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裏のお宅の母親は市役所に努める公務員だった。旦那とは正反対の印象を与える人で、小柄で痩せた人だった。PTAの委員みたいな眼鏡をかけ、絵に描いたような教育ママみたいな容姿をしていたし、子供ながらにそういう雰囲気も感じていた。極稀にだが、この人の「達也!」と息子を叱る声も耳にしたものだ。母親の声は父親に比べれば音量は小さかったが、鋭く切れるような声質で、怒られた者だけでなく、聞いているこちらにも突き刺さってくるかのようであった。この人には別に何かに勧誘されたということはない。時々、お裾分けを受け取ったり、お菓子を貰ったりはしたけれど。
長女は……。正直良く知らない。殆ど見かけたことが無く、声を聞いた覚えすら無い。私や弟よりずっと年上で、いつの間にか結婚していて、いつの間にか嫁いで裏の家からいなくなっていた。
長男は私の二つ年上の幼馴染みである。弟はもとより、いつからだか私にも身長で追い抜かれたが、幼い頃から父親から柔道の英才教育を受けていた彼は、昔から如何にも軽量級の選手といった感じだった。長男とはお互いの家を行き来して弟ともどもよく一緒に遊んだものだ。裏の家ではよくレゴで何かを作っていた憶えがある。将棋を教えてくれたのも長男だった。「覚えることが多くて難しいから、頭が良くないと覚えられないぞ」と。その後間もなく級友に指摘され、教えられた金と銀の動き方が逆だったことを知るのだけれども。私の家でも色々なことをして遊んだ記憶があるのだが、親にとって一番印象的だったのは、私と弟が兄弟喧嘩をしているのに「我、関せず」とばかりにテレビを観ていたことだという。それも一度や二度でなく。どうやら裏のお宅ではテレビを観ることを禁止されていたらしい。就寝時間も厳しく、夜の八時や九時には寝なければいけなかったらしい。長男と家を行き来して遊ぶのは彼が中学に上がる頃に途絶えた。長男は私と弟も在籍した地元の市立中学でも、そこから当然のように進学した父親が教職を務める公立高校でも、当たり前のように柔道部――顧問を務めていたのが誰かは言うまでもあるまい――に所属し、どちらでも三年時は主将を務め、近県では名の知れた軽量級の選手として活躍し、学校推薦によって地元の国立大学の教育学部に進学した。卒業後はこちらに戻ってきて、公立中学の体育教師になり、現在はそこの柔道部の顧問も務めているのだとか。
私が実家に住んでいた頃には、親が「怖い」などと言ったことはなかった。私が子供に怯えた、裏のお宅から聞こえてくる声を、同じように耳にしていたにもかかわらず、にである。
親が「怖くて怖くて」と口にするようになったのはここ最近のことである。