第12話 静けさの果てで
卒業式の朝は、空気の粒が少しだけ軽かった。前夜に降った雨がどこかへ吸い込まれて、街全体が洗い直されたみたいな色をしている。校門の前には花のアーチ。白い布が風で揺れ、その向こうに、何度も通った昇降口が見えた。凪は胸ポケットに小さな紙を忍ばせて歩く。紙には、青い丸と金の点が一つ。澪が「第二部」の最初の日に描いて、凪に手渡してくれたものだ。
体育館の扉をくぐると、冷えた空気がすっと頬に当たった。床のワックスの匂いと、折り畳み椅子の金属の匂い。舞台の上には校旗と紅白幕。ピアノは舞台袖に半分隠れていて、黒い天板に光が薄く走る。凪は指定された席に腰を下ろし、周囲のざわめきに耳を澄ませた。咳払い、制服の布が擦れる音、誰かの小さな笑い声。どれも、もう普通の音として聞こえる。
澪は前のブロックの端に座っている。真新しいリボンが胸で光り、髪はいつもより少しだけ丁寧にまとめてある。振り返った彼女が、目で「おはよう」と言った。凪は口を動かさずに、指で小さな輪を作ってみせる。彼女も輪を作り、輪の内側に空白を残す。同じ仕草を、二人だけの合図として何度も繰り返してきた。今日もそれで足りる。
入場の行進が始まると、体育館の空気がすっと張った。吹奏楽部の演奏が鳴り、トランペットの明るい音が天井に跳ね返る。ステージ袖で、ピアノの蓋が静かに持ち上がるのが見えた。伴奏の和音は柔らかく、音の端を丸くしている。凪は鍵盤の白と黒の並びを見ながら、あの旧校舎の弦の手触りを思い出した。直接触れて鳴らした夜が、もう遠い。
校長の式辞は淡々としていて、ところどころに具体的な言葉が混じる。「この学校で過ごした時間は、皆さんの手の中に、思っているよりも多くの音を残しているはずです」。その一節に、凪は少しだけ笑った。校長がこちらの事情を知っているわけではない。それでも、古い木が音を覚えるように、人の時間も音を覚えるのだろう。
卒業証書の授与が始まり、名前が一人ずつ呼ばれる。凪の番が来る。舞台を上がる足取りは落ち着いている。教頭から紙を受け取り、礼をする。観客席のどこかで拍手が重なり、小さなうねりを作る。うねりの中心に、澪の掌の温度の記憶が立ち上がる。音は聞こえないのに、そこに在るとわかる。
席に戻ると、在校生代表の送辞が続いた。言葉には若い真面目さがあって、真っ直ぐすぎる表現が時々つまずく。凪はそれを、少し誇らしい気持ちで聞いた。「先輩方の背中を追いかけてきました。これからは、自分たちの歩幅で歩きます」。そうだ、歩幅は自分で決める。装置に合わせる歩幅は、もういらない。
答辞は、学年代表の女子が務めた。澪ではない。彼女はステージの下手、合唱の列の先頭に立っている。卒業生合唱の前奏が流れ出す。凪は背筋を正し、澪に目を送った。彼女は小さく首を振るでもない、頷くでもない、ただいつもの目でこちらを見た。
曲は、卒業式の定番だった。誰もが一度は歌ったことのある旋律。凪は口を開き、低めのパートで音を拾う。斜め前で澪も口を開ける。彼女の声はまだ細く、音程も不安定だ。それでも、昨日までより少し長く、安定した音が続く。体育館の高い天井は優しい。ざらつきやひび割れを受け止め、角の尖りを丸く返す。
歌詞の二番に入ったとき、澪の喉が一瞬つまずいた。隣の子が視線を寄せる。澪は慌てず、一度口を閉じてから、次の行でまた声を乗せる。乗せ方を知っている。勢いで押し切るのではなく、空いた場所を選んで差し込む。凪は自分の声を少しだけ薄め、彼女の音が埋もれない隙間を作った。合唱は前へ進み、曲が終わる。拍手が長く続いた。
式が終わる頃には、体育館の光が少し傾いていた。退場の音楽が流れ、列が動き出す。出口に向かう途中、澪が振り返って目を合わせた。歩く列の速度が違うのに、同じ歩幅を見つけるのは簡単だった。廊下に出ると、花の匂いが流れ込んでくる。クラスメイトたちが写真を撮り合い、先生に駆け寄って手紙を渡す。由井が遠くから手を振った。
「後で、音楽室で。最後に挨拶だって」
凪が頷くと、由井は指で輪を作り、すぐ通りすがりの後輩に呼ばれて消えた。澪はノートを開かない。彼女は喉に手を置き、軽くうなずく。それで十分だった。
教室に戻ると、黒板に「卒業おめでとう」と太いチョークで書かれていて、その周りに色チョークでメッセージが溢れている。「ありがとう」「また会おう」「忘れない」。机の上にはクラスメイトからの寄せ書き。林が笑いながら各席を回り、最後に教壇に立った。
「みんな、よくここまで来たね。立派な言葉は他の先生たちが言ってくれたから、私は短く。自分の音の選び方を忘れないで。それだけで、たいていの失敗はやり直せる」
林はそれだけ言うと手を叩いた。自由解散。教室の空気が一気に軽くなる。凪は寄せ書きに名前を書き、机の中を空にする。澪は後ろの席で友達に囲まれていた。声で話すのはまだ短いフレーズだけだけれど、彼女は笑うときは声を使うようになった。「ありがと」「あとでね」「おめでとう」。その短い言葉のどれもが、凪の耳に届いた。
十分後、音楽室に集まったのは、クラスの半分くらいだった。ピアノの蓋は開いたまま。壁の譜面立てには、使い込まれた楽譜が挟まっている。林が「最後に一曲いこうか」と言うと、誰かが「先生が弾いて」と手を挙げた。林は笑って断り、目で凪を指した。
「伴奏は彼に頼もう」
驚いた顔がこちらを向く。凪は肩をすくめ、ピアノの前に座った。指を鍵盤に置く。何を弾くかは、もう決めてある。旧校舎で二人だけのために鳴らした、言葉のない短い旋律。今日のために、ほんの少しだけ形を整えた。左手で低めの音をゆっくり刻み、右手で薄い光を重ねる。音は静かに広がって、部屋の隅に座る子の肩に触れ、窓に映る白い雲に触れ、楽器の木に触れる。
澪は最前列に立った。歌うわけではない。彼女は目を閉じ、ただ聴いている。その姿を見ているだけで、凪は今日がどういう日なのかもう一度理解できる。終わりではなく、区切り。区切りの線は、思ったより薄い。足で越えたときにかかる力よりも、背筋で越える力の方が大きい。
演奏が終わると、拍手が起きた。由井が「短いのがずるい」と笑い、澪が小声で「よかった」と言った。凪は立ち上がり、椅子を元に戻す。黒い天板に手を置き、すこし長めに礼をした。楽器に礼を言うのが、決まりみたいになっていた。
「さて」と林が言う。「ここからは、それぞれの次へ。困ったら学校に来なさい。困ってなくても来なさい。古い木は、まだ君たちの音を覚えてる」
みんなが散っていく。写真を撮る者、泣きながら抱き合う者、笑って次の予定を話す者。それぞれの音が混ざり合って、音楽室はいつもより賑やかだ。凪と澪は最後に残り、譜面台を揃え、椅子を整える。澪はスケッチブックの最終ページを開き、小さな丸を描いて金の点を置いた。二人で同時に覗き込む。
「第三部は、あるのかな」
「あるに決まってる」
「タイトルは」
「決めない。歩きながら決める」
「うるさい」
「そうだよ」
二人で笑った。その笑い声を、古い木がまた覚える。凪はピアノの背板にそっと触れた。旧校舎のピアノとは違う手触りだが、ここも十分に古く、柔らかい。澪が指を伸ばして同じ場所に触れる。二人の指先が触れ合って、すぐに離れる。十分だった。
音楽室を出ると、廊下の風が少し強くなっていた。屋外に出ると、校庭の白線の上を子どもが走り、先生たちの笑い声が交差する。卒業式の片付けが着々と進み、紅白幕が外されて畳まれていく。スピーカーからは軽いBGM。ドラムのリズムが早口で、ベースが速足で歩く。凪と澪は校舎の影を踏みながら、グラウンドの端をゆっくり歩いた。
「研究室の撤去、どうなったかな」と凪が言う。
「さっき、先生が『ログは押さえた』って言ってた。ニュースには多分、出ない。でも、残るべき人の手には残る」
「名前も、いつか出る」
「出なくても、わたしは、あの夜に返してもらった。あんたも、返してくれた」
「うん」
風が強まって、校庭の砂が薄く舞った。遠くで子どもがくしゃみをし、先生が「大丈夫?」と声をかける。澪は空を見上げ、手で日差しを遮った。雲が薄く流れていく。飛行機の線は、今日は見えない。
「他人の心音、もう本当に聞こえない?」と澪が尋ねる。
「聞こえない。驚くくらい」
「寂しい?」
「少しね。でも、楽でもある」
「わたしは、逆。全部は拾わないけど、拾おうと思えば拾える。選べるのは、怖くない」
「選べるって、いい」
「うん。うるさいけど」
「ありがとう」
「なにが」
「うるさいって、言ってくれるから」
澪が笑って、肩をすくめた。二人で校庭を横切り、桜の木の下に立つ。つぼみはまだ硬いが、枝の先の色がごく薄く変わっている。卒業式の日に満開ではないのが、この学校らしい。少し遅れてやってくるもののために準備された場所だと思うと、悪くない。
正門の方へ歩くと、保護者たちの集団の中に林の姿が見えた。林は軽く手を振り、近づいてきた。
「おめでとう。二人とも」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
澪が短く言う。林は頷き、声を落として続けた。
「君たちの話は、学校としてきちんと整理して、必要なところとだけ共有する。世の中に向けて大きく言うことが正解じゃない場合もある。けれど、忘れられないでいることは、とても大事だ。ここに残る音と、君たちの中に残る音。どちらも嘘じゃない」
「はい」
「それから、君たちの今後のこと。音楽室は、卒業しても使っていいよ。鍵は用務員室で借りなさい。予約は必要だけど、空いていれば、いつでも」
澪が目を見張った。「ほんと?」
「ほんと。古い木が喜ぶ」
林は笑い、保護者の方へ戻っていった。凪と澪は顔を見合わせる。
「第三部の練習場所、確保」
「うるさい」
「よかった」
正門を出ると、街の音が一段上がった。車が走り、バスが停まり、子どもが叫び、自転車がベルを鳴らす。どれも、耳に入ってきて終わるだけの、普通の音だ。普通であり続けることには、たぶん強さがいる。凪は胸ポケットの紙を軽く押さえ、歩幅を澪に合わせた。
「寄り道する?」
「ドーナツ?」
「当然」
「うるさい」
商店街の角の店は、いつもより混んでいた。卒業生が制服のまま袋を提げ、子どもがガラス越しに揚げたてを覗く。凪と澪は列に並び、好きな種類を二つずつ選んだ。外のベンチに腰掛け、袋を開ける。砂糖が指に付いて、太陽で溶ける。澪が一口かじり、目を細めた。
「甘い」
「知ってる」
「うるさい」
「これ、合図みたいになってるな」
「便利」
二人で笑って、もう一口ずつ食べる。噛むたびに外のざわめきが近づいたり遠ざかったりする。音が一定でないのは、誰かが何かをしている証拠だ。誰かの笑い声が弾けて、すぐに消える。その残り香が、意外と長く空気に留まる。
しばらくして、澪が空を見上げた。薄い雲が切れて、青が広がる。彼女は短く言った。
「ねえ」
「ん」
「今日、終わりじゃないって、ちゃんと言おう」
「言おう」
「どこで言う?」
「ここで」
「うるさい」
澪は袋をたたみ、指先で膝をなぞった。それから、顔を上げる。喉に手を置き、ゆっくり息を整える。彼女の声は、もう以前の無音の人ではない。短い言葉を、短い息で運ぶ術を覚えた人の声だ。
「ありがとう。……ずっと、そばにいてくれて」
凪は照れ隠しに空を見上げ、指で太陽の位置を測るふりをした。言葉を選ばずに返す。
「こちらこそ。……うるさい声で、いつも助かってる」
「ひどい」
「褒めてる」
「知ってる」
二人でまた笑い、ベンチから立ち上がった。学校へ戻るわけでも、どこかへ急ぐわけでもない。家路は同じ方向だが、途中で分かれる。曲がり角までの短い距離を、凪はゆっくり歩いた。澪は隣で、同じ歩幅で歩いた。
通りの風が強くなり、看板がカタカタと鳴る。遠くの工事現場から、ハンマーの音が響いてくる。世界はうるさくて、少し静かで、時々無音を装う。凪はその全部を、今は許せる気がした。許せるのは、何かに勝ったからではない。選べるからだ。
曲がり角に着く。澪が立ち止まり、指で輪を作る。凪も輪を作って重ねる。輪の内側は空白のまま。そこに、今日のすべてを置く。
凪は空を見上げて言った。
「音があっても、なくても、僕らは生きてる」
澪が答える。
「だって、心は鳴り止まないから」
二人は同時に笑い、反対の方向へ歩き出した。風の音が背中を押し、街のざわめきが前から迎える。古い木の記憶は校舎に残り、紙の丸は胸ポケットに残り、短い声は耳の奥に残る。どれも、同じように確かだ。どれも、これからの生活の音になる。
凪はふいに振り返った。澪も振り返って、手を振った。声は出さない。合図は十分。次に会う場所は決めていないが、迷う気がしなかった。歩きながら、第三部の最初の一行がどこかで書かれ始めている。タイトルは、まだない。
<おわり>




