消えた記憶
「こんな時間にごめんなさい…。」
「お気になさらないで?私、レイナさんとお話がしたいと思っていたの。」
オリヴィアが作ってくれたホットミルクを手に取って微笑むと、レイナさんは居心地が悪そうに俯く。
目付きの悪い有名な上級生の護衛が後ろに控えていたらそうなってしまうのも仕方がないけれど。
「それで…転生者、だったかしら。」
「ッはい!」
私が口にした単語に勢いよく顔を上げて頷くレイナさんの目はどこか縋るようで、必死だった。
けれどその期待に添える応えを私は持っていない。
「初めて耳にしたわぁ。古い文献でも目にしたことがない言葉ですし…。レイナさんはどちらでその言葉を?」
「そ、んな…、だって、だって貴女は小説とは全然違う人だから、だから貴女も一緒なんだって…!」
取り乱したように声を荒げるレイナさんにアーグが動こうとしたのを制し、落ち着かせるようにゆっくりと言葉を続けた。
「貴女は転生者、なのかしら?」
「……そうです、あたしはこの世界が小説だって知ってるんです。」
「頭沸いてんのかァ?」
物凄く怠そうに言うアーグにレイナさんが体を強張らせて、またボロボロと涙が溢れ出す。
「あたし、だって…ッ、信じてもらえるなんて、思ってない…ッでもほんとだもん…ッ!!」
「あらあら、泣かないで?アーグ、オリヴィアと交代なさい。」
レイナさんにハンカチを渡しながら言うと軽い舌打ちを打ってオリヴィアと交代しに席を外した。
と言ってもあの子は聴覚がとてつもなく良いから会話は聞こえているでしょうけれど。
「ごめんなさいねぇ、女性に対する態度がなってなくって。」
「だ、いじょうぶ、です…、突拍子のないこと言ってるって、わかってますから…。」
息を整えて話をしようとしてくれるレイナさんにホットミルクを薦めながら私はふと思い出した。
何故忘れていたのかしら。
ずっと頭の片隅にあったはずなのに。
「レイナさんは“悪役令嬢”ってご存知?」
そう言った途端、レイナさんは薄緑の瞳を丸くして立ち上がる。
「悪役令嬢は貴女のことですよ!!小説の中で貴女はヒロインの聖女様を殺そうとする悪役令嬢なんですッ!!!」
まぁ…、まあまあまあ。
「私、死刑かしらぁ。」
「ありえません。」
アーグと交代で来てくれたオリヴィアがにこにこと目を笑わせずに言う。
だってもしそれが現実の事なら私は聖女様に仇なす敵ねぇ。私ならそんな事をする人は即刻捕まえて根掘り葉掘り問い詰めるけれど…。
「私が聖女様、フィオナさんに危害を…。何故かしら?メリットがないわぁ。むしろデメリットしかないでしょう?」
「……小説のアクタルノ様は、ヒロインの聖女様と結ばれる第二王子殿下が大好きで、その……嫉妬をしたんです。」
「あらぁ…。私が?」
オスカー殿下を?と口にはせず、ちょっと呆れた溜め息を吐きたくなる。
「小説の私は周りを見渡せなかったのねぇ」
「信じて、くださるんですか…?」
「私の言った“悪役令嬢”という言葉に反応なさったのはレイナさんだけでしたから。 」
目を瞠って言うレイナさんに微笑みながら肯定せずに曖昧な返しをする。
事実、オリヴィアは何も言わなかった。
つまりはそういうことでしょう。
けれど、私もレイナさんと同じ転生者という者ならば何かしら記憶を持っているはずなのに私は“転生者”と言う言葉に聞き覚えも何もなかった。
「ただ私にはその記憶しかありませんわぁ。小説のお話、というのも私には理解出来ません。だって私達の心臓は動いていますもの。」
「はい…あたしも、それは痛いほどわかってるつもりです。あたしはこの世界に生きてる人間なんだ、って……」
顔を泣きそうに歪めるレイナさんに何があったのか聞きはしないけれど、物理的なものではないのだろうと思う。
クロからの知らせで向かった先、涙を流して泣きじゃくる姿は見ていて胸が痛むほど彼女本心のものだったから。
「…………アクタルノ様」
「何でしょう?」
覚悟を決めたかのように私を呼んだレイナさんの薄緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ緩く首を傾げる。
「あたしの、…あたしの友達が、アクタルノ様をよく思っていません。」
「ええ、存じ上げているわぁ」
そう応えた私に身体を強張らせ、表情を暗く重たいものにしたレイナさんはきっとモニカ・アザハルン令嬢を今でも友人だと思っているのねぇ。
その友人は貴女に成り済まして良くないことを企てているというのに。
「貴女はどう思っていらっしゃるの?」
「え…?」
「レイナさんはどう思いに?」
ホットミルクの入ったコップを持ち上げながら問う。
本人を目の前にして少しも言えないくらいの悪感情を抱いているとは思っていないけれど、最終確認。
少しの間の後、レイナさんは気不味そうに目を泳がせながらも口を開いた。
「正直最初は、此処は小説の世界なのになんで人形姫のはずの悪役令嬢が微笑ってるのって思ってました…。だけど学園で過ごす内にアクタルノ様の行動とか、周りからの評価とかで目が覚めたんです。あぁ、此処は小説の世界だけど、生きてるんだって。だから、あの…なんて言うか、アクタルノ様はアクタルノ様で、小説とか関係なく、あたしはアクタルノ様を尊敬してます!!」
私よりも小さな手を握り締めて言う薄緑の瞳を持つ彼女に自然と微笑みが浮かぶ。
嘘じゃないことくらい、瞳を見ればわかるもの。
「ありがとう、レイナさん」
その後、モニカ・アザハルン令嬢の事を心配しているレイナさんに時間が経てば考えも変わるかも、とその場しのぎの言葉で落ち着かせた。
大丈夫と言えば少しは安堵出来たのか、眠気が訪れたらしいレイナさんは今にも目を閉じてしまいそうで、このまま私の寮室にと提案したけれどそれを断固として受け入れなかったのはモニカ・アザハルン令嬢が部屋の前にいるかも、という希望的観測からなのかもしれない。
実際、モニカ・アザハルン令嬢の事を監視している子から報告がないから彼女は自室にいるのでしょうけれど。
オリヴィアと共に寮室を出たレイナさんを最後まで見送り、気配が遠くなってからゆっくりと息を吐いてソファに深く腰を下ろす。
いつも通り怠そうな表情のアーグが向かいのソファに座って呆れた顔で私を見た。
「意味わかんねェこと言われて疲れたかァ?」
「わからないことではあるけれど、それに対して身に覚えがあるんですもの。仕方がないわぁ」
「……ま、確かに昔のお嬢はどっから仕入れたんだっつーことオレに教えてたしなァ」
「…………そうでした?」
緩く首を傾げるとアーグは目だけで肯定した。
「体術も他の奴等が使ってんのとはビミョーにちげェのはお嬢に教えられたやつだからだろ」
「…考えてみれば、私がアーグに体術を教えた記憶はあるのだけれど、幼い頃の私はそんな事知らないはずですものねえ。外部との接触があれば覚えているはずなのにそんな記憶は一切ないもの」
不思議なこともあるものねぇ、と自然と微笑みを浮かべている自分の顔に触れる。
“人形姫”
人形のように無表情で無機質な感じはしないでしょうけれど、いつも微笑みを崩さず一定を保っている姿は見方や捉え方によってそう思わなくはないかもしれない。
幼少期からの染み付いたものを今更治すことは難しいし、そもそも治そうなんて思わない。
私にとってコレは武器ですもの。
「まァどーでもいーけどな。お嬢はお嬢だし。」
「…ふふっ。適当ねぇ。けれど、私も本当にわからないのでどうしようもないですし…。そうリアム殿下にもお伝えくださる?」
王宮からの影にそう声を掛けると感じ取っている魔力が僅かに揺れて、それでも直ぐに一人分の魔力が遠ざかっていくのがわかった。
本当に優秀ですねえ。私に付いてくれている子達も見劣りしないけれど、やっぱり王宮勤めは別格かしらぁ。
なんて、カップに残ったホットミルクを飲み干して寝る支度を始めた。




