氷のシンデレラの赤いヒール
カップに注がれた紅茶を貴族令嬢が口へと運び香りを楽しんだ後に飲む。彼女の名前はベアトリーチェという。彼女はヴィラン帝国の屈指の名門貴族ジャスティス家の一人娘だ。頭脳明晰で様々な教養に通じている。
紅茶を注いだ後、ベアトリーチェの傍らにはメイドが立っている。彼女の名前はエレノアという。
彼女は容姿端麗で元は名門貴族プロタゴニスト家の令嬢であった。しかし、十年前に彼女の父が皇太子暗殺の罪に問われ国家反逆の罪で夫人と共に断頭台で斬首刑に処されたのだ。
本来なら彼女も両親と共に斬首刑に処されるはずであった。しかし、物心ついた時からの幼馴染みである彼女の為にベアトリーチェが父に助命を求めたのである。それにより彼女は救われたのだ。
彼女はベアトリーチェに対して返せないほどの恩義を感じている。今は貴族令嬢とメイドの立場であるのでベアトリーチェは公の場では厳しく接しているが、人目のない二人きりの時は以前の友人だった時の様に接してくれている。
エレノアは申し訳なさと共に変わらない彼女に嬉しさも感じている。そんな彼女に対し誠心誠意尽くし絶対の忠誠を誓うと宣言した。それに対してベアトリーチェは、そんな宣言は不要だと微笑みかけてくれたのだ。それがエレノアの忠誠心を更に強固なものにした。
紅茶を飲み終えたベアトリーチェが立ち上がる。そして、彼女はエレノアの方を向き手を差し出す。
「踊りましょう? エレノア」
「はい、お嬢様」
「違うでしょ?」
そう言った彼女は首を傾げてエレノアを真っ直ぐな瞳で見つめる。それに対して、エレノアは瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われる。
「エレノア?」
「あっ、はい」
「踊りましょう? エレノア」
「えぇ、ベアトリーチェ」
そう彼女は言うとゆっくりと手を上げていく。その手をベアトリーチェが素早く握り片方の手もそうする。そして、二人は踊りだす。
二人の息はピッタリである。一曲分の踊りを終えると男性役と女性役を交代し踊り始める。この場合でも二人は一糸乱れぬ踊りである。
二人が踊るのには理由がある。それは皇太子が主催する仮面舞踏会にベアトリーチェが招待されているからだ。皇太子の名前はロネという。眉目秀麗で貴族令嬢たちの憧れの的である。そんな彼はベアトリーチェの婚約者である。
二人の婚約は政略的なものである。それをベアトリーチェは承知している。それでも彼女は嬉しくて仕方ない。それは幼い時から彼に憧れていて、ずっと想いを寄せていたからだ。
仮面舞踏会の前日になった。エレノアはメイド長からベアトリーチェの部屋に行くように伝えられる。彼女は急ぎ部屋へと向かう。部屋の前まで来るとノックする。
「入りなさい」
その声にエレノアはドアノブに手をかけ扉を開く。そして腰掛けている彼女の前まで進む。
「どうなさいましたか? お嬢様」
「違うわよ」
「あっ……どうしたの? ベアトリーチェ」
「明日の舞踏会、私の代わりに出てくれない?」
「えっ!」
「欠席するのは失礼でしょ? 仮面をつけるから大丈夫よ」
「どうしてなの?」
「それは……」
言葉に詰まった彼女は自身の顔に劣等感がある。他人から見れば、その様には決して見えない。むしろ綺麗だと思うだろう。彼女が劣等感を抱く理由は皇太子が美形なので、彼が女性だったら自分より綺麗だったろうなと考えてしまうからである。
昨日までは彼女は仮面舞踏会なので大丈夫だと出席する気満々であった。だから、彼女はエレノアと毎日欠かさず踊りの練習を熱心にしてきたのだ。
今日、彼女は明日の仮面舞踏会で自分の踊る姿を想像してみた。仮面舞踏会は一曲ごとに相手が変わる。彼女は皇太子が仮面をつけてても絶対に分かる自信がある。
それなので彼から一番遠くの位置から踊り始めれば曲数を考慮すると彼の相手を務めることはない。しかし、彼と同じ空間で踊ることになるので緊張はしてしまう。彼女は皇太子が彼女に気が付くと思っている。なので、もし上手く踊れず転倒でもして彼の前で恥をかいたらと想像してしまい出席する気持ちが萎えてしまったのである。
「お願いよっ。ねぇ? エレノア」
そう言った彼女は懇願の眼差しを向けている。エレノアは彼女の瞳と表情から余程の事情があるのだろうと考える。彼女にこれ程強く懇願されるのは初めてだからだ。
「わかったわ、ベアトリーチェ」
「ありがとう、エレノア」
そう彼女は言うとエレノアを力強く抱擁する。それに対してエレノアは信頼されているんだと気分が高揚していく。それにつれ心臓の鼓動が波打ち速くなっていく。立っていられそうにない彼女はベアトリーチェの腰辺りを強く抱きしめる。それに対してベアトリーチェは更に強く抱擁仕返してくれた。
今、エレノアは仮面舞踏会の会場である大ホールにいる。彼女はベアトリーチェ自ら化粧を施してもらった。彼女は仮面舞踏会なので必要ないと固辞したが強く勧められたので了承した。
化粧を終えるとベアトリーチェから更に美しさに磨きがかかったと褒めてくれた。化粧で分からなかったが彼女は顔が紅潮していた。
仮面舞踏会の開始が告げられる。彼女は緊張している。女性たちの動きを見ながら歩き出し並ぶ。演奏が始まり目の前の男性と踊り始める。そして、一曲が終わると相手が代わり踊る。
そうしているうちに仮面舞踏会の終わりが告げられる。彼女は気づいていないが幸いな事だというのだろか、もう一曲あれば次は皇太子が御相手だったのだ。
会場で晩餐会の案内がされる。係の者が出席者を会場へと誘導していく。続々と人々が歩き出し向かっている。彼女も後に続くため歩き出そうとする。一歩踏み出そうとすると進路を塞がれる。彼女は塞いだ者を見上げる。
「まだ踊り足りないみたいです。踊っていただけませんか?」
彼女は知る由もないが声の主は皇太子だ。当然の申し出に彼女は戸惑う。しかし、事を荒立てず切り抜けなくてはと思う。なので彼女は頷く。
「特別な靴を用意しました。履いて踊ってもらえませんか?」
そう彼が言うと彼の従者が彼女の足元に靴を置く。すると皇太子が履くように促す。彼女は靴に足を通す。その瞬間、足先から始まり背中にかけて瞬時に震えが走る。彼女が履き終えると大ホールの扉が締まり演奏する者たちを除けば二人っきりなった。
「緊張しているのかい?」
その言葉に対し彼女は小さく頷く。皇太子が手を差し出す。彼女は意を決して彼の手を取る。すると、音楽が演奏され二人は踊りだす。慣れない靴のせいで彼女の動きはぎこちない。それでも、彼女は踊りきることができた。
踊り終えても彼は手を放さない。すると、彼は頭を下げ彼女の目を覗き込む。それに対して彼女は顔を背け視線を逸らす。
「顔を見せてくれないかい?」
そう言うと彼は彼女の仮面に手を伸ばす。その手の指先が仮面がずらしエレノアの片目が露出する。思わず彼女は彼の手を払う。そして、片方の握られている手を振りほどき走りだす。
建物の外に出た彼女はスカートをたくし上げ走っている。慣れない靴のせいで足裏の感覚が麻痺している。なので体勢を崩し左足の靴が脱げる。それでも振り返らず走り続ける。足裏で地面に付くたびに小石を踏み激痛が走るが彼女は止まることはない。門を出ると馬車に飛び乗り屋敷へと戻る。
屋敷に到着すると馬車から飛び降りる。そして彼女は走り出し使用人宿舎の自分の部屋に戻る。興奮状態が落ち着くと足裏に激痛が走る。彼女は桶に水を入れベッドの横に置く。それに両足を突っ込み彼女はベッドに座りながら冷やす。肉体的、精神的な疲れが急激に襲っていた。彼女はベッドに背をつけ冷やしたまま眠りにつく。
翌日、エレノアはベアトリーチェから仮面舞踏会に出席してくれたことを感謝された。エレノアは足裏の痛みが続いていたが彼女に気取られないように細心の注意を払った。
それから一か月ほどが経った。エレノアは街での買い出しを終え屋敷へ向かう。街を抜け歩いていると見慣れた馬車が止まっている。そこから人が降りてきた。
「エレノア」
その声の主は名門貴族の令嬢イザベラである。彼女はエレノアが貴族であった頃からの友人だ。エレノアが貴族令嬢でなくなると友人だと思っていた者は見下し去っていった。しかし、イザベラはベアトリーチェ同様に変わらず接してくれている。月に一、二回程、彼女は会いに来てくれている。
「会いに来てくれたのね? イザベラ。でも、いつもと表情が違うわよ」
「さすがエレノアだわ。ちょっとこれ見てよっ!」
そう彼女は言うとエレノアに近づいていく。そして、手の持っていた手紙を開き見せる。
「なにこれ?」
そう言った後、エレノアは手に取り読む。それは皇太子が出した手紙で、そこには仮面舞踏会で自分と最後に踊った女性を探している。心当たりのある者は手紙を持参し訪ねて、その時に自分が履かせた靴の特徴を告げてくれとのことだ。該当者には水晶の靴を贈ると記されている。
エレノアは読み終えて動揺したが平静を装う。彼女は名乗り出る気など更々ないので自分には関係ない事だと言い聞かせる。
「へぇ〜、そうなんだ」
「それがね」
「何?」
「何人かが申し出たのよ」
「あ〜っ、そうなんだね」
「どうなったと思う?」
「わからないわ」
「嘘の申し出だったのよ。それで、皇太子様がその娘たちが履いてきた靴のヒールの部分をその娘たちの足の甲に叩きつけたようよ。中には骨折した娘もいるらしいの。嘘をついたのは大概だと思うけど、いくら何でも酷すぎない」
「そっ、そうね」
「今回の件だけでなく、もっと残忍な事をしてるんだってよ。相当数の貴族から恨まれてるよ。皇帝陛下は輪をかけて横暴だってよ。内緒だけど、うちの父も恨んでいるよ。陛下も含めると恨みを買ってないのはジャスティス家くらいじゃないかな」
「そうだったんだね」
そう彼女は言った後、ベアトリーチェから手紙の件を聞いてないことに気が付く。ベアトリーチェは彼女には些細なことでも包み隠さず話してくれる。と言うことはベアトリーチェには手紙は送られていないのだと察する。と同時に嫌な予感がしている。
「イザベラ?」
「何? エレノア」
「その手紙どうするの?」
「エレノアに見せたから、この場で破いて捨てるわよ」
「なら私にくれない?」
「えっ……別に構わないけど。何で?」
「珍しい手紙だと思って欲しくなっちゃた」
「はいどうぞ、エレノア」
そう彼女は言ってエレノアに手渡す。それから昔の思い出話に花を咲かせた後、二人は別れた。
それから数日後、ベアトリーチェの父が急逝した。その事を彼女は受け入れることができなかった。なぜなら、前日まで彼女の父は健康そのものだったからた。彼女は何者かによる毒殺を疑ったが証拠が出てこなかった。
彼女は数年前に母親を亡くしており自分は天涯孤独なのだと思った。しかし、すぐにそれは違うのだと気付かされた。悲しみに暮れる彼女をエレノアが傍らで寄り添ってくれたのだ。彼女はベアトリーチェを優しく抱擁した。
厳かに葬儀が執り行われた後、ヴィラン帝国よりベアトリーチェは次期領主に任命された。それを受け、ジャスティス領の城では彼女の就任式が執り行われている。エレノアは正装して傍らで彼女を見守っている。
彼女の眼前には、帝国直轄軍にも引けを取らないジャスティス領の精強な騎士たちが領民を取り囲み彼らと共に祝福している。
ベアトリーチェは領主であることを宣言した後、天災で苦しむ領民に税の減免を告げる。それに対して領民は歓喜する。彼女は過去にも父に進言し減免した実績があった。それにより領民の彼女への信頼は一層厚くなり強固なものとなった。就任式を終えると彼女はその足で宮殿へと皇帝に挨拶に向かう。
ベアトリーチェが宮殿から帰ってきた。迎える為に待っていたエレノアは彼女が浮かない顔をしているのに気が付く。ベアトリーチェは彼女の横を素通りしていく。いつもであれば彼女は笑顔で挨拶をしてくれる。
エレノアは気になって仕事に手がつかないでいる。胸騒ぎのする彼女はメイド長に告げ一緒にベアトリーチェの部屋へと向かう。
彼女は扉をノックする。しかし、中からは返事がない。ドアノブを回すが鍵が掛かっている。彼女はメイド長に合鍵で扉を開けてもらう。
開くと同時に部屋へと飛び込む。その視線の先には空いたワインボトルとグラスがある。グラスの中に少量ワインが残っている。彼女は晩餐会等の公式の場以外は酒は一切飲まない。
彼女はベッドに視線をやる。すると、シーツの一部が赤くなっている。一瞬、ワインを溢したのかと思ったかそれにしては赤すぎる。彼女は駆け寄る。すると手首に傷がある。彼女はメイド長に医者を呼ぶように叫ぶ。
駆け付けた医者が手当し包帯を巻く。彼が言うにはワインを飲んでいたのが幸いし傷は深くなく命に別状はないとのことだ。彼女は安堵すると同時に腰を抜かし床に尻餅をつく。しばらく立っことが出来なかった。
今、エレノアは彼女を見守っている。部屋には二人っきりだ。彼女は看病を頼まれた。彼女以外だとベアトリーチェが目覚めた時に取り乱すだろうとのメイド長の配慮であった。数時間後ベアトリーチェが目を覚ます。その瞬間、エレノアの大きな瞳から涙が零れ落ちる。ベアトリーチェが顔を横にする。すると、二人の視線が合う。
「私、どうしたのかしら?」
「お嬢様。一体、何があったのです?」
その言葉にベアトリーチェは反応しない。酔いが醒めてくると彼女の瞳から一筋の涙が流れる。そして怪我してない方の手で両目を覆う。
エレノアは言葉を発さずベアトリーチェが口を開いてくれるまで待つことにする。一時間ほどが経過する。するとへは腕を上げ手首に巻かれた包帯を見る。
「私、死のうとしたんだね」
「…………」
「ごめんね、エレノア」
「一体、何があったのです?」
その問いかけベアトリーチェは応えようとはしない。また、ゆったりと時間だけが流れていく。しかし、彼女は重たい口を開く。
「私、皇太子様から婚約破棄されたの」
そう言うと彼女はゆっくりと目を閉じる。その言葉でエレノアは察した。そして、彼女は考える。父親を失ったベアトリーチェに利用価値はなくなったのだと。静観していれば、いずれジャスティス家は没落していくと。
彼女はベアトリーチェの頬を撫でる。そして、彼女は一晩中見守ることにする。
昼頃、ベアトリーチェは目を覚ます。そして、彼女は腰を上げベッドから降り立ち上がる。ふとテーブルに目がいく。その上には一枚の紙が置かれている。それはエレノアが彼女に宛てた手紙だ。
彼女は手に取り読み始める。次第に彼女の顔は青ざめていく。彼女は執事長を呼び付け、兵を参集させる様に命令した。
その頃、ドレスを着たエレノアは宮殿に到着した。彼女は門の前で衛兵に手紙を見せる。すると皇太子の部屋まで案内される。部屋の前までくるとノックする。
「入りたまえ」
その声に彼女は扉を開け中に入る。すると皇太子が振り向く。
「靴の件で来たのかい?」
「そうで御座います」
「では質問させてもらおう。どんな靴だったかい?」
そう彼が言うとエレノアは二人の中間くらいにあるテーブルの前へと進む。そして彼女は水差しを手に持ち進み皇太子とは距離をとって立ち止まる。すると、彼女は靴を脱ぎ足元に水差しから水を溢し床を濡らす。
「氷でできた靴でしたので、こうなってしまいましたので存在致しません」
「君だったんだね。片目は見たんだが印象が違うね」
「あの時は化粧をしておりました。申し訳御座いません」
「あの時も綺麗だったが素顔の君はより一層美しいよ」
「社交辞令でも嬉しゅう御座います」
「本心だよ」
「御言葉ありがたく頂戴致します」
「君に提案があるのだが?」
「何で御座いましょうか?」
「私は君が気に入った。でも、私は数日中には婚姻を発表する。どうだろう、私の愛妾になる気はないかい?」
「部屋を出るまでに御返事を差し上げても宜しいでしょうか?」
「それまでは待ち切れないな。そうだ! 私が君に贈る水晶の靴を履き終えた直後でどうだろう?」
「その方が私にとっても都合が宜しいで御座います」
「そうこなくてはね」
そう皇太子は言うと扉の鍵をかけに行った。そして、ソファに置いてある木箱を取りに行く。そして、それを彼女の足元に置くと蓋を開け中から水晶の靴を取り出し彼女の足元に置く。
「答えが出るまで履かないのは無しにしてくれよ。さぁ、履いてごらん」
その願いにエレノアは躊躇することなく右足から靴に足を通す。すると跪いてる皇太子が肩を貸してくれると言う。しかし、彼女は借りようとはせず左足を靴に通す。
通し終えた瞬間、彼女は左足を振り上げる。それが皇太子の顎を捉え彼は背中から床に倒れる。その直後、後頭部を強打し気絶した。
皇太子が目を覚ます。すると、彼の額には水晶の靴のヒールの底が当てられている。
「ベアトリーチェお嬢様が壊される前に貴様を壊す!」
そう言い放つとエレノアは足を上げ勢いよく額を踏みつける。するとヒールの部分が頭蓋骨を貫通する。そして、皇太子は絶命した。
彼女は靴を引き抜こうとする。しかし、ヒールの部分が折れる。すると彼女は両足の靴を脱ぐ。そして、彼女は皇太子を見下ろす。
「踏みつける時に折れなくて良かったぁ〜」
そう言った彼女は皇太子に突き刺さっているヒールの部分を見る。それは血で赤く染まっている。それを見て彼女は冷笑する。
彼女は皇太子に背を向け窓へと向かう。両開きの窓を開けると心地良い風が中に吹き込んできた。彼女は身を乗り出しは両手を広げ伸びをする。太陽の日差しが眩しい。
一睡もしていない彼女は急激な眠気に襲われる。ゆっくりと彼女は目を閉じる。そして、彼女は深い眠りにつく。