ある男の人生
アクタルノ公爵視点。
こんなはずではなかった。
そんな思いを抱かないほど私は地位も権力も生も、何もかもがどうでもいいものだ。
ただ私は、全て壊してやりたかった。
あの人を壊したアクタルノ公爵家の人間を。
私の父親は誰もが尊敬するような人間だった。
仕事が出来、顔も良く、面倒みの良い人物だったと父親の死後、多くの人間に言われた。
何を馬鹿な事をと口にしなかっただけ私は冷静で、死んだ父親を嘲笑うくらいに冷淡だった。
学園に入学する前、公爵夫人は既に精神を病んでいらっしゃったのだろう。
夫である公爵の女癖の悪さにも、公爵夫人の責任の重さにも、自分の子ではない息子と暮らすことにも公爵夫人は限界だったのだろう。
だがそれも、私にはどうでも良かった。
私を道連れに死のうとされた時も私は一切抵抗せずに、大人しく毒を煽ろうとしていた。
しかしそれを止めたのは―――
「貴様は次期公爵としての自覚が足りんな。オイ、此奴を地下室に閉じ込めておけ。」
父親である公爵はよく私を折檻として地下室に閉じ込め、酷いときは暴力をうけた。
それを助けてくれる者は公爵家には居らず、ボロボロの姿で冷たい地面に倒れていた。
物心がついた頃にはそんなもので、私はそれが普通なのだろうと思っていた。
だが、その人は突然現れて私の手を取り地下室から連れ出した。
「おまえはだれだ。」
「…私はしがない使用人にございます、若様。」
その者はフランと言った。
フランは新しく公爵家で雇われた料理人だと言う。
毎日私の部屋に訪れては何が食べたいか、何か食べようなどと飽きもせずに声をかけてきた。
いつもニコニコと笑うフランは無機質な公爵家の中では異質で、どうにも慣れない存在ではあったが、私はフランを邪険にすることはなく話をしていた。
「若様、今日は良い天気ですよ。お庭に出てお茶でも致しませんか?」
「まだかだいがおわっていない。」
「では、お庭でしましょう!」
「…わかった。」
ニコニコと笑うフランの後をついて歩く屋敷の廊下はとても短く感じて、どんな魔法を使っているのだろうと不思議に思っていたのを覚えている。
私の記憶の中で唯一、優しい思い出というものがあるならフランとの時間だろう。
それほどにフランは私にとって思い入れのある人だった。
「フランはずっとここにいるのか?」
「…どうでしょう。まだわかりませんねぇ」
「けっこんをすれば、たいしょくするだろう?」
「……そんな相手、私にはいないですからね。」
ニコニコと笑う反面、フランは私に自分の話をしたがらない人で、私はフランの事をあまり知らないでいた。
それでも良い。この時間が続くなら。
そんな甘い考えを心の底から嫌悪することになったのは八歳の頃だった。
四年の付き合いになるフランは殆ど毎日のように私と話をしていた。
公爵も公爵夫人もその事に対して何かを言うことはなかったが、やけに公爵夫人が私に話しかけるようになって今まで別に取っていた食事を共にするようになった。
それも次期公爵である者に対する話だけで、そんなものだろうと話をしていた。
だが何故か、公爵夫人は私と話をする機会を設けることが多くなり、フランと会う時間が少なくなっていった。
靄のように沈む気分に初めてフランとの時間を大切に思っていたことに気が付いて、私からフランに会いに行った。
「フラン、茶菓子を頼む。」
「若様!?どうして此処に――」
唖然と私を見るフランは心なしか嬉しさと悲しみを混ぜ合わしたような顔をしていた。
「私はフランと話がしたい。」
「若様…、」
いつもニコニコしているフランが初めて泣きそうな顔をしたのにはとても焦りを抱いたが、それは一瞬の内に消えていく。
「―――こんな私で宜しければ、喜んで。」
私にはフランだけだった。
いつか爵位を継いだ時にはフランが盛大な料理で祝いを上げてほしいと願いを言えるほどに、私はフランを信頼し、信用し、とても大切にしていた。
だがそれは、私だけだった。
「――貴女が居るからあの子はわたくしを母としないのよ。旦那様との間に出来た子であろうと、あの子は貴女の息子ではないわ。」
公爵夫人に呼び出された部屋の前で私は耳を疑う話を聞いた。
私は公爵夫人を母と呼んだ事はないが、私を産んだのは公爵夫人だと思っていたからだ。
ならば誰が私を産んだ?
そんな疑問はすぐに消えた。
「わかっております、奥様。私は一介の料理人に過ぎません。」
私が一番馴染みのある声を間違えるはずはない。
この声はフランだ。
その瞬間理解した。
私を産んだのは公爵夫人ではなく、フランだと。
そしてその事実は私にとって絶望などではなくて、喜ぶべきものだった。
公爵夫人に情などない。公爵家に未練などない。
フランが本当の母ならば、この家から共に出て行けば良いではないか。
使用人だから母と呼べない。次期公爵だから甘えは許されない。私は『私』である限り次期公爵を辞められない。
本当は逃げ出したかったのだ。
厳しい教育、激しい暴力、欲望だけの貴族関係。
偽りであった家族に、恐怖でしかない親。
全て投げ捨てて、フランのもとに。
受け入れてくれると思っていた。
毎日私の元へ来るなら、フランも私と共に居たいと思ってくれているはずだ。
私が公爵家から離れればそれは叶う。
毎日沢山話をして、フランのご飯を食べて、朝「おはよう」と笑い、夜「おやすみ」と眠りにつく。
そんな日常が欲しい。
本当ならあったはずの、優しい日々を。
「フラン、此処を出たら何がしたい。」
「何ですか?その質問。ふふ、そうですねえ…」
「何でも良いぞ。」
「あら?何だか今日は積極的ですね。何か良い事でもありましたか?」
ニコニコと笑うフランに、頬が緩む。
「私の母はフランなのだろう?だから、私もフランと共に―――」
―――生きていきたい。
その言葉は、フランを見て言えなくなった。
笑顔を消して、私から目を逸らしたのは何故かと、今もわからないまま。
それからフランは私を避けた。
そして私は、恐ろしくなって逃げた。
何が駄目だったのだろうか。
私が『私』だからか?
フランは私に次期公爵になってほしいのか?
聞けずじまいのまま私は学園に上がり、何もかもを忘れることにした。
凍りついたナニかは、ずっと重たく存在していて。
「――どうしてわたくしとは子を作ってくださらないのッ!!?旦那様ッ!!!」
「喧しい。貴様は夫人の職務をしていれば良いだろう。次期公爵はアレで良いのだ。」
「あの料理人の子ですよ!?平民の血が流れている者を跡継ぎにするなんて…ッ!!!」
「学園での成績は上位なのだろう。何が問題だ?」
呼ばれた数年振りの公爵、公爵夫人、私の三人での食事会で飛び交う言葉にも特に何も感じないまま、懐かしい味のする食事を平然と進める私に公爵夫人は目を釣り上げた。
「あの女が作った物を食べないでちょうだい!」
「ならば他の料理人を呼べば宜しいのでは。」
淡々と言ったのが悪かったのか、癪に障ったらしい公爵夫人の言葉は聞き捨てならないものだった。
「貴方は旦那様が無理矢理手中に収めた使用人の子なのよ!高貴なわたくしと同じ空気を吸えるだけ有難く思いなさい!」
「……無理矢理?」
反応を示した私に気を良くしたのか、饒舌に話し始めた公爵夫人の話は信じられないものだった。
曰く、フランは元々調理場の使用人の一人であり想い合う婚約者がいて公爵の相手などする理由はなかったのだと。
公爵は女遊びが激しく誘っても一切靡かないフランを珍しいという理由で気に入り、無理矢理子を孕ませたのだと。
それに怒り公爵を訴えようとしたフランの婚約者をフランの目の前で斬り捨てたのだと。
気を病み伏せっていたフランが再び公爵家で働き始めたのは、公爵がフランの家族を人質にフランを求めたからだと。
全てが、嫌になった。
公爵が無理矢理フランを襲うから。
公爵がフランの婚約者を斬り捨てたから。
公爵が人質を使ってフランを求めたから。
私はフランにとって憎むべき存在ではないか。
私は望まれない不義の子ではないのか。
私はなんと馬鹿なことを伝えたのか。
優しいフランは子供である私に情があったのか。
優しいフランは無理矢理襲ってきた公爵に似た私に優しくして苦しくなかったのか。
ぐちゃぐちゃになる頭の中で明確な思いはただ一つ
フランを苦しめていたモノ全てが憎い。
公爵も、私も。
フランにとって害でしかないモノだ。
フランを苦しめる不要物。
今まで恐怖の対象であった公爵は憎むべき存在となり、私は私を悍ましいモノだと思うようになった。
本当ならあったフランの幸せは私との日常などではなく、愛していた婚約者とその子供との日常だ。
朝「おはよう」と笑い合い、夜「おやすみ」と共に眠りにつき、毎日フランの手料理を囲んで食べる。
貴族の柵もなく、ただ穏やかな日々を送るはずだったフランを壊したこの家が、人間が、悍ましく恨めしい。
謝ることすら、烏滸がましい。
ならば、せめて――――
十二を迎える頃、公爵の行いに耐え切れなくなった公爵夫人が公爵を殺したと影から報告を得た。
因果応報だと初めて声を上げて笑って、当時生徒会長であった現陛下に珍しいなと笑われても、私の笑いは収まらなかった。
その翌週、公爵の弔いがアクタルノ領地で行われ、前陛下や前宰相を含めた上層部の貴族に気遣われながら迎えた葬儀の後、公爵夫人に呼ばれたダイニングルーム。
広いテーブルに置かれた二つのカップに予想していた通りだと微笑った。
これで、少しでも報いることが出来れば良い。
十分なほど優しくしてもらっただろう。
本当なら憎み、その恨みをぶつけたって可笑しくないだろうに、フランは私に優しく接してくれた。
それだけで十分だ。
これ以上望まない。望んではいけない。
毒を含んだ茶を飲むことさえ恐怖を感じない。
目の前で藻掻き苦しむ公爵夫人も公爵に振り回された可哀想な人だと謝罪を一言告げて、カップを手に取り持ち上げたところで懐かしい人が現れた。
「若様!!!」
悲痛な声だとしてもわかる、唯一の大切な人。
目の前で逝けるならそれは良い事だと思えた。
「長い間、苦しめて申し訳なかった。」
言えなかった謝罪はやはり烏滸がましいものだったのだろう。
フランは顔を歪めて涙を零した。
「…泣かれるとどうすれば良いかわからないから、どうか泣かないでほしい。」
「若様、お願いです、それを捨ててください…!」
「大丈夫だ。貴方に罪が着せられることはない。夫の死に耐えられないという遺書を公爵夫人が書いてくれている。私の遺書もある。心配はいらない。」
「そんなことを心配しているのではありませんッ!お願い、それを捨ててッ!!」
涙を流して叫ぶフランに如何するべきか迷い、捨てることも飲むことも出来ず膠着する。
そして気付いたある事に嗤ってしまう。
そこまで言うなら叩き落とせば良いだろうに。
それが出来る距離で、それを咎める者もこの場には居ないのに何故そうしないのか。
触れたくないのだ、私に。
思い出せばあの頃も私に触れたことはなかった。
初めて地下室から私を連れ出したあの時から一度も一瞬足りとも触れたことはない。
学園で肩を組まれ、握手され、人に関わりを持ってわかった。
四年も近くにいて一度も手が触れたことがないのは少しと言わず、かなりの違和感があるだろう。
止められて一瞬でも期待した私は何と愚かなんだと哂って、如何するべきかわからず嘲笑って、どうしようもなく微笑いが浮かぶ。
凍ったモノは深く深く沈んでゆく
それを止める術はわからず。
それを止める気など起きず。
ただ、目頭が熱くなることに不快を抱く。
歪む視界の先で、フランは顔を覆って「お願い」と泣いている。
私はどうすればいい。
どうすれば救ってくれたフランに報える。
「お願いだから、死なないで―――ッ!」
―――それが、フランの望みなら。
ただ一人の人間だけが生きる術だった少年。




