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それからもう一つ、昔の私にはおかしなところがあった。資質といってしまうのは美化のし過ぎであろうが、これは特に矯正しなければならないことでもなかった。矯正しょうにもどうしたらよいか解らないというところはあったのであるが。親も多少は心配していたようではあるが、ちゃんとまともに機能もしていてので、「まあ、そのうちに治るだろう。鏡文字やはっきりしない利き腕、ヘッタクソもいいところの文字と違って、この先、生活が不便になったり、人様に迷惑をかけたりはしないだろうし」という感じだったのかもしれない。其れは文字の視え方である。数字に色がついて視えていてのだ。だが、其れは眼がおかしいという訳でもない。ちゃんと印刷されている色ーー黒インクで書かれていればちゃんと黒くーー見えている一方で、カラフルな色がついている感覚だった。生きている人間のオーラが見えるというのでさえ、「えっ? マジでか」という感じなのに、無生物である数字からオーラの様なものが見えているというのは…。おじさんが、「妖精さんの声が聞こえる」とか、「精霊さんが、精霊さんが…」というくらいには変、もっと言えば気持ち悪くないだろうか? 「何だ? 其のスピリチュアルは?」である。後に、世の中にはそういう人もいるという事もいると知ったのであるが、兎も角、そういう感覚が理解出来た。其処から更に少しして、「数字からにおいを感じる」「数字には色も匂いもある」という人もいるらしいのだが、流石に其処までは私には解らなかった。「数字には味がある」と言っている人の話は聞かないが、其処までの人はいないのだろうか? まあ、本や本のページを、好きで食べたり囓ったりする奴等いないのだろうが。ヤギさんじゃあるまいし。
親が、中三の時の家庭訪問で、唐突に、「この子、下の子と違って全然勉強しないんです。したくても出来ないんじゃないかと思います。勉強の仕方自体全然解らないんだと思うんです」と切り出された時には、吃驚したものだった。
いや、この時の私が発言を突然だと感じただけで、今思えば、親からすれば、ちっともそんなことはなかったのかもしれない。それこそ生まれてこの方、全く勉強をしているところを見たことがない――実際、家ではしなかったし、何なら学校でもしない――のだが、直接の原因は、おそらくはこれではない。もちろん、間接的にはこれに間違いないのではあるが。中学三年になると、この時の担任は、彼の受け持つクラスの生徒に、毎日勉強した時間を報告させる制度を導入した。いちド田舎の県内、しかも最下位かブービーが定位置の学区の中坊から見れば、「何、下らないことやっているんだろ。そんなものは面倒くさいだけ」である。その制度というのは、本人が勉強した時間を表に記入・自己申告し、「それだけの時間、ちゃんと勉強した」という証拠・証明として、両親からサインを頂いた上で担任に提出するというものであった。しかも、毎日とはいかないまでも、毎週、そして毎月、毎日の平均の勉強時間を期末試験の順位のように、クラスメイト全員に発表する(壁新聞にて。担任教師は持ち回りで、それを生徒に作らせた)自分のクラスの進学実績を良いものにでもしたのだったのだろうか? それとも、自身の辣腕ぶりを、指導力の高さでも何処ぞの誰かにアピールしたかったのであろか? 当然のことながら、私の勉強時間はいつも変わることなくゼロであった。塾に行っていれば、授業を受けている時間や、模試を受けている時間は勉強時間として含んでも良いことになってはいたが、何しろ、私が通っていた習い事というのはペン習字だけであり、それですら今では通ってはいない(そこに在籍していたところで、そこでの活動内容は勉強時間をして認められる類のものではなかった。習字を習っている同級生がいたのだが、その時間は勉強時間として認められなかったのだから。そして其れ以前に、利き腕の矯正と鏡文字も修正が一通り完了したところで、私はその唯一の習い事もやめていた。これ以上続けても「この下手くそな字がうまくなることはないだろう」と、ため息とともに諦められていたのである。実は縦書きで文章を綴る際には、そのまま右に文章を書き進めてゆくのか、左に書き進めてゆくのかは、いまだに一瞬だか迷ってしまうところではあり、そういったところはペン習字教室に通ったにもかかわらず、直っていないままになっている)し、そんな「生徒たちのためを思って」というよりも、明らかに「教師の都合だか我欲だか」に基づいているようなもの――家庭での学習時間の申告――を強制させられたところで、私が勤勉になる理由にも必要にもならなかった。何より面倒くさいだけだった訳だし。もしかしたら親は、人によっては私の同級生でも大学進学を――しかも、より良い大学への進学を――見越して、学区内トップの公立進学校に行くどころか、県内でトップの私立、或いは近県に於いてもトップクラスの、それどころか全国でも有数の超進学校への進学を目指しているような者は、日に四時間も五時間、もしかしたらそれ以上の時間を勉強に費やしていることや、地元で評判の良いいくつもの学習塾を掛け持ちするどころか片道一時間以上はかかるような遠方の都会の有名予備校の系列にまで通っているという様な話も耳にしていたのかもしれない。それに対して私はゼロ。