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何年か前に、どちらが先かはわからないが、長男は結婚(お相手は大学で知り合った現中学数学教師という)し、父親はお亡くなり(弟は柔道の師の葬式に出席したらしいが、私は地元におらず、接点も「勧誘」されたことくらいしかなかったため、その時点では知らされなかった)になった。こうして裏のお宅には母親一人が残されることとなってしまったのであるが、その直後からしばらくは、「裏の奥さん、早起きで困る。毎日毎日早朝からてきぱき働き始めないで欲しい。めちゃくちゃ朝早くから掃除を始めるから、こっちは無理矢理起こされる。本当に参っちゃう」という、今思えば平和的なものだった。旦那さんに都合を合わせていたのが、いなくなってしまったことで、其れまでよりもずっと起床時間が早くなり、朝一で開始する掃除がうるさくて寝ていられないということだった。ウチの親は宵っ張り――寝床に着くのも遅いのだが、布団に入ってからも、しばらくは本を読んでいる――で朝寝坊なので、「迷惑をしている」という話だった。もちろん、本気で怒っているというニュアンスは皆無である。よしんば怒っていたとしても、お隣さんに文句が言える性格の人ではないから、いくらかの間は、そういう愚痴の様なことを電話で親から聞かされることになった次第である。今を思えばかわいいものだった。それが徐々に不穏なことになっていったのは、「裏の奥さん。挨拶には応えてくれるけど、私が誰だか解らないみたい」当たりからだった。やがて、お隣りでなくともご近所全体に、「呆けてきてしまっている」と知られるようになり、「呆けてしまっている」となった後しばらく経ってから、少し離れたところ(とは言っても、車で数分くらいらしい)に居を構える長男夫婦が、母親の様子を見に来るようになったのだが、親が「怖い」と電話で言うようになったのは、丁度その頃からだった。「怒る」と言うのである。しかも、結構厳しく、大声で。夫婦そろって、隣家に聞こえる声で、「怒鳴る」「しかりつける」「しかり飛ばす」というのだ。そんなのが聞こえてくるのだと。そういうのは、初めのうちは時々だったのが、間もなく数日置きになり、今では毎日だという。「毎日決まった時間にやって来て、怒鳴り散らして帰ってゆく」「以前は午後七時位に寝かしつけていたけど、今は午後六時には寝かしつけている」と電話では聞いていた。
「もう、怖くて怖くて」
「そんなに怖いの?」
「怖いよ。もう、裏から車の音がするだけで怖いもん」
「そうなの?」
「特にたっくん。凄いから」
「そりゃ、いくらなんでも、嫁はそういうこと言い辛いだろ。血は繋がってないんだから」
「でも言うよ。すっごい言うよ」
「そういうものなの?」
「でも、やっぱりたっくん。本当に凄いから」
「そうなの?」
「私なんかもう、本当に怖くて怖くて」