88.謎のメイド
その人物は、黒く禍々しい手甲を着けた右手で、山の主の角を掴み、涼しい顔で押し留めている。
山の主も四肢を動かして地面に突き立てているのだが、その脚は地を滑るばかりで相手は微動だにしない。物理法則が狂ってしまったかのような光景である。
「あ、あなたは……?」
呆然としていたシュカがかろうじて声を出す。
「私ですか? 私はリサエラ。――通りすがりのメイドです」
そう答えると、リサエラと名乗った濃紺のメイド服の女性は角を握る手甲にさらに力を込める。
それは、この手甲が持つ特殊能力の起動手順。
みしり、と山の主の角から軋んだ音が聞こえて、全体にひびが走る。そのひび割れを伝うように、黒い炎が噴き上がっていく!
その黒炎は顔、身体へと侵食していき、あっという間に全身が内部から噴き出る炎で埋め尽くされる。
数秒後には、山の主の身体は完全に焼き尽くされ、魔物核すらも残さず全て消滅したのだった。
「そんな、すごい……あの、ありがとうございました……!」
「ありがとう、ございました!」
シュカと、立ち直ったエメライトが頭を下げる。
「礼には及びませんよ。でも、偶然ではありますが、貴女がたを助けられてよかったです。私はこの先のエリド・ソルの王都へ用があるのですが……貴女たちは?」
「あ、私たちもこれから王都へ帰る予定です!」
「それでは、ご一緒させてもらってもいいですか? この国へは初めて来たものですから、いろいろとお話を伺えればと思うのですが」
その申し出はシュカたちにとっては願ってもないものだった。
「はい、是非お願いします! でも……この国は初めてだったんですね、もっとわかりやすい街道も周辺にあったと思うんですが……」
シュカがなんとなく思ったことを口に出す。よその国から来たのであれば、こんな山奥に入る必要はあったのだろうか。
リサエラは一瞬だけ視線を上にそらすと、一つ頷いた。
「ええ、実は……非常に方向音痴でして。いつのまにか道から外れて、山の中に入っていたみたいです」
それは正直なところ清々しいまでの嘘にしか聞こえなかったが、命の恩人を相手にこれ以上下手に詮索する必要もあるまいと決めたシュカはとりあえず「なるほど」と頷き返しておくことにした。
そのあとは特に何も問題は起きず、森林地帯を抜けるところまで戻ってきていた。山の主が出没した影響か、他の魔物も出てこず息を潜めているようであった。ここまできてしまえば、王都までは街道沿いに二時間といったところだ。
「なるほど、貴女がたは依頼で来ていたんですね」
「はい。スパルナの羽根は手に入ったんですけど、その直後にアレに襲われて……私たち、まだ駆け出しで何もできず……」
「若い才能は大切にしなければいけませんからね。ピラミッドは底が充実しなければ全体も育たず、業界も成長しない、と友人もよく言っていました」
「ピラミッド……?」
「いえ、こちらの話です。ところでエメライトさん、その腰に装備した武器は……?」
「あ、はい、魔法銃のことですか?」
「ええ、珍しい形状の武器だなと思いまして」
「はい、王都で最近開発されたものみたい、です。私はシエラさんっていう人に勧めてもらって……」
その名前を聞いたリサエラは、にっこりと微笑んだ。
「なるほど、興味深いですね。シエラさん、という方はお知り合いですか?」
「はい、王都に鍛治と錬金術のお店を出しているすごい人で……私やシュカよりも若く見える女の子なのに、みんなが驚くような武器を作るんです。私たちも、すっごくお世話になってて……」
山からの道中で、エメライトが物静かで人見知りする性格であることはリサエラにも伝わっていた。その彼女が目を輝かせて語るその人物像から、本当に尊敬しているのだという気持ちが伝わってくる。
そのことに、抑えようと思っていてもより一層笑みが深くなってしまい、リサエラは口元を片手で軽く隠したのだった。
「それでは、私はこの辺りで」
王都に入って少ししたところで、リサエラが一礼する。
「わかりました、今日は本当にありがとうございました!」
「ありがとうございました……!」
二人が頭を下げて返すと、リサエラはくるりと身を翻すと、優雅に裏通りへ歩いて行った。気のせいか、その足取りは非常に嬉しそうに見えた。
「じゃあ、夜になっちゃったけど私たちも納品しに行こっか」
「うん、そうだね。……リサエラさん、すごい人だったね……」
「あれは間違いなく冒険者の中でも最高クラス、だろうね……あんな化け物を片手で止めちゃうんだもん」
二人は山で見た光景を思い出していた。あの強さは明らかに常軌を逸しているもので、もしかすると《白の太刀》や《黒鉄》の面々よりもずっと強いのかもしれない。それほどまでに出鱈目な強さだった。
エメライトはあの常識に収まらない出鱈目さを、常識にとらわれない鍛治師の少女にいつのまにかぼんやりと重ねていたのだった。
スパルナの羽根を依頼した貴族に納品しに行くと、その貴族の青年は非常に喜んでくれた。
量、品質ともに十二分だったため、追加の報酬――元の報酬金額の倍近い額だ――をその場で現金で支払ってくれたのだった。
また、胴体などの肉も気前良く買い取ってくれた。聞くと、スパルナの肉は非常にクセが強く常食はされないながらも、一部の好事家に人気があるらしく、またこの青年もその好事家の一人であるということだった。
大変な目には遭ったが、依頼自体は無事に達成されたのであった。
「満足してくれてよかったね、エメラ。あとはギルドに報告するだけかあ」
「うん、よかった。よかったけど……今日はすごく、疲れた……」
「まあ、どっと疲れたね……寿命が縮んだよ……。帰りに銭湯寄ろっか」
いつもは宿の公衆浴場でさっと汗を流す程度なのだが、今日はゆっくりと湯船に入って疲労を落としたい。
そして早く寝たい。二人はその一心で冒険者ギルドへ向かったのだった。
 




