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青の裏側、白の表側

作者: elma

 僕は小さな頃、よく恐ろしい夢を見た。

父親に殴られたり、二日間水しか与えられなかったり。

目覚めた後、廊下で泣いていると、決まって母が抱きしめてくれた。

その暖かさに、「これが本当の世界だ、さっきのはただの夢だ。」と安心し、また眠る。

 僕にとって夢とは、いくら走っても逃げ切れない恐怖だった。


 あの日の夢はあんまりよく覚えていない。

朝、埃っぽくて湿っぽい、日当たりの悪いアパートで目覚めるところから始まった夢。

僕はタバコは吸わないはずだが、夢の中、油汚れのついた換気扇の下でタバコを1/3箱空け、冷蔵庫の中にビールしか入っていないことを知ると、蒸し暑い夜の中コンビニへと向かった。

 半分以上が水蒸気に違いない空気をかき分けながら、原付に跨る。

アクセルを回す度に服が湿っていく。

 その後コンビニについたのか、ついていないのかすら分からない。

 


 目が覚めると、僕は病室にいた。

医者の話を聞くとどうやら脳のビョーキで運び込まれたらしい。

ただ特に命に影響はなく、僕の体には点滴すら繋がっていなかった。

それにしてもこの病院はとても居心地が良かった。

日当たりはいいし、毎日いつの間にか綺麗な花が生けられている。

家族や友人が毎日見舞いに来るし、彼女も来た。

僕の彼女だと言う綺麗な女性、色がシーツのように白くて、綺麗な茶髪、もちろん美容院で染めたのだろうが、その色がとても似合っていた。

 目覚める前の記憶はあまりないが、おそらく彼女が僕のタイプドンピシャなのだろうと思う。

今までどんな態度で接していたかが分からず、彼女や友人に対して僕は何も話さなかった。

 倒れる前の記憶、名前や誕生日は覚えているけれどそれに付随するであろう思い出がない。

誕生日には多くの家庭ではケーキを食べる、と言うのは知っているが自分の経験は覚えていない。

かわりに思い出すのは、病室で眠っている間に見た夢ばかりだ。



 酷い生活だった。

ただ、会いに来る人の話では、現実の僕とその夢とは正反対で、それだけが、記憶をなくした僕への唯一の慰めだった。

 この病室では、なぜかいつも鳥の鳴き声が聞こえた。

聞いたことのない、単調なリズムで一日中鳴く鳥。

不思議な鳥がいるものだ。どうやら遠くの病院らしいが、土地が違えば鳥まで違うのか。

 そう思えば、この病室は不思議な所だ。

僕が魚を食べたいと思えばその日の晩は焼き魚だったし、テレビをつけるといつも見たい映画がやっていた。

夢に潜りアイデアを盗む話、インセプションと言う映画。

ずっと夢を見ていたからわかるが、夢というものは自分の思い通りにできる訳ではない。

虐められる夢、虐待を受ける夢、いろいろ見たが、自分の願いはいつも届かず、水面に出る前に溶けて消えた。

 だが現実は変えられる。自分の意思と努力で、なんだってできる素晴らしい世界だ。

 一通りの検査でどこにも異常がないことが分かり、僕はついに三日後に退院することとなった。

見舞いにきた彼女にそれを伝えると、白い頬を赤く染めて泣いてくれた。

華奢な体が細かく震える。

溢した涙が薄い皮膚を穿ちそうな気がして、僕は彼女に対して、隣に寝転ぶよう言った。

 彼女の頭の下に手を回し、そっと抱き寄せる。

例の鳥が僕らを冷やかすように鳴くテンポを早める。

彼女は低体温らしく、温かみは感じなかった。

けれど僕の無事を喜び、こうやって泣いてくれる人がいることに、心底安心感を覚えた。



 その日の晩、僕はトイレに行こうと廊下に出ると、足がもつれ倒れ込んだ。

体に衝撃が走り、反射的に「痛っ」と叫ぶ。

しかし、服用している痛み止めのおかげなのか、何も感じなかった。

用をたしベッドに戻ってズボンをまくると、赤くなってすらいない。

 病室の電気が消され、眠ろうとしていたその時、いつもの鳥がけたたましく鳴き出した。

その直後、僕の意識は朦朧とし始める。

身体中の感覚が僕から離れて行き、ドップラー効果のように視界、聴覚が歪み始めた。

鳥の鳴き声も小さく、ゆっくりに。

 そうしてまた夢を見た。

僕の周りを人が取り囲んでいる。

見舞いではなさそうだ。

医者に看護師。

雪の中へ飛び込んだ時のように、世界は白に包まれていた。



 その時から、僕はよく眠るようになった。

朝起きて、朝食を食べたらすぐ眠気が襲い、横になる。

昼の日差しに誘われ、横になる。

月明かりに目を背け、横になる。

そうやって寝ている間、見るのは毎回同じ夢だった。

身体中が動かない。

喉には管が刺さっていて、手首にも二、三本繋がっている。

僕はたった一人で、病室にいた。

目が覚めると決まって隣にいるのは、心配そうな眼差しで僕の顔を覗き込む彼女。

僕は暖かい現実に安堵しながら冷たい手を握った。



 退院の日、父親が車を運転し、病院まで迎えに来てくれた。後部座席には彼女も座っている。

ずっと病室にいたから気がつかなかったけれど、とても過ごしやすそうな夏だ。

鼓膜に張り付くようなセミの泣き声も、いつもよりは控えめで、日向に出てもコンクリートに押しつけられるような暑さは感じない。

 バッグ一つにまとめた荷物をトランクに入れ、彼女の隣に座る。

運転席に座る父親が僕にソーダを渡そうとこちらに手を伸ばしたその時、僕はなぜかその手を払い退けた。


 父親は何も言わずにゆっくりアクセルを踏む。

何故だか分からない、不意を突かれた、では説明できない恐怖をその手に感じた。

「ごめん。」自分でも訳がわからず声が上ずる。

「久しぶりに外へ出たから、神経質になってるのかも。」その時、僕は裏返ったと思っていた声がそうではないことに気がついた。

「なぁ、俺こんな声だった?」と聞こうとして、彼女の方を向く。

リボンに巻かれた人形のようにシートベルトに包まれた彼女。

僕はその女性の名前を思い出せていないことに気づき、言葉を詰まらせた。

「私の名前、なんでもいいよ。あなたの好きなように。それが私。」

彼女は続ける。

「あなたが望めば私は髪を切って、歌を歌い、手を取りリズムに乗る。」

「あなたは肉が嫌い、だから魚が出る。あなたは愛が欲しい、だから私がいる。」

夏の積乱雲がガラス窓に浮かび、木々が忙しなく避ける。

「だからいいのよ。あなたの望む名で私を呼んで。」

僕の思考が車を追い越し急加速する。

彼女の名前は。

僕はそれを知らなかった。

「ごめん、君の名前を俺は知らない。覚えていないんじゃない。知らないんだ。」

「別にいいよ、私の名前を知らなくても。だって私もあなたの名前を知らないもの。」

鳥の鳴き声が早まる。

僕の心臓は早鐘を打ち、全身が痛み出す。

空は灰色に曇り、道路は雨で覆われた。

次の瞬間、目の前にヘッドランプが現れた。

いや、ランプが現れたと言うよりかは、俺がランプの前に飛び出したと言った方が良い。



 僕はまた意識を失い夢を見る。

同じ夢。

暗い病室、管だらけの俺。

ドアが軋み、太った看護婦が入ってくる。

「あなた、名前はそれであってる?」

彼女がベッドの天板に差し込まれたカードを指差す。

「財布には免許証しか入っていないし、連絡先も書かれていなかったから。とりあえず、ご家族に連絡をとって頂戴。」

隣の机には俺の携帯だけが置かれている。

手に取り、連絡帳を開く。

ボタンを押し彼女の名前を探そうとするも、そこには記されていない。

彼女だけではない、何もないのだ。

冷や汗が流れ呼吸が早まる。

むせて咳をすると身体中が痛むのを感じた。

何度目を瞑っても夢は覚めない。

彼女も、友人も、両親も誰も来ない。



 三ヶ月間いくら眠っても俺は起きることができなかった。

半ば追い出されるように荷物を持ち、夢で見た住所へ行こうとドアを開ける。

覚めない夢を、夏の大気が終わらせた。

 夏の空は暑く苦しい。

涼しい風の吹き抜ける縁側や幼馴染みとの夏祭り、空を染める花火。

夏と聞いて頭に思い浮かべるもの、雪が降って振り返る思い出。

そのどれもがただの理想であり、現実の夏は地獄と大差ない。

ただ空が青く、血の池に群青が垂らされているだけだ。


 僕は夢で見ていたあのアパートに帰ってから、時折目が覚めるようになった。

二日に一回程度はあの彼女のもとで過ごしていた。

彼女は折り紙が好きで、青い蝶を、その白く綺麗な指で折りながら言った。

「夢の世界で生きるのは苦しい?朝目を覚まして、大学へ行き、夜になると眠って、夢をみる。」

彼女は蝶を作り終えると、それを元に戻して言葉を続ける。

「折り紙の表をあなたは知ってる?青い方が表で、白い方が裏?いいえ、そのどちらでも構わない。」

「船の浮かぶ海を折りたい時は青が表。その海に立つ白波を折りたい時は白が表。」

僕が彼女の真意を汲み取れず首を傾げると、彼女は微笑んで言った。

「どちらでもいいの。朝眠って夢を過ごし、夜起きて現実を見る。」

「あなたは今眠っているの?それとも起きているの?あなたは朝、目を覚ますの?それとも眠りにつくの?どっちだっていいじゃない。」



青でも、白でも。


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