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硝子の心臓はまだ鳴っている  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環


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第1話 音のない転入生

 ピアノの蓋が静かに閉じられた。

 放課後の音楽室には、薄い西日の粒が漂っている。窓の外から運動部の掛け声が遠く響き、風が譜面台の紙を一枚めくった。

 凪は、鍵盤の上に置いた手をそのまま止める。

 心臓の鼓動が、胸の内側でひとつ強く鳴った。だが彼が聞いているのは、自分の音ではない。


 ――校庭の男子の息遣い。

 ――廊下を走る誰かの心音。

 ――音楽準備室で、誰かがページをめくる音。

 

 全てが、心の中に響く。

 他人の鼓動。感情のリズム。

 それが、凪の“聴覚”だった。


 初めて気づいたのは、小学三年のころ。担任の先生が笑っているのに、心の音は泣いていた。

 それ以来、凪は“聞こえすぎる”世界から距離を取るようになった。誰かと話せば、その裏側がすぐに聞こえてしまう。嘘や不安、嫉妬や恋。人の数だけ雑音がある。

 だから、静かな場所に逃げるようになった。

 音楽室は、唯一「自分の音」だけを確かめられる場所だ。


 凪は立ち上がり、ピアノの蓋を閉じた。響いた微かな「カシャン」という音が、今日の幕を下ろす合図だった。


 


 翌朝。春の空はまだ少し白く霞んでいて、桜の花びらが昇降口に溜まっていた。

 教室のドアを開けると、ざわめきが耳を満たす。

 クラス替え初日の独特の騒がしさ。新しいグループ、まだ慣れない笑い声。

 そして、ひとつの鼓動が際立って響く。

 緊張。期待。見栄。羨望。

 それらが混ざり合って、教室全体がひとつの“オーケストラ”のようだった。


「今日から転入生が来ます」

 担任の声に、全員がざわつきを止める。

 扉が開いた。


 入ってきたのは、黒髪の少女だった。

 肩までの髪が光を吸い、風のようにゆれる。制服の袖からのぞく手首は細く、白い。

 だが、それよりも――凪は息を飲んだ。


 音が、ない。

 教室に入ってきたその瞬間、凪の世界から“心音”がひとつ消えた。


 彼女の名は、澪。

 黒板に先生が書いた文字を見て、クラスがざわめく。

 澪は軽く会釈をして、手にしていたノートを開いた。そこに細いペン字で書かれた一文を見せる。


 『初めまして。声が出せません。よろしくお願いします』


 ざわめきが少し止み、次の瞬間、好奇心の波が押し寄せた。

 「え、声出ないって?」「病気なのかな」「めっちゃ字きれいじゃん」

 誰かがひそひそと言うたび、凪の耳の奥では無数の鼓動が弾ける。

 だが、澪の周囲だけは――まるで真空のように静まり返っていた。


 


 席は凪の隣だった。

 先生の指示で、澪は静かに歩いてくる。机を引く音、椅子の軋み、そのすべてが淡い。

 凪は少し身を固くする。

 彼女の心の中には、何の音もなかった。鼓動がない。感情のリズムもない。まるで、そこに“心”という楽器が存在していないみたいに。


 ――怖い。


 それが最初の感情だった。

 人間であるなら、怒りも悲しみも必ず音に現れる。それが一切ないというのは、“生きていない”のと同じだ。

 でも、澪は確かにそこにいた。

 窓からの光を受けて、ノートに何かを書いている。筆圧の強さが微妙に変わり、真面目に聞いていることがわかる。

 静寂の中に、凪だけが「沈黙の旋律」を感じ取っていた。


 


 昼休み。

 澪は一人で屋上の隅に座っていた。風が髪を揺らし、スカートの裾がふわりと浮く。

 凪は弁当を持ったまま、なんとなく足が屋上に向かっていた。


「……ここ、座っていい?」

 澪が顔を上げる。目は灰色に近い淡い色をしていて、どこか遠くを見ているようだった。

 彼女はノートを開いて、さらさらと書いた。


 『いいよ』


 短い文字。でも、それだけで風景がやわらぐ。

 凪は少し離れた位置に腰を下ろし、箸を開く。

 遠くでカラスの声がした。

 そしてまた、無音。

 澪の心は、何も鳴らさない。


「声、出せないんだって?」

 澪は小さくうなずく。ノートにまた文字が浮かぶ。


 『生まれつきじゃない。去年から、出なくなったの』

 『事故、って言うのかな』


 凪は箸を止めた。

 その一文に、わずかな震えがあった。

 だが、音はない。恐怖も悲しみも、怒りも――一切、聞こえない。


「……それ、怖くないの?」

 彼女は首を傾げる。『何が?』と書く。

 「その、何も……感じてないみたいに見えるから」

 澪は少し考え、ペンを置いた。

 そして空を見上げて、微笑む。


 ――その瞬間、風が止まった。

 まるで、世界が息を呑んだように。

 凪は胸がざわつくのを感じた。

 “音のない鼓動”が、確かにそこにある。

 耳には聞こえないのに、心の奥で何かが震えた。


 


 放課後。音楽室に戻る。

 ピアノを弾くつもりはなかった。ただ、澪の“静けさ”が気になって仕方なかった。

 凪が椅子に座ると、扉の向こうから靴音が近づく。

 振り向くと、澪が立っていた。


「ここ、入ってもいい?」

 筆談。凪は頷く。

 澪は鍵盤の前に座り、指を置いた。

 その動作はためらいがなく、美しかった。

 次の瞬間――音が生まれる。


 優しい、けれど深い。

 波のような旋律。

 どこかで聞いたことがあるようで、どこにもない。

 彼女の指が動くたび、凪の胸の奥で“心音”が消えていく。


 ――聴こえない。


 ピアノの音は確かに鳴っているのに、心が何も受け取らない。

 世界から一瞬、音そのものが奪われた気がした。

 澪の横顔は淡く光に照らされ、まるで別の次元にいるようだった。


 最後の音が消える。

 沈黙。

 凪は何かを言おうとして、言葉を失う。

 そのかわり、澪がノートに書いた。


 『この曲のタイトル、わからないの』

 『でも、私の中ではずっと鳴ってるの』


 凪は小さく頷いた。

 「……それ、きっと“あなたの心音”だよ」


 澪が驚いたように目を見開く。

 その瞬間、かすかに――本当にかすかに――凪の耳に“ひとつの音”が届いた。

 遠くから響く鈴のような音。

 それは、澪の胸の奥から聞こえた。


 “トクン”。


 たった一拍の鼓動。

 それを確かに、凪は聞いた。


 


 その夜、凪は自室のベッドで目を開けていた。

 頭の中で何度も澪の旋律が反芻される。

 静かで、透明で、消えそうで――でも確かに存在している音。

 「聞こえない人間」だと思っていた少女に、凪は初めて“音”を感じた。


 窓の外では春の雨が降り始めていた。

 規則的な雨音が心臓のリズムを真似るように続く。

 凪は目を閉じる。

 遠く、あのピアノの旋律がまた聞こえた気がした。

 澪の“無音”が、世界のどこかで共鳴している。


 


 ――翌日。


 教室に入ると、澪は既に席にいた。

 ノートの隅に小さく「おはよう」と書いて、凪に見せる。

 凪は微笑んで、頷いた。

 その瞬間、ほんの一瞬だけ――澪の心が音を鳴らした。


 それは、確かに聞こえた。

 淡く、やさしい“音の始まり”だった。

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