第5章 翼を下さい
第5章 翼を下さい
あの後、湯船に浸かるのは痛すぎると言う事であったかいシャワーをタップリ浴びた僕は風呂から追い出され、今はTシャツ短パン姿でベッドにうつ伏せで倒れ込んでいた。
擦り傷がシャワーを浴びたのでチクチク痛い。これがシミュレータじゃなく街中の通常空間だったらと思うとゾッとする。
シミュレータやレースなどの限定空間ならば、この程度で命を落とす心配は殆どない。安全装置プログラムのお陰で間一髪の所でログアウトできるからだ。1回目の走行時のクラッシュもソレで助かっている。もちろんレッドブルも無事だ。しかし普段生活している通常空間だとそうはいかない。レッドブルは大破、乗っていた僕もタダでは済まないはずだ。
この僕たちが生きている電脳空間で一番多い死亡原因が老衰、その次が事故死だ。昔の人たちは「電脳空間ならば本物の体が傷を負わないから事故で死ぬことはない」と思っていたらしいが、人間の体や心はそれ程単純ではなかった。
確かにカーボンの持っている本物の体は事故をしようがそれこそ刃物で刺されようが傷を負わない。しかし、傷を負った本人が「この傷と痛みは本物だ」と感じ意識を失ったとすると困った事に人間は「あ、これは死んだ」と強く認識するのだ。それによりいわゆるショック死を引き起こすこととなる。
レースや、どちらかと言うとバトルステージなので安全装置プログラムが正常していても年に数回「ショック死」が起きている。こればっかりはどうしようもないらしい。
痛みを感じない、血が出ないようにすれば良いんじゃないかと言われるとそうなんだが、そうなると逆に都合の悪い事が起きる。それはこの船が目的とした第二の地球に着いた時の事だ。
どれだけ先になるかは分からないが、実際の惑星に着いたとする。するとカーボン達は本物の肉体に意識を戻して船外に出る。テラフォーミングをするためにだ。地球人が住める惑星に着いたからって、何も手を加えずにすぐ住めるなんて優良物件ではないはずだ。この船を中心として居住施設を建てたり、地球で留守番をしている人達に通信を送ったり、土木工事もするだろう。その時に「僕らは死なない無敵超人」と勘違いしたまま作業をしよう物なら…。まぁその先は言わなくても想像はつくだろう。母星から来た地球人は大量の死体と、朽ち果てたこの船を見る事になるだろう。その為、電脳空間は地球上の世界とほぼ同じように作られていて、ソレは僕たちのこの体もそうである。人は死に神とはまだまだ仲良くしなくちゃならないみたいだ。
とは言え、死に神もだいぶ上前を刎ねられているのも実状だ。僕たちは風邪などの軽い病気にはかかるが、ガンや内臓の不全、心筋梗塞など死に直結するような病気にはかからなくなった。また先天的な遺伝子の欠損も修復され誕生する事ができる。しかもタダで。詳しくは知らないがカプセル内の本当の体を、勝手に船の設備やナノマシーンが治してくれているんだそうだ。見た事は無いけど。
地球としては実際には閉鎖されている艦内空間に病気を広げたく無い訳だし、限りある人口を意地でも新天地に届けたい理由もある。病気を理由に死んでもらいたく無い訳だ。逆に言えば危険な行為で事故死する様な人間は、新天地で暴走行為を皆がしないよう見せしめのために死に神に収穫して貰うのである。まぁ事故に巻き込まれる人もいるからそこら辺はフォローが足りないんじゃ無いかとは思うけど。
ただ、この娯楽性を地球から運べなかったこの船のコンピューターは、人間たちのガス抜きのためか、罪滅ぼしのためかは知らないけど、多少なりとも命が掛かる危ない娯楽を黙認どころか推奨しているところがある。良いか悪いかは別として、この船のほぼ全員が熱中しているのは間違いないんだ。
そういう理由で、僕のこの全身の擦り傷は自己責任の賜物の為、魔法をかけられた様に一瞬で消える事は無い。今日は寝付きが悪くなるのが予想できた。ベッドの脇のサイドボードには「あの部屋」にある(僕はライブラリーと呼ぼうと思っている)コレクションや資料の文字通り「目録 インデックス」が置いてある。実際にクリップフォルダーの形をしていて、表紙を開くと電子画面がポップアップする仕組みとなっている。どうやら認証プログラムが入っているらしく、決められた人物以外には開いてもメモ用紙一枚しか挟まれている様にしか見えないらしい。表紙には「ようこそネルフ江」と書いてある。なんかの暗号なんだろうかな?
ソレを手に取ろうとしたタイミングで僕の部屋の戸が空いた。ミュートが救急箱を持って、パジャマ姿で入ってきた。彼女は僕がジュニアスクールの時に着ていたパジャマを着ていて、それでも袖や裾が余っている。頭は長い金髪をタオルでターバンの様にまとめていて、顔はピンク色に染まっていた。
入って来た瞬間、石鹸の良い匂いがした。彼女が近づくにつれソレが強まり僕はさっきの風呂での事を思い出して心臓がバクバクする。そりゃそうだろ?健全な男子が水着を着ていたとは言え、スタイル抜群の女子と一緒にお風呂だよ?しかも自分の体の隅々まで洗ってくれた訳だし、そのなんだ胸が背中に当たってた訳だし…。
絶対に仰向けになれなくなったのを悟られないように平静を装う僕の脇の隙間にミュートが腰を下ろす。彼女は救急箱に乗っけていたアイスキャンディーの一つを僕の頬に押し当てて、
「何落ち込んでんの?これでも食べて元気出して下さいね」
「う、うん」
「ほら剥いてあげるから、寝てないで体をおこして下さいよ」
どうしたものかやばい事になった。僕は横寝になり、上側に来た右足を曲げる事により青少年の肉体的興奮による身体的な反応を隠蔽するミッションに成功した。
「何よソレ。子供じゃ無いんだから咽せても知りませんよ?」すみません。子供じゃないからこんな格好で食べようとしてるんです。
「明日からどうします?走るとしても何か作戦が必要ですね」
「そうだよなぁー。明日は午前に授業があるからダグの家に行って相談するしか今は思いつかないなぁ。ミュートも付いてくるだろ?」
「そうね。今日に走りの詳細を私からも伝えたいし。そもそもあんな暴れ牛の中じゃどんな状態で走っていたなんてロムさんには分かってないでょ?」
ごもっともです。しかもなんかだいぶ砕けた口調になってるし。いや、なんかカノジョみたいな話し方だから余計にドキドキしてくるなぁ。
「じゃあ決まりだな。シミュレータのデータを取り出してダグに見てもらおう。午後はダグの家でシミュレーションしよう」
「了解!そうと決まれば、ソリャ!」
ミュートは食べ終えたアイスキャンディーの棒を口に咥えたまま、僕をうつ伏せに転がし服をたくし上げて、僕の傷だらけの背中を晒した。
「きゃー!エッチー!」わざと悲鳴をあげる僕を無視して彼女は背中に何やらひんやりした液体を手で塗り広げた。沁みてチクチクするのだが、彼女の細い指にあちこち撫でられてエロい意味でも気持ちがいい!
「消毒して絆創膏や包帯巻いてあげるから、じっとしてなさいよー」
「やめてー、お嫁に行けなくなっちゃうー」
「ほーら、ここが良いんだろー?」ミュート、オヤジ化してるって!
「クネクネしないでよ!そうだ、これならどうよ!」ミュートが僕の尻の上に跨って来た!やばい、いろんな、主にアレがベッドマットに押しつけられる!悶絶する僕の背中を一通り手当てすると脇腹からお腹の方に手を入れて来た。いかん!コレは…
「はいゴローン!次はお腹と胸よ!バンザイして…」
僕の下腹部の上に腰を下ろし直したミュートが急に無言になり、もう一度座り直す。彼女にも分かったんだろう、自分の尻の下で僕のアレがギンギンに硬直してこっちもバンザイしていることに!
「ば、ばかぁぁぁー!」
脱兎の如く僕の部屋の入り口まで彼女が飛び退き、アイスキャンディーの棒を暗殺者のナイフみたく僕の額にストライクさせた彼女は、
「そ、そんなに元気ならあとは自分でやりなさい!はい、もうお休み!サッサと寝ちゃえ!」と言うが早いかドアを勢いよく閉めて、隣に用意された自分の部屋に足音も激しく戻ったのだった。
僕は衝撃で天井から舞い落ちる埃を眺めながら、今日何度目かの失敗を悔やんだのだった。
「一応手はあるんだが、怒るなよ?」
「僕が怒るってことかい?」
珍しくダグが深妙な顔で僕に向かい合った。今日は授業だった。
昨夜遅くまで近所の友人達と「旅行の送別会」と称した飲み会に参加していたため、あくびを噛み殺して朝食を取っていた両親に、僕とミュートは簡単に挨拶をし、ダグの家にシェアカーで移動した。
ミュートも僕も昨日のシミュレーション結果をダグに伝え、いち早くアドバイスを受けたかったため、いつもより30分も早くに着いてしまった。
ダグの家は僕たちが住んでいるような謂わゆる一軒家では無い。ダグの両親が、この宇宙船が出港する前から営んでいた自動車整備工場を再現している。「旅行」に出ているダグの父親から聞いた話なのだが、あの方舟計画を立てたコンピュータを持っていた極東の島国の地方の更に地方、つまりはど田舎の村唯一の整備工場だったらしい。敷地の半分はオフィスで残り半分は車が2台やっと入る整備施設。オフィスの2階が住居になっているのだが、ダグはオフィスも居住空間にしている。
アサヒ自動車と、今や使われなくなったその島国の文字で屋号が書かれている看板のすぐ下のガラス戸をあけ、オフィス奥にパーテーションで遮られた応接室をダグは僕との受講部屋にしている。
いつものオンボロソファーに僕とダグは横並びに座っているのが、ダグは僕の顔を見つめながら真剣な口調で僕に「怒らないでくれ」と言ってきた。アドバイスを聞きにきた僕に立腹する理由なんてあるものか?
「レッドブルの性能を下げる。つまりデチューンするって事だ」
「…やっぱりか。いや想像は付いていたよ…」
明らかに落胆している僕の背後からソファーの背もたれ越しにミュートが両肩に彼女の手をかけてくれる。
「今回のレースには間に合わないってだけよ…。この先ロムがちゅんちゅん丸に慣れてこれば、フルパワーで走らせられるわ」
昨夜の一件があり、今朝僕からの謝罪を案外あっさり受け入れたミュートは「怒ってないわよ?」とアッケラカンとしていた。ただわかりやすい変化として完全に僕との会話はタメ口になっていた。僕としては距離を縮められたように感じられてチョット嬉しいんだが、やっぱりミュートってお姉さん気質なのかなぁ。
「それにですね、ダグのプランでもフェアレディよりも高い性能にしますし、何よりオプション装備はそのままなんです!むしろ優勝をちゃんと狙える性能に仕上げるんですよ」
ミカまで僕の正面に回って、手を取って力説してくれる。
そりゃ僕としては悔しいよ。フルパワーのレッドブルを乗りこなしてさえいれば、こんな地方都市の小さいレースどころか、もっと大きな規模のレースでさえ優勝を掴めるかも知れなかったのに、僕の技量が足りないばっかりに、その小さいレースの優勝をどうにか手にできるかもしれないってレベルに落とさなきゃいけないわけだし、何より他の3人がこぞって僕を慰め、励ましてくれる。情けないやら悔しいやら、恐縮するやらなんかいろんな感情が胸を圧迫してくる。
ヤバイ、色んな意味で泣きそうになってきた。どうしようヤバイヤバイ!って焦りまで加わってきた僕の胸中を悟ったのか、肩に乗っていたミュートの両腕が僕の顔を覆うように腕ごと巻きついてきた。
後頭部に彼女の大きめのバストが当たっていて、泣きそうになっている顔をダグとミカから覆い隠してくれている両腕は、僕のよりも全然柔らかく弾力があり、こんな風に巻きついてきても骨が当たって痛いなんて事もない。恐らく頭上すぐにミュートの顔があるんだろう、真上から彼女の声がする。
「私もセッティングに参加させて。今のロムの操縦できる最高出力ギリギリの性能に仕上げてみせるから、ね?」
僕は無言で頷く事しかできなかった。
そこからが結構大変だった。ダグの家で夜遅くまでシミュレータでの僕のドライビングスキルの算出に時間を取られてしまった。フェアレディに乗って今までの基本値を出したり、レッドブルに乗り換えて性能比較を出し、それと比べたり、あそこの性能は上げろ、ここの性能は下げろ、名前をちゅんちゅん丸に書き換えよう、車体カラーを黒にしよう、夕飯はピザかカツ丼かなどなど…。あれ?なんか混ざってない?
そんなこんなで時計の日付が変わる一時間前に何とかセッティングの当たりを付けることが出来た。ダグに明日は体を休めるように厳命されてミュートと一緒にアサヒ自動車から追い出された時には、ちょうど12時になっていた。
「明日は…もう今日になっちゃったわ。朝起きたら旦那さま達に贈る何かを買いに行こうと思うんだけど、どうかな?」
助手席のミュートが僕に問いかける。そうだね、と運転に集中していた僕は意図せず生返事をしてしまった。
「大事なことよ?ご両親が「青春18旅行」に出てしまったら、2年ぐらい電話でしか顔を見る事が出来ないのよ?」
「分かってるさ。でもなぁ二人とも旅行に出るのにあんなに急がなくったっていいのに。ダグの所だって期限ギリギリの三か月経ってからだったのにさ。なんか息子といち早く離れたい理由でもあるのかな…」
「私には…分からないわ」
「なんか意味深な言い方だね?なんか知って…」
「あれよ、もう分からないの?お二人ともまだ若いのよ?新婚旅行みたいにイチャイチャしたいのよ、ロムの目の届かない所で!」
「そ、そんなもんなのかな。まぁ二人とも仲がいい事には違いないけど」
「そんなものよ、夫婦なんだから」
「そっかー。羨ましいなぁ」
「イチャイチャするのが羨ましいんだ?」
「まぁ、そりゃね…」
「健全な男子だもんねー」
「なんか言いたげですね、ミュートさん?」
「いえ別に、何でもないですよヒロム坊ちゃん」
なんか含みのある言い方をするミュートの顔が、運転中のため見る事ができないのが非常に残念だ。
きっと意地悪な、でも可愛い笑みを浮かべているんだろうなと、僕は明日の買い物がちょっとだけ楽しみに思えてきた。