~Sowrd Of Song~
2 夏
ツキカケに会いに行くから、ついてきてほしいというトーマの言葉に驚いたサクヤは、墓参りという習慣があることを知り、そういうことかと快く承諾した。違和感の残る肩を除けば、体調は以前と変わらない。
日ごとに強くなっていく太陽の日差しと耳に届く蝉の声に夏の盛りを感じる頃、サクヤはトーマたちとツキカケの墓に赴いた。
同行したのは、サクヤの他にコウ、リュウ、ケイジ、そして。
「ふふ、トーマちゃんが誘ってくれるなんて嬉しいわ」
女性のサクヤから見ても、胸がときめいてしまうような妖艶な美女。墓参りということで、地味な服装に身を包んでいるが、醸し出す華やかな雰囲気はすれ違う人の視線を奪ってやまない。彼女の名前はツワブキ。トーマが頼みたいことがあるからと、同行を頼んだ女性だった。
ツワブキは、はたから見ても上機嫌な様子で、トーマの隣を歩いている。ともすれば、腕を組もうと画策するツワブキをトーマが何度となく邪険に振り払う。しかし、彼女は懲りもせずに涼しい笑顔でトーマに近づいて行っていた。
そんな二人を少し後ろの離れた場所から、サクヤはぼんやりと眺めていた。
(お墓。亡くなってしまった大切な人を偲ぶ場所。それは、誰のためにあるのだろう)
ずいぶんと前にいなくなってしまった大切な者の面影が脳裏にちらつく。先日、トーマと過去の話をしたからだろうか。
黙ったまま歩みを進めるサクヤを見て何を感じ取ったのだろう。
脇に並ぶコウとリュウが気遣わし気に目配せをし、トーマには聞こえない声でそっと話しかけてきた。
「あ、あの、姐さん。アニキには考えがあって、ツワブキさんを同行させてるんで、深い意味はないッスよ。気にしちゃダメッス」
墓に飾る花を抱えたコウが慌てた様子で言う。同じく、何かを取り繕うようにリュウが隣で同意していた。
「そうです。ほんと、あのバカは何考えてんだか」
言われると気になってしまうのが人のサガなのかもしれない。サクヤは、改めて前を行く二人を視界に入れた。奇しくも、それは、ツワブキがトーマの腕をとらえた時だった。
嬉しそうにトーマを覗き込むツワブキと、そんな彼女を振り払うのにも飽いてきたトーマが諦めのため息交じりに、それを受け入れる。そんな瞬間。
ツキンと、心のどこかが痛んだ。
寂しくて、切なくて、二人を遠くに感じて。自分は、ここにいてはいけないような気になってくる。
(帰りたいな)
トーマの事務所へ? 自室として与えられたマンションへ? それとも。
墓参りに誘われた時の嬉しさも、久しぶりの外に出られた解放感もギュッとしぼんでしまった。代わりに胸中を満たすのは、得も言われぬ孤独感。そして、悲しくなるほどの郷愁の念。嬉しくはない感情のはずなのに、自分の中にこのような感情があったことに驚く。やっぱり、トーマは自分にはないと思っていた感情を呼び起こしてくれる存在だ。決して歓迎できるものではないけれど。
サクヤはコウたちに言葉を返すことなく、黙々と歩き続ける。先を行く二人の何てことない会話が遠い。そのくせ、うるさいほどに響いているはずの蝉の声は、その会話を消し去ってはくれなかった。
ぼんやりとトーマたちの姿を目で追いながら、どことなく重くなった足を懸命に動かす。墓が近くなっているせいか、人の営みの名残も消え、自然が増えて閑散としてきた。うっすらと額ににじんだ汗をぬぐった時だ。
不意に視界の端に飛び込んできた風景は、サクヤの胸に深い懐かしさを与えた。
(珍しい、遅咲きの……。あの特徴的な渦を巻くウテナ)
知らず、目元を和ませた。デメルの町中をこんなに歩くことがなかったから、分からなかった。
そんなサクヤの様子を声もなく、じっとケイジは見つめていた。それは、彼女のどんな些細な行動も見逃さず分析しようという観察者の目だったが、そのことにサクヤが気づくことはなかった。
「悪い。ちょっと、あっち行っててくれるか」
ツキカケの墓の前でトーマが申し訳なさそうに言う。どうやら、ツワブキに頼んだお願いにサクヤたちは不要のようだ。仕方なく、二人を残して距離をとる。去り際にツワブキがサクヤに見せた、勝ち誇ったような顔が忘れられず、頭の中でぐるぐると回っている。
「なんやっちゅうねんなぁ」
今の間にトイレに行ってくるというコウとリュウを見送り、サクヤはケイジと一緒に木陰で涼んでいた。ここからは、墓の隙間からトーマたちの姿が見えた。会話は聞こえなかったが、どことなくぎこちない雰囲気が伝わってくる。
けれど、何となく二人が一緒にいる姿を見たくなくて、サクヤは視線を巡らせた。
「サクヤちゃんは、どうして、ここにいるんや」
不意にケイジが話しかけてきた。言葉の真意を測りかねて首を傾げると、自分でも言葉が足りなかったことに思い至ったらしいケイジが、もう一度尋ねてくる。
「プルトーに帰らずに、トーマの元に居続ける理由、ここに一緒に来た理由。いや、アンタの目的は一体なんやねん。場合によっては、俺はアンタを許さんかもしれん」
一切の虚言を許さない鋭い瞳。心の奥底まで見透かすような、いつものケイジからは想像できない張り詰めた雰囲気。いや、もしかしたら、こちらの顔のほうが真実の彼なのかもしれない。
どうしたものかと思案にくれるサクヤを見て、どう思ったのだろうか。顔を覗き込むようにしたケイジが、低く唸るように問いを重ねる。
「アンタ、本当にしゃべられへんのか……?」
ざわりと、サクヤの心が揺れ動く。怖いほどに整ったケイジの美貌が、真っ直ぐにサクヤを射貫く。それは、事情を知らないものが見たら、口づけでもするかのような構図であったが、そこに漂う空気は男女のそれとはまるで違った。
(私の、理由)
先日のトーマとの夕食の際も最低限しか話さなかった。トーマはあんなに話してくれたのに。少しの真実を話しただけで、気持ちは伝えたと思ったずるい自分を改めて自覚する。
サクヤが何かを言ってくれるまで納得しないだろうケイジの灰がかった深い青の双眸とサクヤの湖底を思わせる深い翠が絡み合う。意を決したように、ケイジの手をサクヤの両の手が包み込んだ時だ。
「!」
ぐらりと世界が動いた。立っていた二人が揺らぐほどの地震。最近、頻繁に起こっているとはいえ、これほどの規模のものは初めてだ。震源が近い。震源地は、きっとプルトー。しかも、ここは。
「お、おい、どこ行くねん」
はじかれたようにサクヤは走り出す。掴んでいたケイジの手を放すやいなや、一目散に身を翻した。焦ったような厳しく咎めるようなケイジの声を背後に、振り返ることなくサクヤは駆けていく。
トーマの事務所に、自分の部屋だと言ってくれたマンションに、帰りたかった。しかし、それ以上に。
(帰りたい、還りたい、プルトーに、あの場所に)
デメルの町から歩いてきた道を引き返し、先ほど見た遅咲きのカラーの間に分け入る。既視感を覚える道に安堵し、息が上がるのも構わずにひた走る。
(知ってる。この道。あの坂。そして)
植物の間を通り、坂を下り、道と呼べないような道をたどり、木々を潜り抜け、そうして進むうちに、まるで目に見えない扉を開けたようにパッと視界が開けた。
肩で息をしながら見渡すサクヤの目に飛び込んできたのは、数か月ぶりのプルトーの町並みだった。
(変わらないな)
薄汚れた家屋。狭い道。ひしめくように立ち並ぶ怪しげな店。ぼろ布のような日差し除けが空を隠し、行き交う人々も、どこかに何かを隠しているように見える。整備されているとは決して言えない混沌とした町。だからこそ、優しく厳しい、坩堝の町。サクヤの本来住む町、プルトーだ。
「うわ、なんやねん、ここ。ここがプルトー? こない近くにあったんか……? けど、どんな道通って来たか、まるで分からへん」
「!」
数か月で聞きなれた訛りのある声音に、サクヤは反射的に振り向く。そこには、息一つ乱した様子のないケイジが興味深そうに立っていた。
かなりの速さで複雑な道を通って来たと思うのに、まるで意に介した様子のない飄々とした姿で隣に立っている。
「逃げられると思ったん?」
いじわるそうに、だがしかし、その瞳に冗談の欠片すら見せずにケイジが言う。
心外だとばかりに一つ頭を振り、今度こそケイジの手を取り、サクヤは返事を書き連ねていく。
『べつに、にげてない』
それは本当だった。サクヤには、逃げるつもりなど全くなかったのだから。ただ、プルトーのことを考えたら、すべてを失念してしまっただけで。
「ま、ええけど。その代わり、アンタがここで何をするのか、見届けさせてもらうで」
そう言って、サクヤの華奢な手首を掴む。さりげない動作だったが、有無を言わさない強引さが、手首を掴む力に表れていた。
もとより、隠すつもりなどない。むしろ、誰かがいてくれた方が都合がいいのかもしれない。今も、いつもならサクヤに声をかけてきそうな連中が、ケイジの姿を認めて遠巻きに見ている。まぁ、あれくらいの人数なら、サクヤの敵ではないが。
心配した余震もなく、サクヤは辺りを見渡して、損害もなさそうなことに安心する。そして、ケイジを引くようにしながら歩みを進めていく。
(懐かしい。こんなに近くに繋がっていたなんて)
プルトーに住んでいた折に、何度となく行き交った見知った道をサクヤは歩く。この町を知らない者だったら、すぐに迷ってしまうだろう道をサクヤは躊躇なく進んで行く。
後ろについて来ているケイジは、へー、とか、ほー、とか興味深げな声を漏らしながら辺りをしげしげと見回している。恥ずかしい気もしたが、そもそも手首を掴まれたこの状況を考えれば、何ということはない、と思って気にしないことにした。
「どこへ行くんや」
あらかたプルトーの町を堪能したらしいケイジが大人しくサクヤに引かれながら問う。仕方なく立ち止まり、自分の手首を掴んでいる手の甲に、サクヤは短く返答した。
『うち』
「うち? サクヤちゃんの住んでるとこかいな」
ケイジの言葉に頷きを返し、再びサクヤは進み始める。商店が中心だった通りから離れていくと、周りは煉瓦や石でできた住宅の密集地帯に入っていった。崩れかけの壁があれば、背丈よりも高い壁もある。 ちぐはぐで、まるで統一感のない家並み。逸る心を静めながら、何度となく曲がった角を折れれば。
「ここ?」
ケイジが不思議に思うのも無理はない。一見すると、そこは崩れかけたトタン屋根が重なり合っているようにしか見えないのだから。
サクヤは仕草でケイジに手を放すように訴えた。行き止まりで左右は高い壁、他に行くこともできないことと、この距離ならば、サクヤが逃げようとしても容易に捕まえられると判断したのか、ケイジはすんなりと手を放した。
反射のようにぺこりと頭を下げたサクヤは、躊躇なくトタン屋根に手をかける。それを、一定の方向にずらしたり、持ち上げたりして動かしていく。ケイジは、それを黙って見ていた。何気なくたたずんでいるように見えて、ケイジが周囲を警戒しているのが分かったので、サクヤは安心して作業に取り掛かる。
やがて、最後のトタン屋根を別のトタン屋根に引っ掛けるようにすれば、そこには大人一人が通れるほどの土壁のトンネルのような通路と地下へ降りる階段が現れた。
振り返ったサクヤは、手招きをしてケイジを呼ぶ。警戒態勢を解かないままケイジが階段近くまで来ると、サクヤはトタン屋根の一つを横にずらす。それだけで、通って来た道はトタン屋根に隠された。
「すごい仕掛けやな」
感心したように呟くケイジの気配が近い。通路が消え、薄暗くなったのを認めるとサクヤを射程距離にとらえられるように近づいてきたようだ。
(信用されてないな)
何度か顔を合わせ、食事を共にする機会もあったが、トーマたちとは違い、ケイジはどんな時も一定の距離と態度を保ち続けていることにサクヤは気づいていた。トーマたちと話して笑みを見せている時も、サクヤを見る瞳は笑っていない。それを寂しいと思うのではなく、当たり前だと考え、親しみを向けてくれるトーマたちに戸惑いを覚える自分はつくづく最低な奴だと思う。
サクヤはため息を一つ吐くと、記憶を頼りに壁を手探る。ほどなく、指が固いスイッチに当たり、ためらわずに押した。すると、辺りが淡く輝きだし、歩くのには支障がないほどの明るさになる。
「おぉ」
ケイジが再び感嘆の声をあげる。それはそうだろう。サクヤもトーマたちのところで暮らすようになってから知ったのだが、こんな設備はデメルの町にはないのだから。
『せつび。うえのまちの』
プルトーは地下の町。しかし、どの町にもつながっている坩堝の町だ。貧困が目立つが、中にはこうした上層階でしかお目にかかれない便利な設備が備わっているところもある。意識したことはないが、もしかしたらトタン屋根の仕掛けも上層階の物であるかもしれない。
サクヤは、まだ周囲の壁を興味深そうに触っているケイジの手を引いて、階段を降りていった。ここまで来たら、早く中に入りたかった。
トーマたちと過ごした数か月は楽しかったが、やはり心のどこかが寂しかった。還りたかった。プルトーのこの場所こそが、サクヤの在るべき場所だから。
階段を下りた先にある板チョコのような扉に手をかざす。不意に、トーマにもらって食べたチョコを思い出した。舌の上に広がった甘さが、今度は胸に広がったように甘くうずく。それほどに、帰ってきたことに喜んでいる自分がいることにサクヤは気づく。
(ただいま)
心の中でそっと呟いて、指紋認証が終わり電子音を響かせて解錠した扉を押し開ける。
「っ!」
少しの黴臭さと、それ以上に懐かしい空気がサクヤの鼻腔をくすぐった。室内に設けられている明り取りの窓の明るさに目を細めながら見渡すと、出ていく前と何ら変わらない部屋があった。こんなに長く空けることになるとは思わなかった。
山にできた洞窟のような室内。土がむき出しの床に通路と同じ土壁。床には、絨毯代わりの使い古された布が置いてある。調理器具ののるキッチンテーブルには、かろうじて生活の名残が見えるが、必要最低限の物以外ほとんどない質素な部屋だ。
「殺風け……」
続く言葉を隣でケイジが飲み込んでいた。おそらく、自分と同じ場所を見ているのだろう。
部屋の奥、窓の光が一番降り注ぐ場所。一段高くなった場所を見て、サクヤはホッと一息つく。
(よかった。何ともない)
つないでいた手を放し、サクヤはゆっくりと光の中心へ歩いていく。背後で扉の閉まる音を聞きながら泣き出しそうになる。プルトーで、家の近くで揺れがあったと感じた時、もしもどうにかなっていたらと思ったら、いてもたってもいられなかった。けれど、それは杞憂だったようだ。あの時と全く変わらない様子に、安堵する。
雲の合間から差す日差しのように、切り取られた光が照明のように落ちている。舞い踊る埃さえも、その光の演出の一つのように見え、煌めいていた。どことなく、静謐で神聖に感じる空間に、しかし、サクヤはためらうことなく近づいて行く。中心まで歩き、傍らにそっと屈み、改めて傷一つないことを確かめる。光のヴェールの中、サクヤとともにあったのは——。
骸骨だった。
サクヤは、そのそばに腰を下ろし、白い手を取って、そっと銀の指輪が光る指に口づけを落とした。
(ここが、サクヤちゃんの住んでる場所)
目の前に広がっている部屋の中を見渡し、ケイジは想像以上の物の少なさに驚く。
サクヤに連れてこられた住居。住居と呼べるほど生活感のある場所ではなく、彼女がどのようにここで過ごしてきたかが気になった。部屋の中にやたらと積んである箱は何だろうか。質素な部屋の中、カギのついた宝箱のようなそれらだけが、なぜか目を引いた。
「殺風け……」
思わず本音を呟こうとしたケイジだったが、部屋の最奥にあるモノを認めて、その言葉を飲み込んだ。 そこにあるのは。
骸骨。
肉は完全に削ぎ落ち、白骨のみとなった亡骸。刑事という職業上、その骸骨が大きさから女性の物で、死後だいぶ経っていることが見てとれた。それにしては、綺麗すぎるが。
カタコンベ。
不意にその言葉がケイジの頭の中ではじける。
言葉もなく立ち尽くしているケイジをよそに、サクヤはためらうことなく、その骸骨に近づいていく。
ちょうど、窓からの明かりが最も当たる場所にしつらえてある、床に敷いてある布とは質も趣も異なる敷物の上にそっと横たえられている骸骨。まるで光が、その骸骨を守るヴェールのように優しく降り注ぎ、骸骨の白をキラキラと輝かせる。近寄る邪なものを浄化するかのような静謐で神聖な不可視の墓標。
そんな光の中を、ゆっくりとわき目もふらずに歩くサクヤ。彼女の瞳にこの光景はどう映っているのだろう。
「っ!」
やがて、骸骨の近くに寄り添ったサクヤの姿を見て、ケイジは先ほどとは違う感情から息をのむ。
光の中に骸骨とともに浮かび上がる彼女は。
とても美しかった。
光のヴェールは優しくサクヤをもその中に包み、宗教画のように一人と一体を、いや、二人を幻想的な世界の住人のように見せていた。落ちかかる光は、サクヤの髪を明るく照らし、天使の輪を描いていた。伏し目がちに骸骨に注がれた湖底の翠の瞳を縁取る長いまつげが艶めきを増し、もともと白かった肌は透明感をもって光の中に溶け込んでいる。
サクヤが骸骨の白い手を取って、女性には不釣り合いな銀の指輪をした指に口づけを落とす。
それは筆舌にしがたい、神聖な行為に思えた。でも、なぜか。
透き通るほど綺麗なのに、輝くほど美しいのに。同時に。
心が震えるほど悲しくて、鳥肌が立つほど気持ちが揺さぶられて、泣きたくなるのはなぜだろう。
声をかけるのが憚られて、いや、声をかけたら何もかもが消えてしまいそうで、かけられなかった。こんなことは初めてだった。
やがて、最初のように骸骨の手をそっと元に戻したサクヤは、見ることしかできなかったケイジの方へ返ってきた。どことなく安堵したような、困ったような表情の彼女と目が合い、思わず逸らしてしまう。 それほどに、ケイジはどう話しかけたらいいのか分からなかった。
そんなケイジに気を悪くした風もなく、近づいてきたサクヤは彼の手の平に想いを綴っていく。
『はは。ほんとうの、ではないけど。おどろきましたか?』
見上げるサクヤの瞳が揺れて問う。
「地震あって、心配になって来たんか」
サクヤの問いには答えず、確認のように告げれば、彼女は素直に頷いた。そして、続ける。
『へんでしょう。しんだひととは、くらさないんですね。まなびました』
何てことはないように、世間話の一つのような感覚で伝えられる言葉。しかし、刑事をしているケイジの勘は、その言葉の裏に隠している何かがあるような気がして、慎重に言葉を重ねた。
「いつ、亡くなったんや。結構前のようやけど、綺麗な姿してはるな。サクヤちゃんが整えてるんか」
サクヤの瞳が眩しいものでも見るように細められ、感情の揺らめきが大きくなる。今にも決壊しそうな何かを押しとどめるようにしながら、どう伝えようか考えている彼女の想いをケイジは辛抱強く待った。
『じゅうねんまえに、しにました。それからは、わたし、ひとり』
ケイジの手の平に触れているサクヤの指が震えている。それに気づかないフリをして、ケイジはもう一度、部屋の最奥を見た。
先ほどと同じように、光の中に浮かび上がる物言わぬ骸。しかし、よくよく見れば、その周囲は綺麗にされていて、大切にされているのが分かった。優しい光の中に横たわるそれは、最初に感じた不気味さはなりを潜め、ただただ綺麗な聖遺物に見えた。
しばらくそうして言葉なく佇んでいたケイジが、そろそろ帰途を意識し始めた時だ。
『ほんとうは、ははに、たのまれていたんです』
不意に、サクヤが手の平への会話を始めた。続きを期待してはいなかったケイジは驚きつつも、そっとサクヤの話に心を傾けた。
『しんだら、なにも、のこすなって。じぶんの、いたいは、のこすなって』
サクヤの視線は、最奥から離れない。彼女にしては珍しく、その湖底の翠の瞳が風に吹かれた水面のように感情に揺れている。それは、普段どこか人形めいて感情を隠しているサクヤを普通の人間に見せて、ケイジは好ましく思った。
(そないな表情もできるんやん。いつもの、お綺麗な笑顔よりよっぽど惹かれるわ)
揺れる水面を鎮めるように、瞬きの回数が増えた。同時に、ケイジの手を握る力も徐々に強くなっていく。 ケイジは何も言わずに、ただサクヤの言葉を待った。
『ははのいいつけを、わたしはまもりませんでした。なにものこさないのは、もったいないとおもって。こんなことしてるひと、いないですよね』
声を聞きたいと思った。彼女は、今、どんな感情をもって、この言葉を紡いでいるのだろう。刑事をしている自分は勘がいい。相手の言葉を聞いて、その時の言い回し、イントネーション、その調子を聞いて、言葉の裏にある感情を読み取ることもできる。でも、指先からとらえられるものは、とても少なくて。
ただ、揺れるサクヤの瞳と指先が、彼女が無理やり自分の感情を抑え込んでいることを伝えてきていた。
『わたしはふつうじゃない……へんでしょう』
サクヤの前を向いたままの瞳が、それとわかるほど大きく揺れた。何かが投じられた水面の波が溢れるように、彼女の瞳が潤む。激しく波打つ胸の内を必死にやり過ごそうと、平静を装うサクヤの姿が痛ましく思えて、ケイジは優しく細めた。そして、彼女の抱える気持ちを全て包み込むように温かな声で言った。
「アホな子やね。大事な人がいなくなるんは誰だってイヤなもんや。その人の名残だって大事にしたいに決まっとる。だから、墓があるんやと俺は思っとる。サクヤちゃんの感情は、もったいないやのうて、寂しい、悲しいって言うんよ。なんも変なことなんてあらへん。誰だって抱く、普通の感情や」
そうして、幼子にするようにサクヤの頭をポンポンと優しくあやした。
それが、限界だった。必死で張り詰めて我慢していた感情の糸は、それでたやすく切れてしまった。
「……っ、……っ!」
音を忘れた喉元からは、引き攣れたような擦れた響きが漏れた。抑えようとしても抑えられない嗚咽が、静かな空間に響く。
ケイジの胸元に引き寄せられるのに、されるがままになりながら、サクヤは胸にこみあげてくる感情の波に翻弄されていた。
嬉しかった。
自分のことを否定しないでくれて。こんな自分を普通だと言ってくれて。
母の願いを聞き入れず、遺骨にしがみついて、そんなことをしても何にもならないと思っていた。こんなことをしても何かが変わるわけではないと分かっていた。ただ、現実を直視することから逃げただけだと感じていた。
だけど、どうしても。
理由のつけられなかった感情に、やっとたどり着いた。
寂しかった。悲しかった。
一人になってしまうのが。母と別れるのが。
頭を撫でてくれていたケイジの温かく大きな手が、いつの間にか背中を撫でてくれていた。久方ぶりの母との対面もあったのだろうか。懐かしさのこみあげる、この状況に涙があふれて止まらなくなる。
ケイジだから、できた。コウやリュウでは優しすぎる。トーマでは、近すぎる。
サクヤに対して一定の距離を保ち、時には猜疑心を向けてくれるケイジだからこそ、サクヤはここまで感情を素直に出せた。
やがて、音のない嗚咽が収まる頃、サクヤはぽつりぽつりと自身のことをケイジに伝え始めた。静謐なカタコンベの部屋で、ケイジの端末が淡く光を放っていた。
サクヤがトーマたちと出会ったあの日。普段はプルトーの町で墓守のようにひっそりと暮らしていたサクヤがデメルの町に行ったのは、花を買うためだった。次の日が母の命日だったから。しかし、コウとリュウのいざこざに巻き込まれ、成り行きでトーマのところに厄介になることになった。
——出会いを、縁を大切にしなさい。アンタの心に素直に従いなさい。そうすれば、きっと、私よりもアンタを大事に想ってくれる人に巡り合うわ。
母が生前、予言めいたように言っていた言葉。聞いていた時にはどういうことか分からなかったけど。あの日、サクヤはトーマに関心を寄せた。そして、珍しく優しい嘘を信じたくなった。
母のところに帰りたい気持ちはあった。でも、そんな彼女をトーマのところに留めたのも、また母の言葉だった。
そうして、サクヤはトーマたちと一緒に一年間を過ごすことに決めた。命日の当日こそ気持ちが落ち込んだものの、リュウとコウの世話もあり次第に母と離れて暮らす生活にも慣れた。しかし、心の中ではずっと母が気がかりだった。プルトーの近くで地震があると耳にすれば尚更。
もしも、母に何かあったらどうしよう。うちへの入り口がつぶれてしまったらどうしよう。傷がついていたら、会えなくなったら。
それでも、トーマたちと一緒にいる間は何とかなった。母に会うよりもやりたいことが、やらねばならないことがサクヤにはあったから。
プルトーでは手に入らない情報を手に入れる。姿の見えない殺戮装置。それがあれば。
ふと、サクヤは端末を操作する手を止めた。訝しげにしながらも、催促することなしに続きを待つケイジを見て、今一度本当のことを伝えたいと思う。
サクヤは止めていた指先を再び、端末に走らせた。
殺戮装置があれば、それを条件に政府の上層部と対話をすることができるとサクヤは考えていた。母の死の原因、いや、大勢の命が失われた十三年前の事故をつくったのは、この国だと、故意に起こされたものであったのだと糾弾するために。
「なっ……んやて?」
流石のケイジにも予想外の話だったようだ。しかし、すぐに頭を切り替えて、サクヤに異を唱えた。
「いやいや、待ちぃや。確かに、一時期、そんな話はあったで。結局、証拠不十分で、電気系統のショートからの火災。災害は、たまたま天候不順が重なった不幸な出来事やったはずや。確かに、調査したんは政府の上層部やし、信用でけへんとこは、あるかもしれへん。けど、俺たち警察や弁護団、検察が公平な第三者として入っとる。俺も調査表に目を通したことがあるけど、変なとこはあらへんかったで。強いてあげれば、責任の所在である時計台東側の統括責任者に関して、除籍されたこと以外の情報があらへんのがきな臭いけどな。どっかにのうのうと天下っとんのか、秘密裏に消されたか」
ケイジの言い分はもっともだ。サクヤは、彼の言わんとしていることを察知して、目を伏せる。
十三年前の事故が自然に起こったものだとしていれば、人々の不満はやるせなさとして、時とともに風化していく。しかし、そこに誰かの存在があったならどうか。感情の風化は否めないとしても、人々の怒りや憎しみは確実に対象へと向いていく。それは、政府にも向けられる感情のはずだ。
だから、政府の上層部は早々に責任の所在を切り捨てた。そして、その背景を、その人物をサクヤは知っている。その人物が何を成そうとしていたのか、何を守ろうとしたのか。
ゆえに、サクヤは糾弾するのだ。それをするだけの力と、証拠を突き付けて。
「殺戮装置で脅して、それだけのことをしても伝えるだけのモンが、ほんで、それをするだけの証拠があるんか」
ケイジの覚悟を問うかのような視線を真っ直ぐに見つめて、サクヤは頷く。殺戮装置の報道を知ってから、サクヤは決めた。
墓守のように、大好きだった母と一緒に静かに過ごす生活がイヤなわけではなかった。元々、この世に存在していないようなサクヤだ。他の誰かの役に立てなくとも、他の誰かとの出会いを願っていた母の遺志に背いてでも、ここでサクヤなりの満足を得る生活も選択肢の一つであった。多分、それが最良だったとも思う。
けれど、出会ってしまった。自分のように今に不満をもち、十三年前に悔恨をもつ人に。そして、だからこそ、変えたいとより強く思ってしまった。
「サクヤちゃんの言う、証拠ってなんや?」
ケイジの言葉に、サクヤの瞳が一度揺れる。
『いまは、まだ、いえません』
言った時は、きっと。
いや、そもそも、彼らと一緒にいられるのは……。
「最後に一つだけ、ええか」
ケイジが、今まで以上に真剣な声音で、サクヤを真っ直ぐに射貫く。
「サクヤちゃんは、約束の期限の後、どないすんねん」
心の内を見透かされたような質問に、サクヤは微かな笑みを浮かべて、応じた。端末ではなく、ケイジの手の平に短く書き連ねる。
『かえります』
短い言葉。どこに、とは書かなかったけど。それでも、サクヤの表情から、その意志が覆せないことを悟ったのかケイジはそれ以上言葉を重ねることはなかった。そんなケイジの顔を見て、不意にトーマのことをサクヤは思い出した。
約束の一年。あと、どれくらい一緒に過ごせるだろう。
「……以上が、俺がサクヤちゃんと一緒にいた一部始終や」
そう締めくくって、正面に座ったケイジは、ズズッと己の前に置かれたアイスコーヒーを飲み干した。
ここは、トーマが事務所としている建物の、一応は応接室だ。だが、ここ最近、気が付けばトーマやケイジ、オーキたちが意見交換をする場所と化していた。内容は、ほとんどがサクヤ絡みだといってもいい。ちなみに、今の時間、彼女はウヅキのところで定期検診中だ。もっとも、建前上のものでしかないが。
「うぅ、姐さんに、そんなことがあったなんて……」
トーマの隣では、コウが盛大に鼻をかみ、リュウやオーキが沈痛な表情をしていた。
ツキカケの墓参りに赴いたのは数日前のことだ。突然の大きな地震を境に姿の見えなくなったサクヤとケイジ。二人を探したものの手掛かりさえ見つからず、仕方なく墓参りの続きをしていたトーマたちにケイジから連絡が入ったのは、ちょうど墓参りがひと段落した頃だった。ちなみに、ツワブキはトーマの頼まれごとができないと分かるや否や、なんだかんだと理由を付けて帰ってしまった。
「堪忍なぁ。プルトーでは、電波が届かんとこが多くて、連絡つけんのも難儀したんよ。その代わり、地下の町をこの目で見られて、ある意味貴重な体験ができたわ」
カラカラと笑うケイジのお気楽な様子に、散々心配していた自分が馬鹿みたいに思えてくる。
(いや、ケイジのことは心配なんかしてねーし。ウヅキのじーさんにも言われたけど、サクヤのことはオレにも責任があるし、だから気にかけてただけだし)
何となくもやもやとした胸中に、自分で言い訳をして、トーマは先日のことを思い出す。
結局、トーマがサクヤたちと合流したのは、黄昏時。泣きはらした目元のサクヤにわけを聞きたかったが、それを聞くのがためらわれて、今日この時に至っている。
定期健診という名目でサクヤを事務所から遠ざけたが、きっと彼女はトーマたちが先日のことを話していると勘づいているだろう。だからこそ、いきなりの健診の提案にもあっさりと承諾をしていた。
いや、もしかしたら。
(オレと離れたいのかも)
肩を落とせば、いつも以上の重さをそこに感じてしまう。
墓参り以降、何となくぎくしゃくしてしまったサクヤとの仲。顔を合わせれば簡単な会話はするものの、何となく彼女との間に距離を感じるようになっていた。それを、『つかれてる』とサクヤには心配されてしまった。
サクヤの人見知りの笑顔の中に、今までは見られなかった愁いを見つけ、それが一層、彼女の心に近づくことを妨げていた。
「サクヤちゃん、ウヅキさんとこで、少しはゆっくりできてるといいねんけど」
弱っているのは体ではない。愁いの理由。それは何か分からないけれど、心を癒さねば、つぶれてしまう。
その点、ウヅキは信用できる。口は悪いが、隣に寄り添い自然に話を聞いてくれる不思議な雰囲気がある。
「しかし、トーマ、もうちっと頑張らんとあかんで。俺がいたから、ここまでの情報が分かったちゅうんは、遅い、遅い。行動が遅すぎる。そんなんじゃ、サクヤちゃん、帰ってまうで」
墓参り以降、サクヤへの態度が軟化したケイジがジトリとトーマをねめつける。それに反論できないまま、ズキリと痛む胸に内心で舌打ちをして、トーマは彼から視線を外した。
別に、トーマだって手をこまねいていたわけではない。ツワブキへの依頼だって、本当はサクヤのためを想ってのことだった。だけど、うまくいかない。サクヤに対して、どうすればいいのかが分からない。何かをしようとすればするほど、空回っていくようだ。こんなことは初めてだ。
というか。
「なんで、サクヤが帰るのに、オレが責められなきゃいけねぇんだ」
ふと思った疑問を口に出せば、何をいまさらといった風にケイジが諦めのため息を吐き出しながら言う。
「何言うてんねん。初対面でプロポーズしたのはトーマやろ。責任取る言うてんから初心貫徹せんかい。何のために、サクヤちゃんと二人きりやのに、いろいろ我慢したと思っとんねん。俺だって男やぞ」
「その話は、もう、いいだろ!」
立て板に水を流すように、ポンポンとトーマを責め立てるケイジに閉口していると、隣からオーキが鞄から何かを取り出した。
「トーマ、今日はちゃんと用意していた。婚姻届だ。受け取ってくれ」
まさかの伏兵の登場と、それを見てキラキラと瞳を輝かせる凸と凹。突っ込む気力もないトーマを置いて、少し古びた婚姻届を受け取ったコウが感極まっている。
「ここに名前が書かれたら、アニキと姐さんは、正式に結ばれるんすね」
「なんか感慨深いな。この、人を人とも思っていないような発言をしていた兄貴がこうして伴侶をもらう日が来るなんて」
こいつらの頭は、常に季節が春で止まっているんじゃないか。
そして、オレの評価とは一体。
この空気が気まずくて、何となくサクヤと顔を合わせるのも気まずくて、トーマは話しかけてくるケイジたちを無視して、事務所から出ていった。
といっても、どこかに行く当てがあるわけでもない。とりあえず、小腹がすくから何か食うかと、ふらふらとよく行く商店街のほうへと向かった。
「あ、トーマ。こんな時間に珍しいね」
「よぉ、フェル。ちょっと気分転換にな」
よく知った声に足を止めれば、花屋の軒先で色鮮やかな花を抱えた青年がトーマに笑みを見せていた。
彼の名前はフェルマータ。トーマとツキカケが倒れていたところを助けてくれた恩人の一人である。年の頃がトーマと同じだったこともあり、仲良くしている気の置けない友人、いわゆる幼馴染というやつだ。いつでも穏やかで、怒ったことは数えるくらいしか見たことがない。その性格が花にも伝わるのか、彼の店の花たちはいつも鮮やかに美しく咲き誇っているように見えた。トーマが今の仕事に就いた後も、何ら変わることなく接してくれる稀有な存在である。
よっこらしょ、と年と見た目に似合わない掛け声を出して花を丁寧にバケツに入れたフェルマータは、いつも笑っているように見える柔らかな目元を和ませてトーマのほうを向いた。
「事務所の人たちは元気? この前、コウ君が慌ただしく走って行くのを見かけたけど。あんまり無理なことを言っちゃだめだよ」
やんわりとたしなめてくるフェルマータにバツの悪そうな顔になるトーマ。昔から、この幼馴染に勝てたためしはない。
「……善処する。ところで、そっちこそ、シャルは元気にしてるか?」
あからさまな話題転換に呆れつつも、優しいフェルマータはトーマの質問に答えた。
「うん。どうやら、他国で念願のカフェをオープンさせたみたいだよ。会えてちょうどよかった。はい、これはトーマ宛」
「律儀だな」
フェルマータから手渡された手紙を開き、ざっと目を通したトーマが口元に淡い微笑みをのせて呟く。そこには、ハーモニー大陸という、ここから船を乗り継いでいった先にある大きな大陸のスコア国という場所でカフェを開いたとの近況とこちらを気にする文面が綴られていた。
シャルというのは、本名をシャルトゥールと言う、フェルマータの双子の弟だ。フェルマータとともに、トーマたちを助けてくれた幼馴染で、小さなころから食べ物屋の仕事をするのが夢だと言っていた。いろんな見聞を広げ、自分の店を開店させたいと目を輝かせていた姿を思い出し、トーマはその夢を叶えたことを嬉しく思う。
「しかし、スコア国か。確か、現存する国家の中でも指折りの宗教国家だったよな。そんなとこに行って、大丈夫なのかよ。うまく馴染めてんのか」
「時忘れの時計台なんて不思議建造物を有しているこの国も、何かを依り代にしているという面では似たようなものだよ。大丈夫、あの子は、そんなに弱くないよ」
シャルトゥールと同じなのに彼がしないような兄の顔でフェルマータは断言する。
自分もツキカケがいた頃はこんな表情をしていたのかと思う反面、ツキカケに兄らしいことはしてやれなかった自分がこのような顔をすることはできないだろうと自嘲する。
そんなトーマの様子をフェルマータはどう思ったのか、少し悪戯っぽい表情を浮かべて秘密を打ち明ける子どものように声を潜めた。
「それに、幸せにしたい人もできたんだって」
「なっ、そうなのか」
「うん」
目をむくトーマに意味ありげに頷くフェルマータ。遠く離れた異国の地で、あのほんわかとした幼馴染が誰かを愛しく想っているとは想像しがたくて、トーマは唸る。それと同じくして、トーマの脳裏にはサクヤの人見知りの笑顔が思い浮かんだ。
いつも少し困ったように、でもそれを悟らせないよう笑う、近いようで遠い女性。どれだけ言葉を重ねても、一定の心の距離にしか近づけない。その心の内を知りたいとトーマに思わせた稀有な人物。彼女の心に近づこうと思えば思うほど、どうすればいいのか分からなくて空回ってしまう。
不意に物思いに沈むかのように黙り込んでしまったトーマを見て、フェルマータは柔和な瞳の奥に真剣な光を宿して言った。
「トーマ、悩みごと、あるでしょう」
「……」
「分かりやすいなぁ」
何も言わないトーマの様子からある程度の答えを予想して、フェルマータは笑う。幼い頃より、この友人はトーマのことをよく分かっている。ともすれば、トーマ自身よりも。
観念したかのように一つ息を吐き、トーマはフェルマータに素直に話すことにした。とはいえ、サクヤのことや今の状況を全く知らない彼にどこまで話したものか、と考えるトーマの目の前を一匹の白い猫がゆらりと尾を翻しながら悠々と歩いていくのが見えた。
「……」
なおも沈黙するトーマを急かすことなく、フェルマータは静かに言葉を待った。
やがて、頭をかきながら困ったようにトーマは話を切り出した。
「えーっとだな、その、実は近づきてぇやつがいる。まぁ、拾ってきた猫とでも思ってくれや」
「猫だね」
トーマの話を聞いて、相槌を打つフェルマータ。
トーマは知らなかったが、フェルマータの脳内では、小柄な三毛の子猫が愛らしい仕草で小首をかしげ、にゃーんと鳴いていた。良くも悪くも素直なのがフェルマータのいいところである。
そんなこととはつゆとも知らず、トーマは何とか言いたいことを正確に伝えようと言葉を探していた。
「何ていうかよぉ、こうすりゃ喜ぶんだろって今までやってきたことが、そいつには通用しねぇんだよ。なんか、常に気を張ってるような感じでさ」
「まだ、トーマに慣れてないのかな。これから仲良くなっていく感じ、と」
声に出していくとフェルマータが相手ということもあって、つい愚痴がこぼれてしまう。そんなトーマを少し珍しそうに見ながら、フェルマータは顎に手を添えて考える。
「うーん、基本はあれだよね、好物を与えてみるとか。キラキラしたものも好きだよね」
「そういや、改まって何かをやるなんて、してねぇかも。しかし、キラキラした鉱物ねぇ……、他の女なら喜ぶんだけどな」
(他のヤツなら喜ぶって、トーマはダメってことか)
口に出さないものの、トーマに一抹の憐憫を覚えるフェルマータ。
二人の会話が微妙にすれ違っていることなど、真剣なお悩み相談をしている二人には些細なことだった。
「スキンシップ……、ふれあいはしてる?」
「ふれあい? まぁ、手を差し出したら、その手を取ってくれるけどな」
トーマは普段のサクヤとの会話を思い出す。機器類があまり得意ではないサクヤは、端末を勧められても相変わらず、手の平に想いを綴ることが多かった。今では、彼女の手の温もりやなぞる指の感触を思い起こすことができるほど、トーマにとって当たり前のものとなってきていた。
少し表情を柔らかくしたトーマを見たフェルマータもつられたように柔らかく微笑む。ちなみに、彼の脳内では、可愛らしい子猫がトーマにちょんとお手をする場面が浮かんでいた。
「焦らなくてもいいんじゃないかな。ゆっくりと心の距離を縮めていったらいいと思うんだけど」
「ゆっくりと、ねぇ。普段ならそうして、じっくりと口説き落とすのも楽しむんだけどよ。今回は、一年くらいで何とかしなきゃいけないんだよ」
「一年か」
難しい顔で考え込む二人。フェルマータは、何とかこの不器用な友人の力になりたいと必死に想像を膨らませた。
(確か、子猫は一年で、人間の年齢換算で成人くらいになったはず。小さいうちに信愛度を上げておきたいってことだね、トーマ)
心の中でウンウン、分かると頷きを返しながら、フェルマータは言葉を探す。しかし、気持ちとは裏腹に、今のトーマに必要なのは、やはり先ほどの自分の言葉な気がしてならなかった。
「トーマの想いも分かるけど、やっぱり急いで心の距離を詰めなくてもいいと思うな。時間を意識しすぎるのはダメだよ。一年ですべてが終わってしまうわけじゃないでしょう。それとも、一年で終わってしまうような関係なの?」
「それは……」
フェルマータの言葉に改めてサクヤとの関係を考えるトーマ。自分たちの関係に名前を付けるとしたら一体何なのだろう。
「 あと、一番大切なこと」
応えあぐねるトーマに真摯な視線を向け、フェルマータは言った。
「俺たちは、ツキカケの死が間近にあるからか、無意識的に誰かの手助けをしようとしていることや、ツキカケの面影を何かに投影していることが多い」
「オレもか?」
「うん。やっていることはともかく、トーマの本質はそうだよ」
意外なフェルマータの指摘に素の表情をのぞかせて驚くトーマ。その表情に、月日を重ねて成長したものの、幼い頃の面影がはっきりと残っているのを見て、フェルマータは再び柔らかく微笑む。そこには、あの日トーマが自分から封じた優しい兄の顔が見えた。
「大丈夫。トーマなら、きっといい関係を築いていけるよ。そうだ、シャルからの応援の品が入ってない?」
「あぁ、そういや、なんか膨れてんな」
フェルマータの言葉で改めてシャルトゥールの手紙を見返すトーマ。不自然に膨らんでいる封筒をひっくり返すと、トーマの手の平にころりんと光る何かが転がった。
「なんだこりゃ」
「椿だね」
トーマの手元を覗き込んだフェルマータが言う。トーマの手の中には可愛らしい花のキーホルダーが収まっていた。小さなビーズがつなぎ合わさって、赤い可憐な花を形作っている。ダイヤのようにも見える不思議なビーズは、キラキラと煌めき、とても高級そうに見えた。トーマには何の花だかさっぱり分からなかったが、花屋を営んでいるフェルマータがしきりに、すごい、見事な椿の花だ、と言っているから、出来栄えも素晴らしいのだろう。
キーホルダーには、見慣れたシャルトゥールの筆跡で、こう書いてあった。
『この手紙が届くとき、キミがきっと困ったことになっているって、僕の店の優秀な従業員が言うものだから。このキーホルダーをキミに。トーマが今一番すくいたい子に』
「すくいたい子、か」
トーマとともに手紙に目を通していたフェルマータが呟く。その呟きを聞きながら、トーマはそっと息を吐いた。
(救いたいと思ってるさ。一応は。ただ、どうすりゃいいか分かんねぇだけで。とりあえず、これを渡せってか)
具体的なことが書かれていないことに苛立ちを覚えつつも、手の中のキーホルダーを大切に握りしめる。ダメで元々だ。あれこれと考えるよりは、行動する方が性に合っている、とトーマは早速サクヤのところへ行くことにした。残っている連中に何を言われるかは分かったものじゃないが、事務所に戻れば確実だろう。
腹をくくったトーマは、どこか吹っ切れたような瞳でフェルマータに向き合った。
「悪ぃ。とりあえず帰るわ。なんかいろいろ、ありがとな」
珍しいトーマからの素直な感謝に、とんでもないというように緩やかに首を振って応えたフェルマータは、踵を返すトーマの背に向かって声をかけた。
「またね。今度、俺にも紹介してね」
言葉なく手をあげて返事の代わりにするトーマの背を見送り、フェルマータは眩しいものでも見るかのように目を細めた。
「掬いたい子、か。あのキラキラをルアーにするのは、もったいない気がするけど……どこかいい釣り堀でもあればいいのに。猫さんの舌に敵う美味しい魚が手に入るといいね、トーマ」
いつも以上に、とても優しいフェルマータの囁きは、だがしかし、誰の耳にも届くことなく風に吹かれて消えていった。
ウヅキのところからトーマの事務所へと戻ったサクヤを待っていたのは、何となく緊張したような一種独特な空気だった。いつもの厄介事が起こったときとも違う、もっとそわそわとしていて、周りからは好奇の視線を向けられているような。
「?」
訝しげにするサクヤに近づいて来たのは、これまたどこかバツの悪そうな表情のトーマだ。困ったような、怒ったような、サクヤがあまり見たことのない顔だ。
(こんな顔もできるんだ)
トーマの感情の宝箱には、まだまだサクヤが発見できていない様々なものが隠れているようだ。
興味を覚えて、サクヤがトーマをじっと見つめていると、しびれを切らしたようにトーマの背後から声が飛んだ。
「何やってんねん。帰って来たら、まずはおかえり言うて、距離を縮めなあかんやろ。なに突っ立ってんねん」
「そッスよ。早くしないと、どっか行っちゃうッスよ」
「少し静かにしません? これじゃ、兄貴が何か言っても聞こえないですよ」
沈黙を守るトーマをよそに、外野はああだこうだと指示を飛ばす。その指示がトーマの耳に届くたびに、彼のこめかみに青筋が刻まれるのをサクヤは見た。
もう一度トーマを見つめ、どうしたものかと首をひねるのと彼の怒号が背後に向かって響き渡るのは同時だった。
「うるっせえっ!」
フンッ、と鼻息荒く胸を張ったトーマは、居直ったかのようにサクヤに対してズイッと拳を突き出した。
「やる」
焦れたように、動かないサクヤの手を取って、短い言葉と共に手の平に何かを押し付けた。不思議に思ってみると、そこには簡単なラッピングバッグに入れられたキーホルダーが見えた。
「?」
やると言ったからには、これはサクヤに用意されたものだろう。
母以外の誰かから何かをもらうなんて初めてだ。開けろと言わんばかりの視線に従って、可愛らしい袋を開ければ、中からは赤い花を象った美しいキーホルダーが転がり出てきた。その花が何であるかを認めたサクヤは、思わずといった風に——。
自分だけでなく、後ろでも息をのむ音が聞こえたのを感じたが、そちらに注意を払うほどの余裕は今のトーマにはなかった。
周囲にあれこれと言われながらも、何とか形になったサクヤへのプレゼント。持ち帰ったまま渡そうとしたら、周囲からの激しいダメ出しにあい、急遽リュウが持っていた袋に突っ込んで、それらしい形にした。
それを見て、彼女は、サクヤは——。
笑ったのだ。
とても、とても嬉しそうに。
今までよく見てきた、困ったような、他人との間に壁をつくるための人見知りの笑顔ではなく、心の底から自然に発せられた笑み。それは、見るものを惹きつけてやまない、出会った頃に一度見たことがある、おそらく彼女の本来の笑顔。
誰も言葉をかけられないままだったが、サクヤは気にした風もなく、キーホルダーを愛おしげに撫で、次いで瞳を潤ませた。
何か気に障ることでもあったのかと不安になるトーマが声をかけるより早く、サクヤは彼の手を取って、想いを伝えてきた。
『うれしい、すごく、うれしい。わたしのすきな、はな、たいせつにする』
「……よかった」
いろいろと言いたいことはたくさんあったはずなのに、口をついて出たのは、そんなありふれた言葉だった。けれど、それでよかったのかもしれない。トーマの言いたいことは下手に言葉を重ねなくともサクヤに伝わっていることが雰囲気から伝わってきた。
墓参り以降、どことなくぎこちなかった彼女との関係がようやく元通りになったようで、そして、何となくだが、サクヤのまとっていた人を拒絶する何枚もの膜が少しなくなったような気がした。
完全になくしてしまうことができないのは残念だが、一つ前進したと久々に手応えを感じることができ、トーマは密かに安堵の息をついた。とりあえず、フェルマータに感謝と、シャルトゥールに返礼をしなければ。そして、シャルトゥールの従業員、マジすげぇ。
『ツバキは、ははも、すきな、はな。おなじなまえ』
「おふくろ、ツバキって名前なのか」
トーマの呟きに、ハッと身を固くするサクヤ。
そんな彼女に、ついと鋭い視線を向けたケイジだが、すぐにいつもの笑顔に戻り、場を引き締めるようにパンと一つ手を叩いた。
「よっしゃ。ほんなら、二人の仲が一歩進んだところでお開きにしよか。いつまでもここにおってもしょうがないしな」
ケイジの言葉にハッと手を放す二人。そんな二人を周囲は温かく見守っていたのだが、当の本人たちは、今までとは違ったぎこちなさをまとったのだった。
自分にあてがわれたマンションの一室で、サクヤは窓から見える月を見上げていた。十五夜を過ぎた十六夜の月は、まん丸より少しいびつに欠けながら薄い雲に覆われていた。
部屋の電気は点けていない。あんまり遅くまで電気が点いていると隣の部屋のトーマが心配してしまうからだ。口には出さずとも、翌朝の探るようなトーマの視線が口ほどにものを言っていた。
先ほど、彼の部屋の電気が消えた。きっと、ベッドに入ったのだろう。墓参り以降、変な気を遣わせてしまっていた自覚はある。だから、これ以上、トーマには心配をかけたくない。
一人で住むには十分すぎる広さをもったリビングキッチンと寝室に分かれたマンションの一室。電気を点けていないと奥の方は暗く感じるが、幸い月明かりがあるおかげで窓際は明るい。
サクヤの手には昼間、トーマからもらったキーホルダーがあった。それをサクヤはこの上もないほどに、大切に己の手の平に包み込んだ。
自分のために与えられたもの。綺麗で、温かくて、大好きな母を連想させるもの。
ケイジと共にプルトーへ赴いた一件以来、サクヤの心はプルトーから離れられずにいた。ちゃんと別れをしてきたつもりだったのに、ツワブキと仲良さそうなトーマの姿を思い出す度に、無性に帰りたくて仕方なかった。
動くことはない、言葉を交わすことはできない、生前の面影すら見えない骸の母。何年も前に亡くなり、母を骨にし、安置し、美しく保ってきたのは自分だ。帰っても、一人になることは、寂しくなることは分かっていた。けれど、そんな場所だからこそ、サクヤの居場所はここだと感じられる。疎外感を感じなくて済む。寂しさに目を閉じてしまえば、安心できるのは母の傍だと思ってしまった。
ここ数日は、なぜだか母に会いたくて、会いたくて、会いたくて。
トーマが話しかけてきても上の空だった。本当は、墓参り以降、姿の見えないツワブキのことを聞いてみたかったが、言葉にすることはできなかった。あと、つかれている理由も。何となく、聞くのが怖くて。聞かなければ、モヤモヤとしつつも今まで通りでいられると思って。けれど、サクヤの気分は晴れなかった。まるで、心にぽっかりと穴が開いてしまったよう。
それとなく、言葉を濁しながら、ぽつぽつと事情をウヅキに話したら、眉間に深いしわを刻み、「あのバカが」と一言呟いていた。
自分の心が分からなかった。母の無事を確かめたはずなのに、どうして帰りたくなるのか。一年はトーマの元に居ると決めたのは自分なのに。
そう、デメルにいるのは一年。言い換えれば、トーマと知り合ってまだ一年も経たないほど、日は浅いのだ。自分の知らない交友関係があるのは当たり前のことなのに。自分の知らないトーマの表情を誰かが見ているのだと思うと、なんだか胸がモヤモヤとした。
そう思いながら、サクヤは手の中のビーズで織りなされた椿の花を見つめた。それと同時に、これをくれた時のトーマの表情が瞼の裏に蘇り、知らず笑みを形作る。
その笑顔がとても穏やかで幸せそうなことにサクヤ自身が気づくはずはない。気づかないながらも、心が温かくなるのは感じていた。
トーマの赤銅色の瞳。渡すと同時にすぐにそっぽを向かれてしまったが、一瞬見せたサクヤへの深い気遣いの色と、彼の瞳にしっかりと自分が映っているという不思議な安心感。こんな感情をサクヤは知らない、けれど、それは決して不快なものではなかった。
椿のキーホルダーを握りしめれば、サクヤの心の拠り所であった母の存在を捕まえたようで心が満たされた。今日は、とても温かな日だ。先日までの心のモヤモヤをすっかりと晴らしてしまうほどに。こんな日常が続いてもいいと思うほどに。
(それでも、私は殺戮装置を探さなければいけない)
それが、サクヤがここに来た理由。サクヤの存在証明。
——ツキカケを殺してしまった贖罪。
どこか温かく、寂し気な月光がサクヤの持つ椿をキラリと光らせた。
どことなく不穏な空気を漂わせた薄暗い路地裏に、ひっそりと息を潜めるようにして数人の影が伸びた。
「ここか?」
「間違いあらへん。俺の情報とサクヤちゃんの土地勘を信じれば、ここに違いない」
トーマとケイジの会話を聞きながら、サクヤは緊張で震える拳を握りこんだ。
ここは、プルトーの一画。驚いたことに、サクヤとツバキの住んでいる場所から、さほど遠くないところであった。
トーマを始めとして、みんなサングラスやマスク、フードでさりげなく顔を隠した一同。怪しいことこの上ないが、身元がばれる危険性と天秤にかけたら、まだマシだ。
マスクをしたサクヤの前には、一つの扉がある。プルトーで見かける何の変哲もない扉だ。しかし、その扉の先のことを思うと不安と興奮が入り混じった何とも言えない感情が襲ってくる。
(ここに、殺戮装置が……)
知らず、腰に下げたキーホルダーの椿に触れながら、サクヤは扉に手をかけたトーマとケイジを見つめた。
「んじゃ、開けっぞ」
トーマの言葉に頷きを返すサクヤの目の前で、扉はゆっくりと押し開かれた。
時は、少し遡る。
サクヤの願いが届いたように、殺戮装置の情報が彼女の耳に入ったのは、キーホルダーを手にしてから一週間も経たないうちだった。
「殺戮装置の場所が分かった?」
「せや。うちの機関の上層部が情報を掴んだらしい。ここしばらく殺戮装置の話題がないんは秘密裏に確保する作戦を立てて、実行しとるからっちゅう噂や」
人差し指を口元に当てて、声を潜めて告げるケイジの隣では、ハラハラとした様子で見守るリクがいた。
ここは、トーマの事務所の応接間だ。いつものように、トーマを始めとしたメンバーが集まり近況報告をしていた。違うのは、今日の招集はケイジが声をかけたということとサクヤにとって有益な情報がもたらされたということだ。
「せ、先輩。いいんですか、ここまで話しちゃって……」
オロオロとして周りを気にするリク。それはそうだろう。ケイジの口ぶりからして、部外に話してもいい内容とは思えない。ケイジ自身も、それは重々承知しているのだろう。いつになく真剣な表情でトーマたちを見回した。
今日の二人は非番らしく、普段の姿とは印象の違うカジュアルな服装をしていた。しかし、瞳の奥にある鋭い眼光は刑事のそれだった。
「ええわけあるかい。機密事項やぞ。知られたら怒られるわ。そもそも、俺だって話してもろたわけやない。断片をつなぎ合わせて俺が情報整理した内容や。本来なら、俺らが聞いてええ情報やないんやろ」
「じゃあ、なんで話してるんですかぁ」
実際は怒られるどころではないだろう。半ば涙を堪えながらの後輩の訴えにケイジはどこ吹く風だ。そんな二人をサクヤは内心の動揺を悟られないように極めて冷静を保っているふりで佇んでいた。
しかし、その胸中は穏やかではない。早く、どんな情報なのか問いただし、行動に移しだそうとする心を必死になだめていた。
そんなサクヤをどう思っているのか、トーマはいつも以上に眉間に深いしわを寄せて腕を組んでケイジの言葉の続きを待っていた。
「警察の情報や。真実がどうであれ、信憑性は高いと思う。聞くか?」
隣のリクのことは、すっかり無視し、ケイジは正面からトーマを見つめた。その両サイドにいるコウとリュウがゴクリと喉を鳴らし、次いでそっと自分たちの頭目へと視線を投じた。
トーマは一つ息を吐き出すと、そっとサクヤを窺い見た後、ケイジへと静かに問いかけた。
「サクヤが最初から求めていたことだ。もちろん聞きたいが……、なぜ危険を冒してまで、オレたちに情報を与える? お前らには何の得もねぇだろう」
「そうですよぉ」
トーマに同意するリク。サクヤも抱いていた疑問だけに、黙ってケイジへと視線を向けた。
一同からの視線を受けたケイジは、それでも怯むことなく、むしろ心は決めたとばかりに力強く頷いた。
「せや、得なんてあらへん。けどな、知りたいと思ってしまってん。サクヤちゃんが成そうとすること。その想い。これは刑事の自分やのうて、ただのケイジとしての想いや。ある意味、刑事という自分を裏切っとる。それでも、ここで俺が動くことで何かが分かるなら、やりたい。それくらいの情をアンタに抱いたんや」
最後は、とびきり優しい瞳になってサクヤに話しかけるケイジ。それは、サクヤの心の奥に温かい光を灯すものだった。
「それに、この殺戮装置に関しての情報の取り扱いには疑問があるねん。あまりにも一部の人間にしか話されとらん。不自然すぎる。今回、疑わしきは、むしろ警察やと感じた。せやから、話す」
「もう、知りませんからね」
泣き言を言い尽くしたと言わんばかりに頬を膨らませつつ、諦めの混じったリクが恨みがましい目を一つケイジに寄こす。しかし、彼の胸中もまた決めたのか、それ以上は言葉を重ねることなく、スッとケイジにも似た瞳となる。
『ききたい、です』
短い文字と共にサクヤが強い意志を宿した瞳を向ければ、それに満足したようにトーマとケイジが頷いた。
「ええか。耳の穴かっぽじってよぉ聞きや。殺戮装置のある場所、それは——」
地下の町、プルトー。
そして、時は現在へと戻る。
ケイジのもたらした情報と大まかな場所、長年過ごしたサクヤの記憶を頼りにプルトーの一区画に当たりをつけてへとやってきたサクヤたち。ちなみに、リクだけは、さすがにそこまで行けません、とのことでトーマの事務所の前で別れている。
「んじゃ、開けっぞ」
トーマの言葉とともに徐々に開けられる扉。先行するトーマとケイジの後をついていたリュウとコウが守るように両サイドからサクヤの前に体を動かした。
その優しさに心が温かくなると同時に、おそらく自分の方が体術は上だと確信している己に呆れるサクヤである。
「っ!」
息をのんだのは誰だったのだろうか。
最初に、サクヤの感覚に訴えてきたのは、嗅覚だった。強い血臭。
外の新鮮な空気に押し出されるように、強い血の匂いが鼻腔に飛び込んできた。次いで、部屋に漂う湿気た匂いと微かな硝煙の匂い。生臭さと鉄と枯草の混ざったような、とても歓迎できるものではない空気。
不快感から催される嘔吐を堪えながら視線を投じると、薄暗い室内が外からの光によって、ぼんやりと見て取れた。
「サクヤ、見ねぇ方が……」
サングラスをしていて先に室内に目が順応していたらしいトーマが慌てて制止の声をあげるが、もう遅い。 引き留めようとするコウやリュウを振り払い、サクヤは扉に近づき、中を見た。
部屋は、凄惨たる有様だった。
争ったとみられる散らかった室内に、所々に飛び散った血痕。転がる遺体は三つ。女性が二人と男性が一人。血痕の乾き具合から、死後、そんなに経っていないことが分かる。
明らかに何者かに襲撃され、殺害されたと分かる現場だった。
「これは、一体……」
「先を越されたか」
辺りを警戒しながら室内へと歩みを進めるケイジとトーマに続いて中に入ろうとしたサクヤだったが、後ろから強い力で腕を引かれた。振り返ると、今まで見たことがないほど険しい顔をしたコウが、惨状に顔を青ざめさせながらも、きっぱりと首を横に振った。
“入っちゃダメッス”
そんな声がまざまざと聞こえるくらいの強い光を宿した瞳に、サクヤは大人しく従った。気になるところがあれば、改めて来ればいいのだ。それでも、見える範囲の情報収集は行おうと鋭い視線を投げかける。
荒らされた室内は、しかしこれと言ってめぼしいものは何もない。食器に衣類に布団など生活用品がほとんどで、そのどれもがデメルどころかプルトーですら手に入れることのできるありふれたものだ。同じことを思っているだろうトーマとケイジが首を傾げながら、痕跡を残さないよう細心の注意を払いながら室内を物色していた。
多分、室内を探しても何も出てはこないだろう。
サクヤは、胸の前で簡単に十字を切ってから三体の遺体に注目した。
一番手前で倒れているのは、男性の遺体。うつぶせに倒れたこめかみに一発と背中に数発の銃痕が見てとれた。これといった特徴のない平凡な印象の男だったが、目を引くのは、その格好だ。プルトーにしては珍しく、仕立てのいいスーツを着ていた。プルトーでも手に入らないことはないが、あえて、こんな格好はしない。金をもっていると思われてしまい、メリットよりデメリットの方が高いからだ。ということは、男はプルトーの者ではない可能性がある。では、何のためにここに?
一つ首を振って、サクヤは考えを一旦打ち切る。分からないことをあれこれと考えている時間が今はもったいない。
「この奥のヤツは……、殺されたわけじゃあ、ねぇようだな」
トーマが一番奥に横たわる遺体に近づいて、検分する。
サクヤの位置からは詳しくは見えないが、奥の遺体は前方の二つと比べて、在り方が違った。二つが折り重なるようにして倒れているのに対して、奥のそれは、布団に横たわっていたからだ。
「ちゅうか、なんや、よぉ分からん遺体やな。外傷はあらへんし、この遺体だけは、他より少し前に亡くなっとるみたいやけど、病気……か? それとも、老衰? 顔は若々しいのに、腕や足はごっつしわくちゃやで」
ケイジの言葉にハッと視線を奥に投じるサクヤ。残念ながら、サクヤの場所からは遺体の詳しい様子は分からなかったが、ケイジの言っている状況には心当たりがあった。
(同じ症状……)
サクヤの中で、一つの確信が生まれ、半ば事実を確認するかのように最後の遺体へと目をやる。
最後の一体は、男性の遺体に覆われるように倒れていた。見える容貌は、まだ若い。おそらく、サクヤとそれほど変わらないだろう。
(そう、多分同じ)
コウの腕をたたき、放してほしいことを伝えると、不承不承な表情ながらもあっさりと手を放してくれた。 サクヤは軽く頭を下げて感謝を示すと、ゆっくりと折り重なる男女の遺体に近づいた。その様子に気づいたトーマが、さりげなく近づいてくる。本当に、彼らは自分に対して優しい。
女の遺体の傍に屈んだサクヤは、ケイジからもらった手袋をしているのを確かめてから触れた。一応、念のための気休めの手袋だそうだ。
手袋越しに生者とは違う冷たさを感じつつ、女の遺体と男の遺体を少しずらしたサクヤは、ちょっぴりとうらやましくなった。何となく、男が女を守っているみたいに思えて。大切に想い合っていたのかもしれないと考えたら、不謹慎だけど一緒に事切れている姿も仲睦まじく見えて。
不意にトーマと視線がぶつかり合い、サクヤは目を瞬かせる。相手も同じだったのか、不思議そうに自分のことを見つめていた。
(なんで、トーマを見たんだろう)
いつの間にか遺体から動いていた自分の視線に首を傾げる。けれど、その答えを見つけるには時間が足りない。疑問にカギをかけて、遺体の検分に戻る。
トーマやケイジの力を借りて、女の遺体を見られるようにしたサクヤは、改めて女の体を上から下まで眺めた。やはり、年の頃は自分と同じ頃。痛みに歪んだ翠の双眸を優しく閉じさせ、太ももまでまくりあがったスカートを静かに直す。目を引くのは、喉元から首元にかけて走った大きな傷跡。鎖骨の間に抉られたような場所。
(やっぱり、この女性が……)
納得と同時に強い落胆を覚えた。最悪の事態は常に想定していて、このような現場に遭遇することも考えていたはずなのに。頭ではなく、心が叫ぶ。なぜ、と。この女性たちが一体何をしたというのだろう。サクヤの空虚なはずの胸に、言葉にできない強い圧迫感が訪れ、意識して呼吸をしなければ、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。
「何か姐さんの傷によく似てないか」
後ろから覗き込むようにして遺体を見たリュウの何気ない一言にサクヤはぎくりと身を強張らせ、自身の喉元に伸ばしていた手を意識して引き離す。しかし、その手は導かれるように今度は自分の太ももへと降りていった。
彼らは見ただろうか。いや、言っていたのは傷のことだけだ。他は、気づいていないはず。だから、ここでサクヤが見たことは自分が言わなければ、分からない。
ヒューヒューとおかしな音が自分の呼吸と共に聞こえる。なんだか息がしづらくて、サクヤは努めて呼吸をしようとした。
(息を吸って、吐いて。息を吸って、吸って、吸わないと……)
「アニキ、そろそろ時間が、って、姐さん、大丈夫ッスか!」
「大きな声出すんじゃねぇ。サクヤ、平気か?」
「特に、殺戮装置の手がかりも見つからへんし、一旦、撤収するで。長居は禁物や」
サングラスをして外を警戒しつつ、中を窺っていたコウがサクヤの様子に気づき、驚いた声をあげる。そんなコウをたしなめつつ、トーマがサクヤに手を貸して立ち上がらせれば、ケイジとリュウが最後にザっと室内を眺めた後に撤収を促した。
「行けるか?」
耳元でこちらを気遣う声に、半ば条件反射のように頷く。頷きはしたものの、肩で大きく息をしている自分の身体は思うように動かない。手足が冷たくなり、ふらついた自分の身体を優しくて温かな手が支えてくれたのを感じながら、サクヤの意識は途切れていった。
『あなたは今日からサクヤね。あなたの名前よ、サ・ク・ヤ』
自分を見て、こんなに楽しそうに話す人を初めて見た。明るい茶色の髪がさらりと肩口で揺れ、頬にはえくぼが浮かんでいる。なぜ、そんなに笑顔でいられるのだろう。
『名前が必要なのですか。正直、その必要性は感じられません。私は貴方に従うためにいる。ただそれだけのモノであり、それだけの関係性なはずです』
『もう、この子も同じようなこと言って。ヒイナもツクシもナバナもどうして、こうなのよ』
淡々と返した自分に、今度は怒って見せた。
懐かしい夢だ、とサクヤは思う。
夢の中で夢だと分かる夢。振り返れば、楽しかったと思える子どもの頃の夢。日々の積み重ねの中に、嬉しいことは少なかったけれど、それでも確かに良かったと思える時間は存在した。
この時もそう。
首都ポアロに存在する研究機関ゼス。時計台と隣接する施設の一画でツバキに出会った。施設には自分と同じような子どもがたくさんいて、日々、実験を繰り返していた。研究員とその研究対象となる子どもたち。多くの子どもと同じように、それが最初の関係性だった。けれど、研究員の中でツバキは変わり者だった。他の研究員とは全く違った関わり方で子どもたちに接していた。
これは初めて名前を与えてもらって、呼んでもらった時のことだ。もっとも、当時のサクヤであってサクヤでない自分は、名前を呼ばれても小首をかしげてツバキを見上げることしかできなかったが。
仕事の白衣を着たツバキが、欲しかったリアクションをしないサクヤに、子どものように頬を膨らませて、名前というのがいかに大事か、サクヤがサクヤであるから自分は向き合いたいのだと、子どもにするには難しい理屈を並べ立てて話していたのをよく覚えている。
『分かった?』
彼女の話している内容は、正直よく分からなかったが、ここで否定すると後が面倒そうだったので、サクヤはコクンと頷くことにした。途端に、表情をパッと明るくさせてツバキがえくぼを見せて笑う。コロコロと変わる表情は、自分なんかより、よっぽど子どもらしかった。
『サクヤは見所があるわ。これから、じっくりと私が人として大切なことを教えてあげるからね』
この言葉は、嘘になった。
確かに、ツバキはサクヤに人として大切なことをたくさん教えてくれた。しかし、それは、じっくりと時間をかけてではなく、たったの数年でのことだった。サクヤの長くはない人生の中でもとても短くて、けれど今までのどんな時よりも輝いていた時間だった。
『ごめんね、巻き込んで。でも、あげたかったの。あなたたちに時間を、名前を、感情を、幸せを、自由を』
寝たきりの状態であっても、感情豊かだった母。ツバキの感情の宝箱は、サクヤの知らない感情で満ち満ちていて、多くのモノを分けてもらった。
そんな母が唯一もらした後悔。気弱な声音。
それを否定することができないまま、彼女は逝ってしまった。サクヤは、しわくちゃになったツバキの手を握ることしかできなかった。
本当は、ただ感謝すればよかったのだろう。けれど、その時のサクヤには思いもつかなかったのだ。結局、ツバキが与えてくれたものを何一つ返せぬまま、最期の願いも聞き入れぬまま、サクヤは生きてきた。
ツバキに与えてもらった自由の中で、サクヤが何をすべきなのかは未だに分からない。
何のために、母は自分に時間を、名前を、感情を、自由を与えたのだろう。
けれど、一つだけ。一つだけ、分かったことがある。
『ごめんね、巻き込んで』
(そうだね、母さん)
自分のせいで、誰かが傷つくのは怖い。その誰かが、身近で大切であればあるほど。
折り重なるようにして事切れていた二人の遺体を思い出す。彼らもお互いを大切に想っていたのだろうか。
彼らには及ばないかもしれないけれど、自分にも傷つけたくない存在ができた。
だから。
(約束をまた一つ破ってもいいかな)
うっすらと瞳を開けば、そこには古びた天井が広がっていた。元は真っ白であっただろう少しくすんだオフホワイト。鼻に流れ込んでくる薬品の匂い。
ここ数か月で見慣れた天井と雰囲気に、ここがウヅキの病院であることが分かった。ゆっくりと瞬きをすれば、冷たい滴が目尻から零れ落ち、泣いていたのだと気づく。思わず、両の腕で瞳を覆い、何かを堪えるように声を押し殺して熱い吐息をもらす。
愛おしい夢だった。夢と分かっていても見続けていたいと思えるような、泣きたくなる夢。瞼の裏には、あの時えくぼを見せて笑っていた母の姿が鮮明に焼き付いている。
「起きたか」
少しがさついた、けれどサクヤへの気遣いにあふれた温かな声がかかる。顔を見なくても分かる。ウヅキがベッドの回りのカーテンを開ける気配を察し、サクヤはゴシゴシと急いで目元をこすった。
「大丈夫か」
赤くなった目元に気づかないはずはないだろうが、それに気づかないフリをして問うウヅキにコクンと頷く。幼子のように布団を引き上げ、少しでも目元を隠そうとしたが、やんわりとウヅキの手がそれを防ぐ。
「丸一日、眠っていた。腹は減ってないか。トーマたちも心配しとったぞ。しかし、なかなか凄惨な現場だったようで……、あのアホ、ンなとこに嬢ちゃんを連れて行きよって」
それは違う、望んだのは自分だ。サクヤが志願して殺戮装置のもとへと赴いた。決して、トーマが悪いわけではない。なんだか、トーマは自分のせいでウヅキに怒られてばかりな気がする。
最後に感じた温かな手の感触が蘇った気がして、サクヤの胸がざわめいた。トーマに、みんなに会いたいような会いたくないような、不思議な気持ち。
そんなサクヤの心中を察したのか、ウヅキが優しく背中を押すように言う。
「事務所で嬢ちゃんを待っとる。顔を見せて、まずは安心させてやれ」
不安がないわけではなかったが、ウヅキの言葉に素直に従うことにして、サクヤはトーマの事務所へと急ぐことにした。
トーマは、ここ最近ないほどの怒りを覚えていた。目の前には、トーマを煮えたぎらせてやまない美貌の男が自分と同じように怒りを滲ませた表情でこちらを睥睨している。
この場には他にも人がいたが、もはや彼らを止める者はいなくなっていた。ただ、二人を取り囲んで、その行く末を見守っている。
静かに、遠慮がちにカチャリと音が響くと同時に、二人の間で何とか平衡を保っていた闘いの火蓋が再び切って落とされた。
「トーマ、何度も言うとるけど、引かんねんな」
ケイジが問いかけの形をもってトーマに言う。しかし、内容とは裏腹に、その口調と表情はトーマが何と答えるかを重々承知しているものだった。
自分のことをよく知っている男だからこそ、引けないことがある。トーマは、ニヤリと口の端を持ち上げて、笑って見せた。
「……ったり前だ。こっちだって、譲れねぇモンがある」
「上等や」
キッと、今一度、トーマとケイジの視線が交錯する。先に口を開いたのは、ケイジだった。
「お前は何にも分かってへん。必要なんは、見かけより中身や。疲れた時に、癒してくれる安心感がええんやろが」
「分かってねぇのは、そっちだろ。中身をより一層引き立てる見かけが、大事だろうが。それに、人間、一番に入ってくる情報は視覚情報だろ。見かけで気に入ったら、興味をもってくれるんだよ」
「甘い、それで裏切られることだってあるやろが。見かけなんて当てにならへんわ。地味でもハズレのない中身が一番や」
「ふざけんな、裏切りなんてねぇよ。ちょっと予想と違うってだけで、それはそれで持ち味になる」
「引かへんねんな」
「おうよ」
そうして、トーマは再びケイジとにらみ合い、膠着状態へと入っていった。
(えーと)
サクヤがしずしずと事務所の扉を開けた時には、すでにトーマとケイジは臨戦態勢をとっていた。声をかける機会を逸し、中身がどうとか見かけがどうとかいう二人の話を聞くともなしに聞いていたサクヤは、二人が再び口を閉ざしてにらみ合いに入ったのを見て、近くにいたリュウの袖を引っ張った。
「あ、姐さん」
『なんのはなし』
小首をかしげて尋ねれば、困ったように頭をかきながら、リュウが小声で呟く。
「いやー、なんていうか、くだらない持論のぶつけ合いですよ。どっちも変に引かないから。中身も見かけも本人の好みがあるから、どうとも言えねぇってのに」
呆れたように息を吐くリュウの声に重なるようにして、二人は吠えた。
「イチゴカスタード」
「バナナチョコクリーム」
(は?)
二人が同時に謎の呪文を唱えたかと思うと、お互いのこめかみに青筋が浮かんだ。それを見て、周りの面々は呆れたため息を漏らした。
「てめぇもしつけぇな。イチゴの赤と生クリームの白、そんでもってカスタードの黄色がどんなに食欲に訴える見かけになってるか分かんねぇのか」
「しつこいんはお前や。バナナの期待を裏切らへん一定した味が何よりやろ。イチゴなんて見かけの赤さに反して酸っぱい時があるやないか」
「だから、それも持ち味だって言ってんだろ。それに、カスタードの甘みに疲れた舌を癒してくれんだよ」
「そんな癒し要らへんわ。なんやねん、カスタードって。生クリームだけで充分やんか。そんなゴテゴテ要らへんねん。シンプルイズベストや」
『なんのはなし』
再びリュウに問えば、近くにいたリクとオーキが代わりに答えた。
「クレープの話ですよ」
「うむ。付け加えるなら、貴女に食べさせたい、がつく。不毛な言い争いと化しているが」
二人の言葉を聞いて、サクヤの胸に温かさが宿った。
「姐さんに食べさせたいってのは、もう二人の頭から吹き飛んでる気がするけどな」
リュウの言葉に重々しく頷く一同。
温かさは一瞬で終わった。
「僕は、抹茶を推したんですよ。そしたら、なんて言われたと思います?」
「可愛くないって一蹴されましたね」
リクの嘆きにリュウが答える。それを聞いたコウは、隣のオーキを見上げて言う。
「そんなこと言ったら、オーキさんのもひどいッスよ」
「惣菜クレープもあると言っただけだったのだが」
「甘くないクレープは邪道らしいッス」
「あくまでも個人の感想だよな」
リュウがフォローするように呟けば、その声でサクヤの存在に気が付いたらしい二人が戦場に彼女を巻き込んだ。
「サクヤ、いいとこに来た。サクヤは、イチゴ好きだよな? イチゴのクレープのが可愛いし、食べたいって思うよな」
足早に近づいて来たトーマが同意を求めれば、すかさずケイジがサクヤの手を引いて注意を促す。
「そんなことないやんな。バナナの甘さ、好きやんな。バナナとチョコのハーモニーは最高やで」
(えっと……)
二人に見つめられ、サクヤは小首を傾げた。なんだかんだで二人が自分を元気づけようと、いや、この場にいる者が自分を気遣ってくれているのが分かる。リクやオーキも様子を見に来てくれたのだろう。それが嬉しくて、ありがたくて、ツラい。それに。
『ごめんなさい』
誰に返答を告げればいいのか分からなかったので、サクヤは端末に想いを綴っていく。
『くれーぷ、たべたことない。いちごもばななも、すき』
そうして困ったように微笑めば、目の前にいたトーマがほんの一瞬、痛ましそうに眉を寄せたのに気づいてしまった。……また、気を遣わせてしまう。
「そっか、んじゃ、どっちも食って、うまいほうを選んでもらうしかねーな」
「せやな、いい考えや。そこで、シロクロ付けようや」
トーマは何でもないことのように提案し、ケイジもそれに便乗した。つられるように他の者たちも自分の推しを出していく。
「そしたら、抹茶も食べてみてくださいよ。奥深い味わいが気に入るかもしれませんよ」
「甘い味ばかりでは飽きるだろう。おすすめの惣菜クレープを調べておこう」
「どうせなら、イチゴもバナナもチョコも全部乗せしちゃうのはどうッスか」
「姐さんにどんだけ食わせる気だよ」
途端ににぎやかになる室内が、今のサクヤにはまるで風景のように映る。眩しくて、楽しくて、自分にはもったいない場所。
「よっし、近々、うまいクレープの店に連れてくからな」
約束だ、と言うトーマにサクヤは努めて笑顔を作る。どうか、うまく笑えていますように。
どうか、この人たちが、このままでいられますように。
どうか、自分の願いを聞き届けてくれますように。
そうして、サクヤがトーマたちの前から姿を消したのは、クレープを食べに行く約束の日取りが決まった次の日だった。