Sword Of Song
4 冬
倉庫での一件から一か月。
瞼の裏に温かな光を感じて、サクヤはゆっくりと目を開いた。どうやら、束の間、眠っていたらしい。
ステンドグラスで彩られた展望室の窓から広がるのは、青い空と手の届かぬデメルの灰色の街並み。地上にある青はデメルのはずれにある湖の冷たい色。冬を身近に感じる曇天からのぞく陽光だけがサクヤの手の平に収まるように、緑のワンピースに温かな熱を落としていた。ここ最近のサクヤの日課は、こうして窓から眼下の街並みを眺めることだ。
「毎日飽きませんねぇ」
そこに音もなく、やって来たのはナインだ。いつもの窓、いつもの場所で窓の外を眺めるサクヤに、それでも毎日声をかけてくれる。それをチラリと一瞥し、すぐに目線を戻す。
「そろそろ、デメルでの飛行船の遊覧が終わり、近日中に首都ポアロに向かうそうです。ポアロに入れば、あなたの身柄は研究施設がお預かりする手はずとなっています。準備はよろしいですか」
確認の形をとろうとも、サクヤに選択肢はない。座っていた椅子から立ち上がり、サクヤは表情を変えずに話しかけた。
「とっくに心は決まっています。あの人たちと別れ、この服に身を包んだ時から」
緑は、施設の子どもに課せられた色。ツバキの配下を示す服の色。
異国に伝わる七人の神を模したステンドグラスの下で、どこか人間離れしたように佇むサクヤの姿はナインにどう映っているのだろうか。瞳の見えぬサングラスの奥で、それでもどこか心配そうな色を見た気がして、サクヤは問う。
「なぜ、私に構うのですか」
純粋な疑問を投げかけるサクヤに、出会った当初から、ずいぶん情を滲ませた声音でナインは言う。
「なに、少し母を思い出しましてね。妹を産んだら命はないと言われていたのに、産むと決めた母の覚悟の表情が、殺戮装置としての自分を認めた貴女に重なって見えた。それだけです」
心根は優しい男なのだろうか。もっとも、それくらいではトーマたちにしたことを許せるはずがない。けれど、サクヤの中にナインを厭う感情はなくなっていた。
「言い忘れていました。貴女に、上司から連絡です」
連れてこられたのは、飛行船の中で外部と連絡の取れる唯一の電話が設置されている場所だった。ナインは入り口付近に佇み、それ以上部屋の中に進もうとはしない。部屋には小さな窓と小ぶりなテーブルセットが一つ。その上には、おそらくは研究施設とつながっているだろう受話器が置かれ、静かにサクヤの訪れを待っていた。
空を航行する駆動音だけが響く中、音もなく受話器を耳に当てたサクヤに届いたのは、想像以上にクリアな音声だった。
『はじめまして、でいいかしら。ツバキの愛娘さん』
女の声だった。しかし、機器を通しての声は若いのか老いているのか分からない。
サクヤは、しばし逡巡した後、サクヤであることをやめた。
「はじめまして。T—一〇〇五三九八、通称サクヤと申します。あなたの名前をお聞きしても、よろしいですか」
『構わないわ。こちらから会話を望んだわけだしね。私はヒサギ。アナタがこちらへ着いてからの身柄は私が預かることになっているの』
(ヒサギ)
胸中で繰り返せば、それは母と同じ研究員の中にあった名前だと思い出す。確か、時計塔の西棟の責任者であった名前だ。もっとも、この女性が本当にヒサギで、サクヤの記憶の者と同一であるかは定かではないが。
「私の何が知りたいのですか。大まかな調査表、及び施設に残っている資料を紐解けば、T—一〇〇五三九八について知ることができると思うのですが」
これは、本当のことだった。事前にナインがサクヤに関する調書を送っていることは知っていたし、施設にはサクヤも知らない研究内容の書かれた資料が残されているはずだった。
会話を拒絶しているともとれるサクヤの問いに、しかし、ヒサギは気分を害した風もなく、むしろ愉快そうに電話口で笑う。
『別に、単純な興味からよ。少しアナタと話がしたい。資料からは分からないアナタを知るために』
明るい声音の奥に潜む、こちらを値踏みするような意図を感じて、サクヤはしばし押し黙る。ヒサギが望んでいるのは、ただの会話ではない。この会話を通して、サクヤを試している。おそらくは、有益な存在であるかどうかを調べるために。
サクヤは、一つ吐息を漏らし、言葉を選んで話し始めた。
「雑談ついでにお聞きしますが・・・・・・この会話が盗聴されている可能性は?」
『ないわ。最新の防犯システムを搭載した連絡機器だから。見た目は旧式だけど、性能はピカ一なの。もっとも、盗聴を気にするような内容をアナタが知っているとは思えないんだけど』
サクヤの慎重な姿勢を気に入ったのか、少し砕けた雰囲気のヒサギが言う。しかし、その裏には自分を馬鹿にした響きがあるのをサクヤは見過ごさなかった。
親しみやすそうな口調とは裏腹に、どこまでも真意の見えないヒサギの思惑を推し測りかねるサクヤだったが、そうであればと率直に思ったことを話すことにした。ただし、内容には十分注意をして。
「では、単刀直入にお聞きします。春先から起こっていた頻繁な地震を起こしていたのは、あなた方ですね?」
質問の形をとった断定の口調でサクヤは言った。何も応えの返らない電話口を気にすることなく、サクヤはさらに言葉を続ける。それは、トーマに出会ってから、今に至るまで集めた情報で、ずっと考えていたことだった。
「プルトーに潜んでいる殺戮装置をあぶりだすために、地下の町で何らかの攻撃をした。それが、地震という形で上層の町に響いていた。違いますか」
ヒサギは答えない。ただ、面白そうにサクヤの推論を聞いているようだった。
「しかし、一向に殺戮装置は姿を現さない。なので、報道を流して殺戮装置の名前を出し、様子を窺った。殺戮装置の存在は世間に知られていても、その姿や真実を知っている者は少数。報道で国民が混乱を起こそうとも、具体的な何かがなければ、情報が風化されるのも早いと考えた。リスクを冒してでも殺戮装置を探す理由があなた方にはあった。ゆえに、殺戮装置の報道で行動を起こす者をあなた方は追った。それが、たまたま、私になった。探していたのは私ではなく、殺戮装置に関連する者であれば誰でもよかったのでは?」
殺戮装置の話題で動く者を追えば、殺戮装置にたどり着く可能性は高いのだから。
そして、サクヤの他にも行動を起こした者はいた。見つかったのは、きっと、向こうが先。サクヤに目が向いたのは、彼女がいなくなってしまったから。
「プルトーで私たちが見つけた遺体。その中の一人の女性は私と同じ殺戮装置でした。あなた方が最初に目的としていたのは彼女だったのではないのですか」
鋭く切り込めば、電話の先で楽しそうな笑声が上がった。その反面、口調は至極残念だとばかりに初めて答えが返る。
『ご明察。そう、私たちが最初に見つけた殺戮装置はアナタではない。出会った当初は男性だと報告があがったくらいだもの。私たちが追っていたのは……』
「T―八一六二九四。通称ツクシですね」
言葉を遮ってサクヤが告げれば、部屋の隅で驚いたようにナインが目を見開く。
そんな部下の動揺をよそに、ヒサギは余裕のある声で会話を楽しんでいた。
『なるほど。元々、彼女もツバキの傘下のモノ。もしかして、知り合いだった?』
「・・・・・・いえ、面識はありませんでした」
ツバキがたまに話してくれた他の子どもたちの話の中に時折聞いた名前だったが。そんなことまで答える義理はない。
サクヤは、知らず手を太ももに這わせた。そこにあるのは、事切れていた彼女と同じ刻印。殺戮装置である証。違うのは、そこに刻まれている文字だけ。
(T—一〇〇五三九八)
それが、三九八がサクヤである証でもある。母からもらった名前を想起させる刻印、殺戮装置であることを忘れさせない刻印。見えない呪縛のように自分を絡めとる、この文字がサクヤは大好きで、大嫌いだった。
「ツクシは薬を欲していたのではないですか。上層階でしか手に入れることのできないバイタルを正常化させる薬を」
ツクシと一緒に倒れていた、もう一人の女性の遺体。彼女の死因は老い。しかし、急激な老化現象による正体不明の病でもある。研究機関で老化の進行を遅らせる処置を施されていた研究員によくみられるもので、定期的に特別な薬を摂取しなければ発症してしまう。ツバキの死も同じ。ツバキは、自然の摂理の結果と言っていたけれど、サクヤだってできるなら薬が欲しかった。きっと、ツクシも同じだったと思う。家族を救いたかったに違いない。
「薬を条件にあなた方はツクシに近づいた。だから、地震はいつの間にか治まっていった。本来なら、私ではなくツクシを迎え入れるはずでしたね?」
パチパチと電話越しに拍手の音が響く。それは、サクヤの推測を称賛し、肯定するものに違いなかった。
『素晴らしいわ。さすが、ツバキが手元に置くことを許可した被検体。そう、アナタの言った通りよ。私たちが最初に見つけ、交渉をもちかけたのはT—八一六二九四。本来なら、もう研究機関に招いているはずだった』
「では、なぜ、彼女を」
殺したのか。
その言葉を告げる前に、忌々し気に響いた舌打ちとヒサギの怒りの滲んだ声音がサクヤの耳に届いた。
『懐柔するために動いていた男が、逃亡を図らなければ、こうはなっていなかったのよ』
サクヤの脳裏に、ツクシと折り重なって息絶えていた男の姿が浮かぶ。二人は、サクヤの想像した関係だったのだろうか。男は、ツクシは、一体どんな胸中だったのだろう。
『幸いアナタという新たな殺戮装置の目星もついていたので、排除させてもらったわ。できれば、両方手に入れたかったけど。下手に反抗されても困るでしょ。従わない殺戮装置は危険なだけ。もう、だから、人格なんて消してしまえばいいのに・・・・・・』
「今、なんと?」
『言葉の通りよ。あぁ、知らなくて当然か・・・・・・十三年前の大災害の折、残留していた殺戮装置を使って、復旧させた時計塔から力を行使した。そうして、国の安定を計った後、研究機関に管理されている殺戮装置は人格をもたないように統制されたのよ。人格があるから、情を呼び、揺らぎ、流される。現状、国を支えるための殺戮装置は、本当に機械みたいよ。ある意味、これもツバキの招いた結果だわ』
言葉が出なかった。施設に残され、逃げ出すことの叶わなかった子どもたちが受けた仕打ちを思い、サクヤは頭を金づちで叩かれたかのように衝撃を受けた。
『ただ、人格のない殺戮装置は能力が落ちるのが難点なの。まぁ、言っても詮無いことかしら』
言葉の出ないサクヤに構わず、ヒサギは独り言のように呟く。実際、サクヤの返答など求めていないのだろう。
「・・・・・・最後に、一つお聞きしてもいいですか」
『いいわよ。もっとも、こっちに着いたら、いつでも会話できると思うけど。今回は、アナタが自分の有益性を語ってくれた対価として、答えてあげる』
サクヤという殺戮装置が想像以上に優れていたと感じたのだろうか。話し始めたときよりも機嫌よく応答するヒサギ。サクヤは、一度瞳を閉じて心を落ち着かせてから、なるべく平静さを保った声音で問う。
「私という殺戮装置がいること、その居場所、そして、トーマたちを罠にはめたこと・・・・・・情報の出どころはどこなのですか」
『・・・・・・本当に頭のよく回る・・・・・・。その質問には、残念ながら答えられないわ。というか、アナタは聞かないほうがいいんじゃない。仲間だと思っていた人を糾弾したくはないだろうし。では、アナタの到着を待っているわ』
暗に裏切り者がいるという響きを含んだ声音と共に、ヒサギとの会話は終わりを告げた。
時は遡り、秋の半ば。紅葉が軽やかに舞う、目にも鮮やかな季節。
そんな窓の外をよそに、トーマの事務所には、どことなく暗くて重い空気が漂っていた。
「チッ」
もう今日何度目か分からない、いや、倉庫を後にしてから何度したか分からない苛立ちを滲ませた舌打ちが部屋に響く。不機嫌をそのまま表したかのような部屋の主は、今日も今日とて、無理やりに日常の業務をこなそうとしていた。それが、まるで進んでいないことを当の本人だけが認めない。
「チッ」
心ここにあらずの状態では、簡単な作業ですらミスが目立つ。それが苛立ちを呼び、完全なる負のスパイラルと化していた。
「兄貴・・・・・・」
「うっせぇ、黙って仕事しろ」
何かを訴えかける瞳をしたリュウを一言で黙らせ、トーマはまるで頭に入らない書類に目を通す。通すフリをする。何かに没頭して忘れたかった。
(わけわかんねぇ・・・・・・)
サクヤが殺戮装置だったこと、十三年前の大災害のこと、ツキカケの死のこと・・・・・・トーマがすべきこと。何もかもが頭の中でリフレインして思考がまとまらない。特に、最後にサクヤが放った一言がトーマの胸に重くのしかかっていた。
『十三年前、あの時計塔の事故を起こしたのは、私たち。トーマさん、あなたの弟を殺したのは私も同然なんです』
ツキカケが死ぬきっかけとなった大災害がサクヤのせい・・・・・・だとしたら、彼女がいなければツキカケが死ぬことはなかった?
ツキカケを間接的に殺したのは、サクヤ?
サクヤを憎めば、このモヤモヤとした気持ちは治まるのか。いや、そもそも、なんでこんなに苦しいのか。自分がすべきことは——。
「チッ」
「あー、もう!」
トーマの鳴りやまない舌打ちに、ついに我慢がきかなくなって切れたのは、珍しくもコウだった。自分のデスクをバンッと両手で叩き、ツカツカとトーマに近寄った。振動で哀れにも零れ落ちたボールペンがコロコロと悲しくコウを見送る。
「あ? なんだ、コウ」
いつもならトーマの眼光に怯んで引き下がるコウだったが、今日は違った。視線を真正面から受け、逸らすことなくトーマをにらみ返す。
「アニキ、いつまでそうやって、らしくないこと続けるんスか」
「なんだよ、オレらしいって」
いっそ投げやりな声音で突き放すように言えば、コウはトーマのデスクを叩いた。
「俺は、二人が話してるのを見るのが好きだったんス」
コウが今までに聞いたこともないくらい、強い意志をもって告げる。驚く一同に構わず、強い調子はそのままに再び口を開いた。
「まぁ、話してるっていうのはちょっと違うかもしんねぇんスけど、それでも、何て言うか、あのときの二人の雰囲気が堪らなく好きッス。いつも以上に、いや、今まで見たこともないような優しい感じで手を差し出すアニキと、その手をとって、少し眉間に皺を寄せながら、想いを指先で表そうとするサクヤちゃんが。そうやって、ゆっくりと想いを交わしあって笑うアニキたちが。端で見ていて、幸せになるッス。俺の思う幸せの形の一つなんスよ。アニキと知り合って、この事務所に入って、ぶっちゃけ散々な目にも会いましたけど、二人が話す光景を見ることができるんなら、頑張ろうって思えたッス」
一気にまくしたて、コウは一息つく。何も言葉を発しないトーマを見据え、目元を泣きそうに歪めながら懇願するかのごとく口を開く。
「アニキは、サクヤちゃんのこと、嫌いッスか。十三年前の大災害を起こしたかもしれないから? 殺戮装置だから? けど、それだけで嫌いになるんスか。俺はサクヤちゃんが好きッス。どんな存在でも。俺は、ここでサクヤちゃんも一緒に過ごしていた時間が今までで一番楽しかったッス。アニキはどうなんスか。このまま、煮え切らない態度のままサクヤちゃんとお別れになってもいいんスか」
十三年前、コウも家族を失った。大切な者を失う痛みを抱えているのは同じだった。
「オレは・・・・・・」
「唯我独尊。人を人とも思わないようなところがある。横暴。だけど、優しくて自分の決めたことを、約束を貫き通す漢。少なくとも俺の知っているトーマという人物は、こんなとこでウジウジするくらいなら、相手の面を殴りに行く人ですね」
「そッス」
さらりとリュウがトーマの人となりを酷評すれば、コウが我が意を得たりといった風に笑顔で頷く。
「チッ、テメェらな」
舌打ちと共に文句を吐き出そうとすれば、今までとは違う舌打ちの音に気付く。どこか、軽くなりかけた胸を自覚する前に、空気をぶち壊す音が響いた。
「せや、よお言うたで、二人とも」
轟音とも形容されそうな音で扉を開けて来たのは、いつものケイジとオーキだった。オーキは、勢いよく開けさせられた扉の無事を確かめてからいたわるように静かに閉めていた。
「な、テメェらいつから・・・・・・」
「とりあえず、トーマが舌打ちを八回したのは知ってるで」
「数えてたのかよ! いや、何しに来たんだよ」
「何て、リュウに頼まれてサクヤちゃんの居場所を探っとってんけど」
「分かったんですか」
「モチのロンや」
リュウに力強く頷いたケイジは真面目な顔になってトーマの方へ視線を向けた。
「こっから先を聞きたかったら、トーマがどうしたいかを決めてからの方がええ。中途半端に手出ししてもえぇことあらへんしな。で、どないすんねん」
「オレは・・・・・・」
「少し、いいだろうか」
再び言いよどむトーマを真っ直ぐに見つめて言葉を紡いだのは、オーキだった。普段は、物静かに事の成り行きを見守ることの多いオーキの珍しい様子に一同は一斉に彼に注目した。それを了承ととらえたオーキは、低く深みのある声音で話し始めた。
「トーマ、私が以前、婚約をしていたのは知っているだろうか」
オーキの質問に首肯でもって答えるトーマ。ケイジが驚いた顔をしているところを見ると、どうやら彼は知らなかったらしい。オーキは、ケイジに話すようでいて、その実、トーマに語り掛けるように自身について話し始めた。
「私には、愛する女性がいた。結婚を控え、婚姻届を出しに行く数日前だった。彼女は、交通事故であっけなく逝ってしまった」
「あっ」
何かに気づいたリュウが小さく声をあげる。いつかコウが受け取った古びた婚姻届の用紙。もしかしたら、あれには違う二人の名前が刻まれるはずだったのではないだろうか。
「人の命は、簡単に喪われる。十三年前だけじゃない。いつだって身近にあるんだ」
オーキの眼鏡の奥の瞳は、深みのある温かい色で揺れていた。それは、オーキが今も婚約者だった女性を深く愛し、忘れられないでいることを示しているようだった。
だからこそ、実際に彼女を喪った時の彼の心情を思い、トーマは痛みをこらえるように眉根を寄せた。
そんなトーマの表情を認め、オーキは優しく口元を綻ばせる。彼が、こんな風に笑えるようになるまで、どれほどの月日が必要だったのだろうか。
「トーマ、過ぎたことだ。今は、こうして話すことができるくらい自分の中で気持ちの整理はつけている。心配は無用だ。しかし、だからこそ」
真っ直ぐに見つめる瞳に自分を気遣う光を確かに感じ取って、トーマは静かに次の言葉を待った。
「今、一緒にいる者といつまでも共にいられるとは限らない。どれだけ一緒にいたいと願っていても、叶わないことがある。どうしようもなく別れが訪れることはある。だからこそ、選択肢があるならば、後悔しない行動を選ぶべきだ。トーマ、お前はどうしたい?」
「オレは・・・・・・」
最初はただ、傷を負わせてしまったことへの罪悪感しかなかった。確かに、可愛いとは思ったものの、女は自分の周りに困らないほどいるし、言い寄ってくる者も少なくはなかった。
けれど、彼女の笑顔に触れるうち、指先を通して想いを交わすうちに、トーマの中に他の女性には抱いたことのない感情が生まれた。
いつしか、罪悪感は興味になった。やがて、興味は憐情と哀情に。それらがトーマの中で恋情と愛情へと姿を変えたのは、いつからだっただろう。
「・・・・・・サクヤに、会いたい」
「なら、会いに行くべきだ。そのために、リュウも動いた」
「?」
不思議そうにリュウに視線を向ければ、ニヤリと笑うケイジの顔が目に映る。
「任しとき。リュウに言われて、サクヤちゃんの居場所は調査済み。そこへ行く経路もバッチシや」
「テメェら・・・・・・」
言いたい言葉は山ほどあるのに、胸につかえて出てこない。そんなトーマの心情を分かっているとばかりに頷く一同。
「よっしゃ、作戦も決まってんだろうな」
「当然や」
先ほどまでのモヤモヤとした気分はすっかり晴れた。
(観念しやがれ、サクヤ)
胸中で叫ぶトーマの明るくなった表情を見て、ケイジは声を潜めて言う。
「サクヤちゃんのおる場所、そして、作戦はこうや」
季節は巡り、冬。
昨日のヒサギとの会話を思い出しながら、サクヤは展望室のステンドグラスを眺めていた。今日の天気は快晴。街並みの灰色と湖と空の青色が眼下に広がり、燦燦と降り注ぐ陽光が、明るい緑のワンピースの上で踊っている。
ステンドグラスに描かれているのは、異国で信仰されている神様たち。曰く、世界がまだ神代と混ざっていた頃。その地には七人の神様がいた。神々は、土地を七つにわけ、それぞれを統治するようになった。最も強き神の治める地を中心とし、その周囲に六つの国が出来た。そして、国をそこに住まう人間に譲り見守るようになった。
しかし、神々は人間たちが次第に争いを広げることに憂うようになった。同じ国に住む人間同士でさえ争う。争いを止めようと叫ぶ人間が、裏で戦争を起こす人物を殺していく。幼子を抱えた母親が、孤児から食べ物を奪う。神々は、人間を捨てて天へと還ることにした。ただ一つ、争いを止めぬ人間たちに『喪われし調べ』だけを残して。
(喪われし調べ・・・・・・)
一説には、サクヤたち殺戮装置はその神の末裔の血を引いているとされ、その声こそが『喪われし調べ』だと言われている。
(神の力が失われた中で、唯一残した力ある声音)
それは、確かに神なきあとも、人々の力になる能力だったのだろう。国の中枢で珍重されるほど。その力に多くの者が傾倒するほど。国を牛耳るという荒唐無稽な真実を納得させるほど。
だから、一つ決意をした。殺戮装置なく国を統治できるよう政府に掛け合おうと。ツバキが望んだように。 殺戮装置の力に頼ったこの仕組みは間違っているとサクヤも思ったから。一人では無理でも、他の殺戮装置と協力すれば、上層階にいる政府に打診できるのでは、と。殺戮装置の力を借りずに国を統治するよう迫りたかった。
この力を武器に、ツバキが描いた誰も犠牲にならない世界を実現できるかもしれないと考えてしまった。
けれど、現実はどうだ。研究所は殺戮装置を人として見ることは一切せず、すでに取り返しのつかない段階へ入っているのではないか。いまや、本当に装置としてしか存在が認められていないのではないか。
そして、殺戮装置と関わることによって不幸になる人が、犠牲が生まれているという事実が突き刺さる。
サクヤの脳裏にツクシと、彼女に折り重なるように事切れていた男性の姿が蘇る。
(喪われし調べなんてなくていい、殺戮装置なんていらない、私なんて生まれてこなかったらよかったのに・・・・・・やっぱり、殺戮装置なんて要らないんだ)
それは、偽らざるサクヤの本音だ。トーマが言った言葉を、あの時は否定したかったが、今思えば、彼の言葉が何よりも正しかったのではないかと感じる。
たとえ、自分という存在を否定してでも、殺戮装置がこの世に生まれないことを望んでしまう。
( トーマが聞いたらカンカンに怒るだろうな)
同時に浮かんだ考えに、サクヤは知らず笑みを形作る。サクヤが自分を否定するような言動や、自分を大切にしない様子を見せるたびに怒っていたトーマが思い起こされた。いつものように不機嫌に怒るのではない、温かな怒り。それを向けられることが、サクヤはちょっぴり嬉しかった。まるで、ツバキに怒られているようで懐かしい気持ちになった。今でも、まざまざとトーマの表情やその時の声を思い出すことができる。
だから。
「サクヤッ!」
ぐらりと足元が激しく揺れた後、飛び込んできた声音と人影に、サクヤは自分の中の幸せな幻影が現れたのだと心から信じて疑わなかった。
だって、ここに彼がいるはずないから。
あんなひどいことをして、彼を傷つけることを言って、それでも自分の名前を呼んでくれるなんて都合のいいことが起こるなんて思わないから。
両手と膝をついて転倒を防いだ姿勢のまま、サクヤは瞬きをするのも忘れて部屋を訪れた人物を見上げる。
「サクヤ」
再びかけられた耳朶に響く優しい声に、サクヤはただ泣きそうな顔で応えるしかなかった。
ケイジの考えた計画に従って、燃料補給する間の整備員と偽って飛行船に乗り込んだトーマ、コウ、リュウ、ケイジの四人は、まず動力室へと向かった。
「今回は、俺が一から考えに考えた計画や。失敗はない」
いつもより思いつめた表情のケイジの案内に沿って、人目を避けて移動する。ちなみに、オーキはいざという時のために地上で待機してもらっている。
「どうかしたんスか、アニキ」
「いや、ちょっとな」
声を潜めて聞いたコウに歯切れ悪く答えたトーマは、軽く右肩をくるくると回す。疲れがたまっているのか夏ごろから妙に体が重い。見えない何かが背中にくっついているような違和感。ここにきて、さらに重く感じる背中だが、不思議と不快な感じはしない。
「ここを左に行ったら、動力室はすぐそこや」
先導するケイジがやや緊張した様子で一同を振り返る。
「ええか、動力源をちょいとばかしいじって、着陸命令を出すエマージェンシーを起こす。その混乱に紛れてサクヤちゃんを探して逃げ出す。スピードが命や。本当は、どこにいるか分かればよかってんけど、そこまで広うない飛行船や。この人数で探したら何とかなるやろ。いや、何とかするんや」
それは逆を言えば、会いたくない人物にも出会う可能性が高いということ。それは、口にせず、ケイジは進む。
「見つけたら、端末で連絡して、すぐにトンズラや」
「了解です」
律儀に返事するリュウに続いて行こうとするトーマだが、どうしても気が乗らない。まるで見えない力で引っ張られるように右肩が疼き、右に曲がりたくなる。
「アニキ?」
不自然に立ち止まったトーマに最後尾にいるコウが呼びかける。その声を聞きながら、トーマは考える。
(右に何がある?)
理性はケイジについて行けと言っている。だけど、トーマの勘は反対に行けと叫ぶ。そして、こういった時のトーマの勘は外れたことがない。
「今から別行動だ。オレは右に行く。動力源の方は任せた」
言うが否や、トーマは右へと身を翻した。
「この扉か」
船腹にある一室の前で、トーマは呟く。何かにギュッと抱きしめられるようにして立ち止まらされた扉の前。ここが、どんな場所だか分からないが。
(中に誰かがいる気配がする)
いつでも臨戦態勢に入れるように緊張の糸を張りつめて静かに扉を押し開いたのと、船体が揺れたのはほぼ同時。きっと、ケイジたちが動力源にたどり着いたのだろう。
とっさに、扉の取っ手を強く掴み体勢を保ちつつ、室内に目を向ける。そこに揺れで倒れそうになっている人影を認めた途端、トーマは言葉と共に駆けだした。
「サクヤッ!」
何とか転倒をまぬがれた彼女が、真っ直ぐにこちらを見つめて、幽霊でも見るように瞳を見開いたのが分かった。
サクヤが身にまとうのは、明るいリーフグリーンのワンピース。ステンドグラスに彩られた部屋に誘われた陽光は、反射して極彩色を降り注ぐ。七色の光を花びらのように身に浴びて。
「サクヤ」
色彩の花束みたいな人がそこにいた。
まるで、声を封印していた時のように何も言えないサクヤの傍らに膝をつき、トーマはその身体に腕を回して抱きすくめた。
「トーマ」
かろうじて呟いた彼の名前は、強く抱かれたことでうずめることになった、その肩口に消えていった。息を吸い込めば、今までで一番近くて、胸の奥底をくすぐる香りがした。深い竹林の中で木漏れ日のカーテンを受け、静かに息を吸い込んだ時のような清涼感のするホッとした匂い。
そろりとトーマの身体に回そうとしてしまった腕を、理性を総動員して、彼の胸を押し返すことに使う。
「一緒に来い」
そんなサクヤの精一杯の努力を、トーマの短い一言が簡単に無に帰してしまう。それでも、動かなくなった腕を意識しながら、サクヤは言い募る。
「離れて。私からも、ここからも。私は、殺戮装置。いるだけで迷惑をかける存在なの。トーマたちとは、一緒にいない方がいい」
やっとのことでトーマの身体を押しやり、睨みつける。しかし、トーマは全く意に介した風もなく、したたかな笑みを浮かべた。悪戯を思いついた子どもに似た表情は、トーマによく似合う。
「あぁ? 人間、生きてる中で迷惑をかけねぇヤツなんていねぇよ」
ドクンと心臓がはねた。彼は、まだ自分を人間だと思ってくれるのか。サクヤと認識してくれるのか。
トーマは不敵な笑みを浮かべたまま、あっけらかんと言う。
「そもそも、サクヤなんかより他の連中のほうがよっぽど迷惑かけやがんぜ。コウは早とちりだし、リュウは面倒くさがり。オーキはでかくて邪魔だし、ケイジに至っては存在自体が不愉快で迷惑だ」
鼻を鳴らして言い切るトーマをぽかんと見つめれば、真剣な光をたたえた赤銅色の瞳に行き当たる。
「あいつらに比べたら、サクヤの迷惑なんて何てことはない。むしろ、オレにとっちゃサクヤがいない方が落ち着かなくて迷惑だ。サクヤ自身はどうしたい。オレたちと、オレと一緒にいるのは迷惑か?」
「私は・・・・・・」
強気な態度の中にほんの一匙の不安を混ぜて、トーマが問う。サクヤにとって夢のような言葉。心の中の、空っぽの宝箱の底にたった一つの宝物を見つけたような喜びに全身が震える。
一方で、プルトーで見たツクシの姿を思い出す。その想い人の姿も。殺戮装置と関わることは、相手を不幸せにすることとしか思えない。研究員だって、そうだ。殺戮装置を助けようとしなければ、死ぬことなんてなかったのに。さらに言うなら、あの事故でツキカケが、大勢の人が死ぬことなんてなかったのに。
一緒にいたい。トーマと。みんなと。
一緒にいてはいけない。危険に巻き込むのが、殺戮装置なのだから。
サクヤと、三九八が心の中でせめぎ合う。それは、どちらも偽らざる自分の姿。
「サクヤ。お前は、殺戮装置なんだよな」
黙り込んだままのサクヤにトーマが言う。
何をいまさら。そんなもの、とっくの昔に認めている。
当たり前だというように頷けば、心の底まで見透かされそうな赤銅色の瞳の中に、自分の姿が映る。
「サクヤは、自分を殺戮装置だって言ってるが、そのことを受け入れているのか」
「えっ・・・・・・」
予想外の言葉に、思わず声が漏れる。ぽかんと目を丸くしたサクヤに、トーマは言葉を重ねた。
「サクヤは、自分を殺戮装置だって認めてるが、その姿を受け入れてはいないんじゃねぇか。オレは、全部がサクヤだって思ってる。オレたちと過ごしてきたサクヤも、殺戮装置だった何とかって数字のサクヤも。オレは、どのサクヤとも関わっていくって決めた。なぁ、殺戮装置を受け入れろよ。そんなことで、オレはお前を否定しない」
力強い言葉が、サクヤに新しい感覚を覚えさせていく。こんな風に考えたことはなかった。いつも、どこか分けて考えていたサクヤと三九八が、初めて出会った気がした。
「一緒に来い。選べ、オレを」
向けられる真っ直ぐな感情に、離れなければいけないと叫ぶ冷静な殺戮装置の三九八に別れを告げ、否、三九八の気持ちを選ばないと決めて、サクヤは絞り出すように初めて本心を言葉にした。
「私も・・・・・・一緒にいたい」
「よしッ」
難しい問題が解けた子どもにするように、サクヤの頭を撫でたトーマは、今までで一番の優しい瞳を向け、サクヤに手を差し出した。
「「「あ?」」」
折り重なった声が響いたのは、三叉路になった通路でのことだった。それぞれの通路から出てきた人物たちが出合い頭に異口同音に呟いていた。一つは、トーマたち。その隣の通路からは、ケイジたち。最後の一つはナインたちだった。
「まさか、このようなところで出会うとは・・・・・・」
トーマの後ろにサクヤの姿を認めたナインが、苦虫をかみつぶしたような表情で苦々しく吐き捨てる。何となく居心地が悪くなったサクヤがトーマの背に隠れようとするのと、トーマがサクヤを背後に庇ったのは同時。どんなものからも守ってくれるだろう大きな背中に安心感を覚え、後ろから彼の服の裾をキュッと掴んだ。それだけで、サクヤの心は凪いでいく。
「ナインさん、すみません。約束、守れなくなりました。私がいなくなったら、あなたは叱責を受けますか?」
「ここにきて、私の心配など・・・・・・、皮肉ですか」
トーマの背後から姿を現し、真っ直ぐにナインを見つめたサクヤが問う。憎々し気に口元を歪めて自分をねめつけるナインに臆することなく、サクヤは瞳を向けたまま続きの言葉を待った。
「・・・・・・叱責は受けませんよ。たった今、上司から連絡を受けましたから。あなた方と争うつもりもありません」
静かに答えて、ナインは数名の部下を引き連れ、トーマたちが進んできた通路へと歩みを進める。
通路を譲ったサクヤたちとすれ違いざま、ナインは微かな憐憫を含んだ視線を寄越した。
「生きていたら、また出会いましょう」
「どういう・・・・・・」
「防災扉を閉めなさい」
疑問を呈したトーマの言葉が終わらぬうちに、扉が眼前に現れた。隔たれた扉の向こうで姿の見えぬナインがトーマの問いに答える。
「すみませんねぇ。どうやら、この飛行船は、操縦不能により放棄されることになりまして。できれば殺戮装置も回収したかったのですが、それが時間的に難しい場合、脱出を優先させていいことになっているんです。飛行船に乗り込んだ賊が飛行船と共に落ちる前に、搭乗員が無事に逃げおおせるということを証明しなければならないので。では、ご武運を」
「なっ、待ちやがれ」
トーマが扉をガンガンと打ち鳴らすが、びくともしない。ナインたちの遠ざかる気配が感じられ、やがて物音がしなくなった。おそらく、脱出艇に向かったのだろう。
「どうなってんだ。着陸命令を出す作戦じゃなかったのか」
トーマが問えば、ケイジが頭をかきながら眉根を寄せた。
「そのつもりやってんけどな。場所が悪かった」
「場所?」
サクヤが小首を傾げて問えば、ケイジ、コウ、リュウの三人がそろって破顔した。
「本当に無事だったんスね。アニキから連絡をもらっていたけど、こうして実際に会えて、すげぇ嬉しいッス」
コウが喜色満面に明るく告げる声に、今度はトーマが首を傾げた。
「あ? オレ、連絡なんてしたか?」
「はぁ? 連絡してたから、こうやって会えたんでしょうが」
トーマの言葉にリュウが突っ込む横で、ケイジは眉間の皺を深くした。
「会えたし、連絡がどうこう言うのは、もうえぇねん。問題は、この飛行船の行く先や」
「そうだった。場所がどうとか言ってたな」
「せや。この飛行船は、確かに着陸しようとしとる。それはえぇ。しかしや、その座標に問題があんねん」
「着陸予定地点は、どこなのですか?」
サクヤが凛とした声で問えば、ケイジが真剣な表情で重々しく言う。
「クレイ湖。このまま行ったら、湖の真ん中に着水・・・・・・すればいいほうや。着陸する陸地が深いから、下手したら、勢いを殺さんまま湖にドボンや」
風に遊ばれる髪を抑えたサクヤは、飛行船の進む先にある湖を見つめて目を細める。誰もいなくなった操舵を眺め、甲板に立った一同はその寒さに二の腕をさすった。思っていたよりも飛行船の速度は速く、湖が近い。いつも展望室で見ていた湖だが、改めて実感した大きさに驚いた。
時刻は黄昏に近づきつつある。少しずつ長くなる影に、それを感じながらサクヤは状況を見極めようと辺りに視線を走らせた。
視界の端に小さな脱出艇がよぎるのを認め、一瞬誰かと視線があった気がしたが、それは茫然としたコウの呟きによってかき消えた。
「え、これ、ヤバいッスよね。このまま湖にジャポンってのが関の山じゃないんスか」
「速度はそのまんま、高度だけが下がってる感じだな。水深どれくらいなんだろな」
慌てた様子のコウとは対照的に、リュウが冷静に疑問を投げかけた。冷静というより、諦念といった感じのようだ。
「チッ、ふざけんな。ここまで来て・・・・・・。おい、ケイジ。ここからの最善の作戦はねぇのかよ」
「着陸さえすれば、オーキが迎えに来てくれる手はずやってんけど、さすがに湖の中は想定外やわ」
さすがにお手上げとばかりにケイジがトーマに答える横で、サクヤは必死に頭を巡らせていた。
(湖までのおおよその距離、移動スピード、高度、重力加速度、慣性で進む距離、飛行船の総重量・・・・・・考えれば考えるほど、絶望的。でも——)
サクヤは自身の喉元を押さえた。トーマたちと別れてからも、一日だって欠かさず訓練は続けてきた。だから——。
それぞれの顔を見渡せば、誰もが眼前に迫っている危機に焦燥したり、諦観したりしているのが目に見えた。トーマですら、悔しそうに唇をかみしめて、しかし、何もできずにいる。
(守るよ)
短く誓って胸元を握りしめれば、自分をここまで支え続けてくれた、椿の存在を強く感じた。
(見ててね、母さん。これが、私のやりたいこと)
「みんな、私に考えがあるの。私を信じて、任せてくれる?」
答えを想定した、確認の問い。彼らが、どう言ってくれるかなんて分かった上で言葉にする。彼らが自分を信じているのと同じくらい、今のサクヤは彼らのことを信じている。そして、サクヤがどんなことをして巻き込んでも、自分のことを嫌いにならないことをちゃんと理解している。巻き込んでごめんね、なんて言わなくてもいいくらい、彼らを受け入れ、身を委ね、愛している。
「・・・・・・ったりめぇだ。オレたちに策はないんだ。お前の考えにのるに決まってんだろ」
一番に応えを返してくれるのは、やっぱりトーマだった。いつものニヤリとした笑みに、抑えられないくらいの喜色を滲ませてサクヤに頷いて見せる。
「せやな。なんか俺たちに手伝えることあるか?」
「俺たちの命運、姐さんに託すッス」
「だな。このまま終わるより、ずっといい」
「信じてるぜ」
最後に、トーマが軽く頭をポンポンとすれば、なんだってできそうな気持ちになった。
「飛行船を包む膜と、前方下への空気抵抗を作って、飛行船を湖の上に着陸させてみる。燃料の残りの把握と操舵を任せてもいい?」
「任しとき」
その言葉と共に、ケイジとトーマが操舵の方へ、コウとリュウが燃料などを示す機器の方へ分かれていく。サクヤ自身は、甲板の先端に移動し、謳いの準備に入った。眼前に広がる湖と煽られる風に折れそうになる膝を叱咤しながら、目を瞑り、頭の中でイメージを膨らませる。
(優しい温かな母の胎内にいるかのような空間と自ら大空へ飛び上がる羽ばたきの前の力強い翼)
頭でイメージし、心の中で言葉にすれば、それはすんなりとサクヤの中におちた。
今まで出したことのない大きな声が揺らぐことのない意志と共に紡ぎ出された。一人の謳いのはずなのに、二人で謳っているような不思議な旋律が声帯から生まれ出す。一つは、聴く者を安心させ包み込む柔らかな声音。もう一方は、誰かの背中を押す凛とした声音。前者は、淡い黄色の帯となり幾重にも飛行船を包み込んでいく。後者は、青の波涛となり船の下に現れた。空の青とも湖の青とも混じらないターコイズブルーの波が真っ直ぐに貫いていく。
(自由に駆け回り包み込め。統制した動きで突き進め)
二つの相反する動きを制御しながら、謳を持続させる。
「機体、安定。水平のまま。このままの姿勢を持続して湖に向かうで」
「燃料、残り僅か。着水後、それほどの時間を待たず、動力を止めるはずだ」
ケイジとリュウが叫ぶ。瞼を開けば、間もなく湖に到達するのが否応にも察せられた。
謳いが終盤へと入っていく。黄色とターコイズの二つの色を生み出す音の流れは次第に双方が歩み寄り、基本の一音へと集束されていく。それは、この世に生を受けた時の産声の音。
「みんな、どこかに捕まって」
謳が終わって、サクヤが叫びながらしゃがんだのと、飛行船が湖に突っ込んだのは同時だった。
サクヤの力で緩和しきれなかった衝撃が、飛行船を襲う。飛行船にかぶさるほどの波は、しかし、サクヤの生み出した黄色の膜に沿って、湖へと返っていく。持続的に感じる揺れが徐々に収まってきたころ、サクヤはそろそろと瞳を開けた。
「止まった・・・・・・のか」
全員の胸の内を吐露するかのようなトーマの呟き。その言葉で我に返ったコウたちが歓喜に沸いた。
「やった、さっすが姐さんッス」
「もう少ししたら、機体も止まりそうだ」
安堵の息と共に、サクヤも大役を終えて立ち上がろうとした時だ。
(あ、れ・・・・・・?)
「っ、サクヤ!」
ガクンと一気に身体から力が抜けた。
その様子を見たトーマがこちらに向かって駆けてくるのが見えたが、自分でも驚くくらい言うことをきかない身体は、ふらふらと甲板の端から湖に向かっていく。
(あ・・・・・・)
気づいたときには、浮遊感。どうやら、飛行船を守る膜は消えたらしい。ゆっくりと背中から湖に落ちていくのだということを、次第に視界を占めていくオレンジの空で認識した。
(ま、いっか)
胸に満ちるのは、みんなを助けることができたのだという満足感。殺戮装置だけど、誰かを殺すのではなく、生かすことができたのだという喜び。今まで感じたことのない充足感を噛み締め、サクヤは笑う。衝動に従うように手を伸ばせば、今ならどんな宝物でも手にできそうな気がした。
「っ!」
「勝手に満足してんじゃねぇよ」
だから、その手をトーマが掴んだ時、言葉では言い表せない何かが、自分の中に与えられたのだと感じた。
ドン、と見えない何かに背中を押されるようにして向かった先には、ふらふらと湖の方へと吸い込まれていくサクヤの姿があった。
「っ、サクヤ!」
叫んだ時には、駆け出していた。いつもより、どことなく遅く感じる周りの動きの中で、サクヤだけがトーマには鮮明に映っていた。甲板から消える彼女に、間一髪手を伸ばす。どこか満足気だったサクヤの表情が驚きに彩られるのを確認して、甲板から身を乗り出して、サクヤの手を掴んだまま、トーマは呻いた。
「勝手に満足してんじゃねぇよ」
いくら華奢なサクヤとはいえ、片腕一本では支えきれない。次第に落ちかかる彼女をどうにか引き上げようとすれば、サクヤが口を開いた。
「離して。このままじゃトーマまで落ちちゃう」
「テメェは落ちる気満々ってか」
一瞬見えたサクヤの満足そうな表情。これから、冬の冷たさを感じる湖に落ちるというのに恐怖も不満も苦しさも何もなくて、それは、トーマに恐怖しか与えなかった。
トーマの問いかけに探す答えの見つからないらしいサクヤは押し黙る。
「サクヤ、帰って来い。一緒にいるんだろ」
「・・・・・・うん、ごめんなさい」
繋ぐ手に力を籠めれば、泣いているように笑う彼女が力強く頷いた。
「トーマ、踏ん張りや」
バタバタとした足音と共にケイジたちが近づいてくるのを感じた。その時。
「⁉」
ひときわ強い風が吹き、船体が揺れた。ガクンとした動きを感じた時には、トーマの身体はサクヤの手を掴んだまま宙に投げ出され、二人で重力に従って落ちていった。
とっさのことに、調律も何もない音の羅列を思いのたけを吐き出すように謳った。ただ、トーマを、ぶっきらぼうだけど優しくて温かくて、いつまでも一緒にいたいと思ったこの人を助けたい一心でサクヤは痛みを訴える喉を無視して、力の限り謳う。
(助けて、力を貸して。この人を救いたいの)
サクヤの想いに呼応するように、力を感じさせる温かさが胸元に宿る。
「サクヤちゃん、トーマ!」
ケイジの叫びを遠くに聞きながら、一度は波しぶきを立てて湖に落ちた二人だったが、ほどなく湖面に顔をのぞかせた。体に見えない浮き輪でもついているかのようにふわふわと沈むことなく、浮かんでいる。不思議なことに濡れた感触もない。
「大丈夫か、サクヤ」
掴んだ手を引き寄せて、腰を抱き上げる形でサクヤを擁したトーマが問う。
「だ、い・・・・・・」
「サクヤ、声が・・・・・・」
酷使し続けた喉が限界を迎えたようだ。思うように話すことのできない枯れた声を出すサクヤにトーマが痛まし気に眉をひそめた。
(うーん、と)
声は出なくとも大丈夫だと伝えたくて、サクヤは方法を探す。だが、今までのように手の平に指を走らせることは体勢的に難しいと思い、首をひねる。その時、不意に胸元にコツンと椿の存在を感じた。
(そっか)
「サク・・・・・・」
自分に呼び掛けるトーマに、サクヤはとびきり優しく抱きついた。気持ちを伝える術を他に思いつかなかったから。
最初は、ただ感謝の念を伝えるだけのつもりだった。来てくれてありがとう。生きていてもいいと思わせてくれて、ありがとう。自分を必要としてくれることは、何よりも嬉しかった。そんな彼らを、トーマを助けることができたことは、この上ない喜びだった。
自分を抱きしめる力をゆっくりと強めるトーマに徐々に愛しさがこみ上げる。
(?)
懐かしい、けれど、ツバキに抱いていた愛しさとは何かが違うようでサクヤは戸惑う。それは、今に始まったことではないような気がする。
(いつから?)
どこか新しい、この感情は、トーマがくれた宝物の一つかもしれないとサクヤは思う。
離れまいと身体を強く引き寄せるトーマを改めて見つめれば、想像よりも近くに赤銅色の瞳があった。その瞳の中の自分の翠の瞳が潤んでいるように感じたのはサクヤの気のせいだろうか。
相手の心音が聞こえるくらいの距離で、言葉がなくとも心が通じるような錯覚に身を委ねれば、自然と二人の間の空間が縮まっていくことに違和感を覚えることはなかった。
「おーい、サクヤちゃん、トーマ! あ、なんや、ええ雰囲気。二人とも、今は来たらアカン」
「え、なんスか。姐さん、アニキ、平気ッスか」
「姐さん、今、見つけた浮き輪を・・・・・・、あ、オーキさんが近づいてる。大丈夫そうですね、兄貴」
飛行船から覗き込んだ三人は、二人の様子に慌てて顔を背けた。逸らした視線の先に何かを見つけたらしいリュウが声をかける。その言葉に耳を澄ませば、こちらに近づいてくるモーター音に気づいた。
「無事か」
言葉短く尋ねるオーキは、湖に浮かんだサクヤたちの傍で止まった。乗っていたのは、五人を乗せるのに十分な大きさのクルーザー船。どこから調達してきたのかは、まったくもって謎だ。
「オーキ、どこから突っ込めばいいんだ」
「大丈夫だ。安心しろ、心配はいらない。私は弁護士だ」
トーマの疲れた問いかけに笑うオーキ。珍しく口元でニヤリと笑う彼を見て、サクヤはオーキがトーマの知り合いなのだと改めて認識した。むしろ、職業が職業なだけに、こちらの方がタチが悪いかもしれない。
「とりあえず、帰るぞ、サクヤ」
当たり前のように誘いかけるトーマに、サクヤは迷うことなくコクンと頷きを返した。
そこには、静寂と暗闇があった。椅子に座すのは一人。その両脇に、彼女に近しい配下が影のように控えているのが感じられた。相対するのは、小柄な人影が一つ。ことの顛末を報告し終わった影は、微動だにせず、椅子に座る人影の言葉を待っていた。
「よく分かったわ。アナタもできる範囲での報告をありがとう。あとは、ナインからの報告を待つとするわ」
鷹揚に頷く椅子の人物に、それでも小柄な影は動かない。それを不快に思うことなく、座ったまま言葉は続く。
「私が怒るとでも思っていたの。まぁ、稀少な女孕珠の生み手であり、繊細な謳の紡ぎ手である彼女は欲しいとは思うけど。別に彼女が唯一というわけではないし。むしろ、反乱分子になる可能性を考えると、いらないわよ。言うことをきかせる方法はいろいろあるけど、危険は排除する方が賢明でしょ。だから、気にしてはいないの」
小柄な影からの反応はなく、一方的に話す声が響く。暗い影に沈んだ部屋では、それぞれの表情はおろか、どんな容姿をしているのかも分からない。それでも、小柄な影は椅子に座す人物が、言葉の通りに今回の件に関して心を寄せていないことを肌で感じていた。
「これからも監視の目は必要だとは思うから、困らない程度に付き合ってあげてね、リク君」
小柄な影は、初めて反応を見せ、深々と頭を垂れた。
5 春、そして……
サクヤからツバキへ。
手記。
『母さん、私は、約束を守れませんでした。自分から、また、破ってしまったのです。一度目は、一年を彼らと過ごすという約束を。その時の、彼らの信頼を裏切った時の、あの悲しそうな表情は、彼らが私を許しても、私が許せそうにありません。
二度目は、プルトーに帰るという約束を。今、期限の一年という時間を過ぎても、私は彼らと一緒にいます。でも、不思議なんです。ねぇ、母さん。どうして約束を守っていないのに胸が痛くならないのでしょう。彼らが嬉しそうなのはなぜなのでしょう。
今は、まだ、この気持ちを書き表すことができません・・・・・・伝えたい想いはあるんです。言葉も知っている・・・・・・けれど。どう言葉をつないで形にすれば、この想いを形にできるのか分からないの。
母さん、彼らといれば、いつか・・・・・・』
サクヤは、開いていたノートをパタンと閉じ、鍵付きの箱の中に大切にしまった。これは、誰にも見せるつもりはない。文字で書き綴ったサクヤの宝物。
「サクヤ、そろそろ行くぞ」
自分を呼ぶ声に、サクヤはハッと時計に目をやった。いつの間にか、ずいぶんと時間が経っていたようだ。
窓から差し込む日差しは、日ごとに暖かさを増し、もはや暑いとさえ感じるようになった。季節は、春から夏に移り変わろうとしている。約束の一年が過ぎたのは、一体いつだったのだろうか。
コンコンという扉を叩く音に導かれるように、サクヤは部屋を後にした。
日ごとに、うっとおしいくらいに照り付けてくる太陽が忌々しい。活動的に鳴き始めた蝉の声も、暑さに拍車をかけていた。流れる汗をぬぐいながら、トーマたちはツキカケの墓を目指していた。トーマ、サクヤ、コウ、リュウ、ケイジという代わり映えのしないメンバーで黙々と歩みを進める。
サクヤにとっては、初めての道に入ったからか、彼女はきょろきょろと辺りを見回していた。と思うと、ぼーっと何もない空間を見つめることも多い。飛行船以降、多く見られるようになった、どこか遠くを見つめる視線にトーマは何を見つめているのかと何度か尋ねたが、はっきりとした答えが返ってきたことはない。心の底から困ったような表情をして、何とか言葉で伝えようと試行錯誤している姿を見ると、無理に答えを求めることはできなかった。
今も、かすかに眉根を寄せて、何か言いたげに虚空を見つめていた。
「そ、そういえば、前はここにツワブキさんも一緒に来たんスよねぇ」
「バカ、それは今言うことじゃない」
何となく空気の微妙さを感じ取ったコウが気を利かせて話題を変えようとしたが、逆効果だった。さらに深まるサクヤの眉間の皺を見て、リュウがコウの後頭部を一つぶん殴った。
「ほ、ほら、ツキカケ君の墓の前やで」
ケイジさえも変な気を遣っているのを感じ、トーマは嘆息し、あの時のことを語り始めた。
「別に、変な気ぃ遣わなくていい。あの日、ツワブキとは、ビジネス関係で来たんだ」
「ビジネス・・・・・・?」
一様に分からないといった表情の一同を見渡して、トーマは頷く。ツキカケの墓の上の空間に視線をさ迷わせていたサクヤが自分の方を見ているのを確認して、トーマは続ける。
「そう。ツワブキには霊能者としての噂があったから、喚んでもらえないかと思ったんだ。その、ツキカケを」
見る間に驚きの形に変わっていくコウたちを眺め、トーマは憮然とした。柄にもないことをした自覚はある。
「トーマが。あの、トーマが。霊を信じるようなことを! あの、トーマが」
どのトーマだ。
わざとらしいケイジの声にトーマにも深い眉間の皺が刻まれた。一体、自分のイメージとは。
「別に、ツキカケに会いたかっただけじゃないからな・・・・・・うまくいったら、サクヤの母、ツバキと言ったか、その人を喚んでもらおうと思ったんだ」
サクヤを励ましたかったから。
しかし、その一言は、トーマの心の内に留め置いた。言ったら、これも揶揄されそうで。
「はーん、で、結果は・・・・・・と聞くまでもないわな」
プルトーに行っていたケイジでさえ、分かる。
「あぁ、ツキカケには会えなかった。ツワブキとは、それで別れて、そのままだ」
結局、霊なんてものはいないのだろう。あの時、ほんの少しだが、期待していた自分が滑稽でトーマは口元を歪めた。
そんなトーマをコウやリュウが痛まし気に見つめる中、ホッとしたような、どこか納得のいった顔のサクヤと目が合い、トーマは眉根を寄せる。
「サクヤ?」
トーマの挙げた声に一同の視線がサクヤに集まる。サクヤは、自然な流れでトーマの手を取ろうとし、改めた。声を出せるとトーマたちが知った後も枯れた声が治っても、長年の習慣なのか、まだ声で伝えると言ったことには慣れていないようだ。サクヤは、一度言葉を吟味するように押し黙る。
その様子を見つめて待ちながら、手の平から伝わる温かさがなくなったことに寂しさを覚えるのはトーマの秘密の一つだ。
「そっか、分かった。彼がずっと共に在るのが。もう、伝えても?」
最後の問いかけは一体誰に向けられたものだったのだろうか。
何かに確認するように頷き、不思議そうな一同を見渡して、サクヤはゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「ずっと、私がプルトーから帰ってから、トーマの傍にぼんやりとした影があったから。はっきりとした姿になったのは、飛行船で再会したとき。男の子の姿をとっていて、驚いた」
今もサクヤの視線は、トーマの方を向いていながら、少しずれている。コウが頬を引きつらせるのを横目に、トーマは半信半疑に質問を投げかけた。
「・・・・・・どんな姿なんだ?」
「四、五歳くらいかな。トーマと同じ髪色の男の子で、瞳は茶色に近い・・・・・・けど、トーマに似た赤銅色。えと、雰囲気は柔らかで、名前は」
「ツキカケ、そこに、いるのか?」
サクヤの声を遮り、トーマは、彼女の視線をたどった先に呼びかけた。トーマの視界には何も映らないが、サクヤが冗談を言っているとは思えない。だから、きっと居るんだろう。
サクヤは、困ったように眉根を寄せた。彼女には、ツキカケの声も届いているようだ。
「え、え、嘘やろ。ホンマにおるん」
「うるさいですよ」
リュウがケイジにはたかれるのを黙殺し、トーマはサクヤに真摯な瞳を向けた。
「ツキカケは、なんて言ってる?」
罵られるのを覚悟した言葉だった。人生で一番、想いを吐き出すのに勇気がいる言葉だった。みっともなく、謝ってしまいたくなるのを堪えた言葉だった。
サクヤは、なおも困ったように眉根を寄せている。それほど、口にしたくない言葉をツキカケは言っているのだろうか。
「そのまま伝えてもいいの・・・・・・?」
トーマに聞くようでいて、ツキカケに伺うような揺れたサクヤの声に、トーマは力強く頷いた。もう、心は決めている。
やがて、サクヤも意を決したように、頷きを返し、鈴を転がすような声で、ツキカケの言葉を代弁し始めた。
『やっと気づきやがったか、このクソ兄貴。ボクがどんだけ力を貸してやってたか知りもせず、肉の一つも持ってこねぇとは、いいご身分だなぁ、オイ。あ、そういや、死んでるから、年齢制限とかもねぇよな。おいこら、酒持ってこい、酒』
鈴を転がすような美しい声が発した、とんでもない内容に辺りは静まり返った。気のせいか、先ほどまで耳に届いていたうるさいほどの蝉の声すら、今は遠い。
(えっと、一言一句違えずに伝えたんだけど)
何も言わないトーマたちに不安を感じたサクヤが、自身の墓の上に移動し、どっかりと座った見かけだけは儚い男の子に目を向ければ、腹を抱えて爆笑していた。サクヤの視線に気づくと、よくやったと言わんばかりの悪い笑顔が返ってきた。親指を立てて、称賛している。
「嘘やろ、なんちゅうことをしゃべってんねん。絶対、ツキカケ君の名を騙った悪霊やん」
「姐さんが憑りつかれたッス」
驚愕するケイジに、目を瞬かせて言葉の出てこないリュウ、コウに至っては十字を切って念仏を唱えている。一体、どこの宗教だろう。
恐る恐るトーマを見てみれば、その頬に光る何かを確かめた気がしてギョッとする。
「ツキカケ・・・・・・、ツキカケなんだな。この口調にその主張。間違いねぇ」
「嘘やろ。思い描いてた姿とちゃう」
ケイジの上ずった声音のツッコミを気にすることなく、トーマは頬に伝う何かを拭い、ツキカケの墓に向き直る。
「ツキカケ、オレを責めないのか。許してくれるのか」
「嘘やろ、どの辺から読み取れたん、それ。許してないやん。肉持ってこいとか、酒寄越せ言うてるやん」
さらに声のキーの上がったツッコミに、どこまで高くなっていくんだろうと、ぼんやりと考えるサクヤである。
『お姉さん、少しいい?』
サクヤだけに聞こえる幼い声が、切ない響きをもって懇願する。その声が望むままにサクヤは迷うことなく瞳を閉じた。
サクヤの長いまつげが影を作って伏せられ、再び開いたとき、その翠の瞳には明らかに赤銅色の輝きが見受けられた。
『よぉ、クソ兄貴。少しだけ直に話してやんぜ。コイツに感謝しろよ』
「あかん、違和感がぬぐえへん」
サクヤの声で放たれる口調の荒々しさにケイジが頭を悩ませる。しかし、ツキカケはそんなことは全くのお構いなしで、真っ直ぐにトーマを見つめて言った。
トーマは、何も言わずにサクヤを、ツキカケを見つめ言葉を待った。そんな様子をコウとリュウが心配そうに見守っていることに気づかないまま。
『前の墓参りの後から、ずっと兄貴のこと見てたよ。そんで、助けてやった。飛行船では大活躍したんだぜ。お姉さんの居場所はこっちだって知らせたり、仲間へ連絡したり、湖の方へ突き動かしたり・・・・・・』
「マジか」
思わず呟いた声に、ツキカケが憮然とした表情になる。しかし、弟の言うことが本当なら多々あった疑問が解けていく。去年の夏頃から、体に違和感があったのもそのせいか。というか。
(サクヤの言ってた『つかれてる』は『憑かれてる』ってことかよ・・・・・・)
いろいろとスッキリしたはずが、なんでか疲れたトーマが肩を落とすのを見て、ツキカケは言う。
『だから、まぁた、くだんねぇことで悩んでんなーってのも知ってた』
「な、くだんなくはねぇだろ。オレだって、いろいろと考えてんだ」
例えば、サクヤが喜ぶのはどんなことだろうか、とか。自分の力不足をどう解消すればいいか、とか。ツキカケが、自分のことを恨んでいたんじゃないか、とか。
『最後の、それ、ぜってぇくだんねぇから』
「!」
心の内を見透かしたような言葉にトーマの胸がぎくりとする。さ迷わせた視線をサクヤに戻せば、そこに重なるようにしてぼんやりとした影が見えた。
どことなく自分に似た、幼い子どもの姿。別れたときと同じ、ツキカケの姿。
そんなツキカケが、心底呆れた表情で鼻を鳴らす。
『ボクが兄貴のことを恨んでるなんて、本気で思ってたとしたら、それこそクソ兄貴だぜ。ボクと過ごした時間で、そんなはずないって信じられない?』
「けど・・・・・・」
『あぁ? ボクの言葉が信じられない?』
「おぉ、兄弟ッス。ミニサイズのアニキッスよ」
「だな。そっくりだ」
コウとリュウが感慨深げに頷き合う。
そんな周囲を一瞥し、ツキカケはビシリとトーマに指を突き付けた。
『いいか、ボクが死んだことは変えられない事実だ。だけど、笑って逝けたの、兄貴は知ってるだろ。それはな、兄貴だったらボクの想いを繋いでいけるんだって思ったからだよ』
「繋ぐ・・・・・・?」
『あぁ、こんなクソみたいな仕組みの国、上層部ばっかが幸せな国を変えてくれるんだろ?』
それは、幼い日の約束。幼いからこそできると思った誓い。
『嬉しかった、そう言ってくれて』
ツキカケが笑う。あの日と同じ、綺麗な笑みで。
「・・・・・・あぁ、そうだったな。オレがお前とした最後の約束だ」
忘れていたわけではない。ツキカケのことを思い出すたび、その約束は頭をかすめていた。けれど、月日が経ち、トーマが大人になればなるほど、その約束は錆びついていった。子どものときには見えなかったものが見えるようになって。子どもの頃に信じられていたものが信じられなくなって。
だけど、それは言い訳だ。いつだって、どんな時だって、心さえ望めばきっと行動できたはずなのだ。サクヤを助けに行った時のように。
「ツキカケ、改めて誓う。いつになるか分からない、けど、この国を変えていってやる」
『うん、少しずつでいいから、期待してる』
そう言って、ツキカケは年相応の笑顔でトーマに向かって拳を突き出した。トーマも迷うことなく、己のそれをこつんっとぶつけた。
『じゃ、ボクは休むよ』
「あぁ、またな」
言うが早いか、ツキカケのうっすらとした影は跡形もなく消え、翠の瞳をしたサクヤがぱちりと目を開いた。
「ありがとな」
ふわふわとした気持ちだったサクヤが聞いたのは、どこか憑き物が落ちた様に笑うトーマの声だった。
なんてことはない、と伝えるように首を横に振れば、一層笑みが深められる。
「サクヤ、オレはやっぱり、殺戮装置なんてモノはこの世界に必要ないと思う。そんな力は要らないんだ。けど、オレの願いを、ツキカケの想いを繋いでいくためには、サクヤの力が必要だ。虫のいい話だってのは分かってる。だけど、これから、オレに、オレたちに力を貸してくれないか」
真摯な瞳と声でぶつけられる想いが胸に心地いい。
サクヤは、服の上から椿のキーホルダーを握りしめる。ツキカケの想いと言葉はサクヤにも届いていた。
「私も、繋ぎたい」
瞳を開けて視界を広げれば、トーマだけではなく、コウやリュウ、ケイジの姿が映った。
「私も母の、ツバキが成そうとしたことを、想いを繋ぎたい。殺戮装置なんてなく、私のような存在が犠牲にならず、暮らせるようにしたい」
言葉にすると、よりその想いは強くなった。そして、それは一人では成せないことも、もう分かっている。
「私の願いにも力を貸してくれる?」
「あぁ」
「もちろんッス」
「できる限りになりますが」
「当然やろ」
応えが分かり切った質問。当たり前に返ってくる言葉が嬉しい。
「よし、とりあえず、墓参りの続きだな。コウ、肉と酒買ってこい」
「供えて怒られへんやろか」
途端に騒がしくなった空間に、知らず笑みがこぼれる。ざわめく喧騒は好きではなかったはずなのに、気づけば彼らの声に安心している自分がいる。
——出会いを、縁を大切にしなさい。アンタの心に素直に従いなさい。そうすれば、きっと、私よりもアンタを大事に想ってくれる人に巡り合うわ。
(本当だね、母さん)
彼らとなら、繋いでいける。予感めいた想いを抱きながら、サクヤはツキカケの墓に向かって、感謝を込めて、手の平を合わせた。