鞄
駅の改札を抜ける時必ず、肩に掛けた鞄の同じところを擦っている。十数年同じところを同じように擦っていると結果は見えている様なものだ。でも、その傷だらけの鞄は私のお気に入り、ワインレッドに染められた牛革のビジネスバッグはそこら辺には売ってはいない。結婚した時、旦那が就職祝いに、職人さんに依頼した注文品で、それ一品しかこの世に存在しない物だった。
傷をクレヨンで補修したりしてだましだまし使っていたが、とうとう穴が開いてしまった。私のへビィローテーションのおかげで、皮もくたくたになっている。
男性が使う鞄のようにカチッとした四角い鞄ではなく、少し曲線を帯びた台形をしていて、手提げの部分が長く肩に掛けることが出来る。A3サイズのファイルが入るという大きさだが、丸みを帯びたデザインが、それを感じさせない。
『どうしようか』
私は哀れな姿になった鞄を目の前にして、ため息をついた。
前の旦那に聞いたその鞄の作り手は京都にいた。電話してみたが、『・・・現在使われておりません・・・』というアナウンスが空しく流れる。
私は住所を頼りに、その場所に訪ねて行く事にした。
四条河原町で阪急電車を降り、京阪に乗り換え、鴨川沿いの景色を眺めながら出町柳まで。
貰っていた住所を頼りに十分ほど歩いたところにその家はあった。表には「乾鞄」とだけ小さな看板があった。普通の木造家屋で玄関は格子戸になっており、うす暗い石畳の土間の奥が覗けた。私はその格子戸の前に立ち、
「ごめん下さい」
と声を掛けた。何も返事が無い。もう一度大きな声を出して呼びかけてみた。しばらくして奥から足音が聞こえてきた。格子戸を開けてくれたのは、30代半ばと思われる男性だった。
「あのこの鞄なんですが・・・」
と言いながら、私は持ってきた大きな紙袋からその鞄を出して見せた。しばらくその鞄を吟味していた彼は、
「これは親父の作ったもんです」
と言った。
「お父様の作品だったんですね。良かった。これ、修理は可能でしょうか」
と、安堵の気持ちを込めて、私は言った。
しばらく黙っていた彼は、
「親父は五年前に亡くなりました」
と申し訳なさそうに言った。私は
「えっ、それは・・・・・ご愁傷様です」
とかろうじてお悔やみの言葉を言うのが精一杯だった。
五年前、この鞄を作った彼の父親はこの家で独り、息を引き取った。その二年前に彼の母親である奥さんを亡くし、彼の勧めを断わって独りで暮らしていた時のことだったそうだ。彼が一週間振りに覗くと、仕事場で倒れていた。脳溢血だったらしい。
また、じっくりと鞄を見ていた彼が言った。
「僕が修理させて頂いても良いでしょうか?親父の仕事場を使って僕が鞄の製作をしています。まだ一年と少ししか経ちませんが」
彼は、一年ほど前に、この実家に戻って来て、父親の仕事を引き継いでやろうと思ったのだそうだ。
「こんなになるまで使っていただいたうえに、修理して使いたい、とおっしゃる。親父が生きてたら、きっと喜んでいたでしょう。是非、僕に修理させて下さい」
彼の気持ちは十分に私にも伝わった。私は彼に修理を依頼した。
「鞄、出来上がっております」
という連絡があったのは、あれから一月近く経った頃だっただろうか。宅急便で送りましょうか、というのを断わって、私は引き取りに行く事にした。
その家の格子戸の前で、「ごめん下さい」と声を掛けると、すぐに女の人が出てきた。
「あのー、飯田と言いますが、鞄の修理が出来たと聞いてきましたが・・・・・」
「あっ、はい、すぐに主人を呼びます」
そう言って、その女性は、小走りに奥に引っ込み「あなたー、女神様がいらしたわよ~」と言っているのが聞こえた。
鞄の修理を依頼した彼は、油紙に包まれた鞄を持って、すぐに現れた。鞄はまるで新品のようになっていた。
「すごい。とても素敵だわ。ありがとうございます」
「いえ、大変勉強させて頂きました。こちらこそありがとうございます」
「さっき、奥様が女神さま、て言ってらしたけど、それって私のことかしら」
どうしようかと考えているように黙っている彼の横で、奥さんが口を開いた。
「すみませんね唐突に変な事を言って。先日この鞄の修理を依頼されてから、主人はものすごくやる気が出たんだそうです。それまでこんな手作りの鞄が世の中に受け入れられるか、自分でも半信半疑なところがあったのに、このお父さんの鞄を見て、発奮したんですよ。おまけに、あれからどんどんと注文が飛び込んできて、烏丸にあるお店にうちの鞄を置いてもらえる事にもなったんです。だから、お客さんは幸運の女神様だって主人は言うんです。こんなお綺麗な方だとは私も知りませんでした。確かにお客様は女神様ですね、主人が言うのも無理ないと思いました」
無口な彼を補うには十分な奥さんの話に、私は納得した。
注文が入ってきたのは偶然だとしても、彼の父親の仕事が、彼自身を発奮させた事は確かなんだろう。前回来た時に較べて、目の輝きが違って見えたのは、私の錯覚ではないと思った。
今朝も、ワインレッドの鞄は、私の左肩に掛かり、揺れている。
この新しく蘇った鞄と共に、自分がリセットされたことに感謝している。
by 杏子