我儘
フランさんが亡くなられて埋葬を終えた翌日、私はアーグとオリヴィアを連れて屋敷の主人の元へ訪れていた。
「お久しぶりでございます、お母様。」
「……急に来るなんて非常識ね。」
私と同じ銀髪を右側に流す簡易な髪型に緩いドレスとショールを羽織る姿は数年前、私がこの屋敷に居た頃と変わらない。
サファイアの瞳が嫌そうに細められるのも変わっていなかった。
けれど変わったのは、その事に胸を痛める私はもう居ないということ。
「先日、フランさんが亡くなられた事をご報告に参りましたの。」
「フラン?……あぁ、料理人の。そう、ご苦労様。早く学園にお帰りなさい。」
そう言って手元の本に視線を移す姿に背後で控えるオリヴィアが息を呑む気配がした。
前にこの屋敷に来た時は彼女をこの人に会わせることはなかったから、驚いたのでしょう。
ミスラ・アクタルノという人はこういう人間だ。
自分の関心のない物事には一切目を向けない、自分だけの世界を生きる人。
その世界には世話をしてくれる者達も、婚姻を結ぶ夫という存在も、自分が腹を痛めて産んだ娘も存在しない。
わかってる。わかっていた。
ちゃんと、理解していたつもりだったのに、どうしてあの時私はこの人に頼んだのかしら。
―――どぷん。
「私はフランさんの容態が良くなかった場合、即座に連絡をくださいとお願いしていたはずですのに、何故くださらなかったのですか。」
「…ルーナリアちゃん、わたくしは忙しいのよ。公爵夫人の職務を知っているかしら?」
鬱陶しそうに本から視線を離して私を見上げたその人に、ふんわりと微笑みを向ける。
「ただ本を読んでいるだけの貴女が忙しいだなんてまぁ…世の中には不思議な事があるのですねぇ」
「なっ、」
「そう、公爵夫人の職務ですわねぇ。えぇ、存じておりますわぁ。まず一つ、他家との交流をするためのお茶会への出席、主催を定期的に行う事。けれど私はお母様が屋敷から出た事も屋敷へ誰かをお招きした事も一度たりともなかったと認識しておりますの。そして二つ、領地で問題が起こっていないか領内の数ある施設に視察をしに行く事ですけれどこの役目も熟されておりませんわよねぇ、お母様は屋敷から出ませんし、お母様の子飼いが施設に来たと言う報せも一度も受けておりませんわぁ。それから三つ、アクタルノ当主不在の屋敷を切り盛りする事ですが、お母様は使用人の人数を把握していらして?私が今日来た時に屋敷には五人しかおりませんでしたけれど、当主から新しい人材を派遣されているはずですがこの人数の少なさはどういった事でしょう。勿論、この屋敷を切り盛りしているはずのお母様は知っていますでしょう?お教え頂けますか?お忙しいところ申し訳ないとは思いますけれど私にはただベッドで寛ぎながら本をお読みになっているとしか思えませんの。」
頬に手を当て困ったような表情をして小首を傾げて顔を青褪めさせる目の前の女性を見つめる。
「ねぇ、教えて頂けます?」
「なん、なんで…!」
「まぁ、なんで、とは何かしら。私がお母様の行動を把握していること?それとも、お母様が私に度々毒を盛ろうとしたことでしょうか。」
「ヒッ!」
バサ、と音を立てて本が床に落ちる。
それをゆっくりとした動作で拾い上げ、そのままゆっくりと青褪め震えるお母様のベッドに腰を下ろす。
「良いのですよ、お気になさらないで。私は今もこうして無事に過ごせておりますもの、お母様の毒を受けても。」
「ヒッ、ち、違うのよ、ルーナリアちゃん、」
「まぁ、私、間違った事を言っていたかしら。」
困ったように眉を寄せて、震える細い手にそれより小さく細い自身の手をそっと伸ばして掴み取る。
ビクッと大袈裟なほど跳ねた相手に優しく微笑む。
「何を怯えていらっしゃるの?お母様の娘ですよ?怯える事ないではありませんか。」
「ちがっ、…っ、」
「違う?何が違いますの?大丈夫ですわぁ、私、お母様が話せるまで手を握って待ちますから。」
「ッ…、あなっ、貴女、気味が悪いのよ!」
―――どぷん
「気味が悪い…?」
「そうよ、何なのよ!わたくしはただ本が読みたいだけなのに…!旦那様が好きにして良いって言ったから何となく産んだだけで、わたくしは貴女なんて必要なかったのよ!なのになんなの!?貴女はわたくしを求めてくるし、旦那様は公爵夫人としての職務をしろって言うし、そんなの聞いてない!」
―――とぷん
「何を仰っているの?公爵家に嫁いだのでしょう?子を産んで終わりではなく、その後子を育て、領地のために、領民のために他領と物資の公益を繋いでいくのが公爵夫人の役目だと――」
「そんなの知らないわ!わたくしは好きなようにすれば良いって言われたから…!!」
目の前の美しい女性は、一体何なのかしら。
大人の皮を被った幼子?
微笑ってしまう、本当に。
「本当は貴女みたいな子、欲しくなかった!」
―――とぷん
ずっと頭で響くナニかを沈める音。
繰り返し繰り返し、どぽん、とぷんと墜ちる音が鳴るたびに息苦しくなる。
「お母様が…、貴女が私を嫌っていたのは知っていました。」
「そうよ!わたくしはずっと貴女が邪魔で邪魔で、嫌いだったのよ!」
「私が邪魔で幾度となく殺そうとされたことも、」
「わたくしの唯一の静かに本を読める場所に居座る貴女が悪いのよ!」
「ずっと、知って黙っていましたの。貴女が私を産んだ人だから。」
「そう、そんな気遣いをするなら死んでくれれば良かったのに!」
「でも、もういいですわぁ。」
「え…?」
邪険にされても、殺されそうになっても、どうしても嫌いになれなかった。憎めなかった。
この人は私を十ヶ月もお腹に宿して、痛い思いをしてこの世に産んでくださった人だから。
きっと、無条件で溢れんばかりの愛情をくれる世界で二人だけの『親』という存在だから。
だけど、この人はずっと、ずっと私に憎しみしか向けなかった。
いくら私が思っても、頑張っても、見ることさえ嫌悪して私の存在を憎む。
だったら、もう、捨ててしまった方が楽。
「もし貴女が神殿の方に話していたらフランさんはもしかしたら今も私を出迎えてくれてたかもしれないわ…」
「え、」
「もし貴女が私に会いたくない一心で情報を寄越さないなんて自分本意な事をしなければ、私達はフランさんの最期に間に合っていたかもしれない…」
「ね、ねぇ、ちょっと…!」
「もし貴女が…、そう考えるとどうしようもないほど腹が立つの…」
パキパキと小さな音を立てて掴んだ手が凍っていく
それに悲鳴を上げた彼女の頬に手を伸ばして触れると、奇声を上げながら振り払われる。
「イヤァアアアッ!!!イヤッ!やめて!!やめなさいッ!!貴方達ッ見ていないでわたくしを助けなさいよ!!!」
「……」
「母親とは思えない……なんて人なの」
アーグの冷徹な眼差しとオリヴィアの軽蔑の声に私を産んだ人は綺麗な顔を歪ませ、私を見上げて涙を溢す
「ごめんなさっ、ごめんなさい…っ!わたくしが悪かったわ!謝るから…!今度から貴女を邪険にしたりしないから…!だからっ、殺さないでぇッ!!」
「…本当に?邪険にしたりしない?」
「っ、しない!しないわ!!だからお願い…!」
涙に濡れた美しいサファイアの瞳には、恐怖と嫌悪しかない。
殺されそうになっているんだもの、そう言うしかないのはわかりますわぁ。
でも、私は殺されそうになってもお母様だから許して来たのです。
今まで、ずっと。
「ねえ、お母様」
「な、なぁに?ルーナリアちゃん…っ、」
「私のこと、好きですか?」
「ええ、ええ!もちろん!好きよ!」
「可愛いって、思ってくださる?」
「当たり前じゃない!わたくしの子よ…っ?」
「じゃあ、抱きしめて?」
「っ、わかったわ…」
恐る恐る、霜のついた腕が私を抱きしめる。
あぁ…、私が欲しかった、『母親』のぬくもり
やっと、感じられた――――
「ッ、化け物…!!!」
背中に回された手から水魔法の攻撃が放たれ、それは私の背中に直撃する。
オリヴィアの私を呼ぶ悲痛な声を耳にしながらも、いつものように柔らかく微笑んだ。
「水魔法と氷属性は相性が良いのです。」
「なッ…!!!??」
背中に当たるはずだった水魔法は私に触れるすれすれで凍っている。
「氷の素は水、水は氷となる。私に操れない水などありませんの。」
「ヒッ、ちがうの、これはっそうじゃなくて…!」
恐怖で身体がガタガタと震えている彼女の涙に濡れた頬に手を当てふんわりと微笑みかけた。
「さようなら、お母様」
涙を凍らせてゆっくりと身体全体を氷に包んでいく
その光景は美しくも悍ましく
とめどなく流れるモノで滲む視界がその光景を歪ませてくれて、私はただじっと眺められた。
その人が来たのは美しい女性が全身を氷で包まれた頃だった。
「何をしている…!!」
珍しく声を荒らげ、乱れた服装を整いもせず扉を開けた人物は部屋の様子に息を呑む。
「まぁ、お父様、お久しぶりでございます。領地の屋敷にお父様が戻られたのは数年振りではなくて?フランさんもお会いしたかったでしょうねぇ…赤ん坊の頃から知っているから、いつまで経っても坊やだと思ってしまう、って仰っていたから…きっとお父様の事も息子のように思われていらしたのねぇ」
「ルーナリア、お前…」
「まぁまぁ。今日は珍しい日ですわぁ。お父様まで私の名前を呼んでくださるなんて。」
微笑み目の前で表情を硬くするお父様に手を伸ばす
「家族三人、川の字で寝ますか?ふふ、初めてが氷漬けだなんて、おかしな家族。」
くすくす微笑う私にお父様は何も言わず、私が伸ばした手に目もくれず凍った彼女に手を伸ばした。
「あら…仮面夫婦だと思っていたけれど、お父様はこの方を想っていらしたのねぇ…。恋愛の情など要らないと言ったのはお父様なのに、変な人。」
「恋愛の情など持ち合わせておらん。水属性を持つ同年代で一番魔力量が多かったから選んだだけの相手だ。」
そう言いながらもお父様は凍った彼女を抱きしめている。
その光景を冷めた目で眺めながら、ふと口にする。
「ねぇ、お父様。」
「………。」
「私も、抱きしめて?」
あの人にもお願いした、初めての子供らしい我儘。
けれど返ってきたのは嫌悪と僅かな恐怖を宿した眼差しだけで、大きなお父様の身体がその腕に抱いたのは、凍る彼女だけだった。




