理由じゃない。
ある日、音が見えすぎて、声が消えた。
叫ぶと、黒いギザギザが増えるから、叫べなくなった。
凪は息を呑んだ。
見えすぎた世界と、聞こえすぎた世界。
それぞれの過剰が、同時にここに座っている。
澪はペンを置き、手のひらで風をすくう仕草をした。その手が風を通して、穴に戻すみたいに。
凪は小さく頷き、手の甲に指で丸を描いた。
澪も真似をする。
小さな儀式。
秘密をひとつ袋に入れて、結び目をつくった感じがした。
◇
午後、理科の実験。
酸化と還元。金属イオンがどうたら、電子がどうたら。テスト管の中で銅が赤く沈殿していくのを眺めながら、噂の声はなおも細い糸で教室の端をつなぐ。
凪は注意深く耳を避難させていたが、ふとした瞬間に引っかかる音があった。
「事故った車、けっこうヤバかったんだって」
「聞いた。ガードレールにさ」
「声出ないって、むしろ楽じゃない? 授業サボれるし」
「やめなよ」
「でもかわいそうアピール上手いよね、男子とかすぐ守りたくなるやつ」
ギザギザの黒に、薄汚れた黄色が混ざる。馬鹿にした笑いの色。
凪の胃のあたりに、熱い波が立った。
四拍の呼吸が崩れる。
視界の端でテスト管が光り、心音が増幅する。
朝倉の恋の音、由井の焦りの音、綾香の嫉妬の音、林の疲労の音。
全部が同時に鳴り出す。
隠していたメトロノームが机の上で転がり落ちたみたいに、拍が散った。
息が、入らない。
肩に力が入る。
喉が怒ったみたいに狭くなる。
凪は机の角を握った。
目の前の理科準備室のドアが、歪む。
嫌な汗が背中に滲み、「大丈夫?」という由井の声が遠くなる。
そのとき、紙が凪の視界に滑り込んだ。
水色の付箋。
丸。青い縁取り。
差し出したのは澪だ。
彼女は何も言わない。ただ、丸を、凪の机の中央に貼る。
丸の中心が、針のように鋭くなって、凪の胸の奥に静かに触れた。
三拍吸って、二拍止めて、四拍吐く。
凪は、丸に呼吸を合わせた。
丸は膨らんで、しぼむ。
しぼむとき、余分なノイズを飲み込んで、透明になっていく。
澪は凪の視界の端で、こくりと頷いた。
目の奥で、金色が瞬く。
その金色は、現実の音ではない。
でも、確かに効く。
凪の中の騒音が徐々に後退し、教室の声は輪郭だけになる。
実験の説明が終わる。
凪はテスト管を持ち直し、ビーカーへ注いだ。
手はまだ少し震える。
澪は、しずかにスケッチブックを開いた。
新しいページに、凪の心音を描き始める。
今日の、乱れた拍。
乱れの、収束。
波の始まりと終わり。
つながる線。
やがて、紙の上に落ち着いた三本のラインが並んだ。
一番上は、朝の高い波。
真ん中は、噂の増幅。
一番下は、丸の呼吸で整った拍。
澪はペンを置き、えんぴつでやわらかく影を足して、線に深さを与えた。
あなたの音、きれいだね。
乱れても、戻るから。
戻る音は、強い音。
凪は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
誰かに、自分の音を「きれい」と言われたのは、生まれて初めてだ。
それは、心臓の左側じゃなく、中心に効く。
丸の場所に、響く。
◇
放課後。
音楽室は今日、先客で埋まっていた。合唱部が発声練習をしている。ドアを閉めた瞬間、腹から出す声の塊が廊下へ飛び出してきて、壁に跳ね返った。
凪は思わず後ずさった。
合唱部の声は嫌いじゃない。けれど人数の多さは、ノイズと同じ増幅装置になる。
澪が袖を引いた。
階段を上がり、理科準備室のさらに上の空き教室へ。
古い机が並び、窓の鍵は片方折れている。埃っぽい匂い。
澪は迷わず窓を少しだけ開け、風の通り道を作った。
透明の穴に、風を通すみたいに。
凪は机をひとつ引き寄せ、向かい合って座った。
澪はスケッチブックを開く。
今日描いた波形とは別に、白いページを見つめたまま動かない。
凪は一度、深呼吸をした。
「澪の、噂を止めたい」
口に出した瞬間、心音が少し跳ねた。
本音はいつだって鮮やかだ。
澪は首を横に振った。
紙に、短く。
止めなくていい。
噂は、音。
風で流れる。
凪は、唇を噛んだ。
正しさに、反射で逆らいたくなる瞬間がある。
けれど、澪の無音は正しさよりも先に届く。
流れない噂は、腐る。
流れる噂は、ただの泡になる。
「じゃあ、僕らのことは、秘密のままで」
凪は微笑んで言った。
「君が無音で、僕が聞きすぎる、ってこと。全部、秘密のままで」
澪は頷き、ページに丸を描いた。
丸は、今日いちばんの濃い青で縁取られた。
その丸の外側に、点々。
覗き見の黒い点だ。
澪は点の上から、鉛筆で薄く風を描き足す。横に、短い線。
点は、形を失って、ただの薄灰色に変わった。
凪は笑って、指で机の上に四拍を打った。
今度は、その拍に合わせて、澪が指先で机を二拍、とんとんと叩いた。
二拍の止め。
凪の息がぴたりと合う。
合ったところで、教室の外の階段から足音が近づいた。
由井だった。
扉を開けかけて、二人の顔を見て、少し驚いたみたいに目を丸くした。
「ごめん。実験のプリント、返してなくて。あ、ここ、使ってる?」
凪は首を振った。「どうぞ」
由井の心音は、相変わらず調律が良い。規則正しいけれど、ほんの少しだけ速い。
仕事を忘れていた不規則に、本人が驚いている速さだ。
澪はスケッチブックを伏せ、ペンをしまった。
由井は二人の顔を交互に見て、にこりと笑った。
「最近、屋上いるよね、二人」
「まあ」
「いいね。風、気持ちいいもんね。……あのさ、転入生のこと、いろいろ言う人いるけど、気にしないでね。林先生にも言っとくから」
由井の声に、ギザギザは混じっていない。
凪は安心して頷いた。
澪も、礼をするように小さく頭を下げる。
由井が去り、扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかると、空き教室は再び風だけになった。
澪はスケッチブックの角をつまみ、さっき描いた丸に指でそっと触れた。
青の縁取りが、指に宿って、淡く光った気がした。
◇
帰り道、商店街のアーケードの下で、凪のスマホが震えた。
差出人の名前はない。
添付の画像が一枚。
白い紙に描かれた心臓の形。
中央の丸から伸びる、薄い青の線。
その下に、文字。
あんたの音、きれいだね。
だから、うるさい日は、見せて。
わたし、描くから。
描いたら、静かになる。
足元で、雀が二羽跳ねた。
ガチャガチャ、と隣の店先でガシャポンを回す子どもの笑い声が転げる。
それらの音が、いつもより遠い。
凪は目を閉じ、息をひとつ吸った。
丸を、思い浮かべる。
胸の中央に、青い縁取り。
その丸に、今日描かれた線を重ねる。
線は、揺れても、中心へ戻る。
返信の文字を打つ。
ありがとう。
明日、また屋上で。
丸。
送信すると、すぐに既読がついた。
水色の付箋のスタンプがひとつ返ってくる。
丸に、金色の点が一粒。
澪の笑いの重さ。
耳の奥で、月の色の音が、やわらかく鳴った。
◇
夜。
布団に横たわっても、今日の教室の色と音が薄く残像を残す。
凪は天井を見つめ、四拍で呼吸する。
そこでふと、朝の落書きを思い出した。転入生情報。
誰かが描いたその文字は、子どもの悪戯のように軽く、けれど意地悪の重さを持っていた。
消しておくべきだったかもしれない。
でも、消すより風を通す方が、きれいに流れる。
澪はそう言った。
風だけ通る穴。
その穴が、教室のどこかに開いていれば、噂は泡になる。
スマホが小さく光る。
由井からのクラス連絡。明日の掃除分担の変更。
短い文の後ろに、一行添えられていた。
音楽室、明日は合唱部が早退。空いてます。
凪は小さく笑った。
由井の調律のよい心音が、文字の向こう側でかすかに響く。
明日は、あの部屋で。
澪の無音に、ピアノの音を重ねられる。
重ねた音は、静けさを濁さない。
あの人の静けさは、音を拒むのではなく、音を選ぶ。
選ばれた音は、きっと、きれいに鳴る。
目を閉じる。
眠りの手前、凪は胸の中央に丸を描くイメージをもう一度たどった。
青い縁取り。
風の道。
今日描かれた自分の心音のスケッチ。
そこに、最後に短く一本、細い線を足す。
秘密の線。
秘密は、音のかたちをしている。
それは、澪と共有するための、合図になる。
明日は、心臓のない日ではない。
心臓の音を、形にする日だ。
凪は、金色の粉をひと粒思い出しながら眠りへ落ちた。
遠くで、月色の音が、もう一度だけ鳴った。
それは、たしかに、きれいだった。




