表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SOS  作者: 浅沼れん
3/4

~Sword Of Song~

3 秋

 事務所の二階。トーマの個室の窓から見える葉がすっかり紅く染まっている。吹き抜ける風は日に日に冷たさを増し、季節の移ろいを感じさせた。トーマの目の前で、また一枚、紅葉がひらひらと枝から離れていく。いつの間にか殺戮装置の話題は人々の中から消え、連日のように報道されていた地震速報はなりをひそめ、揺れを感じることもなくなった。

 その代わりテレビでは連日、新しい飛行船の話題でもち切りとなっている。新しい動力源の飛行テストを行うとかで、近日、デメルの町から首都のポアロまで遊覧する手はずとなっているらしい。

 どうせなら、プルトーへと連れて行ってくれたらいいのに。

 一度行ったはずのプルトーだが、サクヤがいないと、どうしてもたどり着くことはできなかったのだ。

 行きたい理由があるのに。彼女に、言いたいことがあるのに。

 サクヤがいなくなってから、二か月が過ぎた。彼女と過ごした時間より短い期間だが、トーマには、とてつもなく長い時間に感じられて仕方がない。手の平に残る彼女のたどった指の跡が懐かしいと感じるくらいに。ただ、遠からずこんな日が来ることは何となく予感めいてあった。

 (あんな笑顔見せられたら、な)

 忘れもしないサクヤの笑顔が昨日のことのように脳裏にまざまざと焼き付いている。

 ケイジとクレープのことで言い争ったあの日、彼女が最後に見せた笑顔。

 綺麗で、透明で、儚くて、穏やかな笑み。今まで見た、どんな笑顔とも違う。まるで。

 あの時見た、ツキカケの最期の笑みに似て。別れを告げているようで。

 (次の日も顔を合わせてたから、気のせいかと思っちまったんだよな)

 舌打ちとともに文句を飲み込めば、視界に一通の手紙が入る。もう、何度読んだかしれないサクヤからの手紙。 自身についての詳しいことは何一つ書かれていない。ただただ、トーマたちへの感謝を、ありがとうだけを詰め込んだ優しい手紙だった。

 あの日。しとしとと降りしきる雨が窓に斑模様をつくっていた。憂鬱だけど、いつもと変わらない日のはずだった。違ったのは、トーマが訪ねたサクヤの部屋に主がいなかったこと。まるで、最初から誰もいなかったかのような殺風景な部屋に、トーマがサクヤに与えた物のほとんどが綺麗に置かれていた。服も髪飾りもシャンプーも、思い出やクレープを食べに行く約束さえ、そこに置いてあるかのようだった。ないのは、椿のキーホルダーくらい。

 嫌な予感を覚えて向かった事務所の応接室では、それぞれに宛てた手紙を見つけた。腹立つことに、ご丁寧にケイジたちの分まである。施錠して帰ったはずなのに、どうしてここに手紙があるのか不思議だったが、そんなことはどうでもよかった。

 コウとリュウが不安気な表情で、それぞれ自分宛ての手紙を手にする隣でトーマも自身への手紙をひったくった。加えて言うなら、リュウにだけは手紙と一緒にハンカチが添えられていた。なぜだ。それが一番、トーマの腑に落ちない。

 手にした自分宛ての手紙の内容はいたってシンプル。今まで世話になってきたことへの感謝、その一言に尽きる。筆跡はトーマがよく知るサクヤのもの。細い線、遠慮がちな丸み、けれど、しっかりとした文字の連なり。まるで、彼女の姿を表わしているようで、見ていてなぜか泣きそうになる。

 「チッ」

 胸の苛立ちが舌打ちとなって、何度も零れ落ちる。それはサクヤに対してか、自分自身に対してか。

 木々の紅葉がまた一枚、ひらりと舞う。あの葉のように、この胸にモヤモヤとわだかまる感情も散っていけばいいのに。

 「アニキ、失礼します。入ってもいいッスか」

 「なんだ・・・・・・サクヤの足取りでも見つかったのか」

 入る許可を求めつつも、トーマが答えるより前に顔をのぞかせたコウに怒る気力もわかないまま、淡い期待を込めて呟けば、コウは困ったように眉を寄せ、首を横に振る。また一つ舌打ちが出そうになったが、続くコウの言葉に動きを止めた。

 「姐さんのことは、分かんないッスが、新たな殺戮装置の情報が入ったとケイジさんが。殺戮装置を追いかけていれば、あるいは・・・・・・あっ、アニキ」

 コウの言葉を途中で遮るようにして、席を立ったトーマは、追いかけるコウを振り向くことなく、ケイジがいるであろう応接室へと向かった。

 「デメルの町はずれの第三倉庫か。もともと、ヤバいモンの取引現場に使われてるって、きな臭い噂があるとこじゃねぇか」

 「せや、プルトーにも近いとも言われ、海にも通じて交通の便も悪くないとこや。以前にコウたちが入手したジヨージュの珠もそっから流出したんやないかって話や」

 「あぁ、そんなこともあったな」

 トーマはそう言って、金庫にしまったままになっている珠を思い出した。一応、トーマの育ての親兼上司のマサムネに話は通したものの、サクヤの一件のほうが重きを置いていたため、何となくそのままになってしまっていた。

 「近く、そこに殺戮装置が入るらしい。行くか?」

 何と返答するかを分かった上でのケイジの問いに、当然とばかりに頷くトーマ。迷いは一瞬。

 「ったりめーだ。そんな当然のこと聞くんじゃねぇ」

 「それでこそ、トーマや」

 そこにサクヤがいるという確証はない。この情報も確かだという保証はない。それでも、何もしないよりは、マシだった。そこに、どんな結果が待っていようとも。

 その、はずだった。


 数日後。

 ケイジの言葉に従って、集まったのはトーマを始めとしたいつものメンバー、コウにリュウ、そして素顔が分からないように変装したケイジだった。

 「ここが、例の倉庫ッスか。何の変哲もないように感じるッスけど」

 コウが、第三倉庫を示すNO.3の文字を見上げながら言う。

 月明かりがあるおかげで、辺りは思いのほか明るい。しかし、風が強く、雲の多い夜のため、月が雲に遮られると途端に暗くなった。寒さに弱いらしいリュウは、羽織った上着の上から二の腕をさすっている。

 居並ぶのは、同じような倉庫の数々。倉庫によっては、昼間は盛んに人の出入りがあったが、日が落ちると途端に人の足は遠のいた。一方で、この倉庫のように暗くなってから、周囲に人の気配が感じられる場所もあった。

 「しっ!」

 口元に人差し指を当てたケイジが、辺りに神経を巡らせながら目配せをする。それに従いながら、視線を投じたトーマは倉庫の中に人が入るのを認めた。

 その数、三。

 いざとなったら対処できる人数だと判断し、トーマは一つ頷く。それを見たケイジが頷きを返し、コウとリュウはごくりと喉を鳴らした。

 「行くぞ」

 囁くように決起の言葉をかけたトーマを先頭にして、一同は倉庫の中に身を滑り込ませた。

 中は、窓から入る月明かりの他に光源はなかった。月明かりを頼りに、倉庫を確認する。倉庫内に申し訳程度の木箱が至る所にあるのを確認し、そのうちの一つに身を潜ませる。

 「どうや?」

 「近くに人の影も気配もありませんね。もっとも、身を隠す場所が多くて見えづらいんすけど」

 四人の中で、一番に夜目の利くリュウが答える。もちろん、声は極力抑えてだ。

 「さっき、中に入ったと思しき連中の姿も何も見えないな」

 そう、トーマが呟いて目を凝らした時だ。

 「いえ、近くにいますよ」

 突如として声が響き、倉庫を閃光が駆け抜けた。

 「っ!」

 次の瞬間には、片腕をねじり上げられる不快な感覚と顎から胸にかけての痛み、そして背中に何かが乗る圧力を感じた。

 「チッ、てめぇ……」

 唸るように呟きながら、自分を床に縫い留める相手をねめつければ、スーツを身につけた男のサングラスの奥の瞳が蔑みの色に染まった。怒りを一旦、腹の中に収めるよう努力しつつ(できるわけがなかったが)、トーマが周りを目線だけで確認すると、他の三人も自分と同じ状況だと知る。

 早い話が、全員がスーツ男に仲良く拘束されているということだ。

 どうやら、閃光だと思ったのは、倉庫の明かりが一斉に点いたもので、視界が光に順応する前に辺りに息を潜めていたスーツ男に押し倒されたらしい。

 「お久しぶりです。お元気でしたか」

 妙にねっとりとした猫なで声が響いた。思い出したくもないのに、その独特な響きには覚えがある。

 「またッスか……」

 心底イヤそうにコウが呟く。内面で激しく同意するトーマの隣で、初対面となるケイジが面食らったように言う。

 「な、何ですか、貴方たち。僕たちに何か御用ですか」

 変装したケイジの内面設定はリクらしい・・・・・・気持ち悪いことこの上ない。

 胸中でゲロゲロとしているトーマに構わず、わざとらしくため息をついたスーツ男の代表がいつぞやと同じように多くの男を従えながら、一同を上から見下ろした。

 「初めまして、もしくはお久しぶり・・・・・・とこちらはすでに述べていましたね。覚えていらっしゃいますかねぇ、あの時の問題が解決せぬまま、またご対面できるとは。あ、申し遅れました。ワタクシ、デメルの海岸地区を中心に活動をさせていただいております、ナインと申す者です。もっとも、名前などどうでもいいことでしょうが」

 紳士然とした仕草で恭しく礼をするナインだが、トーマは腹立たしさしか感じない。睨み付けることで、反抗の姿勢をとり続ける。

 そんなトーマの様子を全く意に介することなく、ナインは聞き分けのない子どもに対してお手上げ状態といった風に首を振る。

 「まぁ、ワタクシとしても貴男方と仲良くできるとは思っていませんのですけど。ただ、貴男方の有用性については、評価しているのですよ」

 「言うよ……say?」

 (こんのボケ。後でぶん殴る)

 小さな声でケイジがほざくのを聞きとがめたトーマは、額に青筋を浮かべながら固く決心する。おまけに、こんな時でもユーモアを忘れへんなんて偉いやろ、と言わんばかりのドヤ顔が拍車をかけていた。

 ごちゃついている二人に気づいているのかいないのか、ナインは一向に気にした様子もなく、時折時計を確かめながら、悠然と佇んでいる。

 「ふむ、近くまで来ていると思うのですが・・・・・・、仕方ありません。さぁ、貴男方の出番が来ましたよ」

 そうナインが宣言すると、それぞれにナイフなどの凶器を持ったスーツ男たちがトーマたちに近づく。

「 くッ」

 状況を打破しようともがいて見せるが、意外にも拘束の手は強く、トーマはわずかに体を揺することしかできない。

 「ひぇ……」

 情けない声をあげたコウを横目で見ながら、自身にも振り上げられた凶器を意識し、万事休すかと唇を強く噛み締めた時だ。

 「やめて!」

 凛として、夜空に流れる一筋の星の軌跡のような瞬きをもった、場違いなほどに美しい声が、飛び込んできた。



 怖かった。本当のことをみんなに知られるのが。

 寂しかった。自分に対するみんなの態度が変わってしまうのが。

 悲しかった。一度知った、あの温もりを失ってしまうのが。

 腹立たしかった。殺戮装置に近づくみんなが。

 苦しかった。みんなにまた会えると思って喜ぶ自分自身の感情が。

 だけど。

 恐怖も寂寥も怒りも苦しみも、みんなを失うことに比べたら、なんてことはなかった。

 だから。

 サクヤは、初めて強い意志と覚悟をもって、自分の声を解放した。



 ずっと、こんな声をしているんじゃないかと思っていた。

 透明で、真っ直ぐで、強くて、儚くて、悲しくなるほどに綺麗な声。七色に煌めく薄い結晶を砕いた時のような虹色の波紋を描く音。トーマの胸の奥深くに刺さって、忘れられなくなる響き。

 「約束通り、来ました。トーマたちを、放して・・・・・・!」

 自分は今、一体どんな表情を浮かべているのだろう。

 サクヤの声が、声帯が空気を震わせて紡ぐ言葉に、自分の名前を呼ぶ唇に、どうしようもなく、魂さえも震える。

「サクヤ・・・・・・!」

 押さえつけられながら、絞り出すように名前を呼べば、これ以上ないほどに潤んだ翠の双眸が自分に向けられた。それだけで、トーマの心は落ち着かなくなる。聞きたいこと、言いたいことはたくさんあったはずなのに。今すぐ駆け寄って、腕に抱きすくめたくなる。

 そんなトーマをよそに、ゆっくりとサクヤに近づいたナインは、腕を伸ばせば届く距離で立ち止まる。

 「待っていましたよ。招待状が届いていたようで何よりです」

 「招待状・・・・・・ぐっ」

「・・・・・・っ、乱暴はしないで」

 声をあげたトーマを拘束する手が強くなり、思わず息をもらすと、はじかれたようにサクヤが制止を求めた。それを認めて、ナインが目配せをするとわずかながら拘束の力が緩む。

 「では、ワタクシから簡単に事情を説明させていただきましょうか。そのほうが、後々の話も進めやすそうですし」

 「・・・・・・」

 何となく上機嫌なナインと無言のサクヤが対峙する。ナインはサクヤに話しているようでいて、どうやらトーマたちにこそ話を聞いてもらいたいようだった。

 「実はね、ワタクシたちが意図的に情報を流したんですよ。今夜、この場所に殺戮装置が入ってくると。そちらが殺戮装置を求めていたのは知っていましたからね。要するに、おびき出したわけです」

 トーマが思わずケイジのほうへ視線を送れば、悔しそうに唇を噛んでいた。それだけで、ケイジがトーマたちを罠にはめるつもりではなかったことが分かる。それぐらいは、トーマはケイジのことを信頼していた。

 「ワタクシたちが、用事があったのはお嬢さんですが、なかなか姿を現さない。なので、招待状を届けたのです。偽の情報で貴男方が危険に陥るだろうことをお知らせとして。そうすれば、来てくれるのではないかと考えましてね。お嬢さんが、先の殺戮装置の情報で見つけた家に出入りしているのは掴んでいましたから。そこに、メッセージを残しました」

 そして、サクヤは現れた。トーマたちが本当にいるかは分からない。危険なのはトーマたちではなく、自分だろうことも予想していたに違いない。当然、罠だというのは承知していただろう。それでも、彼女は姿を見せた。

 トーマたちを助けるために。

 「よかったですねぇ。貴男方が思っている以上に、お嬢さんはみなさんを大切な存在として認識しているようですよ。美女に想われて、幸せなことですねぇ」

 ナインがサクヤのことを話すたび、サクヤの想いを告げるたびに、それが穢されていくようでトーマに不快感を与える。

 対するサクヤはというと、ナインの言葉に反論することなく、静かに視線を落としていた。

 (何を考えてる?)

 近くに行って、サクヤの気持ちを聞いてみたい。自分たちを大切だと想ってくれているのなら、これほど嬉しいことはないと伝えたい。人の心の機微には聡いくせに、自身へ向けられた好意にはためらう彼女のことだから、伝えてやらないと信じてもらえない。

 一方で。

 大切だと想っているのなら、話してほしかった。頼りにしてほしかった。共にいてほしかった。最初に交わした約束を違えてまで、遠ざけることで守られるのは、イヤだ。自分はそんなにヤワじゃない。

 それは、嬉しさよりも胸を締め付けられるような切なさをトーマに与えた。

 離れていた二か月の間に、以前よりもさらにほっそりとした彼女は、佇んでいるだけで折れてしまいそうだった。体も心も。だから、支えたいと強く思うのに。

 なのに、近づきたい気持ちとは裏腹に、体は全く自由が利かない。

 せめて視線だけでも合わせたいのにそれすらできない。先ほど交差した視線は、サクヤが顔を伏せてしまってからは交わることはない。ただ、白くなるほどに握りしめられた彼女の拳が、胸の内に荒れ狂う激情を物語っていた。

 「さて、ここで問題です。なぜ、我々はこのお嬢さんを探していたのでしょうか」

 ナインが、今度こそトーマたちに向かって問う。だが、その答えをもっている者はいない。そもそも、応えが返ってくることなど、期待していないのだろう。

 「やれ」

 それに構わず、ナインがパチンと指を鳴らすと、一度は動きを止めたスーツ男たちが再び凶器を振り上げた。

 はじかれたように顔を上げたサクヤが声を発するのと、凶器がトーマたちに振り下ろされたのは同時。サクヤが身を挺したとしても、トーマたちが無事でいることはできないはずだった。だが。

 「素晴らしい。何という速さと正確さ」

 凶器が男たちの手から取り落される音を聞きながら、ナインは拍手でもって称賛を送る。

 誰に、サクヤに?

 地に落ちて音を立てる凶器を目で追い、茫然としてサクヤに視線を戻せば、今にも泣きだしそうな姿が映る。

 「な、何が起こってん?」

 取り繕うことを忘れたケイジが低く呟く。

 それに答えたのは、やはりナインだった。

 「四四〇、基本の波形。それで、停滞していた空気に運動エネルギーを与え、凶器を払い落とすとは。瞬時に目的地と力の大きさを操れる器用さ。意外にも熟練された手腕ですね。僥倖、僥倖。あぁ、その姿勢では、見づらかったでしょうか。まぁ、ワタクシが見られたということで充分です」

 しきりに頷きを繰り返し、上機嫌なナインが滔々と語る。トーマたちに向かって話しているようだが、何を言っているのか、まるで意味が分からない。話が見えない。

 「不思議な顔をしていますねぇ。じゃあ、もっと分かりやすい形でお見せしましょうか。ワタクシたちが彼女を探していた理由を」

そう言って、不意にナイフを手元にひらめかせたナインは、ためらうことなくサクヤの左肩を切り裂いた。

「サクヤッ・・・・・・?」

 唸り叫ぶように名前を呼んだ声に重なるように、澄んだ高音が響き、その音を立てた物がコロコロと転がり、地に縫い付けられたトーマの目の前で留まった。

 ジヨージュ。

 真珠にも似た青い光沢のある、今まで見たこともないほど美しい珠が、トーマの視線の先で煌めいていた。



 一瞬の鋭い痛みの後、抉るように返された刃の感覚がして、次いでジンジンと熱をもった不快感が襲ってきた。

 しかし、そんなことは気にならないくらい、サクヤの心は何も考えられなかった。

 (見られちゃった・・・・・・せっかく、隠していたのに。せっかく、仲良くなれたのに。せっかく、人間として過ごせていたのに・・・・・・)

 のろのろと左肩に伸ばして、傷口を押さえた手を生温い液体が伝っていく。けれど、ずっと感じていた肩の違和感はなくなった。

 違和感の原因は、今。

 (トーマの前)

 トーマの赤銅色の瞳が、いや、この空間にいるほとんどの瞳が、その一点を見つめている。見ることができないのは、サクヤくらい。

 「これまた素晴らしい。ブルーブラッド。今日は、何という日だ。まさか、これほどの存在だったとは」

 目を細め、これ以上ないほど嬉しそうに笑うナイン。

 それに対して、サクヤは血の気が引いていく思いだった。怪我のせいばかりではない。自分の手足の末端がどんどんと冷たくなっていくのが分かり、一方でちゃんと立てているのか分からなくなっていった。

 俯いたサクヤは、視線をあげることができない。みんなを、トーマを見ることができない。

 きっと、自分に驚きの視線を向けているだろう。そのことは、姿を見ずとも分かる。

 それが。

 みんなの視線が、蔑みに変わったら、自分を奇異の目で見るようになったら、人でないモノを見るように変わったら・・・・・・。

 きっと、耐えられない。

 トーマたちなら受け入れてくれるのではないかという想いがある一方、もしかしたらという不安が胸の中で荒れ狂い、サクヤは顔をあげることができなかった。

 サクヤだけではなく、他の誰もが絶句して音のない世界の中、一人楽しそうにしているナインが親切めいて口を開いた。

 「お分かりになりましたか。我らが、このお嬢さんを求めた意味が。求めた理由は二つ。一つが、体内でジヨージュを生成することができるから」

 「ジヨージュの生成?」

 心の底からの疑問を有したトーマの声。それは、ここに集った皆の気持ちをも代弁している。

 それを聞いて、身を固くするサクヤにかまわず、ナインはトーマの目の前に転がっていたジヨージュを拾い上げ、その美しさに目を細めた。

 光にかざし、その美しさをゆっくりと堪能するナイン。直径一センチほどの見事な球形の珠は、光を受けて虹色に艶めいていた。通常の赤みがかったジヨージュも、相場ではかなりの金額になるが、この珠はそれに比較できないほどの値がつくと想像できるものだった。

 ひとしきり珠を見終わったナインは、その珠をケイジの方へ向けて見せた。

 「ジヨージュについて、どんなことを知っていますか」

 瞳の奥の隠し事を暴き立てるような、蛇のようにねっとりとしたナインの視線は、まるでケイジの変装などお見通しと言わんばかりの余裕があった。

 ケイジは、一つため息をつきつつ、それでも改めて、平常の言葉遣いは隠したままに答える。

 「ジヨージュ。その形態はおおむね球体。歪みがなければないほど高価で、色は、乳白色や薄紅色が多く、色味の違いは個体によって様々である・・・・・・とされています。珍重されるのは、青味がかった乳白色で、光にかざすと虹色の光沢を見せるもの。つまり、今、あなたが手にされている物ですね。原材料は不明。自然物なのか人工物なのかすら分からないですが、昔から装飾品として愛用されてきた」

 ケイジの言葉を聞き、満足そうに頷くナイン。その表情は、さながら優等生の模範解答を聞くときの教師の顔だった。

 次いで、ケイジはワントーン落とした声音で、言いにくそうに付け加える。

「一方で、この珠は薬物・・・・・・厄物と認定されています。この珠とカルシウムを反応させると何とも言えない恍惚感や身体能力の上昇が得られることが発見され、合成薬物として用いられた過去があります。中毒性のある症状に、当時は常用するものが多発。しかし、後に使用した者への精神や肉体への負荷が尋常でないことが判明したため、即座に、政府は使用を禁じました。表向きは。未だに裏ルートで取引され、相場はかなりの金額となるので、金儲けのために、あるいはその魅力的な効能のために求める者は後を絶たないのが実情です」

 「おおむねその通りです。いえ、表立っての情報であれば、それで十分」

 ナインの視線がサクヤを一瞥する。そして、手元のジヨージュに視線を戻した。青味がかった乳白色の美しい球体の珠。光に反射して七色に輝く様は、見事なものだった。

 「けれど、ワタクシたちは知っている。ジヨージュがどうやって生まれているのか。貴男方も見たでしょう。ジヨージュは、彼女のような女性が生成しているのですよ。体内にて特殊な血液が凝固することでできるのです。そもそも、ジヨージュの本来の呼び名をご存知ですか。古来の発音は、ジョヨウジュ。女の孕む珠、と書いて女孕珠と言うんですよ」

 女孕珠。それが、ジヨージュの正しい呼び名。名前の通り、女性が体内で作る特殊な珠。サクヤは身をもって知っている。

 貝が身の内にできた異物を体液で包んで真珠を作るのと同じように、ジヨージュも傷口に作られる。傷口に侵入した異物や固まった血液を核に幾重にも血液が層を成して作られ、傷口が癒えた後も体内に残る。サクヤが体内に残留した珠のコロコロとした違和感に悩まされたのも一度や二度ではない。

 ジヨージュは、体内で連続して生成されればされるほど、質が悪くなり、大きさも小さくなっていく。だから、最高の品質の物を手に入れるため、ジヨージュが作れると判断された女性は、小さい頃にわざと異物を入れた傷口を作らされる。長い年月をかけ、美しい珠を生成するために。それは、ほとんどの場合、鎖骨の間。

 サクヤは、自身の首元の古傷に手を当てた。

 最初の傷。記憶もないほどの頃に傷をつけられ、恐怖と共に取り出された至高のジヨージュを思い出す。それを、痛まし気に、憎らし気に見ていた研究員がいたことも。サクヤにとって不幸なことに、その血はブルーブラッドであることが生まれたときに分かってしまった。ジヨージュの中でも高い評価を得られる青味がかった珠を生み出す物。多少の質の悪さなど気にされないのだろう。鎖骨のジヨージュを取り出された後、小さい頃のサクヤは、常にどこかしらにジヨージュを孕んでいた。それを異常だとも思わずに、当たり前のように受け入れていた。

 母と出会うまでは。

 ツバキに傷だらけの身体を労わってもらい、人間らしい感情をもらってから、当時の自分がどれほど不自然な存在だったのかを知ることができた。

 だから、分かっている、自分がどれほど歪な存在であるかを。

 「そして、もう一つ。ワタクシたちがお嬢さんを求めた理由。それは、その声にあります。こちらも先ほどご覧になりましたね。彼女の声には、事象に働きかけて変容を促すことができるのですよ」

 ナインの話の合間に、勇気を振り絞ってチラリとみんなを盗み見た。誰もが、頭に疑問符を浮かべて茫然としている中、唯一こちらを向いていたトーマと視線が合ったような気がして、サクヤは思わず目を伏せた。彼の瞳の中に自分がどんな風に映っているのかを知るのが、今は怖かった。

 「彼女が、ひとたび強い意志をもって声を発せば、停滞した空気を一方向へ動かす空気砲にしてナイフを飛ばしたり、岩を砕いたりすることも可能です。おそらく、このお嬢さんほどの力量があれば、脳に揺さぶりをかけて精神的に影響を与えることもできるでしょう。それこそ、恍惚感やドーピングのような作用をもたらしたり、機能に被害を与えて廃人のようしたり・・・・・・」

 ナインの言葉が、見えないナイフのようにサクヤに襲いかかる。けれど、どうしようもなかった。だって、彼の語ることはすべて真実だったから。

 やろうとは思わないが、いざとなったら、実行できる技術を持ち合わせている自信がある。だって、それが、自分の存在意義だったから。

 「さて、こんな魅力的なお嬢さんをワタクシたちは総称して、こう呼んでいます」

 その言葉に続く単語が容易に想像できて、サクヤ必死に心で叫んだ。

 言わないで。これ以上、話さないで。彼らには、知ってほしくない。だって。

 (知ったらきっと、私を恐れる)

 今まで、会った人は、誰もがそうだった。たった一人の例外は、母親だけ。

 自分の正体を彼らに知られるなら、危険なことに巻き込むなら、一人でいる方がいいと思った。離れることで安全を守れるなら、会えなくてもいい。どこかで、生きていてくれるなら。彼らの中のサクヤが、ただのサクヤとして生きていてくれるなら。

 約束の優しい一年を失う代わりに彼らを守れるのだと信じれば、不思議なほどに痛む心に顔を背けるなんて、どうってことなかった。

 そのはずだったのに。

 彼らと再び会えたことを喜んでしまった。彼らが、自分のことをサクヤと呼んでくれることに嬉しさを禁じえなかった。

 だから、その報いだろうか。サクヤが恐れていたことが現実に迫っている。そして、多分それは止められない。

 やめて、とうるさいほどに心は叫ぶのに、実際に言葉にすることはできず、耳をふさぐこともできず、サクヤにできるのは、ただ立ち尽くすことだけ。

 「彼女たちの総称、それは」

 それは、サクヤがよく知っていて、ずっと求めているモノ。

 そして、本当はトーマたちには関わってほしくないモノ。

 彼女が、この世に存在し、必要とされる理由。



 「殺戮装置、と言います」



 シーンと今まで以上の静寂が辺りを包み込んだ。

 (何を言っている?)

 トーマは、朗々と響いたその単語が意味することを理解できなかった。今までの話の流れだって、頭の悪い自分が理解できているとは思えない。けれど、今聞こえた単語は、その言葉が意味するところが分からなかった。いや、嘘だ。理解することを拒んでいる。それが、真実、トーマの本音。

 殺戮装置。自分に都合の悪いものを一掃し、手に入れることができたならば、国を牛耳ることさえできると言われている存在。

 (殺戮装置が、サクヤ?)

 愕然と信じられない想いでサクヤのほうを見れば、何を言うでもなく佇む彼女の静かな姿が目に入った。うつむき、悄然とした様子を見れば、今までの付き合いから、ナインの言ったことが間違いではないのだと分かってしまった。

 殺戮装置だから、それがなんだ。サクヤがサクヤであることに変わりはない。

 そう、叫ぼうと思ったのに、喉の奥に何かがつっかえた様に声が出てこない。サクヤが殺戮装置だと聞いた瞬間、彼女と夕食を共にした時のことを思い出してしまった。

 あの日。

 殺戮装置が必要だと思いつめた様に伝えるサクヤに自分は、何と言った?

 ————殺戮装置なんて、いらねぇ。きっと、世界に必要とされてねぇよ。

 それは、トーマの偽りのない気持ちだった。殺戮装置なんて物騒な物がなくても、自分の力で少しずつでも世界を変えていきたかったから。

 でも。

 それを聞いたサクヤは、どんな気持ちだったろう。

 自分の存在を丸ごと否定されて、誰からも求められていないと、トーマに必要とされていないと言外に告げられて、彼女はどう感じただろうか。

 殺戮装置がサクヤだなんて、自分と同じ人間だなんて考えてもみなかったから、簡単に言葉にできた。けど、今は。

 今は、吐きそうになるほど、後悔している。誰よりも、たとえサクヤが許したとしても自分で自分が許せなかった。

 噛み締めた奥歯がギリッと音を立てた。そうでなければ、この荒れ狂うサクヤへの謝罪の念をやり過ごすことができなかった。

 (サクヤ・・・・・・)

 目線を上げることのない彼女に必死で視線を送る。

 もしかしたら、自分には彼女と話す資格はないのかもしれない。トーマがサクヤに与えた苦痛を思えば、当然かもしれない。

 それでも、サクヤの口から何かを聞きたかった。否定でも、肯定でもいい。自分を糾弾してくれても構わない。彼女が何を考えているのか、何を想っているのか知りたかった。

 誰もが何も言わず、それぞれが沈黙を守っていた。

 「言葉がありませんか。無理もないでしょう。誰だって、世に知られている恐ろしい殺戮装置が、こんなに可愛らしいお嬢さんだとは思わないでしょうから」

 トーマは無言でナインにガンをとばし、ケイジは何かを吟味するように口を閉ざしていた。リュウがどういえばいいのか考えあぐねる中、口火を切ったのは意外にもコウだった。

 「違うッス。姐さんは・・・・・・サクヤちゃんは装置なんかじゃないッス。俺たちと同じように笑ったり、泣いたり、怒る・・・・・・のは、あんまり見たことがないッスけど。とにかく、俺たちとなんも変わらないッス。一人の人間ッス」

 「その声で事象を変え、人体を切りつける衝撃波を出したり、体内のジヨージュをもって、人の精神に支障をきたしたりする存在のどこが、我々と同じなのですか。物理的にも精神的にも人間を傷つけることのできる力をもったモノ。ゆえに殺戮装置という名称がピッタリだと思うのですが」

 ぴしゃりとコウの言葉を否定するナインに、トーマの胸が震える。たとえ、ナインの言った通りだとしても、先ほどの物言いに腹の底から怒りがこみ上げる。

 サクヤの出自も存在も、トーマが彼女に言ってしまったことも、なかったことにはできない。けれど、このまま黙っているのは間違っている。それはナインの言っていることを肯定しているも同然だ。サクヤが、どういう人間でも、どう思っていても、構わない。今のトーマだからこそ言いたい言葉、言える言葉がある。

 そう思ったら、リュウに先を越されたことがなんだか口惜しくなり、トーマは鼻を鳴らしてナインに応戦する。

 「ハッ、なぁに自分だけがいい子ちゃんになってやがんだ。今の言葉が、どんだけサクヤの精神を傷つけてるのか分かんねぇのか。それに、お前らが持っている銃だのナイフだのは十分に人を傷つけるもんじゃねぇか。なんも変わりゃしねぇよ。オレたちとサクヤは」

 (そう、オレもサクヤのことを深く傷つけた)

 しかも、簡単に癒すことのできない傷だ。

 サクヤのもつ力は、扱い方を違えば、トーマたちのもつ暴力と変わらない。ただ、ほんのちょっと、他の人間とは違う在り方をしているだけに過ぎない。トーマとサクヤは変わらない。殺戮装置なんて関係ない。サクヤは、サクヤだ。

 それが、今のトーマの偽らざる心。

 そうして言い切ったトーマが不敵に笑って見せると、ハッと顔をあげたサクヤと目が合った。当たり前のように頷いて見せると、彼女は今にも泣きだしそうな表情でキュッと唇を引き結んだ。

 苦虫を噛み潰したようなナインがトーマを睨みつけてきたが、それがどうした。見れば、ケイジがよく言ったと言わんばかりに視線をくれ、リュウやコウからは久しぶりの尊敬の眼差しが返ってきた。

 「よくもまぁ・・・・・・、ただの被検体にすぎない存在に。そもそも、サクヤなんて名前はないんですよ。彼女の本来の名前は、被検体T—一〇〇五三九八。サクヤという呼び名は、どこかのバカな研究員が勝手に語呂合わせでつけただけなんです」

 「関係ねぇよ。たとえ、由来がどうであれ、サクヤって名前がコイツの名前だ・・・・・・いい名前だってオレが何度だって言ってやる」

 それは、偽ることのないトーマの本心。初めて名前を聞いた時から、彼女に相応しい名前だと思っていた。 フェルマータに聞いた、遠い島国で春に咲き散る、儚くて美しい花の名前。

 だから。何度だって自分が認めてやるから、そんなに泣かなくていいと、嗚咽を堪えなくていいと、トーマは心の底からサクヤに伝えたかった。



 ほたほた、ほたほたと頬を伝って落ちる雫が、静かな空間の中に吸い込まれて消えていく。止めようと、何度も息を吸って、目元をこすってみるが、まるで効果はなかった。自分の中に、まだこんなに涙が隠れていたなんて信じられない。ジヨージュを身に宿し、各部を切り刻まれた時だって、ツバキが死んでしまった時だって、こんなに泣いたことはない。

 トーマのくれたコレは、それまでとは違う。どれだけ流しても苦しくはならない。あの時、ケイジが胸を貸してくれた時と、よく似ている。泣いたら、その分だけ心が晴れるような優しい涙。

 「あり、がとう、ありがとう・・・・・・」

 こんな私を同じだと言ってくれて。

 変わらない態度で接してくれて。

 サクヤが殺戮装置だと分かったときに、愕然とした表情のトーマを捉えてしまい、身がすくむ思いだったが、今の言葉ですべてが吹き飛んだ。変わりに胸にこみあげるのは、表現しようもない温かなものだ。いろんな感情が混ざって、涙も言いたい言葉も止まらない。

 けれど、伝えたい言葉はたくさん溢れてくるのに、サクヤが伝えられたのは、ありがとうの言葉のみ。それも、絞り出すような小さな声になってしまった。それでも、温かく見守ってくれるみんなの眼差しが愛おしい

だから、この思い出があれば、きっと自分は生きていける。

 サクヤは努めて息を整えた後、大きく息を吸い、姿勢を整えた。傷を押さえていた手を離し、ピンと背筋を張った。少しでも、人間らしく見えるように。

 「ナインさん。あなたたちの招待に応じます。目的は、私一人でしょう? トーマたちは放してください。私が、この場を離れてからで構いません。ただし、彼らが安全に、自由になったことを私が確認できること、それが条件です」

 「なっ・・・・・・」

 凛とした態度でサクヤが告げれば、ナインの表情が再び満足気に彩られた。驚愕の声をあげるトーマを見ないふりをして、痛むのは肩の怪我だと言い訳をして、サクヤは泣きはらした赤い目で艶やかに微笑んで見せた。

 「私は殺戮装置として申し分ないでしょう。悪くない提案だと思いますが」

 「えぇ、それは、とても」

 サクヤに抵抗の意思はないと考えたのか、ナインの雰囲気が少し軟化する。しかし、存在を隠しながらもナインの後ろで自分たちに銃口を向けているスーツ男に変化がないのを確かめ、サクヤは思案する。

 その間にもトーマは拘束を解こうと抵抗を試みていた。

 (どうすれば、トーマたちの安全を保障できる? どうすれば、一緒に居たいという気持ちを無くすことができる? いっそのこと・・・・・・)

 腹をくくれば、不思議なほどに心が凪いだ。一抹の寂しさを消すことはできなかったけど、これは記念にもらっていくことにした。

 「トーマ」

 顔をきちんと上げ、彼の瞳を真っ直ぐに射貫いた。うつむかないよう意識して、堂々と立って、服の上から胸元を握りしめた。そこには、外から見えないように首に下げた椿のキーホルダーがある。

 本当は、傷はジンジンと痛むし、これからのことを考えると不安でたまらないけれど、凛と立った姿をみんなに見せたかったから。とびきり優しく名前を呼んで、トーマの赤銅色の瞳と自分の湖底の翠の瞳を交差させる。

 「ケイジ」

 次いで、トーマの隣で言葉のないケイジに視線を移す。

 「コウ」

 泣き出しそうな長身の優しい男に。

 「リュウ」

 小柄で何かを考え込んでいる男に。

 呼びかけながら、その姿を忘れまいと心の奥の宝箱にしまっていく。

 最後に、再びトーマを見つめると、サクヤは先ほどの艶やかな笑顔とはまるで違う表情を見せた。

 薄汚れた倉庫の陳腐な電灯の下で、覚悟を決めた表情を一瞬のぞかせた後。

 サクヤは、何を飾ることもない素のままの自分で、笑ってみた。

 それは、とても透明で美しくて、いつまでも見ていたいと思うのに、同時に見る者に不安と悲しさを与える笑顔。

 神々しくてサクヤらしい綺麗な笑み。

 当の本人は、そんなことは分からなかったが、今までにないくらいサクヤの気持ちは晴れていた。

 「ありがとう」

 だから、この言葉もすんなり出てきた。心のこもった最大限の感謝の言葉。先ほどの涙にぬれた声とは打って変わったどこまでも澄んだ響きで。

 「そして、ごめんなさい」

 約束を果たせなかったこと。

 本当のことを伝えられないこと。

 わがままで自分勝手なこと。

 それでも、彼らなら笑って許してくれそうな気がした。これからも一緒にいてくれそうな気も。

 トーマたちから無理やり視線を外し、サクヤは一歩ナインに近づく。気づいたナインがエスコートするように差し出した手に自分のそれを重ねる。

 筋張ってひんやりとした手に引かれ、サクヤは倉庫の出口へ向かって歩き始めた。

「行くなっ・・・・・・!」

 絞り出すようにして出されたトーマの一言が胸に突き刺さる。振り返らなくても、彼の自分を気遣う真摯な瞳が想像できて、思わず駆け寄りたくなる。

 (本当に、みんなの元に帰れたら、いいのに)

 不意に思った自分の考えに驚き、口元だけでそっと笑う。いつから、こんな風に変わってしまったんだろう。けれど、その変化を不快だとは思わなかった。むしろ、嬉しく感じる。

 感情の宝箱に、また一つ新しいものをしまっておく。大切に、忘れないように。

 やがて、出入り口付近に来たサクヤは、確かめるようにナインへと視線を向けた。

 「もう一度言います。私たちが去った後、トーマたちの安全を保障してください。ここを離れるときだけでなく、デメルの町においても手出しはしないよう図らってください」

 「それは、彼らの行動次第でもありますが・・・・・・、そもそも、この場をどうするのですか。我々が手を出さなくとも彼らは貴女を追いかける気にあふれています。貴女が何と言おうと、ワタクシは降りかかる火の粉は全力で払わせていただきますが」

 「私に任せていただけますか」

 ナインの言葉は想定内だ。サクヤは、重ねていた手を離すと、未だに男たちに取り押さえられているトーマたちを振り返った。問いかけるような、縋るような視線を受けながら、サクヤは歌を紡ぎ始める。

 (細く、強く、どこまでものびやかであるように。大切な者を守れるように)

 瞳を閉じ、歌声に想いをのせた。何度も繰り返してきたことを今はより丁寧に、織りなしていく。

 (相手を想い、イメージを鮮明に、生み出す波長は寸分の狂いもなく・・・・・・)

 何度も教わったことを胸の内で繰り返しながら、サクヤはツバキのことを思い出していた。


 『最初は、この箱を開けてみて。波長は基本の四四〇。ただし、波長を一定方向に流すだけでは開かないようにしてあるわ』

 サクヤがツバキと一緒にプルトーで暮らし始めてからも、ゼスの施設でやっていた声帯の研究、その訓練だけは一日も欠かさず続いていた。それは、鍵のついた箱にサクヤが調律した声を当てることで鍵を開けるというもの。ツバキが独自に作った鍵付きの箱は山のようにあり、それぞれに違った鍵がかかっている。

 近頃ようやく柔らかくなってきた表情を緊張させながら、サクヤはツバキが出したヒントに従って目の前の箱に声を紡いだ。

 (糸のようにしなやかに、通る道に従って声音を曲げるように)

 瞳を閉じ、頭で細い糸が針の穴を通るようなイメージを描きながら、声を箱に飛ばす。ほどなく、手ごたえを感じると箱はカチャリと音を立て開いた。

 『次は、硬くロックをかけた、この箱よ』

 新たな箱に声を当てると、壁にぶつかるような感覚が返る。

 (揺らがし、解き放つように)

 壁に感じる障害に同調する波形を小刻みに当てるように声の高さを意識しながら謳う。こちらも、それほど時間をかけることなく箱が開いた。

 『お見事。やっぱり、サクヤはとび抜けて声の調律のセンスがいいわ。このまま、毎日欠かさず訓練していきましょう。そして、だからこそ、気をつけなさい。普段は、声帯に自分で障壁となる膜を作って、声が出ない風を装うこと。こんな特殊な声をしていると分かったら、その、アレだとばれちゃうし』

 『殺戮装置、ですか』

 言いよどんだ言葉を引き受けると、言ったサクヤよりも傷ついた顔のツバキが悲し気に言った。

 『サクヤ、あなたは、サクヤという一個人なのよ。私があなたといるのは、サクヤだから。殺戮装置だなんてものだからではないの。覚えていてね』

 ツバキの話は難しいこともあって、サクヤには理解できないことも多い。この言葉もそうだった。でも、それを素直に言うと、またツバキが悲しむから、サクヤはコクンと頷いた。


 (今なら、母さんの言っていた意味が分かる)

 きっと、さっきトーマたちが言ってくれたことと同じ。トーマたちと過ごした日々とツバキの遺してくれた言葉が、サクヤを殺戮装置の一〇〇五三九八ではなく、サクヤに形作ってくれている。

 そして、ツバキの教えに従ってやってきたことがトーマたちの助けとなる。

 ツバキの死後も、彼女が遺した多くの箱をプルトーの家で開けてきた。トーマたちと一緒に過ごすようになっても部屋に音の漏れない空間を作って、その中で声を磨いていた。もっとも、電気を点けていると、翌朝トーマに心配の眼差しを寄越されることもあったが。

 追憶の間もサクヤは声を紡ぎ続ける。

 最初こそ、サクヤのしていることに懐疑的な視線を向けていたナインだったが、やがて訪れた事象を目の当たりにして感嘆の吐息をもらす。感情は違えど、トーマたちが息をのむのもサクヤの鋭敏になった感覚で分かった。

 紡ぎ続けられるサクヤの声は、やがて旋律を帯び、艶やかさを増していく。すると、その声に呼応するようにトーマたちの周囲に光が集まりだした。思わずトーマたちの拘束を解いて逃げようとしたスーツ男をナインが一睨みでその場に留めおく。

 金色に輝く蛍のようないくつもの光点がふわふわとたゆたい踊る。点と点は自由に踊っていたはずなのに、サクヤが弧を描くようなのびやかな声音を発せば、その光点の一つ一つから絹糸が伸びるがごとく、光の軌跡がトーマたちの周りを巡り始める。

 サクヤが謳う。それは、トーマたちには何と言っているか分からない音の羅列だったが、その響きはどこか懐かしく、優しい温かなものだった。

 お日様の香りのする布団でふわりと包み込まれるように、得も言われぬ心地よさを感じさせながら、トーマたちは金色の光の中に閉じ込められていく。しかし、それは決して彼らを束縛するものではなく、他の悪しきものから守るもののようだった。大切な者を傷つけさせぬ金色の繭。

 謳い続けるサクヤの心を表現するように、美しく慈しみにあふれた光が幾重にも旋回しながら、繭を形成してく。不思議なのは、いくら繭に層が成されたとしても、視界は全く遮られないということだ。

 (本当は、姿が見えないようにした方がいいんだけど・・・・・・)

 少しでも、トーマたちの姿を目に焼き付けていたい。これは、サクヤのエゴだ。

 やがて、サクヤの声が細く小さくなり、詩は終焉を迎えた。

 「これで、大丈夫です。トーマたちを捕まえていた方々に、繭の外へ出るように指示してあげてください」

 その声が聞こえていたのだろう。サクヤの言葉にナインが顎をしゃくって見せると、すぐにトーマたちを拘束していた男たちが動き出した。

 「サクヤッ・・・・・・⁉」

 当然、自由を取り戻したトーマたちは、サクヤの元に駆け寄ろうとしたが、先ほど男たちを通したはずの繭は、トーマたちの通過は許さなかった。

 「どうなってんだよっ、サクヤッ!」

 苛立たし気に拳を繭に打ち付けたトーマが真っ直ぐにサクヤを射貫く。出会った頃の燃えるように煌めく赤銅色の瞳に、歪みそうになる表情を押し殺してサクヤは言う。

 「この繭は、私が許可したものしか通しません。大丈夫です。私たちが去り、この場所の安全が十分に確保されたら、繭は自然に消えるようにしてあります」

 繭玉の中の四人を見つめ、サクヤは告げる。繭の障壁という物理的な隔たりだけでなく、トーマに使わなくてもいいと言われた敬語を使うことで、心理的にも一線を引く。自分自身の心のために。

 (私は卑怯だ)

 これから伝える事実を思い、そうしてトーマたちと離れようとする自分の勝手さを思い、彼らの胸中を想い、サクヤはギュッと胸元を握りしめた。椿のキーホルダー。これだけは、記憶ではなく実物をもらっていくことに決めている。

 「どうか、私のことは忘れてください、と言っても、そんなに簡単にできないと分かっています」

 だって、サクヤがそうなのだから。心優しい彼らができないことは百も承知だ。

 だから。

 (違う形で、忘れられなくさせてあげる)

 「最後に、一つ教えてあげます」

 サクヤは、嗤う。ゾッとするほどの美貌でもって。そして、最後の審判を突き付けるように淡々と事実を口にした。


 「十三年前、あの時計塔の事故を起こしたのは、私たち。当時、東側の統括責任者だった母のツバキが計画して起こしたものです。トーマさん、あなたの弟を殺したのは私も同然なんです」


 一瞬の内に空気が変容した。サクヤを中心とした冷たい空気は、トーマたちをその場に縫い留める冷気だった。トーマだけでなく、先ほど口火を切ったコウですら、何と声をかけたらいいのか分かりかねた風に茫然としていた。

 サクヤは、言葉なく絶望したような表情のトーマたちを見て、丁寧に頭を下げた。

 最後に見る彼らの表情がこんなものだなんて嫌だったけど、心の中にはみんなの笑顔が色褪せず思い出せることに安心して、サクヤは最大限の感謝を表す。

 「みなさん、どうもありがとうございました・・・・・・行きましょう」

 振り返ることなく、倉庫の出入り口に向かえば、今度は彼女を引き留める声はかからなかった。

 (当然だ。それだけのことを自分はしたのだから。なのに)

 胸が痛んで、涙が出そうでたまらない。そんな資格はないはないのに。

 「平気ですか」

 声音に少々の気遣いを滲ませて、隣に並んだナインが問う。それに、頷きを返し、サクヤは、ナインたちと共に倉庫から姿を消した。



 最初は、小さな電気系統のショートを起こしただけだった。その一部を一時的に動かないようにするだけで、いいはずだったから。母の見立ては、間違っていなかったはずだ。

 なのに。

 『どうなっているの、どうしてここまで大きな障害になるの』

 焦って爪を噛むのは母の癖。実際にショートを起こしたのは私だったけれど、計画したのは母で、すべての責任を負うつもりであったことは簡単に想像がついた。

 予想以上に広がった時計塔への被害は、もはや東棟だけの問題ではなく、また母の手に負えるものではなくなっていた。

 時計塔が動かなければどうなるかは分かっている。この国が受けている恩恵が受けられなくなるのだ。災害を退け、国に有益になるようコントロールされている魔法のような力がなくなってしまうのだ。つまり、国の衰退は目に見えている。きっと、今まで見えない力で退けてきた自然災害や疫病が下層の町から順に流行り出すだろう。

 『・・・・・・ダメだわ。動力源に繋がらない。せっかく、開発したのに・・・・・・』

 母がうなだれる。こんなに弱った母を見るのは初めてだ。

 『元の動力源に切り替えますか』

 『ダメよ! 何のために切り離したと思っているの!』

 私の言葉に激しく否定の言葉をぶつけた直後、ハッとしたように唇を噛む。そして、一つ頭を振り、こちらを振り返った。

 『このまま行くわ。時計塔、及び施設からの退却を命じます。後のことは、エノキさんに頼んでいる。きっと、うまくやってくれるわ。それを信じる』

 強く決心した表情で、母が告げれば、それに賛同したかのように。周りの白衣を着た研究員たちが似たような表情で頷く。

 私を始めとした子どもたちは、その状況を一様に不思議そうに見ていた。自分たちのために母たちは心を砕いているのに。まるで他人事のよう。青、緑、赤、オレンジの服を着た私たちは、そのカラフルさに反して、きっと表情は同じようなものだったろう。

 感情の起伏が少なく、どこか冷めた目をしている子どもたち。

 これから、時計塔の動力源として一生を捧げるはずだった殺戮装置の一団。国に恩恵をもたらすための代償。国民の多くが存在を知らない人柱。

 母は、人を犠牲にして成り立っている、この国に一石を投じようと考え、私たちではなく、機械からエネルギーを供給する仕組みを作った。母の想いに共感した研究者も上層部に隠れ、それを手伝った。そして、私たちが動力源として使用される前に、その仕組みを時計塔とつなげ、機能を停止させずに私たちを逃がそうとしたのに。

 うまくいかなかったことは、火を見るより明らかだ。周囲は異常を知らせる赤いランプの光で埋め尽くされ、あちらこちらから怒声や悲鳴が聞こえている。

 『もともと、この子たちの上に成り立っていた幸せなんて、あってはいけなかったのよ。災害も障害も本当は人類が頭を悩ませて解決していかなければならないはずだわ。誰かを犠牲にするのではなく、ね』

 母の暗い瞳には今まで消費されてきた殺戮装置の姿が映っているのだろうか。

 (気にしなくてもいいのに)

 私たちは、消耗品なのだから。

 いつか、そう母に言ったら、これ以上ないほど悲しい顔で怒られた。そんな顔をさせるのはイヤだったので、以来口に出して言ってはいない。けれど、心の中ではいつもそう思っている。

 私たちは、替えの利く部品。特性に差はあれど、どう使われるかは大差ない。

 試験管の中で生まれ、特殊な声を役に立てられるように磨き、女なら女孕珠を作り、時が来れば時計塔の一部となって国を守る。死という廃棄の時間まで。それ以外の生き方を知らない、統制された組織の中で生きていく。そこには、個人の意思も感情も何もいらない。私も、T—一〇〇五三九八もそうであるはずだった。

 母——ツバキと出会うまでは。

 私たちを装置ではなく、人間として扱い、情を寄せてくれた人。

 だからこそ、この状況を作り出してしまった。

 『サクヤ、逃げるわよ』

 私の手を引いて、母が走り出す。周りを見れば、同じように研究員に手を引かれて四方八方へと散っていく子どもたちが見えた。

 そして、運よく追っ手を逃れた私たちはプルトーでの生活を始めることになった。

 あの時、一緒に逃げ出したはずの子どもたちがどうなったのか、私は——。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ