ヒトに戻ったらしい
「ふはぁ、てんごくぅ~」
温かいお湯が張られた湯船に浸かると、旅の疲れなんか吹き飛ぶ。
湯番の女性、エスメさんが、ニコニコしながら手足を投げ出してくつろいでいる私を見ていた。
「奥様の事を、私も心待ちにしていました。今夜のために磨きあげますので、お任せください」
「うん、ありがと~」
ん?
今夜?
「今夜のため?」
私の頭を洗ってくれているエスメさんを見上げた。
「はい。大事な大事な初夜なのです。決戦の場に赴く奥様を、完璧に仕上げるのが私の役目」
決戦の場って、エスメさんも戦闘態勢が~とか言うんだ(笑)
じゃない!
笑っている場合じゃない!
「張り切っているところを申し訳ないけど、私とメルキオールさんとの間に、初夜とか訪れないから、何か無駄になりそうで申し訳な…………」
「そんなことはありませんわ!あの草オタクが、先程までどんな目で奥様のことを見ていたことか!」
いや、草オタクって、あなたの主では?
「奥様が伯爵様をヒトに戻してくださって、玄関ホールでお出迎えしたお二人の姿を見た使用人達はみな、感激しておりました!」
「そ、そうかな?」
少し前に部屋の前で別れたメルキオールさんの姿を思い出す。
『キティにプレゼントを持ってくるよ。少し出かけてくるから、君はゆっくりしてて』
そう言い残して何処かへと向かったようだ。
初対面の結婚式の時はともかくとして、領地に迎えに来てくれた時からはずっと親切にしてくれている。
よほど、件の御令嬢に困らされているからなのだろうけど、元々が悪い方ではないわけで、好きなことに打ち込んでいる姿は羨ましいと思えるくらいだ。
過去に悲しい事件で御両親を亡くされているのに、驚くほど物腰が柔らかく優しい紳士に成長されているのでは?
周囲の方々の影響もあるのだろうけど。
オマケに、私の命と言っていいくらいのキティを可愛がってくれる。
でも、やっぱり、夫婦生活を送るつもりはないと言っていたから、今夜で何か関係が変わることがないだろうし、私もそれを望んではいない。
まぁ、今はエスメさんのマッサージの手に癒されながら、キティのオヤツのことでも考えて、今後のことはメルキオールさんと相談することとしよう。
「アシーナ、入ってもいいか?」
コンコンと扉をノックしたのは、メルキオールさんだ。
夕食の時に、後で部屋に行くと聞いていたのは、ついさっきのことだ。
湯浴みが終わった後にしばらくゆっくりしていると、普通に夕食に呼ばれて、普通にメルキオールさんと二人で食べて、“また後で”とそれぞれ部屋に戻ったばかりだった。
私の方は、キティに晩御飯をあげている最中で、器をキティと決めた定位置に置いたところだ。
「はい、どうぞ」
私の返事を待って入ってきたメルキオールさん……名前が長くてめんどくさくなったから、メルさんでいいか。
で、そのメルさんが部屋に入って来ると、少しだけ視線を彷徨わせていたけど、部屋の端っこでご飯を食べているキティを見て、口元を緩めていた。
それに気付いたら、私もなんだか嬉しくなる。
「プレゼントのことだけど、キティに首輪を用意したから、見てもらえるか?」
「わざわざ用意してくれたのですか?」
「勝手に悪いかなとも思ったが、これをつけていればたいていの所には連れて行けるから」
メルさんが嬉しそうに差し出してきたものを見る。
首輪の真ん中についたプレートにクラム伯爵家の家紋と、キティの名前が刻印されている。
それから、首輪には所々に青く光る石がはめ込まれていた。
何の石かは考えたくない。
「あの、これ……可愛らしいですが、とてもお高いやつでは?」
「キティに似合うと思って。よかったら、後でアシーナがつけてあげてくれ。それから明日にでも僕に見せてもらえるか?」
「はい、メルキオールさんのお望みなら」
キティにつけてあげたら、確かによく似合うだろうけど、いいのかな?
私が勝手に飼っている猫に、ここまでお金をかけてもらっても。
「あと、これはおそろいでアシーナの分も作ったんだ。こっちはブレスレットタイプだから、これももし良かったら、身につけてもらえたら嬉しい。ここに置いておく」
メルさんは私の返事を待たずに、近くにあったテーブルに小箱を置く。
「では、おやすみ。アシーナ、ゆっくり休んでくれ」
「え、あ、はい、メルキオールさんも。お休みなさい」
これで用事は終わりなのかと、あっさりと部屋から出て行くメルさんの背中を見て、拍子抜けしていた。
エスメさんに言われたことを思ったよりも意識していたようで、自分で自分を笑うしかない。
私達は、夫婦であって、夫婦でない。
「あ……お礼を言うの忘れてた……」
いつの間にかご飯を終えたキティが、ベッドの上で丸くなっている。
「私も、もう寝よ……おやすみ、キティ」
キティに声をかけると、私もすぐにフカフカのベッドに横になって、夢の世界へと旅立っていた。