表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

鏡の迷宮のアリス

作者: 瑞原唯子

 アリスの世界は、この白い部屋の中がすべてだった。


 窓もなく、天井から床まで無機質な白で覆われた一室。しかしそこには木製のベッドやテーブルが置かれ、ふわふわのラグが敷かれ、たくさんのぬいぐるみもあり、幼い少女の部屋にふさわしいかわいらしさがあった。

 アリスは一度もここから出たことがない。

 なぜなら病気のせいでここでしか生きられないからだ。ただ、この部屋にいるかぎりは何の問題もない。毎日とても元気にごはんを食べているし、走りまわったり飛び跳ねたりもしているし、勉強もたくさんしていた。

「さあ、そろそろ授業を始めましょう」

「はぁい」

 先生はミズ・プリケットという痩せた中年女性である。吊り目なうえ顎や鼻のとがったきつい顔立ちで、その印象どおり冷たく厳しいところはあるのだが、意地悪ではない。だから授業も嫌いではなかった。

 そもそも勉強は楽しい。

 文字を知ることでどんどんと本が読めるようになり、そこからさまざまな知識を得て、先生にもいろいろと教えてもらい、ときにはとりとめのない雑談もして、日々ぐんぐんと思考が広がっていくのを感じる。

 特に、外の世界のことには興味をひかれていた。

 遮るものもなくどこまでもつづく青空、キラキラと無数の光が鏤められた濃紺色の星空、遙か彼方まで塩水で満たされた青い海、天から降ってくる白くふわふわとした雪、広大な空を自由に飛びまわる鳥——。

 けれど、アリスがそれらの景色を実際に目にすることは叶わない。もっと小さかったころは見たいとワガママを言って困らせたこともあったが、いまはもう事情を理解しているので言えなくなってしまった。

 だから、本の知識や挿絵などから想像をふくらませて楽しんでいる。もしも憧れの景色が目の前にあるとしたら。そういったことを思い描きながらワクワクと胸を高鳴らせ、すこしだけせつなくなるのだ。

「あ、ルイス!!」

 ミズ・プリケットの授業中、アリスはガラス扉の向こうに男性の姿を見つけてパッと顔をかがやかせると、ぴょんと椅子から降りて駆け出した。出入口は二重扉になっていて居室側だけ全面ガラスの扉なのだ。

 男性はニッコリと満面の笑みを浮かべながら片手を上げて応じ、ガラス扉を押し開けて部屋に入ってくる。その扉も閉まらないうちにアリスは突進して彼の腰に抱きついた。

「ルイス会いたかった!!」

「ごめんね、なかなか時間が作れなくて」

「うん……大賢者様だもんね……」

 ルイスは、生後まもなく捨てられていたアリスを拾ってくれたひとだ。

 そして若くして大賢者と呼ばれるひとでもある。魔法と科学を融合させて人類文明に飛躍的な進化をもたらしたことで、たくさんのひとに知恵を求められて忙しくしているらしい。そんな彼のことをアリスは誇らしく思っていた。

 ただ、それゆえに一緒にいられる時間はあまり多くない。彼のことが大好きなだけに寂しくて、ひとりのときにひっそりと泣いたりもしているが、大切な仕事だとわかっているので彼のまえでは我慢している。けれど——。

「あとは僕が」

 ルイスがミズ・プリケットに片手を上げてそう言うと、彼女は一礼して下がった。

 彼はここに来るといつもこうして二人の時間を作ってくれて、甘えさせてくれるのだ。それがとてもうれしい。彼はアリスを抱き上げて、さきほどまでミズ・プリケットが座っていた椅子に腰を下ろす。

「君はどう過ごしていたのかな?」

「先にルイスのお話が聞きたいわ」

「ふふっ、仕方ないな」

 彼の膝にのせられて、彼の声を耳にして、彼の体温にくるまれて——彼の存在をたしかに感じながらくすくすと笑う。この部屋から出られなくても、この時間があるだけで心から幸せだと思うことができた。


「そろそろ来ないかなぁ」

 ルイスと会ってから一週間が過ぎた。ミズ・プリケットの授業も終わってしまったので、アリスは本を読み始めたが、気分が乗らなくて頬杖をつき足をぷらぷらとさせる。思わず口をついたひとりごとも元気がない。

 ガチャ。

 そんなときふと耳に届いたのは二重扉の奥側の扉が開く音だった。ルイスが来てくれたと信じて疑わなかったアリスは、パッと顔をかがやかせ、ぴょんと椅子から降りて駆け出そうとしたのだが——。

「え……わたし……?」

 そう思ってしまうくらい、アリスにそっくりな女の子がガラス扉の向こうに立っていた。年のころも、顔立ちも、色白の肌も、青緑の瞳も、腰まである緩いウェーブの金髪も、水色と白のエプロンドレスも——まるで鏡でも見ているかのように何もかもが同じである。

 お互い、唖然として見つめ合う。

 しばらくして先に我にかえったのはアリスだった。すこし緊張しながらガラス扉の前までトタトタと駆けていくと、その向こうに立ちつくしている女の子とガラス一枚を隔てて間近で向かい合う。彼女はアリスの気持ちを写したかのように怪訝な顔をしていた。

「あなたは誰なの?」

「あなたこそ誰なの?」

「わたしはアリスよ」

「わたしもアリスよ」

 困惑の表情がシンクロする。

 向こうのアリスが小さな手でそっとガラスに触れたかと思うと、じっとこちらを観察するように見つめる。アリスだけでなくその背後の部屋にも目を向けているようだ。

「もしかしてそっちは鏡の国なの?」

「鏡の、国……?」

「お部屋もわたしと同じなんだもの」

「鏡なんかじゃ……」

 そう答えかけて言葉に詰まる。

 もしかしてここから出られないのは鏡の中だから? ふいにそんな考えが頭をよぎって言いようのない不安が湧き上がる。もうひとりのアリスを見つめながら、吸い寄せられるようにガラスの向こうの彼女と手を合わせようとした、そのとき。

「アリス!!!」

 二重扉の向こうから、大賢者のローブを身にまとったルイスが飛び込んできた。

 短い黒髪を振り乱して、見たこともない焦った顔でアリスたちを見ている。どうしてそんな顔をしているの? この子は誰なの? アリスってどっちなの? ここは鏡の国なの? ねえルイス何か言って——。


「ん……ぅ……」

 目が覚めると、いつもの白い天井が視界に映った。

 やけに頭が重くてぼんやりとしているし、体もだるい。ベッドに手をついてどうにか体を起こしたところで、隣にルイスがいることに気付いた。いつもどおりの優しい笑みをたたえて椅子に座っている。

「体調はどう?」

 そう言いながら、大きな手をアリスの額に当ててきた。

 しかしアリスは何がどうしてこうなったのか思い出せない。記憶をたどろうとすると霞がかかったようになる。途方に暮れたような気持ちになりルイスに目を向けると、彼は手を下ろしてニッコリとした。

「もう熱は下がったようだね」

「熱……?」

 ぼんやりそう聞き返すと、ルイスは頷く。

「君はミズ・プリケットの授業中に高熱で倒れたそうだよ。僕は彼女から連絡を受けて慌てて仕事先から帰還したんだ。命に関わるようなものではなくてよかった」

 言われてみれば彼は大賢者のローブを身につけたままだった。髪もこころなしか乱れているように見える。そしてアリス自身も水色と白のエプロンドレスのままだった——そのとき、記憶の断片らしきものが脳裏によみがえる。

「もうひとりアリスがいた……ガラス扉を挟んで、まるで鏡を見ているみたいに何もかもおんなじで……」

「それって夢の話?」

 ルイスに不思議そうな顔をしながら覗き込まれて、アリスはパチパチと目を瞬かせる。現実の記憶だと思ったが、たしかに冷静になってみると夢のような気もする。アリスが二人もいるわけはないのだから。

「夢……だったのかも……」

「意識が朦朧としていたから、夢と現実がわからなくなったんじゃないかな。高熱を出したときなんかには間々あることだよ」

 物知りのルイスが言うならきっとそうなんだろう。アリスは素直にほっとした。つられるように彼もほっとしたような表情になる。

「他に気になってることはある?」

「ううん、もうすっきりしたわ」

「じゃあ一緒にお茶でも飲もうか」

「うん!」

「ふふっ、準備してくるよ」

 彼は椅子から立ち、大賢者のローブを揺らしてガラス扉の向こうに消えていく。

 それを目にした瞬間、さきほどの夢の断片がまた脳裏をよぎったが、アリスはふるふると頭を振って追い払い、ベッドから降りて軽やかな足取りでテーブルについた。


「君の病気は完治したよ」

 高熱を出してから数週間が過ぎたとある日、めずらしく早朝にルイスが来たかと思うと、いきなりそんなことを言い出した。しかしアリスには何のことだかわからなくて、こてんと首を傾げる。

「病気って?」

「ここでしか生きられない病気だよ」

「えっ……じゃあ…………」

「そう、ここから出られるんだ」

 たしかに病気だとは聞いていたけれど、このままずっと出られることはないのだと思い込んでいた。いや、実際にそんなようなことを言われたのではなかっただろうか。呆然とするアリスに、ルイスはふっとやわらかく目を細めて言葉を継ぐ。

「突然のことで驚かせてしまったみたいでごめんね。完治するかわからなかったから、期待を持たせるようなことは言わないようにしてたんだ。外に出るのは気持ちの整理がついてからで構わないよ」

「ううん、いま外に出たいわ」

 驚いただけで、完治したという話については微塵も疑っていない。大賢者であるルイスが間違うはずはないのだ。とはいえ外に出るのは初めてなので少し怖い気持ちもある。それを察してか、ルイスは優しく微笑みながらすっと手をさしのべた。

「行こう」

「うん」

 アリスが手をのせるとしっかりと包み込むように握られる。そのまま手を引かれながら流れるようにガラス扉を出て、その向こうの扉も出る。ためらう暇もなく気付けば連れ出されてしまっていた。

「ここは地下なんだ。階段を上がって地上に出るよ」

 薄明かりだけがついた何もない無機質な白い通路を進み、白い階段を上がり、白い扉を開けると——。

「…………?!」

 そこは見たこともないような明るい光に満ちていた。

 アリスは思わず目を眇め、そのまぶしさから庇うように手をかざしながら見まわす。

 広い部屋にはあまり物がなくガランとしていて、目立った家具は木製の大きなテーブルと椅子くらいだ。そして壁にはたくさんの大きなガラス窓がついていて、その向こうから白い光があふれてきているようだった。

「外が気になるみたいだね」

「あの扉の向こうが『外』なの?」

「そうだよ」

 ルイスは楽しげに笑いながらアリスの手を引いて駆け出し、扉を開けて飛び出した。その瞬間、目のくらむような強い光に包まれるのを感じて、驚いて反射的にギュッと目をつむってしまったが——。

「わ……ぁ……」

 再び目を開くと、流れ込んでくる情報量にアリスは言葉をなくした。

 想像なんか軽く超えていた。天井がないというのはこういうことなんだと初めて理解した。太陽の光がこんなに眩しいだなんて思いもしなかった。空や草花の鮮やかな色、頬をなでるひんやりとした風、肺を満たすさわやかな空気、鼻をかすめる様々なにおい、木々の葉が揺れてこすれる音、水が軽やかに流れる音、空を駆ける鳥の鳴き声、草を踏みしめる感触——何もかもが初めてで鮮烈だった。

「外はどう?」

 ルイスに尋ねられたが、この感動を言い表すことなどできそうになかった。ぽろぽろと涙だけがこぼれる。彼はハッと息を飲むが、すぐにやわらかく微笑んでアリスに寄り添うと、大きくてあたたかな手でそっと優しく頭をなでた。


「そうだ、新しい部屋に案内しないとね」

 アリスは時間を忘れるくらい外の景色にひたっていたが、やがてルイスに促されて家に戻ると思い出したようにそう言われた。彼に手を引かれながら一緒に螺旋階段を上っていく。

「ここが君の新しい部屋だよ」

「えっ?」

 白い扉を開けると、そこにはいままでとほとんど変わらない部屋があった。天井から床まで無機質な白で覆われており、テーブル、本棚、ベッドなどの配置もまったく同じである。ただ出入口は二重扉ではなかった。

 そっちは鏡の国なの——?

 いつか誰かに言われたことがぼんやりと脳裏によみがえる。そう、あれはガラス扉の向こうにいたもうひとりのアリスが、部屋が同じだからとそんなことを言い出して——でもそれはあくまで夢の話だ。

「中に入ってもいい?」

「もちろん」

 トトトっと軽やかに駆けていき、見てまわる。

 家具だけでなく、何もかも以前の部屋と同じものがそろえられていた。本棚に収められた本も、授業のための道具も、ふわふわのラグも、たくさんのぬいぐるみも、どれも見覚えのあるものばかりである。

 ただ真新しくはなかった。本はあきらかに表紙や角が擦れているし、テーブルにはいくつか傷がついているし、ラグもところどころ薄く変色している。しかし汚れ具合などが以前のとは違うので別物のようだ。

「ここ誰か使ってたの?」

「気に入らなかった?」

「あ、そうじゃなくて!」

 ルイスがほんのり悲しそうに顔を曇らせたのを目にして、アリスはあわてた。しかし彼は何も言わず、後ろで手を組んでゆっくりとアリスの隣まで足を進めると、そのままぐるりと部屋を見まわして言う。

「最初は環境の変化が少ないほうがいいと思ってね。なるべく以前と同じになるようにしておいたんだ。でも、これからはアリスの希望を聞いて一緒に変えていこう。君がこころよく過ごせるように」

「うん……!」

 このままでも不満はないが、アリスを大事にしてくれるその気持ちがうれしかった。隣に並んだルイスを見上げて満面の笑みで返事をすると、彼はどこか泣きそうにも見える曖昧な微笑を浮かべて跪き、アリスを抱きしめた。

「君はずっといい子でいてくれ……アリス……」

 その縋るような懇願に、アリスはすこし戸惑いながらもこくりと頷いた。


 それからアリスの地上生活が始まった。

 病気は治ったものの、危ないのでひとりで家から出ないよう言いつけられているため、日常の過ごし方はこれまでとあまり大きく変わっていない。ミズ・プリケットの授業を受けて、ごはんを食べて、ひとりで本を読んだりして過ごす、という感じである。

 ただ、ルイスと過ごす時間は増えた。

 朝と夜はだいたい一緒にごはんを食べるし、仕事の合間にはこまめに会いに来てくれたりもする。そして休日にはたびたび外に連れ出してくれるのだ。森を駆けまわったり、小川に足を浸したり、大海原を眺めたり、彼と一緒にさまざまな自然に触れて楽しんでいる。

「あのね、わたし街にも行ってみたいの」

「街か……」

 食事中、今度はどこへ行こうかという話になったので、アリスが希望を伝えると、ルイスはスプーンを持ったまま静かに考え込んでしまった。ほどなくして申し訳なさそうに微笑を浮かべながら答える。

「もうすこし大きくなってからにしようか」

「どうして? いまはダメなの?」

「人がたくさんいるし何かと危険も多いからね」

「そう……」

 物知りの彼が言うならきっとそうなのだろう。とても残念だが、ワガママを言って困らせるようなことはしたくなかった。いい子でいると約束したのだから。

「じゃあ、いつか連れて行ってね」

「ああ」

 そのときガチャッと音がした。

 振り向くと、地下へつづく白い扉から清掃係の女性が出てきたところだった。彼女はルイスに目礼し、足音を立てないよう気をつけながらそそくさと外に出て行く。裏にある使用人の住まいに戻ったのだろう。

「そういえば地下には何があるの?」

「研究施設だよ。仕事柄、秘密にしなければならないことも多々あってね。そういうものは念のため地下で行っているんだ。前にも言ったけど、危険なものもあるから決して入ってはいけないよ」

 念押しされて、アリスはハムとチーズをはさんだパンを食べながらこくりと頷く。

 ルイスや使用人がたびたび出入りしているので気になっていたが、話を聞いて納得する。たくさんの発明や発見をするには研究施設が必要だろうし、秘密にしなければならないこともあるのだろう。

「わたしがいた部屋はまだあるの?」

「いまは物置になってるかな」

 ルイスは肩をすくめた。

 ちょっと残念に思ったが、もうアリスが住むことはないのだから当然といえる。どのみち地下には行けないので、そのままにしてあったところで見られるわけでもない。アリスは気を取りなおして再びパンを口に運んだ。


「わあ、賑やかね!」

 アリスが地上で暮らすようになってから八年が過ぎ、十五歳になっていた。

 この日、ようやくルイスが念願の街に連れてきてくれたのだ。活気のある人混みも、舗装された広い道路も、立ち並ぶたくさんの店も、アリスにとっては何もかもが初めてで胸が高鳴っていた。

「アリス、迷子にならないように腕を組もうか」

「腕を組む?」

「ほら、あの二人のように腕を絡めるんだよ」

 ルイスの目線の先には、親しげに身を寄せながら腕を絡めて歩く若い男女がいた。それをお手本にルイスの腕をそっと抱き込むようにして見上げると、彼は満足そうにニッコリと笑みを浮かべた。

「行きたいところやしたいことはある?」

「カフェのテラス席でケーキを食べたいわ」

 小説で読んで、挿絵で見て、それはアリスのひそかな憧れとなっていた。もちろん向かいにはあたりまえのようにルイスがいてほしい。

「お安い御用だ」

 ルイスは眩しそうに笑って応じると、大通りをすこし歩いたところにあるカフェに行き、テラス席を希望して店員に案内してもらった。白い丸テーブルに向かい合わせで座る。空は穏やかに晴れ、暑くも寒くもなく、テラスに座るにはうってつけの日和といっていいだろう。

「お待たせしました」

 注文した品を、店員がそれぞれの前に置く。

 アリスが頼んだのは紅茶とチョコレートムースケーキだ。ときどきルイスがおみやげとして持ち帰ってくるチョコレートが大好きなので、その名のついたケーキに興味をひかれたのである。家ではマドレーヌやクッキーなどの焼き菓子しか出たことがなく、ケーキは見るのも初めてだった。

 白い皿に置かれたそれは、艶やかなチョコレートでまわりをコーティングされ、断面はいくつかの層になっていて見た目にも美しい。紅茶を一口飲み、ドキドキしながらケーキにフォークを入れて口に運ぶ。

「ん……!」

 感動のあまり目を見開いた。

 チョコレートとは思えないくらいやわらかくなめらかで、それでいて口の中いっぱいに華やかで濃厚なチョコレートの味が広がり、ほのかにオレンジの風味もある。層によって味も食感も異なり、それが複雑で奥深い味わいにつながっているのだろう。咀嚼するとザクザクとしたところもあった。

「おいしい……!!!」

「お気に召してよかった」

 ルイスは軽く笑いながらコーヒーを口に運ぶ。彼は甘いものがあまり得意でないので、コーヒーだけを頼んでいた。

「そんなに気に入ったならときどき買ってくるよ」

「わあ! でもまたこうしてカフェでも食べたいわ」

「もちろんまた来よう」

 おしゃれな街角のテラスで、心躍る景色を眺めながらおいしいケーキを食べて、ルイスと楽しくおしゃべりしてくすくすと笑い合う。とても幸せだった。またいつかこんなふうに過ごせたらいいなと心をときめかせていたら——。

「アリス?!」

 ひどく驚いたように名を呼ばれて、反射的に振り向く。

 そこには、大通りで立ち止まり呆然とこちらを見ている中年男性がいた。彼はハッと我にかえると、再び「アリス!!!」と名を呼びながら一心不乱に駆け寄ってくる。アリスは思わずビクリとしたが。

 ザッ——。

 ルイスが立ち上がり、アリスを背に庇うように中年男性の前に立ちはだかる。アリスに陰が落ち、中年男性どころか大通りの景色もほとんど見えなくなった。

「君はルイス……いや、大賢者様だな」

「いまはルイスとお呼びください」

 どうやら二人は顔見知りらしい。しかしながら良好な関係ではないのだろう。互いに牽制し合っているような、一触即発のピリピリと張り詰めた空気を感じる。

「やはり君がアリスを連れ去っていたのか!」

「この子はあなたの娘のアリスではありませんよ」

「どう見てもアリスじゃないか!!」

 中年男性は立ちはだかるルイスを押しのけようとしたが、ルイスがそれを許さなかった。彼の手首をつかんで体を押し返しながら言う。

「落ち着いてください」

「そうやってまた言いくるめる気なんだろう!」

「あなたの娘は現在三十三歳のはずです」

「あっ……」

 中年男性がルイスの肩越しにアリスの姿を捉えた。瞬間、あからさまな失望を顔に浮かべてよろりと後ずさり、いまにもくずおれそうになる。ルイスはつかんでいた彼の手首をはなして溜息をついた。

「この子はわたしが引き取って面倒を見ている孤児です。確かにアリスと似ていますが年齢は十五歳。すくなくとも三十三歳でないことは一目瞭然でしょう」

「…………」

 彼はもういちどアリスに探るようなまなざしを向けてきたが、アリスが怯えながらルイスの服に縋りつくと、結局、何も言わないまま憔悴したようにとぼとぼと去っていった。


「ごめんね、こんなことに巻き込んでしまって」

 騒動が終わると、ルイスは元の席に腰を下ろして向かいのアリスに謝罪した。アリスは首を横に振ったが、どうにか浮かべた笑顔は自分でもわかるくらいにぎこちない。ルイスは眉尻を下げ、コーヒーを一口だけ飲んでからゆっくりとカップを置いた。

「『アリス』のこと、聞きたい?」

「……気にはなっているわ」

 本当は聞きたくて仕方ないのだが、言いたくないというなら素直に引くつもりでいた。彼を困らせたくないし彼に嫌われたくもない。けれどもルイスは椅子の背もたれに身を預けて、静かに話し始める。

「『アリス』は近所に住んでいた十歳下の幼なじみでね。よく一緒に遊んでいたんだ。けれど彼女が十五歳のとき、何の前触れもなく忽然と行方知れずになって……村総出で捜索したけど見つけられなかった」

 そこで言葉を切ると、小さく息をつきながら目を伏せる。

「『アリス』の父——さっきのひとだけど、彼はなぜか僕が連れ去ったんじゃないかと疑っていて。もちろんいくら調べても何も出てこなかったよ。ただ彼女が消えたことも僕が疑われたことも悲しくて、いまの住まいに移ったんだ」

 当時のことを思い出しているのだろう。彼の表情は硬い。

「そんなときにたまたま捨てられていた君を見つけた。『アリス』と同じ髪色と瞳で、何となく運命を感じてしまってね。だからアリスと名付けて僕が面倒を見ようと決めたんだ」

「そう、だったの……」

 何があったのかはすべて教えてくれたように思う。でもアリスにはまだ他に気になることがあった。尋ねることにも知ることにもすこし怖さを感じつつ、意を決して問いかける。

「わたしはそんなに『アリス』とそっくりなの?」

「そうだね……髪と瞳と全体の雰囲気は似てるかな」

「『アリス』と似てるから良くしてくれたの?」

「正直、最初はそうだった」

 ズキリと胸の痛みを感じてアリスは顔を曇らせた。けれど彼はそれを目にするとひどく愛おしげなまなざしになり、そのままじっとまっすぐにアリスの双眸を見つめて、やわらかく言葉を継ぐ。

「でも、いまは君が君だから大事に思ってるよ」

 手を伸ばし、包み込むようにアリスの頬に触れる。

 あたたかくて、やさしくて、とても心地良い——アリスはふっと表情をゆるめると、その大きな手に甘えるように頬をすり寄せながら目を閉じた。胸にわだかまっていたものをそっと奥底に押し隠して。


 それからもアリスとルイスは変わらない日常を過ごしていた。だが翌週になって、急遽ルイスが仕事でしばらく家を空けなければならなくなった。こういうことはこれまでにもときどきあったのだが——。

「寂しいなぁ」

 四日も誰ともしゃべらなかったのは初めてかもしれない。

 間の悪いことにミズ・プリケットがひどい風邪をひいてしまい、使用人の住まいにこもっているのだ。もちろん食事係や清掃係の女性はいるが、彼女たちがアリスと言葉を交わすことはいっさいない。そういう契約になっているらしい。

「お天気もいいのになぁ」

 木製のテーブルに頬杖をつき、陽光が降りそそぐ森の景色をガラス越しに見やる。

 部屋にいるのも飽きたので今日は一階にいるが、ひとりでは外に出ないよう言いつけられているため、こうして眺めるのが精一杯だ。新鮮な空気を吸うことも、爽やかな風を感じることも、まばゆい陽光を浴びることもできない。

 でも、それもあとすこしの辛抱なのだ。明後日はアリスの十六歳の誕生日で、ルイスはそれまでに必ず帰ると約束してくれた。お祝いも特別なものを用意すると言ってくれた。そのことを考えるだけですこし心が浮き立ってくる。

 お茶でも淹れようかな。

 そう思い、軽やかに立ち上がって弾むように駆け出したその瞬間——急に地下へつづく扉が開いて、出てきた食事係の女性と危うくぶつかりそうになり、彼女が手にしていた銀のトレイが落ちてガシャンと中の食器が散らばった。

「ごめんなさい!」

 アリスが謝罪すると、食事係の女性は身振りで大丈夫だと伝えてくるが、このまま立ち去るのも忍びなくて拾うのを手伝う。食器には使用した形跡があった。すべて拾い終えると、食事係の女性は恐縮したようにお辞儀をして出ていった。

 ルイスがいないのに来てるんだ——。

 アリスは地下へつづく扉のほうへ目を向ける。

 別の出入口があるのか、アリスの知らないところでよく誰かが地下に来ているのは察していた。食事を運び込むのを頻繁に見ている。ルイスに尋ねたこともあったが、家には入ってこないので気にしなくていいと言われてしまった。

 それでもやはり気にはなってしまう。

 地下には研究施設があるという話なので、ルイスと一緒に研究している仕事仲間ではないかと思うが、どうしてアリスには姿を見せないのだろう。どうしてルイス不在でも来ているのだろう。そもそも何を研究をしているのだろう。

 あれ、そういえば——。

 扉を眺めながら思案をめぐらせていたところで、ふと気付く。いつもは出入りしたひとがそのたびごとに必ず鍵をかけているのだが、さきほどは食器を落としたり拾ったりとバタバタしていたため、鍵をかけていなかったのではないかと。

 ドクドクと鼓動が強くなる。心が決まらないまま徐に扉のほうへ足を進め、おそるおそるノブに手をかける。それは途中で止まることなくなめらかに動き、扉が開いた。無機質な白い階段にまばゆい光が帯状に射し込む。

 ど、どうしよう——!!

 地下には危険なものがあるから立ち入らないよう言われている。でも触らずに見るだけなら大丈夫ではないか。ルイスに見つかったら叱られるかもしれないけれど、こんな機会はきっと二度とない。

 心臓が壊れそうなくらい早鐘を打つのを感じつつ、まわりを見まわして誰もいないことを確認すると、そろりと足を踏み入れた。すこしの音も立てないよう慎重に扉を閉めて、階段を降りていく。

 その先には薄明かりのついた無機質な白い通路がつづいており、両側にいくつか扉があるようだ。アリスがかつて暮らしていた部屋もこの中にあるのだろうが、どこだったかまでは覚えていない。

 とりあえず手前の扉を開けようとしたもののノブが動かなかった。その上につまみがあったのでまわしてみると、カチャリと音がした。再びノブをまわしてみたところ今度はひっかかることなく開いた。

「えっ……?」

 扉の向こうに広がっていた光景を目にして、アリスは言葉を失う。

 すぐ正面にはガラスの扉があり、その向こうにはふわふわのラグが敷かれ、木製のテーブルやベッドが置かれ、たくさんのぬいぐるみも置かれ——それはかつてアリスが住んでいた部屋そのもので、さらに当時のアリスにそっくりな幼い少女がラグに立っていた。

 お互い、唖然として見つめ合う。

 やがて幼い少女が我にかえり、アリスのいるガラス扉の前までトタトタと駆けてきた。じっとアリスを見つめながら不思議そうに小首を傾げる。

「あなたは誰なの?」

「え……っと……あなたは……?」

「わたしはアリスよ」

 瞬間、幼いころに見た夢がぶわりと脳裏によみがえる。

 あれはもしかしたら夢ではなかったのかもしれない。あのとき目のまえにいた同じ年頃のアリス、いま目のまえにいる年下のアリス、むかし行方知れずになったというアリス、そして自分——名前だけでなく見た目までみんなそっくりだ。

 どういうことなの——。

 こんなこと偶然では到底ありえない。だからといって何をどうしたらそうなるのか見当もつかない。本当にわけがわからないけれど、言い知れない恐ろしさのようなものを感じてぞわりと総毛立つ。

 一歩、二歩と後ずさると、勢いよく通路に飛び出して他の扉を開けていく。実験器具らしきものが多数ある研究施設のような部屋、書斎のような部屋、そして最後に奥の突き当たりの扉を勢いよく開けると——。

「な、に……これ……」

 そこにあったのは氷塊で、中にはアリスそっくりな少女が閉じ込められていた。

 年のころもアリスと同じくらいだろうか。神聖さを感じさせる女神のような純白のドレスを身にまとい、まるで眠っているかのように目を閉じている。そっと氷塊に触れてみるとひどく冷たくて、表面が濡れていて、まぎれもなく氷だった。

 ぞくりと背筋が震える。

 どういうことなのかわからないが、この異常としか思えない状況を作ったのはおそらくルイスだ。これは何なの、目的は何なの、わたしは誰なの——優しくて大好きだったルイスに初めて底知れない恐怖を覚えた。

「いけない子だ」

 すぐ耳元で声がして、凍りついた手で心臓を鷲掴みにされたかのようにすくみあがった。じわりと汗がにじみ、ギギギと音がしそうなくらいぎこちなく頭だけまわして振り返る。

「ル、イス……」

 彼はすぐ後ろに立っていた。

 どこか寂しそうな微笑を浮かべ、そっと手を伸ばしてアリスの頬をやわらかく包み込む。いつもならうれしくてあたたかくて安心できたはずのそれが、いまは怖くてたまらない。

「あ……」

 もう片方の腕が背後からまわされて抱きしめるような形になると、頬に触れていた手が輪郭をたどりながらゆっくりと首へ下りていき、喉元にかけられる。その手つきには絞めようとする明確な意思が感じられた。

 逃げなければと思うものの体が凍りついて動かない。息すらできない。そもそもどこに逃げればいいのかさえわからない。ずっとここでルイスだけに庇護されて生きてきたのだ。行くところなんてどこにもありはしない。

 喉元にかかった手に、ゆっくりとすこしずつ力がこめられていく。

 絶望と恐怖でアリスはガタガタと震え出した。目が潤み、まなじりからぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。それでも彼の手は弛まない。次第に意識が白んでいく中、感情を押し殺したような抑揚のない声が耳に届く。

「残念だよ……言ったよね、君はずっといい子でいてくれって」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ