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ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
打たれても、踏まれても
9/19

運命のいたずら

 頭を下げた拍子に、拓巳くんのサングラスが滑り落ちそうになった。

 僕は髪に引っかかったそれを外し、頭を戻した拓巳くんに差し出した。

「ああ、悪いな」

 拓巳くんが受け取ると、前方でバサッと音がした。誰かが素顔を直視してしまったに違いない。

 そちらを横目で見ると、ミス・オースティンがテーブルの縁を握って拓巳くんをサングラス越しに凝視していた。どうやら手に当たって雑誌が床に落ちたらしい。

「まあセラ。あなたのような美しい方でも、高橋君のお父様は目にこたえるのかしら」

 吉住副理事が茶化すように笑った。けれども彼女の真剣な様子は変わらず、両手が徐々に震えてきた。

 ちょっとオーバーだなと思ったとき、すぐそばでもガタッと音がした。隣に目を戻すと――。

「………」

 サングラスを手に持ったままの拓巳くんが、ミス・オースティンをまじまじと見ていた。

「拓巳くん?」

 固まったような姿に僕が呼びかけると、後ろから彼女の声が響いた。

「タクミ? 高橋タクミ!」

「セラ、どうなさったの?」

 吉住副理事の声に被るようにしてさらに質問がきた。

「あの、あなたは高橋タクミというの? まさか九月生まれということは……?」

 僕がぎょっとして振り返ると、自分のサングラスを取り、鋭い表情で巳くんを見つめるミス・オースティンの顔とぶつかった。すると僕の目に、先日には気づかなかったものがはっきりと映った。

 似ている。拓巳くんに。髪と目の色を変えればそっくりじゃないか!

「あ……」

 あなたは誰ですか――?

 その言葉が喉まで出かかったとき、ドサッという大きな音がした。

「拓巳くんっ!」

 僕の足元で、拓巳くんがくずおれていた。慌てて脇に膝をつき、頭を抱き上げると、彼は気を失っていた――。



「和巳!」

「俊くん……っ」

 Gプロから戻った俊くんは、部屋に入ってくるとジャケットを脱ぎ捨て、無造作にそばの椅子に引っかけた。

「どうなんだ?」

「真っ青で、震えが止まらなくて、ここに戻って来た途端、一回吐いちゃって……」

 俊くんは眉を潜めると、右側の奥のベッドに横になっている拓巳くんの枕元に移動した。そして一目見るなり呻いた。

「やばい。フラッシュバックだ」

 僕は我知らず震えだった。

 痙攣の発作がくる!


 会議室で倒れたあと、僕に頭を抱かれた拓巳くんはすぐに息を吹き替えした。

「どうしました、高橋さん!」

 血相を変えた郷田理事長がそばにしゃがんだときには、どうにか受け答えた。

「ちょっと、貧血を起こしてしまったようで……」

 僕に支えられた拓巳くんは、上半身を起こして郷田を見た。

「連日仕事で忙しかったものですから……。失礼しました」

 もろに顔を見てしまった郷田理事長は、それでもなんとか踏みこたえた。さすがは学園の管理者だ。

「それは、ご無理をさせてしまいました。お帰りはタクシーを呼びましょうか?」

「ああ、ではお願いします」

 このときまでは、拓巳くんはまだどうにか持ちこたえていた。〈宵月〉は後日、専門の業者が引き取りに来る旨を伝え、自力で体を持ち上げて椅子に座ることもできた。しかし。

「ご気分は? 大丈夫ですか? あの、私……」

 気遣わしげにミス・オースティンが声をかけ、拓巳くんが顔を上げて、彼女の青みがかった茶色の眼差しと目線を合わせた途端、再びガクリとテーブルに身を伏せた。

「拓巳くん!」

「高橋さん!」

 肩に手を添えて頭に顔を近づけると、拓巳くんが小さくつぶやいた。

「大事になる前に……なんとか、ホテルに戻りたい」

 顔色が真っ青になってきた。

「……あの人を、遠ざけてくれ……このままじゃ、身動きが……」

「拓巳くん!」

「雅俊の手を煩わせたくは……」

 そこまで言うと、拓巳くんはうずくまるようにテーブルの上で身を縮めた。

「医務室へお連れしましょう。救急車の手配を」

 吉住副理事の声に僕は我に返った。

「救急車はだめです。今は大事にはしたくないそうです。タクシーで帰ります」

「そんな、無理です」

「大丈夫です。時々起こることで、僕や会社のスタッフが慣れています。それよりも、人目につかないよう一刻も早くホテルに帰ったほうが本人にも楽です」

「あ、では私の車を出そう」

 郷田理事長が申し出た。

「よろしいのですか?」

「構わないよ。すくに事務員に取りに行かせよう。正面玄関に横付けできるし、私の車なら注目は浴びないだろう」

「わかりました。お言葉に甘えます」

 それに頭を下げたあと、そばで息を飲んだように立ち尽くすミス・オースティンに話しかけた。

「大変失礼しました。父はちょっとタイミング悪く発作が出てしまいました。もしよろしければ、僕は学園にいますのでいつでもご連絡ください」

 僕が強い目線で訴えると、彼女は少し目を見張り、そのあとで頷いた。

「わかりました。お大事になさってください。明日、この時間にこちらで待っています」

 僕はそれに会釈してから拓巳くんのもとに戻り、彼がどうにかまた動けるようになったところで、郷田理事長にホテルまで送ってもらったのだった。


 俊くんと二人で手足をマッサージすると、拓巳くんは少しだけ楽そうになった。それを見た俊くんは僕を連れ、枕元を一旦、離れて部屋の中央に移動した

「こんなになる、いったい何があったんだ。メールにはいきなり倒れたとあったが」

「それが……」

 僕がミス・オースティンのことを話すと、俊くんは驚いて聞き返してきた。

「拓巳によく似た外国人女性が、名前を耳にした途端、誕生日を尋ねてきただって?」

「拓巳くんのサングラスが落ちて、素顔を見たミス・オースティンが驚いて、名前を確認しながら誕生日を聞いてきたんだ。そうしたら、あの人の顔を見た拓巳くんがいきなり……」

 ドサッと倒れたのだ。

「それまではなんともなかったのに?」

「二人とも室内用のサングラスをかけていたんだよ。だからそれまでお互いの顔は、僕たちのようには見えていなかったんだと思う」

 まず拓巳くんの素顔を見たミス・オースティンが驚き、そして裸眼になった拓巳くんも、薄い色のサングラス越しに彼女の顔が見えたのだ。

「俊くん。あの人は拓巳くんのなんだろう。あれだけ似ているからには血縁者じゃないかと思うんだけど、年の離れたお姉さんってことはないかな」

「あり得るな。幾つぐらいの人なんだ」

「理事になるくらいだから多分、四十代にはなってると思うんだけど、三十代にも見えたよ」

「外国人なんだな? 名前は聞いたか?」

「セラ、と吉住副理事が言ってた」

「セラ・オースティンか。ミス、と紹介されたからには独身のはずだな。声楽の講師か……」

「去年までロンドンにいたって言ってた。でも訛りのない、きれいな日本語なんだよ。日本で暮らしてなきゃ、あんな風には喋れないよ」

「それか、日本人が育てたかだ」

 俊くんは再び拓巳くんに近寄ると、上掛けの中に手を入れて背中をなでた。

「拓巳、大丈夫か?」

「……まだ、なんとか……」

「そうか。もうすぐ芳さんが来る。そうしたらおれは和巳と一旦、出るからゆっくり介抱してもらえ」

「……ああ」

 その後まもなく、連絡を受けた真嶋さんがやって来た。店から直接来たのだろう、白いシャツに黒いパンツといった制服姿のままだ。

「拓巳は?」

「まだ、最悪じゃない。芳さんで大丈夫だろう。おれたちは二階のレストランにいるから、終わったら来てくれ」

「わかった」

 俊くんは真嶋さんに拓巳くんを託すと僕を連れ出した。

 拓巳くんがフラッシュバックを起こすといつもこうなる。軽い場合は僕が背中をさすり、症状が進むと真嶋さんが全身を温めながらマッサージを施す。もっとひどくなると、そのときは俊くんの〈技〉の出番になる。


 その昔、小倉家の当主によって夜を売られていた俊くんは、客の一人であるプロの整体術師から、ツボを使った夜の技を伝授されたのだという。相手の感覚を自在に操つる閨房の技――あの阿部眞矢をやり込めた技だ。彼はそれを応用して編み出した技で、拓巳くんの痙攣を治めることができるのだ。

「どうした?」

 物思いに沈みそうな僕に、俊くんが声をかけてきた。

「ううん。早く楽になればいいなあって」

「そうだな」

 俊くんが頷く。僕はその背中を追いながら、心中複雑になった。


 具体的に、何をどうするのかなどと聞いたことはない。昔は拓巳くんが発作を起こすと、とにかく辛そうで可哀そうで、真嶋さんが俊くんを呼んだあと、必ず僕を連れて次の日まで離れることに何の疑問も持たなかった。ただ、治まったと告げられて帰ると、拓巳くんが決まって塞ぎ込んでいるのが気になっただけだ。

 今は、その理由が薄々わかっている。二人がなるべくそれを避け、真嶋さんの手法で済むよう、努力していることも。けれども、どうしようもないとき、俊くんがためらわないこともまた知っている……。


 やがて、レストランで夕食を終えた僕たちのところに、真嶋さんが合流した。これから夕食をとる真嶋さんに、俊くんはワインで、僕はコーヒーとデザートで付き合った。

「じゃ、拓巳くんはもう大丈夫なんですね?」

「ああ。どうにか硬直までいかずに済んだから。明日の朝には動けると思うよ」

 僕はホッとして背もたれに体を預けた。

 痙攣のうちに鎮めることができれば、体のダメージは少ないのだという。鎮められなければ体が硬直しはじめ、やがて過呼吸になる。そうなったら病院か、俊くんの〈技〉しか手段はない。けれども拓巳くんは病院にはトラウマがあるのだ。

「で? 拓巳が発作を起こした原因が、よく似た外国人女性を見たせいだというんだね?」

 真嶋さんの問いかけに、僕は我に返って答えた。

「はい。他に考えようがありません」

「拓巳はなんて?」

「突然のことだったので、あの人を遠ざけてくれとしか……あとは会話になりませんでした」

 そこで僕がミス・オースティンの話をすると、真嶋さんは顔色を変えた。

「拓巳の顔を見た途端、驚いて、名前と誕生日を尋ねてきた……?」

「はい。あの人が拓巳くんの素顔を見て驚いているときに、僕が『拓巳くん』と呼びかけたんです。そしたら一気に様子が変わって、彼女がサングラスを外しながら名前を尋ねてきて『九月生まれということはないか』と聞いてきたんです」

 僕が状況を思い返しながら説明すると、カシャン、と音がした。

「真嶋さん?」

 見ると、真嶋さんの手からフォークが滑り落ちていた。俊くんがそんな真嶋さんを窺うように言った。

「やっぱり芳さんも、血縁者だと思うか?」

「………」

「おれは、そのセラ・オースティンという女性は拓巳の姉なんじゃないかと思うんだが」

 すると真嶋さんが弾かれたように俊くんを見た。

「セラ?」

「ああ。そうだったな、和巳」

「あ、はい。たしか吉住理事がそう呼びかけていて――」

 そこまで説明したとき、真嶋さんがおもむろに片手で顔を覆った。

「芳さん?」

 その尋常ならざる様子に僕と俊くんが驚いていると、彼はやがて顔を覆ったままつぶやいた。

「……違う」

「え?」

「姉じゃない……拓巳に姉のいるはずがないんだ」

「そうなのか?」

 俊くんの問いかけに、真嶋さんは少し顔を上げ、絞り出すようにして答えた。

「それは多分、母親だ……っ」

「――!」

 ――母親!



 拓巳くんはお母さんを知らない。

 彼にとって母親とは、父親を狂わせ、虐待に走らせた原因としてのみ存在する。

 ホストクラブのオーナー、高橋(たかはし)(かなめ)の怒りの根元――。

 過去、高橋要は自分のもとから逃げ去った女性を恨むあまり、女性が置き去りにした拓巳くんを育児放棄(ネグレクト)に近い状態で家政婦に任せ切りにしたという。やがて女性の美貌をそっくり受け継いだ拓巳くんが十一歳になると、自らの経営する違法ホストクラブの目玉商品にした。すなわち、美貌を餌に客同士を競わせ、店に高額を落とした上客に奉仕させたのだ。十三歳までの二年間、週末ごとに男性客を取らされた拓巳くんは、半ば精神を冒された状態で父親の言いなりだったという。

 その拓巳くんに手を差し伸べたのが、カットモデルを探していて、偶然拓巳くんに声をかけた真嶋さんだ。

 真嶋さんは当時、拓巳くんの美貌に唯一動じない人だったのだという。拓巳くんに関わる周囲の大人の多くが拓巳くんの年齢を忘れ、その美貌に目が眩んで奪おうとする中で、真嶋さんだけが窮状を憂え、年相応の、虐待に苦しむ子どもとして拓巳くんと接し、庇い、支えて励まし、ついには父親、高橋要と対立してその親権をもぎ取ることに成功する。

 地道に証拠を集めた真嶋さんの働きによって、違法経営を暴かれそうになった高橋要は、それを取引にした真嶋さんの提案を呑み、親権を放棄した。そうして真嶋さんは拓巳くんの後見人になった。拓巳くん十四歳、真嶋さん二十二歳のときのことだ。

 俊くんと力を合わせ、祐さんや、叔母である祐さんの母、陽子(ようこ)さんからの協力を得て、粘り強く戦った真嶋さんだったが、無傷とはいかなかった。

 真嶋さんに追い詰められた高橋要は、自分の同業者でライバルに当たる危険な男、前から拓巳くんを欲しいと交渉を持ちかけていた、楡坂(にれざか)征一郎(せいいちろう)なる少年嗜虐趣味の持ち主に、彼を大金で貸し出した。結果、真嶋さんが助け出すまでの二週間、違法ドラッグを扱うその男に薬物を使用され、凌辱と暴行の限りを尽くされた拓巳くんは廃人寸前にされた。

 真嶋さんの二ヶ月に渡る献身的な看病の末、正気を取り戻した拓巳くんにはしかし、後遺症が残った。それがフラッシュバックだ。

 高橋要はその後も何度となく拓巳くんへの執着を見せ、幼少の僕を自宅に連れ去って見せたり、僕を誘拐しようとしたりして拓巳くんを揺さぶった。そのたびに真嶋さんが手を尽くしてすぐに所在地を調べ、友人の警視に通報して警察に手を回してもらう。すると高橋は瞬く間に雲隠れする。二年前の事件もそのひとつだ。

 未だに続く戦い――そのすべての始まりが、高橋要が手に入れたいと望み、ついに叶わなかった女性、拓巳くんの母親から始まるのだ――。


「母親……まさかあの人が」

「そうだ。だいたい四十代としたって若すぎるじゃないか」

 僕や俊くんの言葉を、しかし真嶋さんは否定した。

「『九月生まれか』と聞いたとなれば母親だ。拓巳に姉はいない」

「そうなのか?」

「少なくとも、拓巳の父親との間には。あの男は母親のことを『閉じ込めて奪った』と言っていた。だから若くても不思議じゃないかもしれない。」

「えっ……?」

「そうか、和巳は知らないか……」

「は、はい」

「おれも初耳だ」

 真嶋さんはひとつ息を吐くと話を続けた。

「拓巳の母親はどこからか連れてこられ、高橋要に監禁されて無理やり妊娠させられたんだ」

「……っ!」

「そして拓巳を産んだあと、産院から逃げ出したらしい」

「じゃ、あの人から逃げたというのは、産んでからすぐ……?」

「産まれたばかりの拓巳を置き去りにしたのか」

 俊くんの言葉に真嶋さんが頷いた。

「少なくとも、高橋要はそう思って恨んでいる。身勝手な言い分ではあるが『自分の産んだ赤ん坊を捨ててまで逃げるほど毛嫌いされていたらしい』と自嘲していた」

「………」

 何と凄まじい話であることか。あの優しそうな女性が、そんな過去を持っている――? なんだかそぐわない。

 しかし僕はふと思い出した。あの目の上に残る深そうな傷。わけのありそうな傷だ。

 考え込む僕の隣で、俊くんがテーブルのワイングラスに手を伸ばした。

「拓巳は、じゃあハーフなのか」

「いや。前に拓巳の手続きで見た高橋要の戸籍に、拓巳の母親の名前として漢字が書いてあった。それが『世羅(せら)』だ」

「世羅……」

 僕がつぶやくと、俊くんが聞いてきた。

「和巳、その女性は拓巳にそっくりなんだろう? 日本人には見えないのか」

「……ちょっと判断が難しいかも。髪の色が明るいブラウンだったんだけど、あれがもし、拓巳くんのような暗い色の直毛なら見えるかもしれない。でも目の色も青みがかった茶色だったんだ。……拓巳くんとはまた違うんだけど」

「あいつのあの緑がかった薄茶色の目は、どうみても高橋要だ」

 対称的な外見の中で、唯一、拓巳くんとの血の繋がりを感じさせる珍しいヘイゼルの瞳。

「彼女こそが日本人とのハーフってこともあり得るな……」

 グラスを傾けた俊くんの言葉に、僕も頷いた。

「ハーフなら、言葉が流暢なのも納得できるね。明日、会ったときに聞いてみるよ」

「会うのかい?」

 顔から手を下ろした真嶋さんが複雑そうな表情で僕を見た。

「はい。ミス・オースティンは拓巳くんと話したそうにしていましたが、拓巳くんが倒れてしまったので僕が代わりに話を伺うようにしたんです」

「その人が、話したそうにしていたのかい?」

「ええ。まるですがるような眼差しで誕生日を聞いてきました。倒れた拓巳くんを心底気遣っていましたし……あの女性が自分の産んだ子どもを置き去りにしたとは、ちょっと考えられません」

「……でも、現実に拓巳は置き去りにされ、結果があの悲惨な生活だった。拓巳が倒れたのは間違いなく、その人の顔を見て、悟ってしまったんだ……」

 真嶋さんは呻くように言うと、再び顔を覆った。

 彼にとっても、出会った当時の過酷な状況、そこから救い出すための高橋要との戦い、その渦中で拓巳くんが負わされた傷……それは忘れ難い負の記憶なのだ。

 俊くんがグラスをテーブルに戻しながら嘆息した。

「……あいつには、許容できないかもしれないな」

「え……?」

 すると、真嶋さんも少しだけ顔から手を離して僕に告げた。

「拓巳は昔、『こんな顔にさえ生まれなければ』って自分の顔を呪っていたよ」

「………」

「父親が『おまえを養う代わりに、その顔を役立ててもらおうか』と言って拓巳を売ったから。拓巳にとって、母親が残したあの美貌こそが、すべての不幸の元凶なんだ」

 僕はいたたまれなくなった。あの優しそうな女性が本当に拓巳くんのお母さんなら、もしかしたら再会の手助けができるかも――そんな風に感じていたのだ。

「じゃあ、もし本当にお母さんだったとしても、会うなんて無理……?」

 僕が問いかけると俊くんは真嶋さんを見た。真嶋さんは、さらに少し顔を上げると、再び俯いて言った。

「今は……今すぐというのは考えられない。あまりに酷だ……」

「………」

 この誠実な真嶋さんが、これほどまでに苦悩するところを見てしまっては、これ以上、何も言えない。

 うなだれた僕の頭を俊くんがなでた。

「和巳、まずは事実の確認が先だ。おれも同席する。明日は彼女に事情を説明して、日取りを決めるだけにするんだ。アトリエに招こう」

「アトリエに?」

 神聖な作業場であるアトリエに、俊くんが人を招くことは滅多にない。

「彼女は声楽の講師だというし、〈宵月〉を見て、すぐに涙を読み取ったところからして、芸術に深い造詣がありそうだ。おれも援護してもらった礼を言いたい。アトリエのほうにはもう雑誌記者はいないとマネージャーも言っていたから、落ち着いて話ができるだろう」

「ありがとう。じゃあ、明日はそう伝えてみる」

「それでいいか、芳さん」

 俊くんの問いかけに、顔から手を下ろした真嶋さんは、俯いたまま頷くに留まった。




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