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SOS  作者: 浅沼れん
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~Sword Of Song~

0 手記の断片

『母さん、私は、約束を守れませんでした。自分から、また、破ってしまったのです。

でも、不思議なんです。ねぇ、どうして約束を守っていないのに胸が痛くならないのでしょう。彼らが嬉しそうなのはなぜなのでしょう。

今は、まだ、この気持ちを書き表すことができません。

伝えたい想いはある。言葉も知っている。けれど。

どう言葉をつないでいけば、この想いを形にできるのか分からないのです。

母さん、彼らといれば、いつか……』


1 春

パッと信号が青になった。人々の大半がそれを機に動き出す。その人々の流れに合わせて、サクヤも自分の歩みを進めた。地上から十階はあろうかという建物が囲んだスクランブル交差点は、うかうかしていると渡りきる前に信号が変わってしまう。気を抜いていると流されていきそうな人波をよけながら足早に先を急ぐ。

忙しなく行き交う人々もざわめく喧騒も、サクヤはあまり好きではない。

「ごめんなさい」

すれ違う相手の荷物が不意に当たりそうになり、サクヤはヒラリと身を翻す。小さな女の子と手を繋いだ女性が申し訳なさそうに会釈をして去っていく。白と紺を基調としたワンピースの優しい雰囲気の母親と出かけるためにおしゃれをしたのだろうか、真新しさを感じるスカートと白のブラウスを着た女の子だった。見つめ合って談笑する二人の間には、周囲を和ませるような雰囲気が流れている。周囲を温かな気持ちにさせる親子は、人波の中でも目を引くようだった。

 羨望と郷愁と諦念と。何とも言えない表情で親子を見送ったサクヤは自身を見下ろす。目深に被った帽子が特徴的ではあるが、自分の体格より大きめのパーカーにジーンズという出で立ちは、この大勢の人波の中では無個性の一つとして街に溶け込んでいる。多分、サクヤという存在でさえも。ここでは、まるで透明になってしまったかのよう。いや。

(最初からか)

 信号を渡りきると大きなスクリーンの前に行き着いた。大型のショッピングモールの外壁に設置されたスクリーンには、眼鏡をかけた真面目そうなアナウンサーが映り、原稿を手に、今日のニュースを読み上げている。

何をするでもなくそれを見上げていたサクヤが、その場から去ろうとした時だった。

突如、緊急を知らせる電子音が鳴り響いた。サクヤは、視線をスクリーンに戻す。周りの人々も何事かと仰ぎ見ているのが察せられた。

「何? また、どこかで地震があったの?」

群衆の間からそんな言葉が聞こえた。先週から頻繁に起こっている地震。震源地は、ここデメルを中心に隣町のルーメスや港町のポセットでも起こっていた。小さいながらも止まらない地震は人々の胸に一抹の不安を残していた。

『緊急速報です』

しかし、アナウンサーの伝えた速報はまるで違った。

『ただいま入りました政府からの発表によりますと、首都ポアロから殺戮装置T―九一二二九四が何者かによって強奪されたとのこと。繰り返します。政府が殺戮装置の強奪を発表しました。詳しいことは情報が入り次第、この番組内でも伝えさせていただきます。しかし、皆さま、ご安心ください。我が国には時忘れの時計台があります。必要以上の不安を覚える必要はありません。いつも通りお過ごしください』

交差点がシンと静まり返ったのは一瞬。次いで、ざわざわとした人々のさざめきが辺りを支配する。

「え。ヤバいんじゃね」

「いや、大丈夫っしょ。テレビも言ってたじゃん。時計台があるし」

「馬鹿なことをする人もいるものね」

「殺戮兵器ってなんだ?」

「人を殺せる装置かなんかなんじゃね? そういえば、知ってるか。殺戮兵器を手中に収めたらこの国を牛耳ることもできるらしいぜ」

「うわ、胡散臭い」

「それなー。それより、早く行こうぜ。辛いものが食べたい気分」

「あー、明日の学校、行きたくなーい」

「ねぇ、あの人かっこよくない?」

速報が流れてから数分で、人々は自分たちの通常に戻っていく。スクリーンを見上げて残っているのは、サクヤを含めて数えるほどだ。

(時忘れの時計台……)

神妙な表情でその単語を繰り返せば、脳裏によぎるのは十三年前の事故のことだ。

この国、オリュンプスは大きな時計台を中心とした独立国家だ。巻貝のように、緩やかに傾斜のある土地の頂に時計台を抱き、そこに首都ポアロがある。そこから、徐々に傾斜を下っていく形で、いくつかの町が関所を設けながら存在していた。首都に近い、傾斜の上にある町のほうが経済が発展し、上流階級を自称する金持ちたちはこぞって坂の上の方に住んでいた。

それに反して、納めるべき税は下層へ行くほど高い。上層の町は下層から出る収益を搾取して存在しているといっても過言ではない。

首都近辺では、この下層の町では想像もつかないような満ちた生活ができるらしく、一度坂の上に住んでしまえば、戻ってくる者はほとんどいないという。下層の町には見られない優れた道具も多く、その代表が、国の中心にある時計台とされている。

 煉瓦でできているように見える時計台。大きさもかなりのもので、デメルの町からでもその姿を見ることができた。しかし今、それが時間を刻むことはない。

 時計台は、この国を守る要だとされている。どういった構造になっているかは知らないし、どういう機能があるのかも定かではない。しかし、少なくとも、この国の人々はそう信じているし、事実、十三年前の事故は時計台が影響したものだった。

 この国の創立から存在しているとされる時計台で不意に起こった火事。四角柱の時計台の東側で設備不良からか内部から出火したのだ。しかも、運悪く風が強くて乾燥した夜であり、対応が後手になってしまった。その時、これまで休むことなく動いていた時計がピタリと止まった。それだけなら、不幸な事故として済んだことだろう。しかし、事故の影響かはわからないが、この時から国に異変が起きた。

 今まで強弱はあれど絶え間なく吹いていた風は止み、空には大きな雲がかかって太陽を隠し、海辺の町には大波が押し寄せた。町には原因不明の病が流行り、作物は育たなくなった。死者の数は日ごとに増え、この国ができてから初めての大災害となり、人々に忘れられない記憶として残っている。

 奇跡の音色と共に。

 政府は、事の発端であった時計台の修理に勤しんだ。そして、終わったことを知らせるために時計台から音を響かせたのだという。時計台には音を拡散させる装置があったらしい。その何とも言えぬ美しい音色が響き渡ったかと思うと、不思議なことにピタリと災害は収まった。

 風は涼やかにそよぎ、晴天の空には太陽が輝き、海は穏やかさを取り戻した。病は収まり、作物は豊作となり、飢えの心配はなくなった。全てが、嘘だったのではないかと疑うような日常。倒壊した建物でさえも、いつの間にか元の通りになっていた。ただ、死者は戻らず、それだけが災害の大きさと現実を伝えていた。止まった時計の針は何をしても動くことはなく、それ以来、時計台は『時忘れの時計台』と呼ばれている。

 人々は、時計台には何か不可思議な力が宿っているのではないかと信じるようになった。政府やメディアもそのことを否定しなかったので、まるで魔法を起こす装置のように盲目的に人々の信仰を集める対象となっているのが現実だ。テレビのアナウンサーでさえ、その名を告げるように。

 けれど、真実はそうでないことをサクヤは知っている。いや、サクヤたちは、といったほうが正しいか。でなければ、先の事故での犠牲者はどうなるのか。

 だが、サクヤが真実を糾弾しようとしても、人々はそれを受け入れないだろう。いつだって多数が有利で、正しいことは後に生きる者たちが自分の都合のいいように変えていくのだから。

 (そして、殺戮装置か)

 時忘れの時計台と共に語られている都市伝説めいた存在。自分に都合の悪いものを一掃してくれると囁かれているモノのことだ。手に入れることができれば、国を牛耳ることもできるという。それが、どんな形状をしているのか、どんなものなのか知っている者はほとんどいない。けれど、確かに存在していて、こうして人々の間に、たまに現れる。一説では、時計台の火事の原因は殺戮装置のせいではないかと語られたこともあるようだ。

 真相は分からない。

 力があれば、変えられるのだろうか。変えられないとしても真実の一端を知らせることはできるのだろうか。そうすれば、死んだ者は救われるのか。

 (きっかけになるのなら)

 ある決意と、情熱を秘めたサクヤは一つ頷く。

 (殺戮装置に心当たりがないわけじゃない。こうして報道まで流したのなら信憑性は高いはず。ただ、情報がもっと欲しい)

 サクヤが思案にくれたのは一時のこと。

 「逃げろ。巻き込まれるぞ!」

 誰かが叫ぶ声とともに、物が倒れる音や怒号が重なって響く。音源を探すように視線を巡らせれば、サクヤが歩いてきた方向から、多くの人が悲鳴や恐慌を伴って走ってくるのが見えた。さらに、そこにスーツを着た、控えめに言ってもガラが良いとは決して言えない男が数名現れた。男たちは辺りを見回して誰かを探しているようだ。

 「くそ、どこ行きやがった」

 「こっちに来たのは間違いない。探せ」

 悪態をつきながら不機嫌を隠そうともしないスーツの男たち。ふと、そんな男の一人と傍にいた白ブラウスの女の子の視線が合った。

 (あの子!)

 さっきサクヤとすれ違った女の子だ。どうやら騒ぎの最中に母親とはぐれたらしい。どうすることもできないまま、大きな瞳を不安でいっぱいにしながら、立ちすくんでいる。

 「ひっ」

 「んだよ、何見てやがんだ」

 そんな女の子に眼光を鋭くするスーツ男。手を振り上げて、女の子に危害を加えようとしているのは明白だ。

 (間に合わない……!)

 嫌な予感に、信号が赤なのにも関わらず、渡って来た横断歩道を戻るサクヤ。背後では、けたたましいクラクションが鳴っているが、知るか。

 それでも、一歩間に合わず、男の手が女の子に振り下ろされる。ぎゅっと目を瞑った女の子の目から涙が一筋流れ落ちた時だ。

 「やめるッス!」

 間一髪、女の子を抱えて避ける新たな男が現れた。

 「あ~あ」

 奥からは、ため息と共に小柄な男の姿も見えた。

 長身の青年は慣れない手つきで抱いた女の子の背を撫で、スーツ男を睨みつけた。頬に傷があり、一見すると体格の良さも相まって怖い印象をもちそうだが、少し垂れた目尻とどこか及び腰な様子が男の雰囲気を優しいものとしていた。

 背後の小柄な男は、長身の男と同い年くらいだろうか。つり上がった大きな目が特徴的でどことなく猫を思わせるようなしなやかさを感じる男だった。

 二人とも、服のあちこちが破れていたり、薄汚れていたりしている。よく見ると血の赤が滲んでいるところもあった。

 「見つけたぜ。まさか、そっちから現れるとは。まぁ、俺たちから逃げられるわけないがな」

 スーツ男が二人の青年を見て言うと、周りから似たようなスーツ男たちが集まってくる。徐々に増えていく人数に、小柄な方が舌打ちをした。

 「ったく、非番の日ぐらい穏やかに過ごさせてくれ。で、コウ。その子、どうするんだよ」

 小柄な男の言葉に、コウと呼ばれた長身の男は明らかに狼狽した様子で自分の腕の中の女の子を見た。

 「ど、どうって言われても。あっ、ヤバい。この子、泣きそう。どうすればいいッスか? 俺も泣きそう」

 「泣いとる場合か。隠れてれば何とか撒けたのに。とりあえず、腹くくれ」

 「え? 腹にくくっとくんスか? かわいそーじゃねぇッスか」

 「アホか! ともかく、安全な場所に……」

 「ふざけてんのか!」

 スーツ男たちが問答を続けている青年たちに飛びかかる。一瞬対応に遅れる二人。

 (間に合え!)

 サクヤの足が近くで腕を振り上げていたスーツ男の足を払う。不意を突かれた男が尻もちをつくのを見届ける前に、次の男の鳩尾にこぶしを叩き込む。

 「な、なんだてめぇ」

 「邪魔すんなら容赦しねぇぞ」

 スーツ男たちが、サクヤも攻撃対象に加えて臨戦態勢をとる。

 (五人。何とかなるか)

 サクヤが次の動作に入れるように、スッと腰を落とす。慎重にこちらの様子をうかがっている様子のスーツ男を睥睨して、駆ける。疾走したサクヤは、小柄な体躯とスピードを武器に次々とスーツ男を地面に転がしていく。顎を突き上げ、手刀で相手のナイフを落とし、たまに股を蹴り上げといた。

 「何者だ?」

 「とりあえず、助かったッス」

 そんなサクヤの姿を見て、訝しげにする小柄な男と、ホッと胸をなでおろす長身の男。

 力で劣る分、スピードを重視したサクヤのヒット&アウェイの戦法でそれほど時間はかからず、勝負はついた。

 「お、覚えてろ」

 教科書にでも載っているような、お決まりの捨て台詞をはいてスーツ男たちは去っていった。

 サクヤは、臨戦態勢を解いて男たちに向き直る。そして、一点を指さした。

 「な、なんスか?」

 長身の男が警戒して後ずさりするのに、ため息を漏らし、近づく。

 「あ」

 ツイと。流れるように男の腕から女の子を奪い、キュッと優しく抱きしめた。頭を撫でてやり、その手でさっきと同じ場所を示す。驚いたように目を見開いていた女の子だったが、サクヤの優しい表情を目にしたのか、落ち着いた様子で首を巡らす。

 「ママ……」

 示された先に母親の姿を見つけると、女の子の表情が和らぎ、次いで、大声をあげて泣き出した。青年らがびくりと身を震わせるのに構わず、サクヤは女の子の頭と背をもう一度優しく撫でた。まるで、よく頑張ったねと労いを伝えるように。

 驚かさないように、白と紺のワンピースの女性に近づき、女の子を委ねる。母親は、その無事を確かめるように、女の子に頬を寄せた。

 「ありがとうございます。本当に、ありがとう、ござい、ます」

 声が震え、語尾は涙に消えた。それでも必死に頭を下げる母親に、サクヤは二人の青年を手で示した。少なくとも、最初に彼女を助けたのは彼らだ。

 母親は、彼らにも丁寧に頭を下げて去っていく。騒ぎが落ち着いたとはいえ、ここが安全かは分からない。 まだ、近くにスーツ男たちがいる可能性がある。そのためか、まだ近くにサクヤたち以外の人の姿は見当たらない。警察がやってくることもない。もっとも、ここはそういう場所だ。上層の町とは違う。

 「おい、なぜ、俺たちを助けた?」

 親子の姿を見送り、胸を撫でおろすサクヤの背後から声がかかった。振り返れば、小柄な青年が半ば睨みつけるようにサクヤを見つめている。

 「リュウ、そんな態度はどうかと……」

 隣では、オロオロとした様子の青年が困ったようにしている。真意が分からないだけに、態度を決めかねているのだろう。サクヤとしては、女の子を助けようとしただけで、結果として、彼らを助けただけなのだが。

 (さて、どうやって伝えよう)

 サクヤが考えあぐねていると、返答のないことに苛立ちを覚えたらしい小柄な青年がサクヤの手首を掴んだ。

 「おい、何とか言えよ」

 「っ!」

 「!」

 「リュウ!」

 (……やっちゃった)

 手首を掴んだ青年を背負い投げの要領で地面に転がしてしまったサクヤは、苦い表情で舌打ちをする。手首を掴まれたことに驚いて思わず投げ飛ばしてしまった。

 青年にしてもサクヤの反応は想定外だったのだろう。まさか、返す手でひっくり返されるとは思っていなかったようで、地面に転がったまま、呆然としている。長身の青年が傍に膝をつき、小柄な青年の身を案じていた。

 「おい、てめぇ、よくもオレんとこのヤツに手を出してくれたな」

 青年を投げ飛ばしたまま固まっていたサクヤに新たな声がかかる。姿勢はそのままに声のした方を見れば、分かりやすく怒りを含んだ男の視線と絡み合う。

 怒りを隠そうともせず、サクヤを直視しながら歩いて来る男。二人の青年より年嵩だろうか。一見するとホストか何かのように、整った容貌をしていたが、その粗暴な物言いと射殺すような目線が、それを台無しにしていた。野生動物のような危うい雰囲気を醸し出し、気を抜いたら襲われそうな印象を覚える。

 「トーマの兄貴」

 小柄な青年が、サクヤの腕に捕まったまま呼びかける。もう一方の青年も男の姿を認め、その瞳に安堵の光を宿した。どうやら、知り合いらしい。

 二人の安心したような雰囲気に相反するように、男から向けられる怒りは濃度を増し、サクヤに向けられる。少しでも動いたら、のど元に噛みつかれるような、一触即発の空気。

 「そこから動かず答えろ。こいつらに何をしている」

 「…………」

 何を、と言われても。その返答をサクヤはもち合わせていない。だから、せめて誤解だというのを伝えたくて、小柄な男を束縛していた手を離せば。

 「っ!」

 感じたのは、頬を打たれた衝撃と次いで灼けるような痛み。冗談ではなく、吹き飛んだ身を起こせば、先ほどまでサクヤが立っていた場所に小柄な青年に手を貸して立たせている男がいた。

 信じられないほどの速さで、距離を詰めた男が容赦なく殴ったらしい。しかも、グーで。

 「動くなっつっただろ」

 悪びれることなく男が言う。

 サクヤは、血の味がするツバを吐き出した。幸い、歯には違和感がない。口の中を切ってしまっただけのようだ。それ以上に、頬がジンジンする。手で触れれば、熱をもって腫れているのが分かった。

 「あ、アニキ。違うんス」

 「あぁ?」

 長身の青年の言葉を聞いているのかいないのか、未だにサクヤに対する臨戦態勢を止めない男がガラの悪い返事をする。と、同時に、何の前触れもなく、またしてもサクヤとの距離を一気に詰め、襲い掛かってきた。

 「っ!」

 男の長い脚がサクヤの側頭部を狙うのを即座に腕で防ぐ。体重ののった重い一撃。身構えていなければ、また吹き飛んでいただろう。

 「やるじゃねぇか」

 男が嬉しそうに笑う。新しい玩具を見つけた子どものように無邪気に、強敵と相まみえたことを素直に喜ぶ笑顔だった。

 サクヤに向けて、男のこぶしや足が絶えず繰り出される。サクヤは、腕で防いだり、あるいは受け流したりして逃げようとするが、男はそれを許さない。防戦一方となりながらも、何とか状況を打破しようと勝機を探す。

 「チッ。んだよ、てめぇも男ならかかって来いよ」

 攻撃の手を緩めず男がサクヤに詰め寄って言う。とはいっても、男の口車に乗って反撃したら最後、完全に敵と認識されて今以上に困った状況になりそうだと冷静に判断する。距離をとろうと後ろに下がるサクヤだったが、想像以上に追い詰められていく。

 「!」

 転倒こそ免れたが、不意に背中に当たった感触に驚いて膝をつく。どうやら、背後は壁だったらしい。

 「さぁ、とりあえず、弁明でも聞かせてくれや」

 有利を察した男が、両手をズボンに突っ込んだ余裕の仕草で獰猛に笑う。黙っていれば、美形と称されてもおかしくはない容姿なのだが、もったいないと漠然と思う。と、そんな男の背後でキラリと光る物を見つけたような気がして、サクヤは目をすがめる。膝をついているせいで、見上げるような位置にある男の右肩。それほど離れていない後ろの建物から届く光。

 「っ」

 「どわっ」

 気づいてから動き出すまでに、それほど時間はかからなかった。頭で考えるより早く、サクヤは後ろの壁を蹴って男の胸板に体当たりをした。自分の追い詰めた相手が突進するとは思っていなかったのだろう。不意を突かれた男は、間抜けな声と共に、サクヤに押し倒され背後へと倒れこむ。

 その一瞬後に乾いた音が響き、サクヤの肩に先ほどとは違う痛みが走る。

 「てめ、どういう……」

 続く言葉は、のどの奥に押し込められた。それは、帽子で隠しきれないサクヤの口元が苦悶に歪んでいるのを見つけたからだろうか。男が驚いたように目を見開くと、その頬に赤いしずくが点々と跡を残す。サクヤが痛みを訴える左肩に手をやれば、服が破れ、ぬるりとした感触に行き当たる。

 (せっかく、新調したばかりのパーカーだったのに)

 こんな状況でありながら、とりとめもなく思う。

 「兄貴!」

 「こっちッス」

 青年たちの声と重なるようにして、銃声が響く。それは、サクヤたちに当たることはなく、石畳に消えていった。

 何とか立ち上がり動こうとするサクヤを男が抱え、自分を呼ぶ青年らの元へ走り寄る。そこは、建物の影で銃は届かない場所だった。

 「おい、なんでオレを助けた?」

 脂汗を滲ませながら、何か傷口を押さえるものを探すサクヤに、男が尋ねる。と同時に、小柄な青年がしていたストールを断りもなく手にして、手際よく止血していく。そこには、先ほどまで対峙していた時に見せていた過激さはまるでなく、純粋な疑問だけが浮かんでいる。

 理由があるなら、サクヤだって知りたい。ただ、男の肩越しにスーツ男の構える銃を認めた瞬間、何とかして助けなければと思ったのだ。逃げろと叫ぶことができなくて、相手を伏せさせることもできないと判断したサクヤは、自分の全体重をのせて相手を組み伏せることを選んだ。判断は正しく、最初の銃弾が男に当たることはなかった。しかし、完全に銃の軌道から避けることはできず、サクヤの肩をかすめていったのだ。

 「っ!」

 歯を食いしばり、止血が終わるのをやり過ごす。それほど深い傷ではないはずだが、男に殴られた頬とともに痛みが絶えない。

 (厄日……、ろくでもないことを考えた報いかな)

 「アニキ、さっきから言おうと思ってたんスけど、誤解なんスよ」

 「五階? そんなとこから撃ってきてたか?」

 「……兄貴のことは好きだけど、たまに殴りたくなるのは俺だけか?」

 三人の会話を聞き流し、サクヤは深呼吸を意識しながら、頭を働かせる。

 (隠れたところを見られたから、そろそろ、別動隊が取り囲みに来るか。銃は、念のため配備しておいて、物陰から出たら撃つようにしているだろうな)

 疲れた。痛い。熱い。けど、動かないとやられる。手負いでなければ、逃げられた自信はある。しかし、今の状況では難しい。三人の男たちとも早く別れたいが、今、離れるのは得策ではない。少なくとも、今更男たちと別れてもスーツ男たちの敵意がサクヤから外れることはない。まして、お互いにかばい合うように動いたのだ。仲間の一人だと思われているのが関の山だろう。

 (帰りたい)

 ここではなく、サクヤの安心できる場所へ。

 痛みで心が弱ってきているようだ。放っておくとネガティブなことを考えてしまう。自分の甘い考えを振り払うように、軽く頭を振って立ち上がる。傷口は相変わらず痛むが、無視できないほどではない。

 「ってことで、兄貴が見た場面を否定はしませんが、俺にも非があったわけで。基本的にこいつは俺たちと敵対していません」

 「それを早く言えってんだよ」

 サクヤが呼吸を整えているうちに、三人の会話が終了し、サクヤの行動も正しく伝わったようだ。三人から(というかほぼ一人だが)、敵意が消えたのを肌で感じ、一つ息を吐く。あとは。

 「こんにちは。そろそろ観念しましたか?」

 妙にねっとりとした猫なで声が聞こえた。そこにいたのは、先ほどまでと同じスーツ姿の男たち。しかし、その数は先ほどとは違い、見えている範囲だけでも十人を優に超えている。そんな中、ひときわ上等なスーツを着た集団の代表のような男が口調だけは慇懃無礼に問いかける。サクヤは、野生動物のような純粋な怒りが傍で膨れ上がっていくのを感じながら、臨戦態勢をとる。銃を持っている者もいるが、こんな建物の間で、むやみやたらに発砲はしないだろう。

 スーツ男の代表は、わざとらしく息を吐いた後、聞き分けのない子どもに言い聞かせるように口を開く。

 「私たちも、別に貴男方と争いたいとは思っていないのですよ。ただ、そこののっぽさんが私たちから奪った物を返していただければ済むだけの話です。簡単なことだと思うのですが」

 そうして、周囲の視線が集まると居心地悪そうにする長身の青年だったが、断固とした意志をもって、スーツ男の提案をはねのける。

 「無理ッス。たとえ、争うことになったとしても、渡せないッス」

 何かを守るかのように一歩後ろへ下がる青年を守るように、怒りを存分にはらんだ男が獰猛に笑う。

 「悪ぃが、できねぇ相談だったみたいだな。そもそも、オレたちの目の届くとこで好き勝手やってんじゃねぇぞ、てめぇら」

 「交渉決裂、ですね。残念です」

 口ほどに残念な様子を全く見せず、スーツ男が大仰に肩をすくめる。それを合図にしたかのように、両者の衝突が始まった。もちろん、サクヤはスーツ男と対決するメンバーとして強制参加だ。

 「うらぁ!」

 嬉々として、という表現がぴったり当てはまるような横顔で、先ほどサクヤを追い詰めたように素早く軽快に攻撃を仕掛けては、次々とスーツ集団を床に転がしていく男。長身の青年と小柄な青年の凸凹コンビもそれに続くように、確実に相手を負かしていく。

 「……っ!」

 精彩さを欠くものの、サクヤも着実に相手にダメージを加えて沈めていく。傷口から悲鳴が聞こえる気がしたが、いちいち気にしてはいられない。

 そんなサクヤをスーツ男と相対しながら、男が口笛を鳴らして称賛するが、もちろんサクヤの耳に届くことはなかった。

 「チッ」

 スーツ男の代表が目に見えて余裕をなくし、舌打ちをした。手負いを含めた四人に追い詰められるとは、思ってもみなかったのだろう。銃を持つスーツ男たちに合図を送り、サクヤたちをハチの巣にしようとした時だ。

 テンテケテケテケテンテン。

 突如として、場には不釣り合いな携帯の着信音が鳴り響く。その瞬間スーツ男が顔色を変え、着信画面を確認するとさらに表情を硬くした。

 スーツ男側は言うに及ばず、サクヤや男たちも一時休戦とばかりに、手を止めている。もっとも、一触即発な雰囲気が辺りには漂い、誰かが動けば、一瞬のうちにそこはまた戦場となるだろう。

 「……わかりました」

 やがて、通話をしていたスーツ男が静かに通話を終えると、苦々しさをはらんだ口調で他の仲間に命じた。

 「撤収です。本部から連絡が届きました」

 「は? おい、待てよ。せっかく楽しくなってきたところだろうが」

 瞬時に距離をとり、身を引こうとする相手に、先ほどとは違う怒りを含んだ男が吠える。しかし、スーツ男たちは気にする素振りもなく、次々と場を後にしていく。男が追うも、足元に銃を連弾され、思うように進めない。結局、サクヤたちが気を失わせた男たちを残して、他のスーツ男たちの姿は見えなくなった。

 「チッ」

 今度は男が舌打ちをする番だった。やり場のない怒りを発散させるように、近くの気絶男の一人を蹴っ飛ばす。

 「あぁ、ご無体な」

 長身の青年が憐れみを含んだ様子で眉を顰めた。

 (助かった)

 そんな男たちの様子を見ながらサクヤは大きく息を吐き出し、胸を撫でおろす。正直、もう疲れた。帰りたい。

 今度こそ、帰ろうと男たちに背を向ける。

 「おい」

 そんなサクヤの背後から低く唸るような声が届く。振り返れば、不機嫌さを隠そうともしない男の赤銅色の瞳とぶつかった。

 (疲れたんだってば)

 何度目か分からないため息をつき、答えることなく背中を向ければ、焦れたように苛立った男が近づき、サクヤの手首を掴んだ。先ほどと同じように投げ飛ばしてやろうかと考えたが、負傷した腕では流石に無理があると諦める。

 「おい、てめぇ、どこ行くんだよ」

 どこって、仕方ないから帰るのだ。ここは、サクヤのいるべき場所ではないのだから。

 そう、伝えようとするが、うまく言葉は出てこない。だから、手を振りほどこうと抵抗を試みる。

 なかなかしぶとい。

 手を解くどころか益々強く握りしめてくる男に辟易してくる。と、そう思っていたのはサクヤだけではなかったようだ。

 「チッ。だから、大人しくしてろっての」

 そう言った男の声を聞きながら、首筋に痛みを感じた途端、サクヤの意識は糸が切れたようにプツリと途切れた。



 「よし」

 掴んでいた腕から力が抜け、地面にくずおれて動かなくなったのを見届けたトーマは、まるで荷物を持つかのように相手を抱え上げた。

 「そんなご無体な」

 コウが憐れみを含んだ眼差しで見てくるが、無視した。

 「大人しくしてないコイツが悪い。さ、さっさと帰んぞ」

 「え? コイツ連れて帰るんですか?」

 目を丸くして尋ねるリュウに当たり前だと言わんばかりに頷くトーマが、どっこらしょと肩の上に生ける荷物を抱えなおす。

 「危ないところを助けられたんだ。義理は返す。帰って傷の手当てを受けさせる。だから、大人しくしてろって言ってんのに」

 「さっすがアニキ。優しいッス」

 「いや、言ってなかったっしょ。そんならコイツに説明しないと。いきなり、気絶させたでしょ。ぶっちゃけ、誘拐と変わんないと思います」

 「善意があるから誘拐じゃねぇよ。それに、コイツのためだろうが」

 「いや、親切の押し売りで届いてないと思います」

 「怪我が治ったら、改めて手合わせもしてみてぇな」

 「兄貴、それ私利私欲っていうんじゃないですかね」

 「アニキ、優しいから手合わせできる相手の範囲が狭いッスもんね。女子ども、老人、病人、怪我人には手を出さないポリシー、カッコいいッス」

 「さっき、気絶してた男を蹴っ飛ばしてなかったか?」

 なおも言い募るリュウの言葉に歩みを止めることはなく、トーマは気にせずに帰途に着き始めた。リュウもコウもそこからは何も言わず、トーマに続く。

 「そういえば、お前たち何であいつらに追われてたんだ?」

 「それは……」

 道すがら、コウたちの話を聞くトーマの眉間に深いしわが刻まれた。


 コロコロと手の平の中で転がる珠を見つめ、トーマは苦々しく息をつく。コウたちがスーツ男たちから奪ってきた戦利品は歓迎できるものではなかった。

 「で、そいつがコウたちの持ってきたヤツかいな」

 グレーで統一された事務所の部屋の中で、ソファに腰掛けるトーマ。机を挟んだ対面のソファには二人の男が座り、さらにその背後には一人の長身の影があった。

 「なかなかの一品やな。相場は、かなりの値がつきそうや」

 ソファに座った男のうち、右側の男が独特の訛りのある口調でトーマの手の中にある珠をしげしげと眺めた。一見すると真珠に似た薄紅の光沢がある珠で、光を当てると美しく、見るものを惹きつけてやまない輝きを放つ。

 「綺麗ですねぇ。僕、不謹慎だけど、ジヨージュを見る度に思っちゃいます」

 「まぁ。このままやったら、ただのお宝やしなぁ」

 訛りの男の隣では、のほほんとした雰囲気の男が言う。

 「忙しいとこ悪いな」

 「かまへんよ。マサムネさんには俺らも世話になっとるし」

 トーマが素直に謝罪を述べれば、二人の男は何でもないように首を振る。訛りのある美貌の無駄遣いの男はケイジと言い、その部下である少年のような男のほうがリクという。二人はトーマと懇意にしている刑事だ。 このデメルという町で古くから不動産業を中心に会社を経営するマサムネとは、もちつもたれつの関係で今のところは友好関係を築いている。マサムネはトーマの育ての親にあたり、その縁で二人はトーマの事務所をたびたび訪れていた。

 「しかし、これが厄物の材料なのは、変えようのない事実だ。たとえ綺麗であっても、野放しにはできない」

 今まで口数なく壁に背を預けていた黒縁眼鏡の長身の男が重々しく呟く。表情も語る言葉も歩み寄る姿勢も真面目を体現したかのような男だ。たまたま、ケイジたちと一緒だったらしく、トーマの話の内容から、事務所へと足を運んでくれた義理堅い男である。

 「オーキ」

 トーマの事務所の顧問でもある弁護士のオーキは、訴訟の中でこの珠がいかに危険かを何度も間近に見てきたのだろう。トーマの手の平から珠をつまみ上げると、電灯の光にかざすようにして、誰に説明するでもなく、滔々と語る。

 「ジヨージュ。その形態はおおむね球体。歪みがなければないほど高価で、色は、乳白色や薄紅色が多く、色味の違いは個体によって様々である。珍重されるのは、青味がかった乳白色で、光にかざすと虹色の光沢を見せるものだ。原材料は不明。自然物なのか人工物なのかすら分からないが、昔から装飾品として愛用されてきた。それだけでよかったんだが」

 そうして言葉を濁したオーキは、珠を返してきた。オーキの言葉にしなかった内容をトーマは心の内で続ける。この珠は、一歩間違えば人を廃人とさせる恐ろしさを秘めているのだ。

 この珠とカルシウムを反応させると何とも言えない恍惚感や身体能力の上昇が得られることが発見され、合成薬物として作られた。中毒性のある症状に、常用するものが多発。しかし、後に使用した者への精神や肉体への負荷が尋常でないことが判明した。即座に、政府は使用を禁じた。元々、市場にはあまり出回らなかった珠だ。ほどなく、この薬物は消えるはずだった。だが、リスクを承知でも使用をやめられない中毒者が、古の装飾品を奪ってまで薬物を作り出した。政府は、取り締まりを強化したが、いたちごっこが続いている。以来、薬物は厄物と名を変え、今日まで断絶されることなく人々の生活に潜んでいた。

 トーマは、もう一度珠を見つめた。美しさの中にどこか禍々しい印象を与えるように危うく輝く珠。父親と慕うマサムネも、トーマ自身も厄物を憎み、その根絶に密かに力を注いでいる。

 「どや。俺が持ったら、より美しゅう見えるんちゃうか」

 今度はケイジが珠を持ち、自分の顔の傍らに寄せる。無駄に整った美形なだけに、確かに人々を魅了する珠の美しさがアップしたように見えた。

 「わ~、先輩、カッコいいです。さすが、カミがなくても落とせる男ですね!」

 「なんだ、そりゃ」

 トーマがリクの言葉に首をひねれば、ケイジが自慢げに解説をしてきた。

 「俺の美貌は、髪がなくても女を落とし、俺の能力は紙……まぁ、証拠書類やな。それがなくても犯人を落とせるっちゅうわけや」

 びしりと言い放てば、至極まじめな表情でオーキが頷く。

 「なるほど。素晴らしいな」

 「はい、先輩は素晴らしいです」

 よくわからない根拠なはずなのに憧れの眼差しを向けてくる二人に気分を良くしたケイジは、トーマを見て誇らしげに胸を張る。

 「ふふん、これが俺の実力や。どう思う、トーマ」

 「月にスッポン、豚に真珠だな」

 ため息とともに言葉を吐き出せば、ケイジが神妙な表情で頷く。

 「せやな。お前の言うことももっともや。俺には、厄物の材料なんか似合わんな。俺の存在で輝かせるべき物は他にあるはずや」

 「いや、オレはお前の無駄に綺麗な顔に、虫でも湧いてんじゃねぇかってくらいふざけた頭の中身と口調が勿体ねぇって言ってんだ。そもそも、お前のその顔で、その口調はおかしいだろうが。それ相応にファニーな顔になりやがれ。あと、刑事のケイジってなんだ。シャレか。だったら、兄は検事のケンジかよ」

 「いや、従兄弟や」

 「いるのかよ!」

 「ケンジは優秀だぞ。法廷で何度か相まみえたことがある」

 「……いや、もうこの話題は広げるのやめようや」

 まさかのオーキまでが会話に入ってきたことで、収拾がつかなくなりそうだと判断したトーマは自分で言い出したことだが話を打ち切った。

 「皆さん仲がいいですねぇ」

 心の底から純粋にそう思っているのだろう。ほわほわとした雰囲気にとびきりの笑顔を見せているリクを目にして、トーマは一気に疲れを感じた。ケイジが返してきた珠を受け取り、ひとまず金庫に保管する。

 「とりあえず、デカ。これの流出先の情報捜査頼むわ」

 「なんや、尊大な態度やなぁ」

 「チッ。ケイジケージ、ヨロシクオネガイシマス」

 「全く頼まれてる気ぃせぇへん。まぁ、しゃあない。俺らだって、この案件は捨て置けへんしな。スーツ男どもも気になるし」

 「はい、僕も微力ながらお手伝いします」

 「私も、気にかけておく」

 三人が力強く頷くのを目にして、トーマも頷き返す。普段はどこまでが本気かわからず、ふざけた連中だが、信頼のおける存在であることは長い付き合いの中で重々承知している。

 「ただ、おそらく上から別件が舞い込んでくるやろし、忙しくなると思うねん」

 「殺戮兵器の件か」

 「せや、ご名答」

 トーマも速報を聞いて、気にはなっていた。ただ、こちらにしても情報がもっと欲しい。そして、トーマが殺戮兵器についての情報も依頼したときだ。背後にある医務室に続く扉が軽い音と共に開かれ、しわがれながらも老いを感じさせない張りのある声がかかった。

 「漫才は終わったか」

 事務所の一同がその声の人物に注目する。そこには、小柄でありながらピンと伸ばした背筋が印象的な老人がいた。

 「ウヅキのじーさん。あいつの怪我はどうだ?」

 ウヅキと呼ばれた老人は、白衣の裾を揺らしながら、部屋の隅にある冷蔵庫から水を取り出して口に含む。彼はトーマたちが頼る医者だった。近くで開業医をしているが、時折トーマに呼ばれてこの事務所の医務室で働いている。ウヅキは、事務所の面々を見回し、このメンツなら心配ないか、とつぶやいてトーマの質問に答えた。

 ちなみに、一緒に怪我人を運んできたコウとリュウはウヅキから直々に重要な任務を仰せつかったとかで、遣いに出ている。出ていくときに見えた二人の様子は、顔を青くしたりウキウキと弾んでいたり、忙しくしていたが、何があったのだろうか。

 思案にくれるトーマだったが、それをウヅキの声が現実に引き戻す。

 「どうもこうも、できるだけのことはした。幸い、致命傷はなく、少しゆっくりすれば完治していく。肩も頬もな。あとは、日にち薬だな」

 「そうか」

 ウヅキの言葉に肩の力を抜くトーマ。一応、命の恩人だ。何事もなくてよかったと素直に思う。

 「しかし、肩はともかく頬がひどい。あんなに腫れるほど殴るとは。せっかくの可愛い顔が台無しだ。やったヤツに、儂が何発かお見舞いしたいくらいだ」

 そうして、意味ありげな視線を寄越し、鼻息荒くまくしたてるウヅキにトーマは内心で冷や汗をかく。ウヅキには、謎のスーツ男との混戦の中で負傷した、自分を助けるために負った傷だから治してくれと伝えている。ウヅキが医者でありながら、本気を出せばマサムネと互角に渡り合えることを知っているトーマは、ウヅキから視線を外す。当然、自分がやりましたとは言えない。やったのが自分だと告げなくてよかった。死んでも口をつぐんでいようと心に決めるトーマである。見透かされていそうだが。

 「落ち着いて、ウヅキさん。これからもウヅキさんが治していってあげてよ」

 優しく懇願するようにリクが言えば、ウヅキの気持ちが幾分和らいだのか、ツイと優しく瞳が細められる。ウヅキはリクに弱い。まぁ、トーマも人のことは言えないのだが。リクという男は、相手の胸の内に寄り添うのが上手い。決して不快感を抱かせることはなく、自然な形で傍らにいるのだ。童顔な容貌も相まって、仕事の現場でも可愛がられていると話を聞く。

 「可愛いリクが言うなら仕方ないか。コウやリュウも世話になったということだし。儂がきっちり面倒を見るわい」

 可愛いは正義だと、釈然としない気持ちで思うトーマである。

 「! おい、お前さん、まだ、寝ていなきゃダメだろう」

 不意にウヅキが焦ったような声を出し、医務室の扉へ視線を向けた。その場にいる他の者も一斉にそちらに注目し、とりわけトーマは人一倍の驚きをもって目を見開いた。



 こちらを向いて驚いている一同を見渡し、サクヤは目を細めた。左頬に当てたガーゼのせいで違和感を覚える。

 (どこ、ここ……。知らない人、いっぱい)

 自分を攻撃してきたホスト風の男と先ほどまで治療をしてくれていた医者と、見たことのない男が三人。一様に、自分を見て固まっているように思える。

 サクヤは記憶をたどるが、途中で靄にかかったように、思い出すことができない。どうやら、怪我をして意識を失ってしまったようだ。

 (そんなに深手だったかな)

 強いてあげれば、首筋が痛い。なぜだろう。

 肩の傷は、気を失うほどではなかったはずだと分析するが、実際、気づけば見知らぬ場所で怪我の治療を受けていた。携わる医者から悪意は感じられなかったので、なすがままになっていたが、終わったのならここに用はない。幸い、動くのに支障はなかったので、先に出た医者を追って、話し声のする方へ来てみた。そうしたら、ここに出たというわけだ。

 「もう少し、横になっていろと言っただろう」

 いち早く、我に返ったらしい医者が口調とは裏腹に心配を滲ませた声で言った。確かに、そんなことを言われたような気がする。

 (もう、大丈夫)

 そう伝えるようにサクヤが首を静かに横に振れば、視界の端に自分の長い髪が揺れているのが見えた。

 (帽子、どこだろう)

 それに、着てきたパーカーも。傷を受けたところを繕えば着られるかもしれない。物は大切にしなければならないと幼い頃から言われている。

 きょろきょろと周りを探し始めるサクヤ。その姿を見て、金縛りが解けたかのように部屋の中で声が弾ける。

 「めっちゃ、美人やん! 何、この子。知り合いたい」

 「綺麗な人ですねぇ。思わず魅入っちゃいました」

 「しかし、その頬は確かにひどいな。女性にこのような乱暴をするとは許せん」

 話し方に訛りのある美貌の男と、その隣の愛嬌のある少年と、真面目が服を着たような眼鏡の男が好奇の視線を向けてきた。

 そっちの黙っている男にやられました、とばかりに頬を傷つけた犯人を見やれば、今まで見たことのないくらいに青い顔をしていた。

 そんな男の背後に扉を見つけたサクヤは、話しかけてくる男たちに耳を貸すことなく、一目散に部屋から出ていこうとする。

 「お、おい」

 すれ違いざま焦ったように話しかけてくる男に手首を掴まれる。なんだかついさっきも同じことをされたなぁと思いながら振り返れば、あの時とはまるで違う様子の男がいた。そこには、相対した時に見た激情はまるでなく、一瞬別人かと思うくらいだ。

 こちらを見る赤銅色には、自分を気遣う色が見て取れた。そういえば、手首を掴む手も心なしか優しい。掴んだ手を離すまいという意思は感じられるが、同時にその手を壊さないように心を砕くかのような気遣いが伝わってきた。

 (不思議な人)

 怒っていて怖い人かと思えば、他人にも優しさを分け与えるような人にも見える。自分の感情に素直な子どものような印象があれば、相手を気遣う臆病な大人の印象もある。どんな人間でも感情の起伏はあるし、様々な側面をもっているが、この男はそれが複雑で、たくさん隠している。まるで、感情の宝箱のような人だと思った。探せば探すほど、いろんなものがあふれてくる。サクヤにはもち合わせていないような感情すら、その中に眠らせているよう。他にどんなものが入っているのか、もっと知りたくなってしまう。

 出会ってすぐに自分の頬を殴ってきた相手ではあるが、今はその時の痛みや感じた負の感情を覚えることはまるでなく、男に純粋に興味をもった。こんな感情は、久しぶりだ。

 真っ直ぐに、真摯な瞳を相手に向ける。相手の全てを受け入れようとするかのように。

 サクヤが、出ていくのをやめて、向き合っただけで、男の肩の力が抜けたのが分かる。

 「トーマ、怖がらせてんじゃねぇぞ」

 医者が呼びかけ、手首を掴む男が声の方を向く。それを見て、そんな単語を聞いたなとサクヤは思う。どうやら、この男はトーマというらしい。

 「チッ……お前、名前は?」

 いろいろなことを聞きたいだろうが、多くの言葉を飲み込んで、トーマは一言そう言った。その一言ですら、揺れ動く感情の中で、迷いに迷って紡ぎだした言葉のようだった。

 (悪い人じゃないみたい)

 サクヤは一呼吸分静かに相手を見つめると、自分の手首を戒める手を優しく解く。そのまま、掴んだ手を返してトーマの手の平を上向きにしたサクヤは、もう片方の手で男の大きくてたくましい手にゆっくりと人差し指を這わせた。白魚のような繊手の細い指が言葉を代弁していく。一文字ずつ指を動かす間隔を少しあけてトーマの質問に答える。

 『サ・ク・ヤ』

 書き終わり、顔をあげると、何かを堪えるかのような顔にこちらを安心させるよう努めた笑みを貼りつけたトーマの赤銅色の瞳と出会う。

 「サクヤっていうのか。いい名前だな」

 心からそう言っているのが分かる声音に、サクヤの中に不思議な温かさが生まれた。名前を呼ばれたのは久しぶり、褒められたのは初めてかもしれない。あまり好きではない自分の名前。けど、母とのつながりを示す数少ないものの一つ。嬉しい、とこれを、この温かさをそう呼ぶのだったろうか。

 こんな時、どうすればいいのだろう。どんな反応をすれば、相手の優しさに応えられるのだろうか。サクヤの感情の中には、宝箱の中には、どんなに探してもこんな時に返すべき応えが見つからない。サクヤの宝箱は、きっと底に穴が開いて空っぽだ。探したって見つかりっこない。

 この人とは、トーマとは、違う。

 「オレはトーマ。さっきは、悪かったな」

 次いで、素直に頭を下げる。そんな状況にも、サクヤはどうすればいいのか分からず、ただトーマを見つめる。

 さっきというのは、いつのことだろうか。出会って頬を殴ったときのことだろうか、そのあとで弁明を強要したことだろうか、それとも、銃弾に倒れる原因となったことだろうか。

 思い返して、出会いにろくな記憶がないことに、怒りを通り越して呆れを覚える。名前を伝えようと思うに至った自分自身の気持ちの変化にも驚きを隠せない。

 「話せないのか」

 サクヤを驚かせないように、ゆっくりと近寄ってきた眼鏡の男が静かに問う。その眼鏡の奥の瞳は、サクヤの真意を見透かそうとするかのような光が宿っていた。

 話せない——話すことができないのか、話をすることをしないのか。似ているようで異なる意味合いの、どちらにでもとれる言葉。男の問いは前者だろうか。

 「ん」

 黙っているサクヤに、トーマが捕まれている手の平を差し出すように動かす。ここに書け、ということだろ うか。少し迷いながら、サクヤは手の平に『〇』と記した。

 「この子の、サクヤの首元にかなり古いが傷痕があった。それが原因かは分からないが、未だに消えない傷となると、よっぽど深いものだったんだろう」

 医者が自分の喉元を示しながら言った。何とも言えない雰囲気の中、眼鏡の男がジャケットの中を探る。

 「そうか。私の名前はオーキ。弁護士をしている。困ったことがあるなら相談にのろう」

 そうして、丁寧に名刺を渡してくる。サクヤも思わずといった風に両手で受け取った。こんな自分にも、律儀な男だ。きっと、オーキも他に言いたいこと、聞きたいことがあるだろうに。

 「ほな、次は俺や。初めまして、俺、ケイジ言います。刑事やってます。質問です。アンタのおうちはどこですか」

 トーマを押しのけるようにして、訛りのある美貌の男——自己紹介によればケイジがサクヤの手を握って言った。そうして、サクヤの指をそっと自分の手の平に落とし、答えを待っている。

 「おい、てめぇ」

 低い声でトーマがうなっているが、ケイジはどこ吹く風だ。全く意に介することなく、ニコニコとサクヤの返事を待っている。だが、一見人当たりの良さそうな瞳の奥にはオーキ以上にこちらを探るような鋭さが含まれているのを感じた。それは、刑事という職業柄なのか、ケイジ個人のものであるのか判断はできかねた。しかし、ここで重要なのは答えの内容ではなく、自分の心がどう応えるか、つまり嘘偽りのない答えを返すことだと感じ、サクヤはケイジの少し冷たい手の平に単語を連ねる。元々、答えは決まっている。

 『プルトー。帰る』

 「プルトー」

 ケイジがポツリと呟いた言葉に、その場にいた皆の顔が険しいものとなる。トーマが片眉をピクリと動かせば、オーキが喉の奥でうなる。医者が目を伏せれば、少年が驚いたように目を見開いた。ただ、呟いたケイジが一番の冷静さを保って、なおサクヤに問いかける。

 「そこが、サクヤちゃんの暮らすとこなんか」

 手の平に再び『〇』を書き込めば、ケイジの嘆息がサクヤの耳に届く。

 見放された地下の町、それがプルトーだ。地図にない町、最下層の町、すべてが集まり放棄された町とも呼ばれる、いわゆる政府の管理しない無法地帯だ。どこからどこまでがプルトーという境もなく、噂では上層都市のポアロから下層の町デメルまで、どの場所からでもプルトーへ行けるという。そんなすべての坩堝のような場所がサクヤの住む場所だ。戸籍も何もないサクヤでも受け入れて、生きていくことのできる世界。

 こことは、違う世界。

 一様に押し黙ってしまった一同に、なぜだか申し訳なさを覚え、今度こそ出ていこうとサクヤは決意する。ケイジの手を放し、踵を返せばトーマたちの顔は見えなくなる。

 (帽子もパーカーも、もう、いっか)

 ハイネックが首元は隠してくれている。容姿が分かってしまうのは、プルトーでは歓迎できたものではないが仕方ない。言い寄ってくる連中はうまく撒いて帰ろう。

 胸に宿りかけていた温かな感情の光を、瞬きを一つして消し、サクヤは扉に向かう。

 「おい、待てよ」

 手首を掴む温かい手。振り向かなくても、サクヤにはこれがトーマの手だというのが分かった。だから、振り返ることはせず、どうやってこの場を切り抜ければいいのかを考えた。

 「サクヤ」

 自分のことを呼ぶ声。久しぶりに聞く誰かからの自分の名前。それだけで、今度はサクヤが金縛りにあったみたいに動けなくなる。理性を総動員して足を動かそうとする。じゃないと、無理だ。本当の感情はサクヤにはコントロール不能で、ここに留まろうとする。この気持ちこそ宝箱から消えてしまえばいいのに、なかなかうまくはいかない。

 「帰る場所には誰かいるのか? 薬は? しばらく面倒を見てくれるヤツは? お前が傷を負ったのはオレのせいだ。だから、オレには面倒を見る義務がある。サクヤのことはオレがきっちり責任をとってやる。だから、まだ帰るな」

 言葉の途中で、強引に振り向かされる。けれど、全然イヤではなかった。真摯な瞳に見つめられれば、サクヤに言葉があっても何も言えなくなってしまったに違いない。

 帰るな。ここにいてもいい。遠まわしでも、そう言われただけで、どこかホッとしている自分がいる。

 あの時と同じ。母親に抱きしめられて告げられた言葉。サクヤが一番嬉しかった贈り物。

 (いらない。こんな感情いらない。嬉しいなんて。もう少しここにいたいなんて)

 ぎゅっと眉根を寄せて動かないでいるサクヤに何を思ったのだろう。トーマは、なおも言葉を続けようと口を開きかけては閉じる、というのを繰り返していた。

 ちなみに、他の面々は好奇の視線で二人を見守っていたが、そんなことを当の本人たちが気づくはずはなかった。

 「完治するのに一年だ」

 不意に医者が口を開く。皆の視線を一身に受けながら、はっきりとした声で告げる。

 「肩の傷に、頬の傷。それが完治するまで一年。その間は儂が治療を施す。だから、せめて一年はここに厄介になってはどうだ。幸い、住む場所などはトーマが斡旋するから心配はない」

 ピンと指を一本立てて医者が言う。それは、サクヤに提案するようでいて、どこかトーマに言い聞かせているようだった。

 「傷の完治ってそんなに時間が……モガッ」

 「しっ。リク、今はしゃべったらあかんとこやで」

 何かを言いかけた少年の口をケイジがさっと塞ぐ。視線で分かったと伝え、リクはそのまま首をカクカクと上下に動かした。

 「ウヅキのじーさんの言うとおりだ。さっきも言ったように、お前の傷はオレに原因がある。治るまででいい。どうだ?」

 優しい嘘に、心惹かれた。自分の体調は自分が一番わかっている。一年なんてかかるはずがない。それでも。サクヤも、優しい嘘を信じたくなった。

 それに。

 (ここにいれば、殺戮装置の情報も調べやすい)

 正誤が入り混じったプルトーより、政府の報道がちゃんと通る町。何かを調べていても、ここにいる人間をカモフラージュに使える。

 嘘に打算に、ここにいる誰よりも自分の考えは醜い。それを押し殺してトーマの手を取り、再び手の平に想いをのせる。

 『ア・リ・ガ・ト・ウ』

 その後に、少しためらうように『〇』を書いて、頭を下げた。

 「そうか。よかっ……」

 「よかったッスねぇぇぇ~、アニキィ~。俺は、俺は……いつでもアニキの幸せを祈ってるッスよ」

 トーマの安堵の声に重なるようにして歓喜に沸いた声と共に扉が大きく開かれた。そうして、サクヤも見知った青年が二人、部屋へと入ってくる。固まっているサクヤとトーマに構わず、涙を拭う手も間に合わないほどに滂沱と泣き崩れながら、一気にまくしたてる。

 「うぅ、よかったッス。本当によかったッス。アニキの想いが通じて。これほどうれしいことはないッス。大好きなアニキの一世一代のプロポーズが成功して。今夜は赤飯ッスね。姐さん、これからよろしくッス」

 「ちょっと待て」

 目を点にしている一同の中で、何とか自分を取り戻したらしいトーマが、制止の声をあげた。次いで、一緒に入ってきた小柄な青年に説明を求めるように視線を向ければ、困ったように頭をかいて視線を泳がせていた。

 「いや、一応、声はかけようと思ったんですよ。ただ、邪魔しちゃいけない雰囲気に言い出せなかったっていうか。扉をちょいと開けてタイミングを見計らっていたら、兄貴の告白シーンになって。そんで、さすがに悪いかなって去りかけたんですけど、やっぱり続きが気になって。そしたら、オッケーもらってる場面だったんで、俺もこいつも感極まっちまって」

 そうして、一度鼻をすする。

 プロポーズ? 告白? 誰が、誰に。

 頭に疑問符をつけて固まるサクヤの前では、頭痛を堪えるように頭を抱えたトーマがうずくまっていた。

「あはははは、ごっつおもろい。いつの間にか、友人が結婚することになっとる。いや~、オメデトウオメデトウ」

 完全に笑いの種としてケイジがお腹を抱えて目元に涙を滲ませれば、オーキは自分のカバンをごそごそとし始めた。

 「何をしているんですか?」

 とてとてと近づいて、オーキの手元を覗き込んだリクが問う。それを横目でちらりと認めつつ、手を休めずにオーキは答えた。

 「婚姻届を持っていなかったかと思ってな。善は急げと言うだろう」

 どこまでが本気なのかわからない口調と表情で、カバンをガサゴソとし続ける。

 (こういう時は、どうすれば)

 先ほどから繰り広げられている状況に、サクヤの感情がついていかない。人と関わるということは、なんと考えることの多いことだろう。想定していないことばかりで、パニックになってしまいそうだ。

 (普通の町の人って、忙しいんだ)

 主に、頭が。一人だとマイペースにいけるが、ここではそうはいっていられない。人についていくのは大変なことなのだと心から思う。

 「~~~~~~っ、とりあえず、待てっ」

 状況に耐えかねたトーマがとうとう吠えた。その大声に、ピタリと一同の動きが止まる。

 「話を聞け。いいか、オレはプロポーズしていない。そもそも、どこをどうとったらそんな話に行き着くんだ」

 「それは、あれですよ。トーマさんが、サクヤさんに対して、面倒を見る、責任をとるって言ったことじゃないですか」

 あれか。サクヤが思い当たり、ポンと手をたたけば、同じように思い当たったらしいトーマがうなる。

 「まぁ、見ようによっちゃ、愛の告白に思えるわな」

 「お二人の間の雰囲気も良かったですよねぇ」

 刑事二人が、まるで他人事だと状況を楽しんでいるのがサクヤに伝わってきた。トーマも正確にその空気を感じ取っているのだろう。剣呑な目元で二人を睨みつけた。

 「チッ。だとしても、ここにいる連中は、さっきの言葉がそういう意味合いを含んだものじゃないって分かるよな。なんで、こいつらにのっかる」

 サクヤと初めて相対した時以上に怒りをはらんだトーマの瞳が射貫くが、二人ともまるで気にする風もなく言ってのける。

 「だってそのほうが、おもろいやん」

 「だってそのほうが、面白いじゃないですか」

 プッツン。と何かが切れるような音が聞こえた気がした。再び何かを怒鳴ろうと口を開くトーマに、一足早くオーキが頭を下げた。

 「すまない。婚姻届は見つからなかった」

 「……おう。必要ないから、気にすんなや」

 一気に毒気を抜かれたらしいトーマがそれだけを伝えれば、ケイジは顔を背けて肩を震わせた。

 「あかん。腹筋崩壊や。おもろすぎる」

 ツボに入ったらしく、小刻みに震えている。その様子と言葉の端々から何かを感じ取ったらしい小柄な青年が、恐る恐るといった風に尋ねた。

 「えっと、何か勘違いしてた……? すいません、とりあえず、コウを現実に連れ戻してきます」

 そうして、隣で嬉しそうにマイホームやら子どもの算段をしている長身の青年にエルボーを叩き込み、何かを話し始めた。最初のうちこそ、驚いていた様子だったが、徐々にその顔には不満が広がっていった。

 「なんなんスか。せっかくのアニキの一大イベントだと思って、喜んだのに。こうなったら、アニキ。押し切りましょう。俺の直感が告げてるッス。結ばれるべきだと」

 「お前の上唇と下唇がな」

 額に青筋を浮かべたトーマが近くのクッションをコウと呼ばれた大柄な青年の顔面に叩きつけた。ひどいッス、というくぐもった声がサクヤの耳に届くが、こんな時どうすれば以下略。

 「チッ。そもそも、お前らはどこ行ってたんだよ。いきなり帰ってきて、変な妄想する前に、やることやってきたんだろうな」

 「当然ッス。アニキの好みを吟味して買ってきたッスよ」

 「オレの好み?」

 クッションから復活した男が自信満々に胸を張るのに反して、トーマの眉間に深いしわが刻まれる。抱えていた荷物をもう一人の青年と一緒にごそごそと広げ始めた。興味を引かれた他の面々も集まり、覗き込めば二着の服が出てきた。どちらもレディースで、一着は白の清楚なワンピース、もう一着は、スタイリッシュな黒のズボンとボディラインに沿うようにデザインされたブラウスだった。

 これは、もしかしなくても。

 今度は、サクヤの眉間にしわが刻まれた。その様子と微妙に不穏な空気に気づくはずもなく、コウは嬉しそうに語る。

 「やっぱり、可愛い女の子には、ワンピースが定番ッスよね。アニキもそう思うでしょ」

 目をキラキラとさせてトーマに詰め寄り力説すれば、その隣では、嘆息交じりに小柄な青年が言う。

 「こっちは、まぁ、彼女の好みが分かんないから、違う趣向の物も用意したほうがいいかと思って、自分が用意しました。あんだけ立ち回れる人だから、動きやすいほうがいいかと」

 それぞれ、白と黒の服を紹介する二人にサクヤは内心大いに動揺していた。こんなデザインの服なんて着たことがない。だぼだぼのパーカーとか、ずるずるのジャージでいいのに。

 「さぁ、アニキの好みはどっち!」

 「なんでオレにふるんだよ!」

 再び宙を舞うクッション。今度も、コウの顔面に見事に到達した。ひどいッスと言いながらも、懲りている様子は全くない。

 「ちなみに、この服の代金はどうしたんだよ」

 トーマが疑問を述べれば、当たり前だというように、凸凹コンビは異口同音に答えた。

 「経費で落とすッス」

 「すでに、兄貴の名前で領収書をもらってます」

 「……これは経費で落ちねぇよ」

 うなだれたトーマが低くつぶやく。

 「あはははは、ナイスや二人とも」

 一人楽しそうなのはケイジだ。お腹を抱えながら、二人に親指をグッと立てて見せていた。

 「私は、コウに一票だな。女性らしい柔らかなワンピースが彼女には似合うと思う」

 唐突にオーキが会話に混じれば、いやいやと否を唱える声が上がる。

 「オーキさん、それもいいですが、僕はリュウさん推しですね。美人な女性がシュッとした服をまとえば凛とした美しさが表れるというものです。サクヤさんの別な一面を引き出す物だと思います」

 「あははは、そ、そこで張り合うか。お前ら、おもろすぎるやろ。ま、俺はどっちでもいいかなぁ。それぞれの良さがあるし。サクヤちゃんならどっちも着こなしそうや」

 「ということは……」

 一同の目が再びトーマに向く。トーマの一票が形勢に大きな影響を与えることになりそうだ。

 期待に満ちた五対の瞳に見つめられ、トーマがたじろぐ。

 当事者であるはずのサクヤといえば、本当にこの服を自分が着こなせる物かと、穴が開くほどに二着を見ていた。

 「さぁ、どっち」

 五人に詰め寄られたトーマが、思わず身体をのけ反らせた時だ。

 「てめぇら、いい加減にしねぇかっ!」

 鶴の一声、というのはこういうのを言うのだろう。今まで静観を決め込んでいた医者が一声発せば、それだけで場は引き締まり、緊張感をはらんだ空気が辺りに漂う。盛大に笑いの世界へ片足を突っ込んでいたケイジでさえも、ピタリと笑いを収め、イケメンに戻っていた。

 「トーマ、ここにいるのはお前らだけじゃねぇ。知らねぇヤツばっかの中、ここにいると勇気を出して決断してくれたサクヤの嬢ちゃんを置いて、何をしてる。シャキッとせんか」

 突然名前を出されて、皆の視線を集めたサクヤは居心地悪そうに眉根を寄せた。そんな大それたことは何もしていないのだけれど。

 そんなサクヤを見て、トーマはバツが悪そうな表情で頭を下げる。

 「チッ。悪ぃ。そりゃ、知らねぇヤツばっかで不安だよな。もう一度、自己紹介からさせてくれ。それから、始めようや」

 何を、と思ったが、そんなことは、今はどうでもいいと思えた。トーマの少しハスキーでざらついた、けれども聞いていて心地いい声がそれぞれの名前を紡いでいく。

 「さっきも言ったが、オレはトーマ。このデメルの町で……滞った金銭の回収と人材派遣をしている。で、隣のオーキは弁護士、とこいつは紹介してるか」

 オーキがトーマの紹介に軽く頭を下げて応じれば、次はケイジたちを示す。

 「この二人は刑事で、可愛いほうがリク、腹立つほうがケイジだ」

 「男なのに可愛いって微妙ですけど。初めまして、サクヤさん。仲良くしてくれると嬉しいです」

 「美形とかイケメンとか、何か他にええ単語あったんちゃうか。まぁ、ええわ。よろしゅうな」

 そして、次は医者を示す。

 「こっちが、医者のウヅキ。お前の傷を診てくれた」

 「近くで開業医をしているウヅキだ。しばらくは、嬢ちゃんの傷の様子を定期的に診ていく。ちなみに、ここの連中に何かされたら儂のとこに来るといい。きっちり落とし前はつけてやる」

 そうして、心なしかトーマにいわくありげな視線を向けるウヅキ。対するトーマは、視線を逸らし、素知らぬ顔で残りの男たちを呼んだ。

 「そんで、こっちの二人が、オレの部下。でっかいほうがコウ、ちっさいほうがリュウ。え~と、コウジとリュータローだ」

 これで全員かと辺りを見渡すトーマを見て、周囲には一瞬の沈黙が流れる。不思議そうにしているのは、サクヤとトーマだけだ。途端、こらえきれないといった様子で、ケイジが叫ぶ。

 「いや、誰やねん」

 ケイジの言葉にも、得心がいかない顔をしているトーマに、部下の二人が悲し気に声をかけた。

 「コータローッスよ、アニキ……」

 「リュージです」

 二人にジト目で見つめられれば、バツが悪そうに顔をしかめ、トーマはポツリとこう言った。

 「……凸と凹だ」

 「ひどい」

 憐れむ声は誰のものだったのだろうか。

 ふてくされたように(多分、照れている)そっぽを向くトーマに悲痛な様子で縋り付くコウ。リュウは諦観の念で肩を落とし、爆笑するケイジ。笑みを絶やさないリクに、表情を崩さないオーキ。やれやれとばかりに嘆息するウヅキ。

 にぎやかで、温かくて、明るい場所。たとえ一時のことだとしても。

 (……楽しい)

 そう感じたのは、久しぶりだ。

 口紅をひかなくても赤みのあるサクヤの唇がふんわりと綻び、瞳が優しく細められた。思わずといった様子で、口元に片手を当てる。

 「っ!」

 「笑った? も、もっぺん見して」

 先ほどまでの混沌とした状況が嘘のように静まり、サクヤに期待に満ちた視線が集まる。途端、サクヤは目を白黒させて驚いた。まるで、自分が笑えるとは知らなかったように。注目されると意識して、サクヤの表情は固まってしまった。

 「あ~、もったいないッス」

 「お前ら、そろそろ嬢ちゃんを解放してやれ。ほら、もう少し横になっておいで」

 見かねたウヅキが助け舟を出し、サクヤは素直にそれに甘えることにした。

 鎮めたいと思ったから。傷の痛みだけじゃなく、自分じゃどうにもできない、この揺れ動く心を。



 自室に戻ったトーマは、ベッドの上に寝転がり、天井を眺めていた。思い起こすのは、サクヤのことだ。プルトーから来た、どこか愁いを帯びた不思議な女。トーマのポリシーに反して、傷つけてしまった人。しばらくは、ウヅキが面倒を見るということで、病院に寝泊まりしている。病院での初日こそ、どこか寂し気にしていたサクヤだが、日を追うごとに、少しずつトーマたちとのコミュニケーションにも応じてくれている。とりわけ、コウとリュウの凸凹コンビが心を砕いてくれていた。未来の姐さんのためとか、わけの分からないことをぬかしていたが。もう少しして、怪我も落ち着いたらトーマが暮らすマンションの隣の部屋を用意しようと思っている。

 『トーマ、気ぃつけ。なんやかんやでうやむやになってしもたが、プルトーに関連したものには、ロクなもんがない。あの子だって分からへん。見た目に騙されたらあかん。じゃないと、足元すくわれるんはお前や。くれぐれも気を許したらあかんで』

 あの日の去り際、他の者には聞こえないようにそっと告げてきたケイジの忠告が頭の中でリフレインする。自分を案じるケイジの気持ちとサクヤへの不信感を表した声。へらへらとした姿を感じさせることのない、刑事としてのケイジの本来の姿。

 (分かってるよ、そんなこと)

 そう、理性では分かっている。けれど、トーマの直感がそれを否定する。

 手の平を見つめれば、今でもサクヤのなぞった指の感覚を思い出せる。少し力を入れて握りしめれば折れてしまうような華奢な指が、ためらいがちに触れて伝えた精一杯の想い。瞼を閉じていても思い起こすことのできる印象的な瞳は、振り払おうとしても、今も鮮やかに刻まれている。見つめた瞳に映るのは、一人でも大丈夫なフリをして、誰かに頼るのを諦め、人を信じるのを怖がる想い。

 それは、幼い日に抱いた自分の想いと重なり、トーマの心の柔らかい部分を刺激してやまない。まるで、当時の自分を見ているようで、何とかしてやりたくなる。心を向けたくなる。救えなかった誰かを助けたくて、放っておけなくなる。

 最初は、怒りを向けるだけでよかったのに。サクヤの軽々とした身のこなしに興味をもった。男だと信じていたから、手合わせをしたいと思った。それが、サクヤの女性としての姿を見た瞬間に一気に罪悪感に変わった。よりにもよって、手を出していたのが顔だったのもトーマの心に打撃を与えたのかもしれない。自分のしたことに、これほど強く罪の意識を感じたのは初めてだ。そして、話せないと分かると、彼女に憐れみを覚えた。言葉が使えない不便さを考えたこともなかったから。そうして、ケイジの言葉に従えない自分がいる。

 心を向ければ、その分だけ、相手を受け入れたくなる。

 考えていた以上に、サクヤの力になりたいと思う自分に軽い苛立ちを覚え、舌打ちをした。

 (サクヤは、どうしたい?)

 決まっている、帰りたいのだ。この町ではない、プルトーこそが彼女の居場所だろうから。彼女をここに引き留めているのは、トーマのエゴだ。

 ウヅキにもらった猶予の一年。どうしてサクヤが付き合う気持ちになったのかは分からないが、この期間にトーマ自身が納得できる答えを導き出すしかない。

 (サクヤに、いろいろ聞いてみねぇとな)

 プルトーの住人でありながら、デメルの町にいた理由。彼女の目的。ここにいると受け入れてくれた心の在り処。

 正直、相手の想いを聞き出すのはトーマにとって苦手なことだ。どうやって切り出したらいいか、さっぱり思いつかず、ああでもない、こうでもないと考えているうちに、やがて訪れた睡魔に意識を委ね、トーマは寝息を立て始めた。


 そして、数日が流れた。

 (何やってんだ、オレはよ……)

 自室のソファの上でトーマは自分に毒づきながら頭を抱えていた。

 結局、サクヤに何も切り出せぬまま、いたずらに日々は過ぎ、今日もまた終わろうとしている。

 別に機会がないわけではない。仕事があるため会う時間は限られるが、サクヤと顔を合わせない日はなかった。

 サクヤは、日中はトーマたちの事務所を掃除してくれている。別に誰かが頼んだわけではない。トーマとしては、何もせずともよかったのだが、それでは彼女の気が済まないらしかったらしい。元々、事務員などはおらず、清掃に手が行き届かなかったところがあるので、とても助かっている。それ相応の賃金を払うと言ったのだが、食事や住居を保証してくれているのだからと丁重に断られた。日々、綺麗になっていく事務所を見ながら、ありがとうの一言すら伝えられない自分に辟易する。

 「飯もずっと一人で食べてきたのかねぇ」

 トーマは思わずといった風に独りごちた。思い出すのは、一緒に食事をしていたときのサクヤの不思議そうな表情だ。机を囲んで共に食べているときの懐かしそうで、でも申し訳なさそうで、どこか所在なさげな表情は誰かと食事をするのを当たり前としている者の顔ではなかった。

 自分も特殊な環境下で育ってきたと感じるトーマでさえ当たり前だと思っていたことが、サクヤにとってはそうではないと知り、純粋に心が打たれた。

 サクヤの出自に関しては全く分かっていない。刑事のケイジや弁護士のオーキでさえも詳しいことがつかめない。もっとも、プルトーに関する者の情報がやすやすと表れることはないので、想定内ではある。

だからこそ、サクヤ自身に踏み込む必要があるのだが。

 (どうやって切り出せばいいんだっつーの)

 尋問のやり方なら分かるのだが。

 一人悶々と頭を抱えるトーマの耳に、微かな物音が届く。それは、遠慮がちに、玄関の扉を叩く音。自分でも気のせいかと思うほどの微かなものだったが、はじかれたように玄関に向かう。

 (チャイムも知らねぇのか)

 ちらりと目にした時計は夜の七時を示していた。トーマがサクヤに提示した時間ぴったり。時計の読み方はできるようだと、トーマはサクヤに関する情報を更新しておく。

 「よぉ」

 玄関の扉を開けた先のサクヤがぺこりと頭を下げる。促されるままに奥へと進むサクヤの後姿を見ながら、トーマは複雑な気分になる。

 (確かに、オレが夕食に誘ったわけだけどよ、夜の、しかも男の部屋に簡単に入っちまうのはどうなんだよ)

 今まで部屋に呼び込んできた女だったら、照れたり、ためらったり、期待したり、何かしらのリアクションがあったものだが。こうも淡泊な反応だと、自分が男だと意識されていないようで。

 (いやいや、何考えてんだよ)

 一つ頭を振ると、不思議そうに自分を振り返るサクヤと目が合う。湖底を思わせる深い翠の双眸の中に、苦虫を噛みつぶしたような何とも言えない表情の自分を見つけて、ため息を一つ。

 (とりあえず、あれこれ考えててもしょーがねぇか)

 手を洗った後、リビングの椅子に座るよう告げて、トーマは夕食のカレーの配膳を始めた。

 サクヤは、ちんまりと椅子に鎮座している。その姿が、不意にここにはいない弟の姿と重なって、トーマの口元に笑みが浮かんだ。

 今日の昼食後。自分と同じように昼食の様子をいぶかったらしいリュウが、サクヤの夕食はどうしているのかとトーマに尋ねた。一度も一緒にしたことがないと告げると心の底から呆れかえった顔をされ、いつになく真剣な表情でこんこんと諭された。

 『兄貴、いいですか。同じ時間を共有することで、お互いの距離を近づけることができると俺は思います。それが、知り合ってそれなりの時間を経たのに一度も一緒に飯を食ってないってどういうことなんですか。しかも、彼女、もう兄貴のマンションの隣部屋に越して来てるんでしょ。責任を取るって見え切ったのは誰なんですか。男だったら自分で誘うくらいしなさいよ。どーせ、話だってたいしてしてないんでしょ。いい機会なんだから、食事に誘って、ゆっくり話したらどうですか』

 そうして、反論の余地もなかったトーマはリュウに言われるがまま、夕食にサクヤを誘ったというわけだ。 まずは、誘ったことを褒めてほしい。

 二人で、手を合わせて黙々と食事をしていく。

 (何を話せってんだ)

 リュウがいたら、またもや説教が始まりそうなことを胸中でつぶやく。そんなトーマの心を知ってか知らずか、サクヤはおずおずと端末に手を伸ばし、文字を入力していく。サクヤとの基本の会話は手の平を介して行われていたが、状況によっては今のように端末を使っている。もっとも、サクヤはこうした電子機器が得意ではないらしく、今も四苦八苦している。それでも、自分の気持ちをできる限り表そうと、いつも心を砕いてくれていた。

 『おいしいです。おりょうり、じょうずですね』

 やっと、という風にできた文章を見せるサクヤ。簡素な文章だが、その瞳とともに真っ直ぐに褒めてくれることが気持ちいい。

 「カレーなんざ、食材切って、必要なもん入れて、煮込んだらできんだよ」

 恥ずかしさを隠すように何でもない風を装って答えれば、サクヤがふわりと微笑む。しかし、その笑顔のほとんどが他人に対して距離を置くような人見知りの笑顔であることにもトーマは気づいていた。

 「誰かと、食事することないのか」

カレーを口に運びつつ尋ねた言葉に、一瞬サクヤの顔が曇る。しまったと感じる間に、サクヤのほうが何気ない表情をつくり、端末で答える。

 『むかし、ははと』

 「昔……、十三年より前か」

 当たりを付けて口にすると、しばらくのためらいの後こくりと頷きが返る。

 十三年前。国を襲った大災害が起こった年。浅くはない傷痕を人々の心に残し、過ぎ去った忘れることのできない出来事。もっとも、下層の町では、と注釈がつく。

 「亡くなったのか」

 再び、頷くサクヤ。大切な人と死別した経験をもつ者は少なくない。十三年前に否応なくおとずれた者もいるだろう。それは、トーマ自身にも当てはまるものだった。

 「オレは弟を亡くした」

 はじかれたように顔をあげて、自分を見つめるサクヤ。その表情が今にも泣きだしそうに思えて、トーマは苦笑する。別に、そんな顔をしなくても、自分の心は、それほど痛みを感じてはいない。むしろ、久しぶりに向き合う自分の心が想像以上に落ち着いていることに、トーマは驚く。それと同時に、サクヤの話を聞く前に、まず、自分の話を聞いてもらいたいと思った。

 「オレの両親は幼い頃にいなくなって、弟のツキカケと一緒に施設で暮らしてた。けど、そこはあんまり褒められた環境じゃなくって。小さいながらも弱肉強食の世界が広がってた」

 そう、自分たちの身を守るために必死だった。今思えば、それは他の子どもたちも同じ思いだったのだろう。みんな、生きようとしていただけだった。大人なんか頼れなかったから。隙を見せちゃいけない、信じられるのは自分だけ、ツキカケを守らなければ。もがいて、もがいて、もがいて——。

 「十三年前の混乱に乗じて施設から逃げ出した。もちろん、ツキカケと一緒だ。二人なら、何とかなる、そう信じて疑わなかった。それこそ、プルトーに行っても暮らしていけると思っていた」

 だが、結果はどうだ。

 「ガキができることなんて限られてる。それが分かんないほどガキで……、すぐにオレたちは行き詰った。腹が減って、行く当てもなくて、どうすればいいか分かんなくて。当たり前っちゃあ当たり前だよな。しかも、十三年前の災害のときなんてどこに行っても、誰もが自分の先行きさえ分かんなかったんだ。助けてくれるヤツなんて、もちろんいない」

 国に絶え間なく吹いていた風は止み、空には大きな雲がかかって太陽を隠し、海辺の町には大波が押し寄せた。町には原因不明の病が流行り、作物は育たなくなった。死者の数が日ごとに増え続けた大災害。

 大丈夫なフリをして、ツキカケの小さな手をしっかりと掴んで歩いた。前だけを見て。道行く人はみんな敵に見えた。頼ることは、諦めを通り越して考えもしなかった。下手に期待して裏切られるくらいなら、最初から関わらない方がいい。自分は強い。兄だから、弟を守らなきゃいけない。泣いてはだめだ。弱さなんて見せられない。

 トーマは自分の手の平に視線を落とした。あの時より、ずっと大きくなった手。もし、今くらい大きければ、ツキカケを救えただろうか。今のこの手なら、あの時掴めなかった何かを見つけることができるのだろうか。

 グッと手の平を握りしめた。いや、欲しいものは自分で掴むべきだ。そうできるよう、努力すべきなのだ。今なら、自分の力で手に入れてみせる。

 「オレより小さかった弟に、災害時の生活は耐えられなかった。腹を空かせて、どんどん衰弱していくツキカケに、オレは何もしてやれなかった」

 二人で逃げ出した施設。自分たちのいるべき場所はここじゃないと思ったから。けど、外の世界にも、自分たちの居場所はなかった。

 「そうして、ツキカケは死んじまった。あの時、オレが施設から出ようなんて言わなきゃ……」

 続く言葉は飲み込んだ。正面に座るサクヤが、静かに涙を流しているのに気づいたから。

 目を瞠るトーマを見て、サクヤ自身も初めて気づいたのだろう。驚いたように、頬に手を触れている。

 やがて、サクヤは、その美貌を気にすることなく、ゴシゴシと目元が赤くなるくらい擦って無理やり涙を消した後、慣れない端末を必死に操作し始めた。

 『あなたのせいじゃない』

 何度も入力しては、やり直す、というのを繰り返した後にサクヤが見せてくれたのは、何てことはない言葉。本人ももっと気の利いた言葉を伝えたかったのだろう。悔しそうに唇を引き結び、申し訳なさそうにチラチラとトーマのほうを見ている。

 別に、何か言葉をかけてほしかったわけではないし、トーマは伝えたいと思ったから話しただけだ。だけど、自分を気遣ってくれたサクヤの心遣いは嬉しかった。だから、つい心の内を吐露したくなる。

 「……本当は、助けることができたかもしれねぇんだ。あの時、オレが一歩を踏み出していたら……」

 日に日に痩せ細っていくツキカケをおぶって歩くのがトーマの日課になっていた。毎日、何か食べるものを探して、道端に生えている草だって、食べた。腹をくだして吐いたり、気分が悪くなったりしたが、腹が減っているよりはマシだった。その痛みで、わずかの間でも空腹を忘れていられるから。けど、考えることはみんな同じで、食べられるものはなくなった。曇天の空の下、新しい作物は育たなくて。

 そんなある日、一軒の店の前におにぎりが並んでいるのに巡り合った。ただし、金額は法外だ。とても手が出せるものではなく、そもそも、金なんて持っているはずがない。とても手に入るものではない。どうしようもない。諦めるしかない。頭では分かっている。

 それでも、トーマの視線は、おにぎりから離れなかった。

 金はない。けれど、これさえあればツキカケが元気を取り戻すかもしれない。置いてあるだけだ。うまくいけば、逃げられる。どんなに願っても手に入らなかった食料が目の前に置いてあるのだ。とって、獲って、盗って、何が悪い!

 ごくりと唾を飲み込み、まずはツキカケを安全な場所に連れて行こうとした時だ。

 ギュッと。

 背中を掴むツキカケの手を強く感じた。その途端、トーマの胸の内を冷たい風が吹き抜け、ズシリと背負ったツキカケが重くなったように感じた。

 自分は今、何を思った?

 ツキカケに何かを言われたわけではない。もしかしたら、トーマの気のせいだったのかもしれない。それでも。

 「オレには、ツキカケが止めてくれたように思えたよ」

 ツキカケの前では、誇れる兄でいたかった。真っ直ぐに、前だけを見て、進んで行きたかった。強く、折れない自分で。

 吸いつけられる目線を無理やりに外し、トーマは一歩、また一歩とゆっくりと歩き出した。

 「その日は、早くに休むことにした。頭の中から食いモンのことを追い出したくて……。どうして、歩き続けなかったんだろうなぁ……」

 今でも、深い後悔しかない。

 次の日、とうとうトーマも一歩も動けなくなって、ツキカケ共々倒れこんだ。背中にツキカケの重さを感じながら見上げた空は相変わらずの曇天で。

 太陽さえ、自分たちを見守ることを放棄したのかと、そう、思った。

 だったら、やっぱりツキカケは自分が守らなければ。寂しくないように。温かさを分け与えられるように。一緒なら逝くことも怖くないと思えるように。

 自分のものなのに、思い通りに動かない身体を必死に動かして、何とかツキカケを抱き寄せた。頬に触れるツキカケの体温に安心する。いつだって、自分を支えてくれた温かさ。

 ごめんな、ごめんな。不甲斐ない兄で。お前のために、してやりたいことがたくさんあったのに。せめて、最後は——最期は、お前が寂しくないようにするから。言い争いも、ケンカもしたけど、お前のことが大好きだよ。だから、ずっと、一緒だ。

 どっかのクソったれな偉いヤツ。神でも仏でも悪魔でも何でもいい。一度くらいは、オレの言うこと聞きやがれ。たった一つ、たった一つでいい。また——。

 不意に、抱きしめたツキカケが身じろぐ。大切だった。トーマの唯一の宝物。


 また、生まれ変わることがあるなら。こいつと、兄弟がいい。


 薄れゆく意識の中、何とも形容できないほどの音色が耳に届き、曇天の空がさらに陰った気がした。

 「次に目を覚ました時、そこは地獄でも天国でもなく、やっぱり曇天の空の下だった」

 ただし、窓から見た空は雲が薄らぎ、うっすらと太陽の光が見えた。見上げれば、ちゃんと屋根があって、寝ている場所も地面ではなかった。隣には、同じように横になっているツキカケがいる。

 「偶然通りかかった奇特な奴らにオレたちは助けられた。その、はずだった」

 トーマが倒れた日をきっかけに、世界は変わった。

 少しずつ風がそよぎ、曇天の空には太陽が顔を見せ、海は穏やかさを取り戻した。病は収まり、作物が実り、飢えの心配はなくなった。もっとも、それは下層の町に限ってのことだ。上層の町に至っては、潤沢な貯えのおかげでほとんど被害はなかったらしい。道楽の一環で下層の町に法外な値段でおにぎりを売るくらいに。後日、本当に何事もなかったかのようにデメルを視察に来た上層の連中を見て、殺してやろうと思った。綺麗な服を着て、血色のいい肌をして、食べるのに困ったことなさそうなふくよかな身体。瞳に映るのは、同情とともに、隠せないほどの蔑み。止められなかったら、殴っていただろうとトーマは思う。

少しずつ、下層の町でもすべてが、嘘だったのではないかと疑うような日常が戻りつつあった。

 だが、死者は戻らず、失われた生命の欠片を、命数を取り戻すこともなかった。

 「ツキカケは、助からなかった」

 過去(いま)を生きることに必死だったツキカケには、未来(これから)を生きていく力は残されていなかった。トーマが元気になるにつれて、ツキカケはどんどん衰弱していった。

 毎日、いるかどうかも分からない神に祈り、ツキカケに呼びかけ、料理を運び、抱きしめた。けれど、何も変わらなくて。トーマは何もできない自分自身が歯がゆくて、情けなくて、腹が立って、自分を呪った。一日に何度か目を覚ましていたツキカケは、一日に一回の目覚めになり、数日に一回になり、ほとんど目覚めなくなった。

 身罷ったのは、それからすぐだ。まるで、トーマから完全に死の影が消え去ったのを見届けるように。

 今でも、その時の顔を覚えている。

 枕元で、枯れ枝のようなツキカケの手を必死で握りしめ、自分を支えてきた温かささえ少しずつ失っていく身体を何とかしようとしていた。

 それを見て、久しぶりに目を開いたツキカケは——。

 ツキカケは、トーマを見て、笑ったのだ。その瞳には、恐怖も不満も苦しさも非難も何もなくて。

 あぁ、最期なんだと、幼いトーマにも分かった。

 ツキカケ、なんでそんな穏やかな瞳ができる? オレのことを恨んでないのか。オレだけ、こんなに元気になった。お前に何もできない不甲斐ない兄に、さぞ失望してるだろう。お前のせいだと罵ってくれて構わない。怒ってくれていい。憎んでくれていい。なのに、なぜ、お前は笑う?

 自分と同じ赤銅色の瞳。けれど、その瞳の奥には自分にはない光が宿っている。

 すべてを許す、トーマを赦すかのような温かな光。

 それを最後に、ツキカケは息を引き取った。

 「今でも思っちまう。おにぎりを見つけた時に、形振り構わず一歩を踏み出していたら、ツキカケは死なずに済んだんじゃねぇか。休むことなく一歩を踏み出し続けていたら、もっと早く救いの手が差し伸べられたんじゃねぇか」

 答えの出ない、いくつもの“もしも”。どれだけ考えようと、どれだけ後悔しようと、ツキカケの死という過去は変えられないし、ツキカケと過ごす未来はやってこない。今を生きるトーマには、どうすることもできない。

 『それはちがうと、おもいます』

 不意に差し出された端末に並ぶ文字を追ったトーマは、再び端末を操作し始めたサクヤの様子を見守った。少し時間をかけて、サクヤは自分の想いを形にしていく。

 『おにぎりをとっていたら、かれのこころはすくえなかった、ずっとあるきつづけていたとしても、たすけにであえていたとは、かぎらない。ざんこくないいかたかもしれないけど。わたしは、トーマさんは、あなたのできることを、ちゃんとしてきたとおもいます』

 泣きはらして赤くなった目元で、真摯な翠の瞳を真っ直ぐにトーマに向けてサクヤは訴える。

 「そうか」

 慰めの言葉が、今になって、空洞だった心に沁みていくようだ。サクヤの瞳を見ていたら、本当にそうだったのではないかと都合よく解釈してしまいそうになる。そして、文章の中とはいえ、初めて自分の名前を呼んでくれたことに面映ゆくなった。

 「トーマでいい。敬語もいらねぇ」

 短く答えると、分かったというように首肯が返る。

 ふと、そんなサクヤの姿とツキカケの姿が重なる。トーマは知らず、目元を優しく和め、合点がいく。最初は、あの時の自分に似ていると思っていたけれど。

 「サクヤは、ツキカケに似てるよ。理不尽なことがあっても、すべてを受け入れて赦そうと相手を真っ直ぐ見るとこなんか、そっくりだ」

 初対面で顔を殴ったにも関わらず、次に相対した時には、その時の怒りなど微塵も見せずに自分を真っ直ぐに見つめてきたサクヤ。それは、ツキカケの最期の瞳にも似て——。

 だから、手を貸したくなるのだろうか。だから、慈しみたくなるのだろうか。

 ほんのりと頬に赤みを増したサクヤがおもむろに立ち上がる。どうしたのかと視線で追ったトーマは、ふわりと背後から優しく抱きしめられた。

 「!」

 いくらサクヤに対して警戒を解いていたとはいえ、簡単に背後をとられたことや、予想外の展開が起こったことに、一瞬で頭がフリーズした。

 自分と同じシャンプーの匂いに混じり、鼻腔をくすぐる彼女自身の甘い香り。布越しに感じる、ツキカケに似た体温の温かさ。細身の体に似合わない、しっかりとした胸のふくらみ。

 らしくもなく騒ぎ始めた心臓の音がうるさい。今まで、女を抱いた時にだって、こんな感情を覚えたことはないのに。

 トーマの気持ちなど微塵にも感じていない様子のサクヤは、そのままの体勢でそっと手の平に想いをのせていく。

 『じぶんをせめないで。トーマは、すてきなひと』

 そうして、今ひとたびギュッと、トーマを強く抱きしめる。男女のそれではなく、母親が子どもにするような抱擁だったが、そんなことは関係なかった。

 (キス……してぇ)

 少し顔を動かせば、簡単に唇を触れ合わせることができる距離で、理性を総動員して何とか耐える。そうしないと、せっかく築いた何かが崩れていってしまいそうで。そして、その時間はそう長くは続かなかった。

 『わたしもきいてもらいたい。ここにきたりゆう。わたしのしたいこと』

 サクヤがするりと腕をほどき、自分の席に座って端末を操作し始める。去っていく温かさに名残惜しさを感じながら、トーマは一つ息を吐く。

 生まれ変わっても兄弟でいたい。その気持ちは、今も変わらないけれど。

 (もう少しだけ、待っててくれるか、ツキカケ)

 応えが返らないことにどこか安心をして、トーマは口元に笑みを刻んだ。

 『わたしは、さがしてる。てれびの。さつりくそうち』

 「殺戮装置……」

 差し出された端末に並んだ不穏な単語にトーマのまとう雰囲気がスッと真剣さを帯びた。

 それを感じ取ってか、サクヤも真面目な表情で、一心不乱に文字を打ち込んでいく。

 いわく、サクヤがプルトーではできない買い物をした後に、テレビの報道で殺戮装置の存在を知った。情報を取り入れるのに、この場所にいたほうが都合いいと判断したサクヤはここに留まっている、らしい。

 (嘘では、ねぇんだろうな)

 かと言って、真実の全てを話しているとは到底思えない。まだ、今のトーマでは、そこまで教えてもらえないということなのか。

 「なぜ、殺戮装置を求める?」

 トーマの踏み込んだ言葉に、サクヤは沈黙して答えない。キュッと引き結んだ唇は想いを語ることはなく、華奢な指先が想いを伝えることはない。

 理由を聞くまでの心の距離が近づいていなかったことにトーマは少なからず落胆を覚える。

 「国を牛耳りたいのか」

 この国で迷信のように語られている絵空事。殺戮兵器を手に入れれば、国を牛耳れるのだという荒唐無稽な都市伝説。テレビで殺戮兵器の話題が取り上げられた際に語られ、トーマは鼻で一蹴したのを覚えている。

 しかし、サクヤは違うようだ。

 『すこしちがう。けど、いいたいことがある。やりたいことも。そのためには、さつりくそうちが、ひつよう』

 (マジか……) 

 顔には出さないように、トーマは心の中でそっと呟く。理由を述べてはくれないが、サクヤの表情から本気で殺戮装置を求め、絵空事を信じているように思える。いや。

 (すがっている、か)

 どこか追い詰められたようなサクヤの様子を認め、トーマはそっと息を吐く。そして、考えを思いめぐらせるように遠くを見つめた後、自分の考えをポツリと呟く。

 「オレは、殺戮装置なんて必要ねぇと思うけどな」

 声に出すと、考えもまとまってくるような気がする。トーマは、どこか泣き出しそうなサクヤの瞳を見つめて、言葉を紡ぐ。

 「確かに、今の世の中に不満はある。上層の人間だけが特別対応されて、いいものを全部享受してるしな。サクヤは、プルトーに住んでるから、余計かもしれねぇ。けどよ、だからってそんな不確定なもんに頼るのはちげぇだろ。殺戮装置ってのが何なのか分かんねぇけどよ、そんなもんは、きっといらねぇよ」

 『いらない?』

 「あぁ、殺戮装置なんて、いらねぇ。きっと、世界に必要とされてねぇよ。そんなもんがなくても、世の中を変える方法はきっとある。オレは、そう信じてる。具体的なことは、何にも言えないから、かっこわりぃけどな」

 そう、世の中を変えるとか、世界に対して何かを成すとか大きなことは簡単にはできないけれど、信じなければすべて終わりだ。自分が思う、願う姿になるように努力して、トーマは自分の力で何とかしていきたいと思う。

 口にすればその通りだという気がしてきた。

 どこかすっきりとしたトーマとは対照的にサクヤの顔色は冴えない。痛みを堪えるかのように、唇を引き結び、それでも次の瞬間には笑顔を作り上げた。それは、困ったような泣き出しそうな、いつもの人見知りの笑顔の一つ。

 『トーマは、つよい。とっても。でも、わたしには、ひつよう。さつりくそうちは、ひつよう』

 それきり、会話は途切れてしまい、食事を終えたサクヤはそのまま礼を手の平に述べて、部屋へと戻っていった。

 彼女を送り届けたトーマは、テーブルに置かれたままの端末の文字をたどる。

 どこか自分に言い聞かせてあるような文面とサクヤの思いつめた表情はトーマの心に、チクリと棘のように刺さったのだった。



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